クァークァー――
「嗚呼…海風が心地良いですね…」
海鳥の鳴き声が心地よく鼓膜を揺らし、目を開ければ一面の大海原が広がっています。
しかし、そんな太陽光を反射しキラキラと輝く母なる海を前に私は…完全に心が死んでいました。
きっと、傍目から見れば死んだ目をしている疲れ切ったOLみたいな有様ですね…。
数ヶ月前の私ならこの心洗われる光景に感動の涙の一つでも流していたに違いありません。
ですが、今の私はブラック企業も噴飯ものの労働環境に身も心もズタボロに粉砕され、情緒なんて機能していません。
いえ訂正、身体は闘争を求めすこぶる健康です。
私が医務室のベッドで三食完備でお世話されるという人生の絶頂期を堪能してから随分と月日が経ちました。
落ちる所まで落ちれば後は上がるだけ、とはよく言いますが、同時に上がりきったのなら後は落ちるだけとも言い変えることも出来ます。
あれから早数ヶ月…たった一週間という入院生活を終えた私を待っていたものは、短期間での濃密な集中学習。
規則がギチギチに厳しい士官学校に強制的に叩き込まれた挙げ句。
軍事に関わる礼儀作法、上下関係、階級への知識、基礎中の基礎を頭ではなく身体に叩き込むスパルタ教育の数々。
その癖、一番教えて欲しかった基本的な文字の読み書きは当たり前如くスルーされ、気がつけば一ヶ月が経ち、なんとか教官から合格をもぎ取ることに成功しました。
苦手分野の勉強はかなり大変でしたが、これで私も中身はともかくガワだけは立派な軍人さんになれました……いえ、最悪のタイミングでなってしまいました。
今後に役立つありがたい学びを叩き込んで下さった訓練学校から開放され、存分に自由を噛み締める私の前に一つの知らせが届きました。
恐怖はまさしく過去からやってくる…忘れかけていた初陣での紛争がまさか、大陸全土を巻き込む大事に発展しているなど知る由もありませんでした。
北側諸国と同盟を結んだガルダリク帝国から南側勢力へ向けての宣戦布告が言い渡され
――大規模戦争勃発。
戦争なんてそうそう起こらないと高を括っていた私にはまさしく寝耳に水の出来事。
数分白目向いて放心する程度には現実を受け入れられませんでした。
しかし無情にも、陸海空のいたる所で血で血を洗う争いが起こり、後はのんびり荒事が起こらないことを祈りつつ、円満退職を目指して貯蓄作りに励みましょうか…などと言う浅はかなプランは全て灰燼と化しました。
ライデンシャフトリヒとガルダリク帝国の小競り合いによる戦火が徐々に周辺諸国だけでなく大陸全土に燃え広がり大陸を二分に別つ戦場へと姿を変え、ガルダリク帝国を盟主に担ぐ北東勢力、そしてライデンシャフトリヒが盟主を担う南西の勢力での全面抗争にまで発展しました。
当然国に仕える新米兵士である私も問答無用で動員させられました。
ガタガタ震える新兵さん達と共にトラックにぎゅうぎゅう詰めにされ、あっさり戦地送りです。
ただ一つ違う点は同盟国の通行書が貼り付けられた旅行カバン、アンティーク調のトローリーバッグが支給されたことですね。
オシャレな外観に騙され受け取ったのが運の尽きです。
これぞ私をブラック企業真っ青の精神粉砕機に誘う諸悪の根源だったのです。
まず送り込まれたのは戦闘機が飛び交い砲弾の雨が降り注ぐ激戦地。
危機的状況に追い込まれるも寸での所で意識がぶっ飛んで生き残りました。
が、問題はここからです。
酷い疲労感から、一刻も早く帰って爆睡したい私の前に、その場の指揮官が私宛の伝令と言い命令書を押し付けてきました。
指令の中身を要約すると、早く移動してこっちの戦争にも参加してね。
なんて簡素に頭の可笑しいことが書いてありました。
いくら新兵でもこんな雑な扱いがまかり通ってよいのでしょうか?
