囚われの少女を救ってから惚れられている。しかし相手は十一歳だ 作:松岡夜空
「教えとけ」
「ですが……」
「覚えときたいんだよ。全部は無理でも、最初に交わした会話ぐらい、覚えときたいだろ?」
リンが消えることはない。
しかしこの関係が消える時は必ず来る。
死か。あるいは他者への恋慕か。
いずれにせよ、俺とこいつの道が、二つに分かれていることだけは、知っている。
「……わかりました」
少しの沈黙を挟んだ後、リンが言った。
俺は無言で言葉を待った。
みんな消えていくなと思う。
まあリンの消え方は、まだいい。きっと、俺以外の背を見るという消え方だ。
いや、俺が必ずそうする。
人に道を決められるのはクソだ、なんてさっき言ってはみたけれど、俺の道がクソなのは疑いようがないわけで。
だから、時々交わることがあっても、皆途中でリタイアしてしまうのだろう。
――正解だと思うぜ。
俺はこの世界じゃないと笑えないから、ここにいるんだけどな。
多分、死ぬまでずっと。
「じゃあ、耳を貸してください」
目を向ける。
リンは赤い顔でモジモジしなから、目を背けていた。
「え?」
ちょっと何を言っているかわからず、俺は尋ねた。
リンはと言うと、赤い顔で髪をイジイジしながら、目を背けている。
「だ……誰にも聞こえないように耳打ちしますから。耳を貸してください」
内緒話でもするように、リンが小声でせかしてくる。その顔の赤さは多分、夕焼けのものだけではないはずだ。
俺は眉間に手を置いて、たっぷり呆れた。
「誰も聞いちゃいねえよ、そんなもん。いいからとっとと言え。これは上官命令だ」
「やです」
プイと顔を反らして、リン。長い栗色の髪が弧を描く。
「あのなあ」
「あ、あたしも組長に言われてます。自分のことを周囲に漏らさないようにって。だから耳貸してくれないなら、リンもこのことは兄様には言いません」
頬を膨らましながら、リンが言う。
しかしその顔は、怒っているというより、何か、別の気持ちをこらえているようにも見えた。
前にも言ったが、リンが自分のことを名前で呼ぶときは、誰かに甘えたいときなのだ。
そうしてほしいと、心から願っている時、リンは自分のことを名前で呼ぶ。
――まあ、俺もシンプルに気になるしな。
「わかったよ」
顔も見ずに、俺は言った。だから、その時リンがどんな顔をしているのかは、わからなかった。
足を止めて、リンに耳を近づける。
リンの匂いがやってきた。
くすぐるように、手を耳元に添えられる。
リンの息遣いが、耳元で聞こえた。
そして――
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「あなたも……ここにいる人たちと、同じなんですか?」
二年前。
隠し地下牢の中で、あたしは兄様にそう言った。
あたしをさらったのは、
そして、兄様の出身地もまた、
兄様は
だから言った。
一言で言えば、八つ当たりだ。
さらった人間にも、自分にもあたることができない、弱き存在。
それが、二年前のあたし。
兄様は、そんなあたしを見て、笑った。
「ああ。――極悪人だよ」
「ヒョウ」
「普通、人をたたっ切ると、少なからず心ってやつが痛むらしいな。俺は多分、お前をさらった連中の倍以上殺して来たんじゃねえかなー。生きるためでもあったが、楽しむ意味もあった。その中には善人もいただろう。殺すに値すると思った時はガキでもやった。それでも、心を痛めたことは一度もない」
二年一緒にいるからわかる。
兄様は本来自分を語らない。
そもそも人と話すこと自体が、そんなに好きではないのだと思う。
いつも笑っていらっしゃるから、多くの人が勘違いしているけれど。
本当の兄様は、わりと無口な方なのだ。
「仲間と思える人間が死んだことも何度となくあった。それでも、涙一滴零れやしねえ」
そんな兄様が、自分を語る。
それは、兄様が揺れている時なのだ。
愚痴を言うのも言われるのも嫌い。説教するのもされるのも嫌い。
誰かに支えられることも、甘えることもしない兄様だけれど、時々こういう弱みを見せる。
それはいつも、
「お前みたいな弱っちい、哀れな奴を見てると俺はな――どうしようもなく、笑っちまう」
口元に巻いた黒包帯の奥で笑いながら、兄様が言った。
しかし――
「アホ」
「バッカねえ」
即座に、兄様に向かって、二つの罵声が突き刺さった。
壁にもたれかかっていた
「人を斬って心が痛まない? 仲間が死んでも涙が零れたことがない? 何を洒落たことで、心痛めてるんだよ、らしくない。
お前は、逆境だろうと順境だろうと、笑って対峙する。そして勝つ。ふざけた男だ。しかし、お前のような男を光だと思っている人間も、少なからずいる。うちみたいな隊だと特にな。
ま、あたしは違うがな」
兄様と肩を並べて、
そして。
コツンと、雪姉様が、鞘のまま抜いた刀で兄様の頭を小突いた。
「大体ねえ。囚われのお姫様を救いに来た男がさー、悪党斬って心痛めてたり、仲間の死で泣いてたりしたら嫌じゃん?
