「闇より出でて闇より黒く。その穢れを禊ぎ祓え」
里桜高校に降りた『外からは入れる』『内からは出られない』という効果を付与した帳。
あくまでも呪力の弱い者は、という条件だが。
「おー、できたできた」
校舎の屋上には二人の人影があった。
一人は真人。
もう一人はファミレスで漏瑚達と一緒にいた縫い目の男。
「もう高専に指を回収させるという目的は果したし、あの子に構う必要はないだろう?」
「まだ色々試したいこともあるしね。最期に呪術師釣る餌になってもらおうかなって。順平の家に直接乗り込んでもよかったけど、こっちのほうが面白そうじゃない?」
真人は発生して間もない呪霊。
貪欲に成長を楽しんでいる。
手当たり次第に人間を実験材料にして、更にその痕跡を追ってきた術師との戦闘も実験の一つとしか見ていない。
まだ真人には大きな伸び代がある。
今は自分や他人を変形させるだけだが、使い方によっては真人の術式──『無為転変』はまだまだ応用が利く。
今の段階でも
「あれ? 君も見ていけばいいのに。きっと楽しいよ。愚かな
「色々と忙しくてね。何せ人手がないから」
◆ ◆ ◆
「クッソ……どこ行ったアイツ」
「ゴメン、菜々子……私が目を離したから……」
「いいって。まだいなくなっただけなんだし」
順平が病室を出てから既に三十分。
空気を吸ってくると出ていったにしては遅すぎる。
病院内を探してもそれらしき人物はいない。
すると、菜々子の携帯に再び地下水道の調査に出向いていた七海から着信があった。
「七海です。たった今、里桜高校──吉野順平の通っている高校に帳が降りたと『窓』から通報が」
「……ってことは」
「多分……そこにいるはずだよね」
行方を眩ませた順平。
順平の母校に降りた帳。
あまりにもタイミングが良すぎる。
今度は何を企んでいるのか。
いずれにしろロクなことではないのは確かだ。
早く行かなければ手遅れになる。
二人が里桜高校に向かおうとしたところで、ダメです、と七海から待ったがかかった。
「帳まで降りたとなるとヤツは生きている上、里桜高校にいる可能性が高い。行っては行けません」
「──っ!」
七海の言葉に菜々子は歯を食いしばる。
まただ。
子供だから。
学生だから。
それだけで何もさせてもらえない。
しかし、七海の言っていることは正しい。
特級呪霊のいる現場だ。
二級の二人が行ったところで祓える可能性はないに等しい。
七海と合流して態勢を整えてから向かうのがベストなのだろう。
だが、そうして待っている間に順平は何かしようとしている。
「すぐに戻ります。君達は待機して──」
「『
菜々子の叫びに七海の言葉が止まった。
「それが私達の信念だ……!」
七海が菜々子達を守ろうとしているように、彼女達だって順平を守ろうとしている。
子供でも、学生でも──それでも彼女達は呪術師なのだ。
「ここでアイツ見捨てたら……何のために
言い切ると同時に菜々子は通話を切って走り出す。
美々子もすぐさま後を追いかけた。
「ああもう……バカなことした!」
「菜々子は勢いに任せすぎ」
「わかってるっての!」
無駄──犬死──そんな言葉が頭を過る。
死ぬ覚悟があるかと聞かれればそれは否だ。
死にたくない。
今も緊張で身体が強張っているのがわかる。
それでも行くと決めたのだ。
「何であんなヤツのために……」
わざわざ七海に歯向かって。
少し前に知っただけの男のために。
人殺しをさせないため?
凪を悲しませないため?
呪術師の仕事だから?