しかし…言いたいことはあれぞ、私は生真面目が売りの元日本人。
頂いたお仕事には感謝の心を持ち真剣に柔軟に対応させて頂きますとも。
民営の列車に揺られ数時間の仮眠を取った後に無事目的地へと到着しました。
一面焼け野原を元気よく駆け抜け全速前進、例の如く意識を昇天させ生存しました。
さぁ、今度こそ熟睡しますよ、と意気込む私の前に見覚えのある印が押された指令書を持った兵士が駆け寄ってきます。
この時点で嫌な予感がしていましたが、勘違いかもしれないと封を開いてみれば
次は北西にある平原地帯――グシャ
半分読んで握りつぶした私は悪くないでしょう。
しかし、これは正式な指令、無視すれば今度こそ命令違反、ともすれば叛逆罪です。
従わない訳にはいきません。
幸い次の目的地は乗り継ぎもなく大陸横断線を使った長距離移動、眠る時間としては十分でした。
流石に、次で最後に違いありません。
次も無事生き残れたのなら今度こそフカフカのベッドに横になり惰眠を貪ってやります。
なんて、自分を奮い立たせていましたが、その数週間後も私は変わらず機関車の中で揺られていました。
この頃には慢性的な睡眠不足に身体が適応し始め疲労感はそれ程感じなくなり、代わりに前世でも味わったナニカ大事な部分がゴリゴリ削り取られている感覚に陥りました。
防衛戦は前線に突撃するよりも比較的心に余裕があり意識を飛ばさずに済みますが、それ以外は常に飛んでいたお陰か、意識が戻るまで暫くかかっていた時間も無くなり、終戦を合図に即意識が戻るようになりました。
乾いた笑い声を出しながら支給されたバッグにベタベタに貼り巡らされた通行書を見ます。
察しの悪い私の頭でもこれだけは理解出来ました。
私は当分は帰還することも安全地帯で爆睡することも出来ないのだということに…。
新兵とは一体…こんな旅行感覚で戦場を行ったり来たりする私は一体何兵に該当するんでしょうか…。
与えられるのは端的な命令のみ、上の人間は私を機械かナニカと勘違いしているに違い有りません。
それでも、後一日、もう一日、今月には、来月には…きっと終わる筈です、だから、だからもう一踏ん張りです私。
そうして半年後…私は機関車ではなく港にいます。
機関車を乗り継ぎ戦闘、目的地の道半ばに戦闘、ある時は飛行機で運ばれまた戦闘。
気づけば随分と時間が過ぎ去っていました。
まぁ、戦闘時は意識が無い方が多い上に、日の大半は移動時間でしたから実感はあまりありませんが。
意地でも辞めてやると息巻いた時期もありましたが。
信じられます…?私のお給金半年前と一切変わらないんですよ。
しかも、前世で言う学生のアルバイトみたいな額です。
昇進やお給金の交渉をしようかとも考えましたが…そもそも、防衛以外の戦場で自分が何をしてるのか覚えてすらいないのに交渉もなにもありません。
具体性のある、相手を納得させられる説明など出来ないのですから。
そして、国を渡り歩く中で辞めたくても、辞められる状況では無いことを理解しました。
戦争による侵略、占領による治安悪化、そのせいで大陸中の至る場所で難民が生み出されていました。
大抵の難民は志願兵となり戦場に向かいますが、増え続ける難民を受け入れに、どこの国も村も新たに人を抱える様子が無さそうな有様です。
つまり…ですね、ただでさえ虚無に等しかった私の雇用先が、完全に消え失せたことを意味します。
まだまだ戦争が続くと仮定すれば、更に厳しいものになるのは想像に難しくありません。
三食しっかり食事どころではありません、行き着く先はホームレス、果てには餓死する DEAD ENDの一本道。
貧民時代に逆戻りは流石に嫌です。
並の人間程度には高まった私の自尊心が耐えられる筈がありません。
ならばどうするか、決まっています…人間性を捧げてこの過酷な労働環境にロボットのように従事するのみです。
そして今回は初の海上行きですね。
久しぶりに故郷の土を踏むことが出来た私は。急ぎ港に移動しディートフリート・ブーゲンビリア海軍大佐の指揮下に入ることとなりました。
完璧な敬礼と共に御挨拶…の筈が失敗したようです。
不機嫌オーラが凄い、これは嫌われてしまいましたか。
挨拶全スルーで嫌味だけ言ってどこかに行っちゃいました。
ロン毛靡かせ去っていく後ろ姿に蹴りの一発でも入れてやればよかったでしょうか。
しかし今は精神的に疲れ切ってて言い返す気力も湧きません。
港から見る海は綺麗ですね…。
甲板からはロン毛大佐とクルーである海兵さん達の声が聞こえてきます。
コミュニティー能力に難があるかと思いましたが、どうやら普通に会話しているようですね、明日には海に出るみたいですし、打ち合わせですかね。
ちょっと聞き耳立てて見ましょうか。
ふんふん、戦前夜に…景気づけに軽く一杯。
――カァーーーッとんだ不良軍人でございますね。
クルーの命を預かる指揮官がこのザマとは、由々しき事態です。
これはいけません。
私に与えられた命令は大佐様の護衛。
護衛対象から目を離すなど言語道断、もとい一人だけ美味いお酒を堪能することは許されません。
前世を最後に一滴も口に出来てませんでしたし、何がなんでもついていっていきます。
そうと決まれば船内に荷物を置きにいきましょう。
ほほぉ…ここで寝泊まりするんですね。
一室に縦積みされたベッドがこんなに…決して広くはありませんが、横になれるだけありがたいですね。
さて、荷物は支給された旅行カバン以外ありませんし、備え付けのロッカーの中にブチ込んで…完了です。
後は港で海を眺めながら時間でも潰していましょう。
心落ち着く月夜に照らされる海を眺めていると、船内から一人の男性の人影が出てきました。あの無愛想なロン毛は間違いありません。
待ってましたよ大佐、さ、お供します。
――はい?
