山流しの地、甲斐国。富士山と武田信玄を除いたら、他に語るべきいったい何が残るのか、地元民にすらわからない土地。だが、なればこそ、その二つへの執着ぶりは凄まじく、その神聖を冒す者には仮借なき罰が下される。
明治五年、その性情が嘗てない規模で示された。
――いわゆる大小切騒動である。

※実際の事件に基く。

※拙ブログに同一内容の記事があります。


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謀るや周密、進むや必勝、胸に描くはその英姿

 

 いやしくも山梨県民を、甲州人を名乗るなら、大小切(だいしょうぎり)騒動にまつわる知識はごく当然なたしなみ(・・・・)として具えておかねばならないだろう。

 

 現に筆者は義務教育でおそわった。

 

 忘れもしない中学生の頃のこと。当時の私の社会科教諭はさして教科書をありがたがらぬ性格で、しばしば授業を脱線させては豪傑たちのあられもない私生活、法律の意外な運用実態等々、いわゆる「歴史の裏話」談議に熱を上げる人だった。

 日教組の影響極めて強い山梨県の教師としては、めだって異例な人だったろう。

 受験にはまるで役に立たない知識であるため、級友の中にはあからさまに辟易し、「いやな先公(センコー)に当たってしまった」と不平がる輩も少なくなかった。が、私にとっては素直に恩師と尊敬できる、数少ない一人である。

 

 私の日本史に対する興味の素養は、このときに培われた部分が確かに大きい。

 

 だからだろう。大小切騒動、明治時代の黎明に、山梨を舞台として巻き起こったこの大規模農民暴動の名も、私の記憶に色濃く刻印されている。

 

 

 

※  ※  ※

 

 

 

 ――遡れば永禄年間、武田信玄の盛時から。

 

 甲斐国(かいのくに)には特殊な税制が行われていた。その年に納めるべき年貢高、これをいったん2/3と1/3とに分割し、前者を「大切」と呼び籾を以って納めしめ、後者の方は「小切」と呼んで、金銭で納めさせることにしていたのである。

 

 江戸時代では「石代納」の名で知れ渡ったやり口で、それ自体はさして珍しいものでない。

 

 大小切の特殊性は、その為替レートにこそあったろう。はじめ信玄は甲府・勝沼・鰍沢三郡に於ける米市場の価格を調べ、その平均値を算出し、

 

 ――今年は何石何斗何升あたり一両の比率で取り立てよ。

 

 と小切のたか(・・)を決定したが、やがてこれを固定化させた。

 実に元亀三年十月十日の沙汰であり、以後四石一斗四升を一両として計算するのが小切に於ける鉄則となる。

 

 驚くべきことに、江戸時代三百年を通しての間、甲州人はついにこのコメ・カネ交換レートを守り抜き、一文の変更だに許さなかった。

 変更しようと試みる者に対しては、ほとんど子連れの熊に等しい猛々しさで突進して威喝した。

 

 たとえば宝永年間にこの地を領した柳沢吉保、譜代大名の切れ者が、あるとき大小切法を廃して全部米納に切り替えようとしたところ、たちまち盆地に殺気満ち、今にも騒動に発展しそうになったので、あわてて沙汰止みにしたことがある。

 

 文字通り「鉄の掟」として機能させたといっていい。

 

 知っての通り米価など、年ごとによって大きく変動するものだ。そのあおり(・・・)が石代に及ぶのはむしろ自然で、

 

 ――二石五斗あたり一両。

 ――一石二斗五升あたり一両。

 

 と、他国が石代を上下させ、百姓の悲鳴が木霊する中、しかし甲斐だけは微動だにせず、四石一斗四升が保たれていた。

 

 

 勝頼没落後、甲州一円に大神君御手に入ても、信玄の政事を御正なく、(中略)小切も古来の通四石一斗四升替の金納也、信玄世にては高値段にて過怠金なれども、時世押移り、米穀の価貴く成、当時にては至て安値段、多分の御救なり(『地方凡例録』)

 

 

 その偉観。

 実利以上に、甲州人士の自尊心を育む上で、これほど役に立ったものはない。

 

 もともと山梨県というのは、富士山と武田信玄以外、これといって他国に誇れるなにものをも持たない土地だ。

 それだけにこの二つにかける執念ときたら切実で、ちょっと余人には理解し難い烈しさがある。

 だから新政府が明治五年、税制改革の名の下に、大小切法を廃止すると告げたとき。

 

 ――なんたる無道、恐れを知らぬ暴政か。

 