あんた捕まってる子みたら笑えるって言ったわよね? だったらその笑った顔で、別のこと言ってみなよ。『助けにきた』とか『よく頑張った』とか『怪我はないか』とか。
それが言えたらあんた、メチャクチャかっこいい男だよ。ま、あたし基準では、あるけどね」
あたしは――
あたしは、この時のことを、とてもとても後悔している。
どうしてあたしは、兄様にあんなことを言ってしまったのだろう。
二人に及ばないのは仕方がない。
今ですら及んでいないのだから。
それでももっと、他に言葉はあっただろうに。
酷いことを言ってしまったと思った。謝りたいと思った。
だけど今は――
「
肩をすくめて、兄様が笑った。
怒る有火姉様と、ため息つく雪姉様。
兄様はしばしヘラヘラと笑った後、ポツリと口にした。
「ただまあ――よかったと思うぜ。無事で」
「お!!」
耳ざとくその声を聞き取り、声をウサギのように跳ねさせる雪姉様。
声だけで楽しんでいることがわかる。
兄様を怒らせるには、十分すぎる。
「るっせえぞ、雪女!! いいかクソガキ!!」
あたしを指さして、兄様が言った。
「助けにきたのはこいつらだ!! 頑張ったのはお前だ!! そして、怪我がなかったのはお前が色気のないガキだったから!! 以上!! わかったらどけ!!」
兄様が、強引に雪姉様をどかして階段を登っていく。
頬を膨らますあたし。消える兄様。そして膨らましたあたしの頬を、瞬く間に間を詰めた雪姉様が、指で押して萎ませた。
その抜き足の速さに驚くあたしに、雪姉様が笑いかける。
「あんたも。こういう時は『ありがとう』ぐらい言わなきゃね。
男はお姫様の一言で、いくらでも頑張れるものなんだからさ」
立ち上がり、雪姉様がウインク一つ。
「ユキ。そんな台詞決めるぐらいなら、服ぐらいどうにかならなかったのか? そんな布一枚で出歩きやがって。目に毒だ」
有火姉様が言った。
「あ、やっぱしー? アッハッハッハ」
雪姉様が、お腹を抱えて笑う。
笑う時、下ろした目蓋が、目の下に長い
あたしは――
綺麗だと思った。
雪姉様は、本当にいつもいつも楽しそうに笑う。
それでいて、強く、楽観的なのに、言葉にはいつも重みがあった。
聞いたことはないけれど、兄様は、雪姉様みたいな人が好きなんじゃないかと思ってしまう。
あるいは、男の人はみんなそうなのかもしれない。
あたしと雪姉様は、対極だ。
雪姉様と比べる以前に、昔の言動を悔いる以前に、あたしが兄様を好きになるなんて、絶望で、何より罪であることも知っていた。
だけどあたしは――
雪姉様にも、誰にも、負けたくない。
あれから二年経った。
あたしは――
ソッと、爪先を立てた。
背はちょっとしか伸びなかったし。
誰にも聞こえないように、兄様の耳に手を添える。
強さも、雪姉様には遠く及ばない。背丈等々は言わずもがなだ。
それでも届いている。一歩一歩。
だったら、諦めたくない。
兄様のことが、好きだから。
そんな言葉さえ、今は罪だけれど、いつかは――
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
リンから耳を離して、目を向けた。
リンは赤い顔をして、俺を見つめている。
リンの言った言葉は『ありがとうございます』だった。
確かにあの状況なら、そう言っていてもおかしくない。
ありがちな定型句で、俺が忘れているのも道理である。