何と言いました…ついてくるな?
なんということでしょう…この男、私からの誘いを鼻で笑って一蹴にしてきました。
しかし、そんなものは関係ありません。
今の私は酒呑まずにはいられない精神状態なのです。
屁理屈捏ねてでもついていっていきますよ。
私の必死な説得が通じたのか、折れてくれたようです。
ゴミを見るような目を向けられた気がしますが…気にしません。
パーフェクトコミニケーション成功です。
港から街の方へと歩み出した大佐を確認すれば、私も合わせて歩き出します。
さぁ、行きつけの酒場を紹介して下さい、もしかしてオシャレなバーですか、私ワインなんかもいける口なので大歓迎ですよ。
行ったことのないお店へと歩いていくこの瞬間、なんともいえない浮ついた気分になってしまいます。
外で飲む時の密かな楽しみですね。
内心結構なハイテンションで楽しんでいますが、私は出来る部下なので上司の心境を汲み取り、静かに無駄口を叩かず歩きます。
そうして数分程歩いた後、大佐は目的地についたのか足を止めて中に入ります。
成る程…大衆向けの酒場ですか。
いいですね、生ビール飲みましょう大佐。
空いているカウンター席に大佐が座るのを確認し、私は斜め後ろで直立不動になっておきます。
そのまま何事もなく酒を注文し始める大佐。
あら、まさか…座らせないつもりですか?
普通は気を使って座らせてくれるものでは…こっちは貴方から許可してくれないと立場的に座れないんですよ。
――ムカッ
どうやら徹底的に空気扱いして無視するつもりのようですね。
それなら、ちょっと嫌味の一つでも言って、嫌でも意識させて差し上げましょうか。
丁度そのタイミングで大佐が注文したお酒がカウンターに置かれます。
私はグラスに伸びる大佐の手をソっと妨害し、こう言ってやります。
お体に障りますよ。
――ホわぁ!?
あの…大佐、嫌味一つでそんなにキレないでください。
実際本当のことなんですから。
この男、人が下手に出てるからといってば言いたい放題言ってきます。
これはワカラセが必要なようですね。
ふふふ…この大佐は全く、なんてこと言うのでしょうか?
命令にだけ従うだけの機械ですか…ほぉ。
でしたら、見せてあげましょう…これは命令違反ではありません!上官の護衛の仕事の一環です。
なに飲もうとしているんですか、そのお酒を私に寄越しなさい、毒見して差し上げます。
ふふ…グラスを奪い取ってやりました。
大佐がゴチャゴチャ言ってきますが無視です。
さぁ…飲みますよ。
なぜだか私が大佐からお酒をふんだくった瞬間、店内にいた数名と酒場のマスターさんがギョッとした目で此方を見てきます。
いえ、この視線の先は私ではなくグラス…
――げ!?これはウイスキー…それも相当高濃度な代物ですね。
度数の高いお酒は苦手なんです。
うぅ…前世で一度喉が焼けて血を吐いたトラウマを思い出します。
えぇい、構うものですか!前世では飲みすぎて失敗しただけ、一杯如きものの数にも入りません、いざ…イきます。
ゴックン
お、美味しぃ~~~身体に染み渡るこの感覚。
身体に蓄積されたストレスが中和されていくようです。
そしてこの喉を焼くアルコールの喉越し…焼けるような……これはマズイです。
とても…身に覚えのある感覚。
喉からお酒とは違う液体が吹き出てきて…
――ゴフゥ!?
嘘ですよね…たった一杯でこれって。
掌に少量血を吐いた程度で身体に問題はありませんが、お酒一杯如きで吐血した事実の方は大問題です。
前世の私であれば何の問題もなかった筈です…これは、つまり。
…もしかしなくても私の身体…お酒にめちゃくちゃ弱いのでしょうか?
