「…私は出るわよ。リギルの名を冠して、ね」
突然の東条ハナの登場にシンボリルドルフ、エアグルーヴの両名は驚く。
しかし考えてみれば元々ここは東条ハナと沖野トレーナーが根城にしていたバーでもあり、遭遇しても全く不思議はなかった。
「…なるほど。噂は本当だった、ということですね。通りでこちらにやたらと具体的な企画の打診が流れてくるわけですね」
エアグルーヴがひとりごちる。
「…このあと、ここでそれに関する打ち合わせなのだけれど…そんなに興味があるならあなたたちも聞いていったら?」
東条ハナはバーへの来意をそのように明かしながら、エアグルーヴの隣に腰掛ける。
「…私たちも参加できる、と?」
エアグルーヴは東条ハナに問う。
「あなたたちはリギルOGなのだからその権利は勿論あるわね…今の公の立場がそれを許すなら、だけど」
東条ハナの婉曲な、配慮ともとれる言い回しを誤解せずに理解した二人の耳は、感情と同期して萎れてしまう。
その様子を横目に見ながらも意に介すことなく、東条ハナはバーテンダーから差し出されたカクテルを口にした。
「ちぃっスぅ。毎度お世話になりますぅー…ってあれぇ?」
装蹄師の男の後輩、すなわちURAの出入り業者と化している商社の男は、夜という時間帯にそぐわないエネルギッシュな人物として物静かなバーに現れた。
そして沈んだ様子で酒を傾けるスーツ姿のシンボリルドルフ、エアグルーヴの両名を見つけて吃驚する。
東条ハナはその様子を見てため息を吐いた。
「…この娘たちも話を聞きたいそうよ。構わないでしょう?」
後輩の男は苦い笑いを浮かべると、不承不承頷いた。
すでにある程度以上アルコールが回っているシンボリルドルフとエアグルーヴは、いくらかその様子を瞳にあらわしつつ、東条ハナとともにボックス席に腰を降ろした。
後輩はその様子を肝の冷える思いで見守りつつ、最後に席について懐から取り出した電子タバコを銜え、自らの動揺を覆い隠した。
東条ハナはともかく、元生徒会長と副会長の心の内を知っている身としては、今夜の思いがけない遭遇は新たな厄災の発起点としか思えない。
装蹄師の男を兄のような存在と比喩しつつも、その実は初恋の男であり、兄と妹という関係からのステップアップを画策しながらも上手くいかないシンボリルドルフ。
学生時代に装蹄師の男からの薫陶を受け、人格的に見事な脱皮を遂げた女帝として名声を確かなものにしたエアグルーヴ。もちろんその過程でしっかり装蹄師の男への想いも確固たるものになっている。
そして言うまでもなく東条ハナ。
この三人を相手に、それなりの理由はあったけれども結果的に彼女たちから装蹄師の男を引き剝がした、大学の後輩である俺。
自分は前世でどんな大罪を犯したというのだろうか、全く。
楽しくて楽しすぎて逃げ出したくてたまらない状況である。
おそらく話さなくていいことまで話すことになるんだろうなぁ、と後輩の男はニコチンを含んだ蒸気を吐きだし、ここで飲む用に取り置かせているスコッチウイスキー、直輸入のロイヤルハウスホールドを一口含んで気付けとした。
「…おハナさんのとこの機体は、鳥ニンゲンカーニバルで実績のある大学の研究会が喜んで引き受けてくれるそうです。まぁ、所詮は大学の同好会、と思われるかもしれませんが、昨年の優勝校ですし実績は申し分ありません。それに、うちの得意先の機械メーカーがバックアップして補完するように仕向けてありますのでご心配なくっス」
後輩はいつもの商談とばかりに滑らかな口調で資料を提示しつつ、簡単なプレゼンテーションを行う。
装蹄師の男からは東条ハナにはくれぐれも恥をかかせるような真似はしないように、と仰せつかっている。
後輩自身は大切な恩人かつ、現在のビジネスパートナーの期待に背くようなことをするつもりがない。
そして名実ともに実力者かつ見目麗しく頭も切れる東条ハナを曇らせる理由もない。
つまり後輩の男は、今自分にできる最上級の提案を東条ハナに披瀝していた。
「…随分と気前がいいのね」
東条ハナは資料に目を通しながら呟く。
「そりゃあ…その…」