 彼らの受けた衝撃ときたら、まったく天の墜落を目の当たりにしたに等しい、途轍もないものだった。

 

「百姓っちゅう百姓は、そりゃもう恐慌状態よ。どこの村でも、寄ると触るとその話ばっかしてたわな。えらいこんじゃんけ、どうするだよ、どうにか何処かに今まで通り大小切を生かす道はねえかって、できっこねえ相談を、仕事そっちのけにしてよ――」

 

 とは、騒動の渦中となった東八代郡一宮の人、水上文淵翁の弁。

 翁は弱冠十二歳にして大小切騒動に際会し、長じては小学校教師として働く傍ら、後世に向ってよく証言者としての任を果たした。

 

 

 

※  ※  ※

 

 

 

 大小切という「信玄公以来の祖法」消滅の危機に直面し、ただ身を寄せ合い、コマッタコマッタと首をかしげているだけが甲州人の能にあらず。

 一張羅に袖を通して、えっちらおっちら峠を越えて、県庁へと馳せ参じ、陳情の声を上げる「有志」がそこかしこから出現(あらわ)れた。

 

 が、効がなかった。

 

 このあたりの消息につき、水上翁の古めかしい言い回しをそのまま借りると、

 

 

 (ここ)に東山梨郡松里村、旧小屋敷の長百姓に小澤留兵衛なるものあり、同郡の諏訪村旧隼の倉田利作同郡岡部村旧松本の嶋田富十郎と相謀り、八月八日甲府へ出張、武田氏の祖法を存置せしめられんことを歎願せしも、県庁聞かざるを以て、十日各村の者出張して再び歎願せんとす(『維新農民蜂起譚』)

 

 

 末尾にある十日の歎願。

 ほとんど村を空にする勢いで展開されたこの運動も、結局は不首尾に終わったらしい。

 否、不首尾どころのさわぎではない、

 

 ――ひどい扱いを受けたのだ。

 

 と、遥かな後年、書き立てたのは、東京日日新聞の記者。

 

 ――とにかく県庁は初期対応をしくじった。如何にも相手を「無知蒙昧のどん百姓め」と馬鹿にしきった、人情を解さぬものだった。

 

 以下、当時の文章をそのままに引く。

 

 

…この騒動は首謀者の絞罪と、三千七百余人の処刑によって終結したほどの大騒動であったが、信玄時代の大小切制度に代る地租に反対して、県民が嘆願したところ、お役人は()って嘆願したくば首を洗って来いと、喧嘩腰で一喝したので、九十七ヶ村は狼煙を揚げてどよめき…(『経済風土記 東海関東の巻』)

 

 

 こういう記事は暗に当時の権力者への面当て目的、ためにする(・・・・・)べく脚色される場合というのが多いから、あけっぴろげに信用するわけにはいかない。

 が、まるきり根も葉もない話でもなかっただろう。県庁には県庁の言い分がある。対応に当たった「お役人」は、さしずめこう思ったのではなかろうか。

 

(こいつらは時勢がわかっていない)

 

 すなわち、今が民族存亡の危機であるということを。

 

 維新回天成ったりとはいえ、大和島根はまだまだ未熟。その未熟さに気兼ねして、文明開化を下手にまごつかせようものならば、たちまち列強にくみしやすしと侮られ、国土を蚕食されてしまうに違いない。

 身の毛もよだつ、暗黒の未来図というものだった。

 

(その到来を防ぐ手段はただ一つ)

 

 この極東の島国に、鞏固な近代国家を建設するより他にない。

 辺境の未開人種めが、と軽蔑されない「知」と「富」と「力」を兼ね備えた国家を、だ。

 その大目的実現のため、全日本人が一丸となって邁進しなくばならない(とき)に、

 

(こいつらは、言うに事欠いて)

 

 自分達にとってのみ都合のいい税制を、そのまま留め置いてくれとはいったい何という僭越だろう。

 おまけにその根拠を糾してみれば、何百年も昔に死んだ封建領主の墨付きとあっては何をかいわんや。

 

(脳に黴でも生えているのか)

 

 お役人は留兵衛ら陳情者の一行を、旧弊に盲目的にすがりつく前時代の亡霊と見た。見て当然だった。

 

(こんなやつらの言い分をいちいち斟酌してやっていたら、百年経っても日本は近代化を成し遂げられない)

 

 もはや憎悪すら感じはじめてしまっている。

 語気が荒くなるのを自分でも制御しきれない。気付けばけんもほろろに追い出して、つい言わでもなことまで言ってしまった。つまり、

 