今生一番のショッキングな事実を前に私の頭は真っ白になりました。
今私の顔はさぞかし生気の抜けった表情をしていることでしょう。
カチャ、カチャ!!
なにやら…聞き覚えのある音が鼓膜を揺らしてきます。
こちらをガン見していたお客さんの三名が私達に向かって拳銃の銃口を向けてきました。
ナニカ言っていたようですが、放心してて覚えてません。
ですが、殺意を向けてくるということは敵です。
条件反射で身体が動きます、サクッと抹殺してしまいましょう。
はい、終わりました。
機銃ならともかく、最早オモチャみたいな豆鉄砲程度に怯む私ではありません。
はぁ~…最悪の一夜となりました。
お酒で疲れた精神を癒やすどころか、これでは死体蹴りです。
もう一生お酒が飲めないとは…。
あぁ…大佐、用事は終わりましたか…帰りましょう。
私が深い溜息を吐いていると、カウンター裏から大佐が出てきました。
男共を始末した後、待機命令が下されていたので待っていましたが、用事は終わったようですね。
帰り道の最中、大佐からボソッと大丈夫なのかと聞かれましたが。
このタイミングで言われると、お酒を呑ませて女を持ち帰ろうとする男みたいですね。
十中八九、吐血に関してでしょうけど、一応酔ってないことを念押しして答えておきました。
そして翌日、生涯強制禁酒という憂鬱な気分を抱えたまま、船は港から出向しました。
☆☆☆
「機関長、メインエンジンの調子に不備はないな」
「アイ!ご安心下さい艦長、主要エンジン並びに各機関すこぶる好調です。投錨、抜錨全て滞りなく、何時でも出航出来ます。」
「よし次、補給長報告を」
「はい艦長、予定された日数分の食料、必需品、想定された燃料、弾薬、全ての積み込みが完了しました」
「明日の早朝に予定通り港を出る、よし…もう日暮れの時間帯だ。各人残りの消灯時間までの間は自由に過ごせ、以上解散!」
慌ただしく港から船内へと人が行き来する首都ライデンの港。
大小様々な船が停泊する中の一隻。
海軍大佐ディートフリート・ブーゲンビリアが率いる巡洋艦の甲板上では明日行われる作戦決行へ向けての最終確認が行われていた。
各持ち場を預かる責任者達が招集され、確認事項を艦長であるディートフリートへ伝えていく。
全ての報告を聞き終え問題無しと判断したディートフリートは大海原に響く威厳ある声で解散を宣言した。
甲板から人が居なくなった後、彼は悠然とした足取りで甲板の上を歩き、船端の前で足を止める。
船上から港を見渡すしの冷淡な顔を歪める。
そこには数時間程前に自身に向けて敬礼を示した女の姿があった。
「お疲れ様です艦長、アレが噂の南西の悪霊ですか?」
言葉にし難い感情を滲ませる大佐の横から声が聞こえてくる。
その声の主彼はディートフリートの部下であり、船内の砲撃、弾薬の管理を一任する砲撃長の声だった。
「あぁ…どうやら、そうらしいな」
南西の悪霊、それはガルダリク帝国、北東諸国軍らの間で密かに広がった女の異名だった。
分かっている事はその正体が年若い女であることだけ。
ライデンシャフトリヒ軍部からは密かに秘匿され、その経歴の一切が存在しない孤児であるが故、北東勢力が総力を上げ調査を試みるも未だ一切の手がかりが掴めなていなかった。
その正体が成り立ての一兵卒など帝国軍は想像もしていないだろう。
どれだけ情報を掴もうとしても霞の様にすり抜け掴めなず、戦場を不規則に転々と変え、予想だにしない場所から現れ敵を殺し回る、その所業と突如として現れる所から悪霊の異名が広がった
「女ということは聞いていましたが、おぉ…凄い美人ですね」
砲撃長が船から身を乗り出し目を凝らせば、そこには港の石辺に座り込みジっと海を眺める女の姿があった。
夕日に照らされ光輝く白銀が潮風に靡いて揺れている。
砲撃長はその姿はまるで一枚の絵画のように美しいものだと感じた。
「ハッ…砲撃長は女の趣味が悪いらしい」
しかしディートフリートはそんな彼の様子を見て失笑で返す。
しかも嫌味つきで。
「そうですか?私はてっきりガマガエルみたいな悍ましい化け物が来ると想像していましたが…実物は中々お目に掛れない良い女じゃないですか」
慣れたものと言わんばかりに砲撃長は気にした素振りも見せず、彼女がこの気難しい大佐のナニを刺激してしまったのかの探りを入れる。