先輩からきつーく言い付かってますからね、と続けようとして、対角線に座るシンボリルドルフの胡乱な瞳に射抜かれる。
「兄に言われているから…と続くのだろう?」
瞳の揺らめきとは対照的にはっきりとした、威厳の満ちた声でシンボリルドルフは言った。
後輩の男は両手を挙げて降参の意を示す。
おそらくこの娘たちのことだ、ゴールドシップさんの件も先刻承知なのだろう、と後輩の男は早合点した。
「…まぁ、その通りっスね。まぁ、先輩は先輩で忙しくされてるっスからね」
苦笑とともに皮肉ともとれる一言を付けてしまう。それは早合点してしまったが故の油断と言えた。
「聞き捨てならんな。先生が忙しいのは貴様の仕事の振り方の問題ではないのか?」
後輩の男の失言を聞き逃さずに嚙みついたのは、隣に座るエアグルーヴだった。ほの暗いボックス席でも青いアイシャドウが映える、鋭い視線を向けてくる。後輩はぞくりと背中に嫌な汗が噴き出るのを感じた。
「ん…と、まぁ仕事はそれなりに。ほら、そっちにも届いているでしょう?カーボン蹄鉄の試作品。アレ、先輩んとこの仕事っスよ」
エアグルーヴの業務に関連する事柄を囮に、回避を試みる。そしてゴールドシップと装蹄師の男の件を彼女たちが知っていると早合点してしまった失態について、どのように挽回したものか頭脳をフル回転させていた。
「…誤魔化そうとしても無駄だ。先生は、何で忙しいんだ?んん?」
さすがに女帝の目は誤魔化せそうにない。
後輩は東条ハナに助けを求める視線を送るが、彼女は資料に目を落としたままで、剣呑なやりとりに参加する気はないらしい。
目の前の英王室御用達のブレンデット・スコッチ・ウイスキーを口に含んでみても、もはやその風情を感じる機微すら失われていることを自覚する。
「いやぁ…久々っスねぇこの感覚…」
かつて後輩の男は、トラブルに巻き込まれた装蹄師の男をトレセン学園から離れさせ、世間から姿をくらませるために拉致したことがあった。
当時から装蹄師の男に懸想していた彼女たちの目を欺きコトに及んだため、のちに呼び出された後輩の男は危うくヒト息子としての尊厳すら失いかけるほどの恐怖心を伴う詰問にあったことがある。
あの時から彼女たちも年齢を重ね、人当たりとしては丸くなった面もある。
しかし殊に装蹄師の男が絡むこととなれば、今でも彼女たちは容赦がない。いや、大人になったからこその凄みが増している。
「まぁ…とりあえず、アグネスタキオンさんのところの機体の駆動系を試作だけ請けたのは確かっスね。ギアの発注をうちの得意先に出してるっス」
電子タバコをせわしなく吹かしながら答える。
ここは情報の切り売りで逃走を図る一手だ。
「…それだけで、私からのメッセージに既読がつかなくなるかな?兄さんがもっとのめり込むような何かがあると思うんだが…?」
シンボリルドルフはどうにも納得できない、という風に視線に力を込めて後輩の男を睨みつけながら、琥珀色の液体を流し込み、やや乱暴にグラスをテーブルにたたきつける。
後輩の男はびくりとする手を抑えきれず、強張る体の緊張を解いて、今度は声に出して東条ハナに助けを求めた。
「…東条サン、教え子の御二方、なんとかしてもらえませんかね…」
東条ハナもヒトが悪く、この状況に今気が付いた、というような表情で資料から顔を上げて一座を見回す。
そしてカクテルグラスを干して一息つくと、口を開いた。
「…それぐらいになさいな。すくなくともこのヒトは悪くないわ」
まぁ前科があるから疑われるのは仕方がない。
しかしゴールドシップが工房に転がり込んだ件には関与していない。これだけは断言できる。
「えぇ…こないだ行くまで知らなかったっス。ゴールドシップさんが工房に転がり込んでるなんて…」
刹那、誰よりも早く東条ハナが後輩の男の襟を掴み、その細腕からは信じられない力で捻り上げ、立たせた。
「…転がり込んだ、なんて聞いてないわよ?」
ウマ娘よりも素早い東条ハナの動きに、ルドルフとエアグルーヴは圧倒されていた。
後で直すかもしれない(まず間違いなく直さない)