 ――いいか、もしまた二度(ふたたび)来る気なら、よく首を洗って来やアがれ。

 

 という上記のセリフを。

 

 

 

 ただでさえ短気な甲州人の利かん気に灯油をぶっかけ、その上で火打石を叩いたようなものだった。

 

 

 

「あれは平氏ぞ」

 

 帰路、誰はともなしに口にした。

 この国では古来より、暴君を喩える場合その言葉を引き合いに出す。驕り高ぶり京の都を好き勝手に壟断した、『平家物語』の風景を。

 

 ――沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を、驕れるやつばら(・・・・)めに叩き込んでくれようず。

 

 実際問題、ああまで罵倒され嘲弄されて、すごすごと引っ込むようならば、そいつはもう男ではない。

 玉なしの腑抜けと見下げ果てられ、生涯日の当たる場所を歩けなくなることだろう。

 少なくとも皆をここまで引っ張ってきた留兵衛、利助、富十郎、すなわち「首謀者」の面々らには奮い立つ義務が存在した。

 

「連中はやったよ」

 

 水上翁はしみじみと言う。

 

「毎晩毎晩、留兵衛の家に集うてな。日を選び、檄を書き、道具を揃え、蜂起の準備を着々と。謀るや周密、進むや必勝、胸に描くはその英姿。県の密偵(いぬ)を警戒してな、うっかり口を滑らせないよう互いに戒め合ったのは、甲州流軍法から見て上出来だったに違いねえ」

 

 甲斐の盆地に粛殺の気が満ちたのである。

 

(どうも、百姓どもがキナ臭い)

 

 県庁の方でも情勢の不穏さに薄々勘付き、

 

 ――決して心得違いの無きように。

 

 といった趣旨の布告を各村宛てに出してはいるが、もはや後の祭りであった。

 弓につがえられた矢は放たれねばならない。必然として、その瞬間は訪れた。

 

 明治五年八月二十三日、山梨、発火。

 

 九十七ヶ村六千人の農民が手甲脚絆に身を固め、竹槍・蓑笠・蓆旗をちゃんと揃えた百姓一揆の伝統的な(たたず)まいのもと、甲府に向かって進みはじめた。

 

 

 

※  ※  ※

 

 

 

 慈悲に縋ろうとした。

 だが拒絶された。

 ならば力に訴えて、無理矢理にでも然諾を引き出すより他にない。

 

(先祖代々、我らはそうして生きて来たのだ)

 

 それを想うと、血が酒に変わるほどのくるめきを感じる。

 甘美な陶酔というものだろう。この陶酔は、家を保つことが最大の徳行とされた時代の人間でなくばわからない。

 時代がかった言い回しを敢えてするなら、小我を去って大我に至る心境である。己が背後に連綿と続く血脈を自覚し、そこにひたひたと身をすり寄せてゆく場合、彼らは決まって無上の悦びに包まれるのだ。

 この先、甲府の街中で、たとえどのような乱暴狼藉を働こうと、それは狭矮な自分一個の欲からではなく、祖霊の集合意識が然らしむるものであり、直ちに「義挙」として純化され祭り上げられる予感があった。

 

 各々がそういう意識でいる。

 げにおそるべき進軍だった。

 左様、進軍。

 

「軍」の字を使わざるを得ぬほどに、都合六千からなるこの人間集団の活動は騒然たるものだった。

 なにせ、火縄銃を担いでいる輩すらいる。

 おそらくは鳥追い用の猟銃だろう。音で雀を脅かして、稲穂をついばまれるのを防ぐため、こういう道具を持っている農家は存外多い。それを態々引っ張り出して、折に触れては中空めがけ、

 

 だぁーん

 

 と盛大に放つのである。

 その度に周囲の人垣が、割れんばかりの喊声を上げた。

 極度の緊張状態――まるで神経という神経が、皮膚の上に露出してしまったような――に置かれた彼らにとって、銃声の刺激は強烈すぎた。電流を流し込まれたといっていい。一発聴くごとに正気が剥げて、その下から今まで知りもしなかった自分自身が誕生するのを目の当たりにしただろう。

 

(なんということだ)

 

 その有り様に、駆けつけた邏卒がまず恐怖した。

 明治初頭の警察官の謂である。

 鎮圧が彼らの任務だが、

 

(とても、無理だ)

 