「見て呉れの話ではない…距離があるせいで分からないらしいが、あんなモノ早速人間かどうかすら怪しい」
ディートフリートは思い出す、それは数時間前。
新たに自身の護衛という巫山戯た名目で寄越された女と合った出会った時のことだ。
心当たりはあった、大方ブーゲンビリア家の親類連中から手を回されたのだろう。
ディートフリートの生まれ育ったブーゲンビリア家とは多くの優秀な陸軍軍人を輩出した格式高い名門貴族である。
その歴史は古く、ライデンシャフトリヒの脈々と紡がれた歴史を語る上で避けては通れない名として南西で広く伝わり、過去幾度となくライデンシャフトリヒの資源を狙った周辺諸国からの侵略を受けた際もブーゲンビリア家の子息達が活躍し破竹の勢いで攻め入る敵を押し戻したと知られている。
当然その名は南西だけに留まらず、今回侵略を開始したガルダリク帝国も警戒すべき敵としてその歴史から家族構成の全てを事前に調べ上げていた。
それは、今は亡きブーゲンビリア家当主の猛反対を押しのけ海軍士官となったディートフリートも例外ではなかった。
ディートフリートは既に開戦の始まりから現在まで、ライデンへと身を潜めた間者達からの闇討ちを数回経験していた。
そして今も虎視眈々と自身の命を狙い、周辺を嗅ぎ回るネズミの気配を確かに感じ取っていた。
そして命を狙うのであれば今夜を除いて他に無いことも理解していた。
明日にはディートフリートの率いる船はライデンを発つ、その前に仕留めることが出来れば海軍大佐の始末と同時も軍事作戦を大幅に遅らせ、北東勢力の戦況に大きく利することにも繋がるからだ。
そうして諸々の事情と状況が重なり今回送り込まれたのが、今現在北東を騒がせる悪名高い悪霊、アレイダだった。
完璧な敬礼、完璧挨拶、動きに一切無駄が無く洗練された海軍式の作法。
どこから見ても不備は無く、大佐であるディートフリートも舌を巻く美しい所作だった。
いや、完璧過ぎた。
ディートフリートをしても見惚れる敬礼であった、しかし瞬き一つしない内にソレの一挙一動から言い知れない不気味なモノを感じ取った。
人間であればどれ程美しい所作を心がけようと人間らしい微細なムラは確実に存在する。
しかし、目の前の女にはソレが全くといっていい程存在しなかった、まるで球体人形の関節をただ回転させた様な、そんな感じだ。
そしてディートフリートは上官である最低限の礼儀として挨拶を返そうと女の顔を見る。
が、その瞬間…ディートフリートは胸の内からマグマのように煮え立つ不快感を感じた。
女の顔からは本来生者が持ち得る生気というものが完全に抜け落ちていた。
薄っすら開いた瞼から見える瞳孔には光を宿しておらず、まるでガラス玉を詰め込んだような無機質さを放ち。
生への渇望、欲望、活力、大凡人間であれば誰もが当たりまえに持ち得る自由意思というものが完全に欠落していた。
なんだ、コレは…本当に人間か?
覇気は無く、今にも消えてしまいそうな程なにもかもが希薄過ぎた。
女は人と同じ形をしていた…だがコレを同じ人間と認めることはディートフリートには到底出来なかった。
死人のような気配を纏うこの女を…。
ディートフリートにとって自発的な意思とは今の自身を形作る重要なものだ。
名門と名高い軍人の家系、しかしディートフリートにとってそこは狭苦しい牢獄同然でしかなかった。
日常生活に及ぶまで徹底的に軍人としての規律で雁字搦めにされた窮屈な日常。
日に日に高まる自由への渇望、聞き分けの良い弟とは違いディートフリートには黙って耐えることなど出来なかった。
そうして胸の内に燻ってた渇望はある日盛大に爆発する。
初めはただの反発から始まった。
産まれた時から引かれた人生のレールを蹴り飛ばし、家を出て海軍士官となった。
海軍士官となった後も、暫くは両親への反抗心は消えなかった。
しかしそれが次第に階級を上げる中で仲間を持ち、船の責任を任され、乗組員の命を預かる立場となり変わっていった。
幼稚な反抗心から始まったものだが、今では誇りと責任を持ち比較的充実した日々へと変わったのだ。
だからこそディートフリートは人間の自由で自発的な意思を尊重する。
流れに身を任せることをよしとはせず、どれだけお粗末であろうとも自身の意思に従い貫いた結果今があるのだ。
環境、立場、あらゆる苦境の中から生まれる意思の発露こそが人間を成長させるのだ。
