囚われの少女を救ってから惚れられている。しかし相手は十一歳だ 作:松岡夜空
(何だ? 何が起こった?)
頬を押さえながら、ペイリは思った。
ペイリが先までいた場所には、少女、リンがさも当たり前のように立っている。
「どうしたんですか? やってみろとけしかけておいて、その程度なのですか?」
ペイリを鋭く見据え、リンが言った。
ペイリの表情が、屈辱と、笑みで、歪む。
立ち上がって、唾を吐く。
血と歯が混ざっていた。
パン!!
柏手を打つ。
風を操り、水蒸気を集めて、掌に集まった水を切るようにして、手を横手に振るった。
そこには、手の甲まで固めた、氷のかぎ爪が完成していた。
「覚悟はあるんですか?」
「覚悟ぉ? 何の覚悟だ? その年で、人を殺す覚悟でも説くつもりかぁ?」
「いいえ。あたしに殺される覚悟です」
「!!」
片足立ちになったリンが、その場で跳躍する。
栗色の髪が上下に揺れていた。
「誰かに刃を向けるとは、つまりそういうことかと。そしてあたしは――強いですよ」
「ふっ」
ペイリが笑った。
氷のかぎ爪で、壁をひっかく。
「半分脅しで言っているんだろうが、答えは『ある』だ」
終始無表情だったリンの瞳が、少し開く。
「誰かを殺す覚悟も。自害する覚悟も。殺される覚悟も。全てある。死んだところで、ユイファさんのところに行くだけだからな」
「……そうですか」
「そういうお前はどうなんだ? 仮に俺より強くとも、覚悟がなければこの俺は殺せんぞ!!」
ペイリが突っ込んだ。
上体を下げての下段蹴り。
リンは跳躍してかわす。
追撃するペイリの氷のかぎ爪も、風に乗って更に後方へと飛ぶことで、かわした。
だが、ペイリは全てを読んでいた。胸ポケットから小瓶を出す。中には水が入っている。
口で栓を開き、傾け指を濡らした。ポタポタと、水滴が地面に落ちる。
エレメントに
パン!!
リン。
左右二本の指を立てて結んでいる。
魔術師が、集中する時に結ぶ固有の
(印か。しかし今更、何ができる!!)
ペイリの小瓶から伸びる、伸縮自在の水の剣。切っ先を、リンに向ける。それが、獲物を狙う蛇のように伸びる。リンは未だ中空だった。
グサリ。
そんな音さえ立てず、水の剣が、無情にもリンを貫く。
にやりと笑うペイリ。
悲鳴はない。鮮血さえもない。
上がるのは――
「何だと!?」
ペイリの驚愕の声のみ。
(残像!? バカな!! そんな魔術、聞いたこともな――うっ)
側面。リンが駆けてくる。速い。烈脚法だ。振り返るも、ペイリの動きはぎこちなかった。
魔力誘導は、感情をエレメントに憑依させて自在に操る青魔術。しかし、身体を自在に操るのも、また
(何もかも折り込み済みなんだよ、カスがあああああああああ!!)
小瓶からポタポタと落ちる水滴。ペイリは魔力を込めた。そこに紅が混じる。
剣を伸ばす時、ペイリは通常以上に小瓶を傾けていた。こうなった時、それで掌を貫き、痛みで思念を呼び戻すためにだ。
間合いに入り込んでいたリンの
ペイリが、小瓶を振りかぶる。
思念を呼び戻され、崩れかけた水の剣。振りかぶった小瓶に追従して、今一度、水の長剣を形作った。
(俺の水の剣は鉄さえ両断する。死ね!! 死ぬがいい!! 劣等種族が!!)
殺意だけを込めて、ペイリが水の剣を振るう。
だが。
目に入った。
リンが風で操ったのだろう。
零れる涙。
剣の動きが半歩、遅れる。
それでも、振り抜いた。
肉を斬った感触はない。
リンは天井まで高々と跳躍している。天井を蹴り飛ばし、壁へ。壁を蹴り飛ばし、ペイリの背面から駆けてくる。だが――
(バカが!! 目を潰したところで、その動きの単調さなら、いくらだって読めるぞ!!)
ペイリが振り返る。リンの両手。忙しく動いていた。印を何度も組み替えながら、駆けている。
鉄をも両断する水の剣。リンの首筋に吸い込まれる。
これは勝った。
ペイリは思った。
にやりと笑いながら、見下ろすペイリと、紫暗の瞳で見上げる少女。
少女の手の動き。
やけに遅く見えた。
剣が中々進まない。
まるで走馬灯の中にでもいるかのようだ。
バカな。
勝っているのは、自分だ。
負けるはずがない。
たかが人間風情。
いや、こんな小娘風情に――
『お……かみ、くる』
配置していた部下を無傷で殴り倒す、この強さ。
『誰かに刃を向けるとは、つまりそういうことかと。そしてあたしは――強いですよ』
冷たさ。
自分の知らぬ術。
この覚悟とそして――
バン!!
突如、水の剣が、ペイリの意思に反して弾けて散った。
舞う飛沫。
水の雫一つ一つに映る、リンの姿。
栗色の髪。紫暗の瞳が、ペイリのことを見据えている。
速さ、髪の色も相まってか、一瞬見える幻影は――狼。
(このガキ!! そんなまさか!! 何故狼が、こんなと)
小瓶を持ったペイリの手。つかまれる。そして、真下に。
「があ!!」
指取りだった。親指をへし折られる。落下する、水の剣。
それだけでは終わらない。
爪先が浮いた。倒れる。正面ではなかった。背面に。
手は逆手に向けられている。
肘と肩を極められながら、自分の足が空を切る。いつの間にやら天井を見つめていた目が、地面に――
水も小瓶も、未だに地面に落ち切ってはいなかった。それほどまでに速い、高速体術。
もう片方の手はかぎ爪だ。受け身は厳しい。ならば――
「ッ!!」
ペイリは咄嗟に、舌を弾いて音を立てた。
そして――
ゴシャ!!
顔面から、地面に叩きつけられた。
足がまっすぐ天井を向き、それがゆっくりと地面に落ちた。
ペイリの顔面から、水の剣の残骸が、タラタラと流れてくる。
「……」
リンはその様を、ただ静かに見下ろしている。
「うわああああああ!!」
この場にいた者らが、蜘蛛の子を散らすように逃げ出していく。
リンはそれらに手を出すことなく、見送った。
一歩、二歩と、リンが音もなく、ネイファのもとに近づいていく。
そんな時。
カラン。
数多の逃げ出す足音に紛れて、ペイリの氷のかぎ爪が、転がっていた鉄パイプに、触れた。