 明らかに達成は不可能だった。

 戸板一枚で山津波を喰い止めるようなものである。無謀な挑戦と言わざるを得ない。事態の解決を図るには、それこそ歴とした軍隊の出動が不可欠だろう。

 

(迂闊に触れれば、逆に火に油を注ぐ悪果を招く)

 

 賢明な判断といっていい。

 置物と化し、ただ呆然と人の流れを見送るだけの我と我が身を、彼らはそのように正当化した。

 

 

 

 たまらないのは県庁である。ほとんど無抵抗で包囲される憂き目に遭った。このとき

 

「大砲で連中の目を覚まさせよう」

 

 と、ヴァンデミエール十三日のクーデターに於けるナポレオンばりの提案をしたのは、権参事富岡敬明。後に西南戦争が勃発した際、熊本権県令として熊本城に籠城し、阿修羅の如き薩摩兵児どもを向こうに回して五十四日間を戦い抜いた、筋金入りの猛者である。

 

 もしこの提案が受け容れられていたらば、あるいは富岡、「日本のナポレオン」として名を残したかもしれない。

 その後の履歴も随分と変わっていたはずだ。

 が、そうはならなかった。

 

「過激すぎる」

 

 土肥謙蔵県令の反対により却下された。

 

「いや、弾を籠める必要はない。空砲でいいのです。空砲でも、十分連中の意気を挫ける」

「駄目だ、駄目だ」

 

 この場合、土肥が穏健というよりも、富岡が激越過ぎたというのが正確な見立てであったろう。

 

 もっとも大砲の使用を禁じたりとて、土肥県令になにか妙案があるわけではない。

 外の様子を見る限り、声をはげまし、整然と理を説き、諄々と諭してやったところで、狂気渦巻くあの集団には如何ほどの効き目もないだろう。石地蔵を蚊が刺すようなものである。

 

 

 

 事実、このときの騒動で、若尾逸平宅などが、そりゃもうひどい目に遭っている。

 

 

 

 後に甲州財閥の旗頭として名を轟かせるこの人物は、一揆の発生を察知するや、門を開いてめしを炊き、百姓どもを支援する姿勢を如実にみせた。

 そうすることで難を避けんとする目論見もむろんあったが、より以上に一人の甲州人として、純粋な義侠心に動かされた部分が大きい。

 

 が、さしもの若尾逸平も、集団の狂気がどれほど抜き差しならないものか、理解しきれていなかった。

 

「斯くも微温(なまぬる)きおためごかしに、我らがたぶらかされると思うてかあっ」

 

 と、群衆は却って激昂。障子を蹴倒し雨戸を破り、土足で屋内に雪崩れ込み、略奪の限りを尽くした挙句、ついには三棟の蔵をぶち破って生糸・衣類を引きずり出して、道路に積み上げ火を放ち、すっかり灰に帰させてしまった。

 

 この若尾邸襲撃事件に関しては、逸平が不良蚕種を取り締まる立場に当時あり、それで農家の怨みを買ったとか、いやいや阿漕な両替をやっていたゆえのことだとか、背後を探る研究が多い。

 

 が、貧乏人が武器を手にして集団を成せば金持ちを殺したがるのは、ごく当然の生理であろう。

 もはや物理法則に等しい必然性といってよく、事々しい理由など、もとよりあろうはずがない。

 彼らは衝動の命ずるがまま、ただ壊したいから壊し、焼きたいから焼いたのだ。

 むしろ命まで奪られなかったぶん、若尾逸平は幸運だった。

 

 

 

 まあ、それはいい。

 

 

 

 結局のところ、県庁としても陥ってゆく結論は先の邏卒と同一だった。

 

 すなわち、この場をなんとか誤魔化して、軍が到着する時間を稼ぎ、逆らう気すら起きようのない圧倒的な武力を楯に事態を治める。

 それが一番現実的で、かつ流血の少なくて済む道だろう。そのためならば、どのような飛躍も厭わぬ覚悟が土肥県令には存在した。具体的には、

 

(大障子を取り外すことだ)

 

 取り外して、その裏側にくろぐろと、以下の文字を書くことだった。すなわち、

 

 ――願之趣聞届候事

 

 わかったわかった、降参だ、その(ほう)らの言い分はよく理解した、万事その通りにするからどうか鉾を収めてくんろ、という七文字を。

 

(あっ)

 

 果然、効果は絶大だった。

 すわ県庁が折れたぞと、一揆の衆は素直に信じ、ほとんど抱き合わんばかりの喜びを呈した。信じてよかった。なにしろ障子の裏書のみならず、歴とした公文書――黒印状も併せて発行されている。