言葉にはせずともディートフリートの心の内にはその考えが深く根付いていた。
しかし、どうだ…。
この女の酷いザマは。
ディートフリートとしても別に意思軟弱な人間を見て一々不機嫌になったりはしない。
実際現状流れに流されている実の弟との交流は続き、不仲でもないのだ。
気味の悪い壊れきった笑顔の仮面。
考えることを、生きることを、全ての自主性を放棄した抜け殻を前にしているだけでディートフリートの気分が悪くなった。
それ程までに女の今の有様はディートフリートの癇に障ったのだ。
八つ当たりということは重々理解していても、女の放つ雰囲気はディートフリートにとって生理的に拒絶反応が起こるほど耐え難いものだった。
「はぁ…ですがどうも噂が独り歩きしているだけに感じてしまいます」
ディートフリートの意識を現実に引き戻すように砲撃長の声が聞こえてくる。
「それには同意しよう…曰く血に飢えた獣、障害として立ち塞がったモノは何物であろうとも皆殺しにする真正の化け物。アレにそんな脅威は微塵も感じなかった」
相変わらず港に腰掛けボーと海を眺めている女を見てディートフリートは同意した。
相手を殺すどころか、今にでも海に呑まれて死んでしまいそうである。
「艦長からそう言われちゃ、あの娘も護衛として立つ瀬がありませんね」
「陸一辺倒の女が海上でなんの役に立つ…足手まといになるだけだ。」
「まーまー落ち着いて下さい艦長。あっちだって命令で来てるんですし上官である大佐が折れてあげないと…」
「知るか…それと、この後少し出る」
「またですか、お気持ちは理解出来ますが明日は重要な日です。大佐の身になにかあれば大事になります」
砲撃長が呆れと心配を織り交ぜた声色でやんわりとディートフリートを諭す。
それもその筈、ディートフリートがこれから行おうとしているのは自身を囮に間者共を誘い出す危険な行為だ。
そして今夜、隙を見せれば高確率で自身の命を奪おうとする者達らが何かしらの手段を講じてくることは容易に想像できた。
「心配するな、後顧の憂いを断つついでに、一杯愉しむだけだ」
「はぁ~…了解しました。クルー全員に通達しておきます」
「頼んだぞ」
夕日は沈み夜の帳が降りた港。
ディートフリートは外装のコートに身を包み船内から港へと降り立った。
一見ラフな服装ではあるが、コートは特注の防弾仕様であり、その内には防弾のベスト、さらに手袋まで防刃対策の警戒度だ。
ホルスターに差し込んだ拳銃の位置を確かめ、歩き出そうとした瞬間…
―――お待ちしておりました。
一切の気配なく真後ろから声を掛けられディートフリートは背筋を凍らせる。
即座にバックステップで距離を取り振り向きざまにホルスターへと手を掛ける。
「貴様は…何故此処にいる」
するとそこには闇夜の中でも月光で爛々と光り輝く白髪の女がいた。
今容易く背後を取られたこともそうだが、昼間の初対面での心象があまりにも悪いディートフリートは思いもしないアレイダとの対面に神経がささくれ立つ。
(チッ、ここまで目立つ女にどうして気づかなかった…)
絶賛不機嫌全開です、と言わんばかりに顔を歪めるディートフリートに対しアレイダは相変わらずの笑みを浮かべ口を開く。
「私の頂いた御命令は大佐様の護衛です。ご理解頂けましたでしょうか」
息遣い、声のトーン、それら全てが一定。
それを聞いたディートフリートは聞くに耐えんとばかりに眉を盛大にしかめる。
「なら此処で待機していろ、何もするな命令だ」
命令と言うのであれば追加で命令を出してやるまで。
ディートフリートはアレイダに向けその場で待機を言い渡すが、アレイダは懐から今回手渡された指令書を取り出し広げて見せた。
そこにはの護衛に関する内容と共にディートフリートよりも数段上の階級を示す印が押されていた。
「その御命令に従うことは出来ません、中将様以上の権限を大佐様は有しておられません」
(…狸爺共め、面倒な真似をしてくれる)
「…いいか、貴様は黙って何もするな、視界にも入ってくるな」
ディートフリートはそう言い残すと無言で街へと向けて歩きだす。
そうして行き付けの酒場に到着。
道中気配なく背後をついて回る女の存在にディートフリートは薄ら寒いものを感じずにはいられなかった。
行き付けの酒場だけあってかディートフリートは慣れた動きでカウンター席に座り込む。
「はぁ…マスター、キツめのものを頼む」
「あいよ…」