しかし――
「お前本当にそんなこと言ったんだろうな?」
「え? 知りません」
笑いをこらえるような声で、リンが言った。
「ああ!?」
こっちは真剣に聞いていたんだ。
それをこんな冗談で返されたら、イラつきもするってなもんだ。
リンは素知らぬ顔で足を回して、俺にその小さな背中を向けた。
「昔のことすぎて、リンももう忘れちゃいました。ただそんなこと言ったかなーって、そんな気がしただけです」
「ふーん」
嘘くせえ話だ。
でもまあいっかと思った。
こいつがそう言うなら、それで。
真実を暴くのが、常に正しいとは限らない。
「そう――」
「だけど」
俺の言葉を遮るので、リンを見た。
リンは未だ俺に背を向けている。
「だ、だけど、いつか――その、思い出す日が、くるかもしれません」
たどたどしく話すリン。
顔を持ち上げ、夕焼けを見ていることしか、わからない。
ただ、多分、顔を赤くしながら言ってんだろうなって思った。
「だから……」
俺は続く言葉を待った。
「だから……」
中々言わない。
俺は、自分が待つことが嫌いなことも忘れて、待った。
しばらくして、リンが、夕焼けに染められた紅い髪を揺らしながら、振り返る。
「だから、その時が来るまで、リンのことずっとずっと、見ていてくださいね。兄様」
目を開いた。
ふと、今日のことを、思い出した。
『何故ってこいつは、いつもいつも俺のことを見てきているからだ』
そうだったか……。
気がついて、俺は笑った。
足を回して、リンと肩を並べる。
何と言おうか、迷った。
足を数歩、先に進ませる。
迷った挙句、頭に両手を置いて、逃げるように夕焼けを見つめた。
「ま、その時まで、気になってたらな」
お前のことを。
と、暗に含んだ気がした。
きっと気のせいだと、思いこんだ。
そんなわけ、あるものかと。
「――はい!!」
リンの言葉が、耳孔を打つ。
振り返った。
リンの顔を見て、俺は自分の口元が緩むのを感じた。
俺はいつだって笑ってる。
順境でも、逆境でも。
だがこの笑みは、それらとは違う種類のものだった。
これに取り込まれると、俺が俺でなくなる。
そう思った。
「あで」
リンが言った。
俺がリンの頭を手刀で打ったからだった。
「どうかなされたのですか?」
「ん? 言葉にならなかったから、行動で表してみたのさ」
笑って応えた。
嘘はつかなかった。ただ核心に触れなかっただけだ。嘘は、隠すのではなく、話さないことが、バレない秘訣だからな。
リンが頬を膨らまして見上げてくる。
しかし、すぐに頬を萎ませて、リンもまた笑う。
「ちゃんと、いいこと言おうとしましたか?」
「ああ」
「ふふ。じゃあ許します」
「ついでに、叩きやすい位置にもあったしな」
「それは許さないです……」
「冗談だよ。あーそういやカーテン買って帰らないとなー。後コーヒー豆と――」
「コーヒー豆とはなんですか? 兄様」
「あーお前コーヒー知らないのか。コーヒーってのは、子供が飲める酒みたいなもんだ。要は大人の飲み物よ」
「そのような飲み物があるのですね……」
「よし!! 家に帰ったら、兄様が最高においしいコーヒーを飲ませてやるぞ!! 感謝しろよ、リン!!」
「ふふ、楽しみにしています、兄様」
夕日に向かって二人で歩く。
ふと意味もなく振り返る。
歩道に二人の影が伸びていた。
笑った。
伸びた影は、どちらも、人の形をしていたから。