 

 この上さらに何がしかの保証が欲しいと強請るなら、それこそ県庁吏員の何人かを人質として引っ張っていくより他になく、そのような飛躍は居合わせた誰の頭にも発想すら浮かばなかった。この点、確かに一揆衆は「お上」に負けた。

 

 後日、以下の如き廻状が村々に布達されるに及んで、甲州人の安心はいよいよ盤石なものとなる。

 

 

当国大小切石代据置之儀追々歎願申達候に付、願之趣聞届候條、於村々得其意、此上妄動無之様小前末々迄無洩可相達旨、此廻状至急継送従廻尾可相返者也

 壬申八月廿三日    山梨県庁

 

 

 これでなお且つ疑えというのが無理だろう。

 

 

 

 が、すべては詐略であった。

 

 

 

 甲州人が勝利の夢に浮かれている裏側で、兵力は着々と甲府盆地に集結し。

 翌月三日、すべての準備を完了させた県庁は、ついに本来の意を遂げた。甲斐武田氏の菩提寺たる恵林寺に、騒動に参加した村々の代表を呼び集め、軍人たちの警備する中、以下の宣告を下したのである。

 

 

徒党強訴、高札面にも掲示これ有り厳禁の段は銘々弁へ居り乍ら違犯致し、大小切据置歎願を名とし陰に兇器を携へ数千人府中へ押入容易ならざる所業に付、即時打払べきの処、随従附和の者は勿論無辜の市民迄多数非食の死に至らしめ候は、実に忍び難きに付、朝廷へ対し奉り深恐入候へども、一時の権略を以願意聞届候趣は取消候條、渡置候印書速に返上致すべき者也

 

 

(えっ)

 

 一同、耳を疑った。

 お前らの要求に屈したのは、あれは一時の弁法だったと、権略だから無効だと、白昼堂々行政府が口にしたのだ。

 あまつさえ無効だからとっとと印書――黒印状を返却しろとは、なんという横紙破りであったろう。

 

 が、もはやどうしようもない。既に甲州人士六千は勝利の実感に浮かれきり、酒宴を張ってさんざん楽しみ、その片付けもとっくに終わったあとなのである。

 

 心気は緩みきったといってよく、ここから再びあの緊張を取り戻すなど、仙人でも呼んで来て、アカザの杖をふるってもらい、神通力にあやからなければ不可能だった。

 

 おまけに今度は県庁も剥き身にあらずして、軍隊の銃口に物々しく守護(まも)られている。

 

 竹槍を突き付ける難易度は、果てしなく上昇したといっていい。どう楽観的に観ようとも、再度の蜂起が成る確率など毫も見出し得なかった。決着はついた。すべては終わった。

 

 やがて首謀者三名のうち、小澤留兵衛、嶋田富十郎の二人に死刑が下され、甲府山崎刑場に於いて執行された。

 

 なお、彼らは逮捕されて後の取り調べにて、こぞって「首謀者は己一人であり、他の二人は巻き込まれただけ」と供述しており、担当官をいたく感心させている。

 彼らを義民と看做すか否かは議論の余地が存在するが、少なくとも漢であったのは間違いないといっていい。

 

 

 

 同年十一月十日、二人の首に縄がかけられ、それぞれ息が絶えたとき、数百年の長きに亘って脈を保った大小切法も、同時に生命を失った。

 

 

 

 首謀者中、唯一死を免れた倉田利作はその後長らく牢にあったが、明治二十二年二月十一日、憲法発布の大赦によって罪をゆるされ、出獄している。

 

 そのうち恵林寺の境内に、大小切騒動を後世に伝える碑が建った。文は裁判所書記望月直矢の撰にして、揮毫は市川の渡辺信、そして篆額を担当したのは驚くなかれ、従三位勲三等富岡敬明その人だった。

 

 富岡の中で大小切騒動はよほど大きく、解決に騙し討ちを用いたのが遺憾であり、

 

「あの二人の首謀者が埋められている甲州の地に、自分も骨を埋め申し訳としたい」

 

 と、平素から人に語ったという。

 晩年、彼はこの言葉を実行し、山梨県西山梨郡里垣村――今で云う中央線酒折駅があるあたり――に一家まとめて移り住み、そこで生涯を終えている。

 

 享年、八十八歳。村人の心をよく掴み、名誉村会議員にも任命されて、地域の発展に力を尽くした人だった。

 

 

 



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