席につくとわざとらしく溜息をつき、チラリと背後を確認する。
すると、そこには斜め後ろに自然体で突っ立ているアレイダの姿があった。
(不気味な奴め)
港で顔を合わせて以降、気配どころか足音一つ聞いていないにも拘わらず、ふと後ろを見ればいるのだ、ディートフリートでなくても正直心臓に悪い。
まさしく悪霊、しかし先程忠告したように視界に入らず口を挟まないのなら徹底的に無視し、こちらから関わるつもりは無かった。
好きなだけそこで突っ立てろ、と言いたげに視線をそらし前へと向き直る。
――コトッ
丁度良いタイミングでカウンターの上にグラスが一つ置かれる。
飴色の液体に氷が数個浮かび、鼻をつく香りが脳を痺れさせる。
(ウイスキーか…たまには良いだろう)
グラスの中から揮発し香ってくるアルコールの香りからは度数の高い酒であることが伺える。
しかし、ディートフリートは今はともかく酒が飲みたい気分だった。
グラスに向かって手を伸ばす。
しかしそこに思わぬ妨害が入る。
グラスを掴もうとしたディートフリートの手とグラスの間に傷塗れの手が差し込まれたのだ。
それは自身の背後にいた筈の女の手。
ディートフリートがそのことに気がつくと静かに怒気を滲ませアレイダを問いただした。
「どういうつもりだ、言ったはずだ…何もせず視界に入るなと」
「ご安心下さい大佐様、一字一句記憶しております。ですが此方は控えて頂いた方がよろしいかと」
「黙れ…俺の命令が聞けないのなら此処から失せろ」
「大佐様…再度忠告致します。明日の出航を無事に済ませたいのであればソチラはお控え下さい」
「貴様…ッ、命令に従うしか能のない機械なら、大人しくもの言わぬ鉄屑らしくしていろッ」
ディートフリートの口から今まで溜め込んでいた鬱憤が溢れ出す。
怒気を滲ませ高圧的な口調でアレイダに向け怒鳴り散らす様は、大の大人でも泣き出してしまいそうな程の威圧に満ちていた。
「お断りいたします大佐様、コレが私の仕事です」
勢いにまかせて酒に手を伸ばすディートフリートの横から音もなく酒を掻っ攫うアレイダ。
百戦錬磨の盗人もドン引く早業である。
そしてグラスを自身の眼前に持ちナニカを観察し終えた後…
―ーゴクン
気持ちの良い飲み越しで喉をゴクゴク鳴らし、グラス一杯分の酒を一気飲み。
そうして…飲み終えたグラスをカウンターテーブルへと叩きつけるアレイダ。
最早言葉も出ないと言った有様でプルプル震えるディートフリート。
さながら噴火する直前の火山のような激情を全身で表現していた。
しかし、ディートフリートの怒りが爆発しようとした瞬間…
――ゴ、フゥ…
口元に手をやり何かを吹き出すアレイダ。
その何かは掌の指の間から滴り落ち、地面に赤黒い斑点を作り出す。
場の空気が一瞬にして凍りつく。
その光景を間近で目撃したディートフリートの顔には最早怒りなど消え失せ、エメラルドの瞳に慧敏な知性の光を宿していた。
原因はまず間違いなく酒にある。
ディートフリートはアレイダが飲み終えたグラスの底に残っていた一滴を手袋越しに掬い上げ、そのまま舌の上に軽く押し当てる。
――ジュワァッ
(チッ…酸性の毒か!?)
ほんの少量にも関わらず舌の繊維を溶かし尽くす様な感触が痛みを伴い脳内へと駆け巡る。
一口でも飲めば器官が焼け爛れ確実に命を失ってたであろうことが容易に想像出来た。
ディートフリートは素早く唾液に絡め毒物を吐き出す。
(ついに直接的な手ではなく毒薬での暗殺まで謀ってきたか、気が乱れていたとはいえ、とんだ失態だ)
既に数回以上暗殺を経験してきたディートフリートであったが、毒をもちいての暗殺は今回が初めてであった。
てっきり今回も直接手を下してくるだろうとい思い込み、知らず知らずの内に危険な先入観を抱いていた。
結果、その影響は本来年若くして海軍大佐にまで上り詰めたディートフリートの広い視野を狭め、その凶悪な毒牙を後一歩の所まで届かせようとしていた。
ちなみに、その帝国の毒を軽い気持ちで一飲みにしたアレイダだが、本来彼女の磨き抜かれた毒物耐性は並大抵の毒物の影響などもろともせず、血を吐くなどありえない。
しかし結果的には喉がちょっと焼け爛れ血を吐いた。
彼女が飲んだものは前世で言う所のほぼ硫酸と同質の劇薬であった、勿論薄めているとはいえ常人が飲めば問答無用で即死である。
