覚えている。
優しく頭を撫でる手も。
泣きたくなるような、そんな温かな声音も。
津美紀のことを「ええ子」と言ってくれた、その煌めく言葉も。
ぜんぶ、全部覚えている。
「誰にも言うたらあかんで」
あのひとは、そんなふうに言った。
人差し指を立てた姿がテレビで見た紳士みたいで、企んだような笑みは手品師みたいだった。だとすれば津美紀はきっと乙女で、ワルツを踊ることもできなければオペラを歌うこともできなかったけれど、拙さの滲んだ精一杯で
「……恵にも?」
「せや、恵君にも内緒」
「でもお父さんは知ってるよ?」
「なら言うてええんはお父さんだけやなあ。知り合いやけんしゃあないもん」
「分かった! お父さん以外には言わない」
「ええ子やね」
恵に秘密事を作るのは罪悪感が湧いたけど、そうしなければ目の前のひととは会えなくなるんだろうと幼いながらに察していたから、津美紀はずっと口を閉ざしたままでいる。
会えなくなるのは寂しかった。
だって、あのひとは津美紀を決して除け者にしなかった。
あるときから、恵が怪我をして帰ってくるようになった。父は理由を知っているようだったのに、のらりくらりと追及を躱しては、本当のことは教えてくれなかった。恵も恵で口を噤んだままで、何も話してくれなかった。
今となっては、津美紀の身を案じてのことだったと理解しているのだけれど。
それでも。幼い頃の津美紀にとって、二人が隠し事をしたことは、仲間外れとしか思えなかったのだ。どうしてかを考えて「もしかしたら津美紀が本当の家族じゃないからかもしれない」と悩んだ。家族でないことを肯定されるのが怖くて、捨てられるかもしれないのが恐ろしかった。
そんなときに。
「二人ともな、津美紀ちゃんにそのままでおってほしいんよ」
あの人はそうやって口にして、色々な事を教えてくれた。
父の実家のこと。呪いと呼ばれる、普通の人間には見えない存在のこと。呪いを祓う、死と隣り合わせの生業があること。父の血を継いだ恵には、呪いを祓う才能があること。恵に備わった才能は、決して恵を一般人でいさせてくれないこと。
おとぎ話のような。
夢物語のような。
津美紀には見えない世界のことを、
「そんな物騒な世界やからなあ。津美紀ちゃんみたいな優しい子を巻き込みとうなかったんやろね。きっと守りたかったんよ」
あの人は誤魔化すことなく教えてくれた。
「……でも、私もお父さんと恵の力になりたい」
「やったら笑っとき」
「笑うの?」
「せや、それだけで二人とも百人力になる。俺が保証したる」
「本当に、それだけで良いの? 津美紀は戦わなくていいの?」
「人にはな、たぶん役割いうもんがあんねん。俺が知ってる人間のなかでも津美紀ちゃんは飛び抜けてええ子や。優しいし、素直やし、笑顔は可愛いし、もうとにかくめっちゃええ子」
誉め言葉とともに頭を撫でてくれる手が大きくて、とっても温かくて安心した。
「ほんでもってな、そんなええ子には、ずっと笑っててほしいと思うてしまうんよ。津美紀ちゃんやって悲しいときも苦しいときもあるやろうに、ワガママやろ。それが俺らや」
そんな優しいワガママがあるなら、この世界はきっと美しいもので出来ているに違いなかった。
だって。そうでなければ、優しい彼らが報われないではないか。
だから。
「津美紀ちゃんはええ子やなあ」
津美紀はその日から、大事な人たちのために笑っていようと決めた。
他の誰でもなく自分こそが、津美紀にしか出来ない戦い方で、守るために立ち上がることを決めたのだ。