これには、さしものアレイダでもノーダメージとまではいかなかった。
アレイダが口元についた鮮血を袖で拭う。
それを合図を離れたテーブル席に座っていた三人組が立ち上がりディートフリート達に向かって銃を突き付けてくる。
「計画は失敗だッ!」
「どうして酒の毒がバレた!」
「今はそんなことどうでも良い!ディートフリートをヤれッ!」
向けられる3つの銃口を前に、ディートフリートは腰を屈めホルスターへと手を掛け、戦闘態勢へと移行する。
(数では圧倒的に不利か、どう乗り切る…)
ディートフリートと男達の互いの牽制が火花を散らし、息の詰まる緊張感がその場を支配する。
(あの女は何をやっている…そもそもアレを飲み干してどうして生きているんだ)
横目で自身の護衛とのたまう女の姿を見る。
すると三人組の男を軽く一瞥した後、軽い足取りで他の客が食事をしていたテーブルへと向けて歩出す。
当然男達の注意はアレイダへと向かう、銃口がアレイダを捉える。
そしてトリガーに掛けられた指に徐々に力が入っていき…
――ド、スッ゛、ド、チュゥ゛、ぐちぃ゛
誰もが銃声が鳴り響くと想像したが…。
酒場に鳴り響いたのは火薬の炸裂音ではなく、まるでステーキ肉にフォークを突き立てたかのよな酷く生々しい肉の音であった。
一部始終を見ていたディートフリートは唖然とする。
男達の眉間からは血が止めどなく吹き散らし、後頭部からは銀色の鋭利な金属が飛び出していた。
(今この女…ステーキ用のナイフとフォークを投擲しただけで殺したのか?)
アレイダのやったことは酷く単純であった。
ある程度質量があり、最低限鋭利なもの探し出しブン投げただけである。
まるでピッチングマシーンの様な何百、何千と繰り返してきたような精密機械じみた動きで敵の命を狩り尽くした。
その威力たるや、投擲された食事用のナイフは空気を裂き眉間のド真ん中へと命中。
頭蓋を真正面から破壊し、脳髄を引き裂き、後頭部の頭蓋すら貫通していた。
あれだけの毒物を飲み干し、表情一つ変えず機械のような精密さで敵対者を皆殺しにする姿。
ディートフリートは半信半疑…いやほとんど眉唾と考えていた血に塗れたアレイダの噂話を思い出す。
生への執着はなく、しかし生を渇望し殺意を滾らせる敵対者の尊厳と秩序すら踏みにじり血と臓物の塊に変える女。
こいつは正真正銘の本物の化け物だ、ディートフリートはそう認識を改めた。
しかし、だからと言って何も変わらない、依然変わりなく虫唾が走る。
毒薬を自身で飲んで証明したこともそうだ。
確かに、あの瞬間のディートフリートに何を言ってもアレイダの言葉など一ミリも届かなかっただろう。
しかし他に方法なんてものは幾らでもあった、なのに一番安直な手に打って出た。
こいつは根本的に頭を使っていない、自分でモノを考え実行する自発性の発露がまるで感じられない。
敵対したから殺す、捕縛という選択肢がはなっから存在していなかった。
こいつは、そう…人の形をした機械だ。
人間などではない。
そして暫くした後、酒場の異変に気がついた警邏の兵士達により死体は回収された。
ディートフリートは酒に毒を仕込んだ酒場のマスターの顔面に一発拳を叩き込み、兵士達に引き渡し酒場を後にした。
ディートフリートは艦への帰り道の最中、腹立たしいことだが命の恩を受けたアレイダに対し、不器用な労りの言葉を掛けた。
――大丈夫ですよ大佐様、慣れておりますので。
爛れたガラついた返事が帰ってくる。
ディートフリートはこの壊れきった機械が歩んできたであろう半生を想像し、止めた。
ほんの少し、考えを巡らせただけで酷い気分になったからだ。
同情も憐れみも無い、あるのは純然たる恐怖のみ。
脳裏に先程の光景が思い浮かぶ、数秒掛けずに行われた曲芸じみた殺戮ショー。
いくら気丈に振る舞っても、頭が多少切れようともディートフリートは常識の範囲内で物事を考える普通の人間だ。
背中から冷や汗が溢れ止まらない。
今も背後を歩いているはずなのに感じ取れない気配に心臓が痛み動悸が止まらなかった。
返事も返さないまま歯を噛み締め無言で歩き始めるディートフリート。
その心の奥深くにはアレイダに対する明確な恐怖が刻み込まれていた。
化け物に背後を許し夜道を歩く。
ディートフリートの足取りは酷く早く…そして怯えていた。
次回から勘違いが減っていくかもしれません。気持ち程度になるかもしれない。