「簡単だよ、菜々子」
「ん?」
「
彼女は言っていた。
それはとてつもなく厄介なものなのだと。
理屈でどうにもならない感情論。
「結局、私達は順平が死ぬのを見たくない。そうじゃない?」
「……そうかも。面倒なところまであの人に似ちゃったなぁ……っと!」
すると病院を出たところで突然黒塗りの車が二人の行く手を遮るように目の前に飛び込んできた。
それは見慣れた高専所有の車。
伊地知まで止めにきたのか。
菜々子が顔をしかめるが、運転席の窓から顔を出した伊地知は真剣な表情で二人に後部座席を示した。
「乗ってください」
普段の伊地知なら間違いなく止めただろう。
意外な言葉に菜々子と美々子は顔を見合わせるも迷っている時間はない。
二人が後部座席に乗り込むと同時に伊地知は車を発進させる。
「止められると思ってたんだけど?」
「止めたいのは山々ですし、止めるのが大人の義務でしょう。私達の仕事は人助けです。その中にはまだ君達学生も含まれます」
ですが、と伊地知は続けた。
「止めたって聞かないでしょう?」
五条や夏油のせいでワガママを聞くことには慣れている。
しかし、それは彼らに力があるからだ。
今の菜々子達に事態を解決できる力があるかと問われれば間違いなく否と答えるだろう。
だが、情に厚い二人のこと。
止めても行くに決まっている。
力がなくても。
死ぬかもしれない危険を冒しても。
ならば、これ以上事態が悪化して手遅れになる前に二人を送り届ける──それが伊地知にとれる最高の選択だった。
不本意極まりない選択だが。
「絶対に死なないこと──これだけは約束してください」
「「うん」」
通勤ラッシュの渋滞をかわすために裏道を全速力で走り抜ける。
今日に限っては道交法も無視だ。
その甲斐あって三人を乗せた車は、ものの数分で里桜高校に到着した。
「私は他に動ける術師がいないか声をかけてみます」
ご武運を、という伊地知の言葉を背に受けながら二人は帳の中に突入する。
「どこ?」
「校舎に人の気配がないってことは……体育館とか?」
そう言った途端、体育館から呪力の気配。
二人はすぐさま体育館へ走る。
体育館の扉を開けると、そこには里桜高校の生徒の大半が倒れていた。
倒れていないのは三人だけ。
ステージにいる順平とその正面でクラゲの式神に吊り上げられている男、そしてステージの下で呆然としている担任。
──多分あれがイジメの主犯格だよね。
なぜこんなことになっている。
なぜ順平はいきなり学校を襲撃した。
──ひょっとしてアイツが指を放り込んだ犯人だとでも言われたとか?
「バッカじゃないの……」
「引っ込んでろよ、呪術師」
そう言う順平の目を菜々子達は知っていた。
どろりと黒く濁った薄暗い目。
初めて会ったときの夏油と同じ目。
「ここ任せていい? 美々子」
「そっちは頼むよ、菜々子」
呪力で足を強化し、菜々子は順平に向かい、美々子は式神に吊り上げられている男に向かっていく。
生徒が床一面に倒れているここでは戦えない。
まずは順平をここから遠ざける。
順平も二人の対処を優先するべきと判断したらしい。
吊り上げていた男を放り出し、菜々子の拳や蹴りをかわしながら校舎のほうへ逃げていく。
「『澱月』!」
クラゲの式神から伸ばされた触手をかわすと、とりあえず菜々子は式神に蹴りを食らわせる。
だが、ダメージが入った気配はない。
柔らかい胴体に衝撃が吸収されているらしい。
──式神を倒すよりセオリー通りに術師を狙ったほうがいいか。
「もう一度言う! 引っ込んでろよ、呪術師! 関係ないだろ!」
「うるさいなぁ! アンタが私のやることに指図すんな!」
「無闇な救済に何の意味があるんだ! 命の価値を履き違えるな!」
再び伸ばされた式神の触手が廊下いっぱいに膨れ上がって菜々子を包み込む。
「霊長ぶっている人間の感情……心は! 全て魂の代謝──まやかしだ! まやかしで作ったルールで僕を縛るな!」
順平はそう言って背を向けた。
死ぬほどの毒は注入していない。
数時間意識を失う程度のものだ。
「奪える命を奪うことを止める権利は誰にもない。そこで寝ててよ。僕には戻ってやることがある」
人に魂はあっても心はない。
命に価値や重さはない。
ただ世界を回るだけのもの。
だからこそ何をしてもいい。
どう生きようと自由なのだ。
順平が数日前に教えられた言葉。
そして、これが順平が選んだ生き方だ。
伊藤は殺す。
呪物を置いたのがアイツでもそうでなくても。
そうされるだけのことをアイツはしてきたのだから。
ああ、でもそうすると体育館にいる美々子も対処しなければ──そう考えていたときだ。
「自由は魂が呼吸する権利。呼吸を奪われた魂は絶命する*1──だっけ?」
「え?」
声が聞こえた瞬間、順平の真横にあった窓ガラスが砕け散り、菜々子が外から飛び込んできた。
廊下いっぱいに触手を広げて自ら死角を作ったのは失策だ。
式神が触手を伸ばしてきた瞬間、菜々子は手近にあった消火器を身代わりにして自分は窓から外へ脱出。
そして外壁を伝って移動すると順平の真横から奇襲を仕掛けたのだ。
驚いて動きを止めてしまった順平に攻撃を避ける術はなく、もろに腹に拳を食らって吹っ飛んだ。
「ぐっ!?」
これが夏油なら近接が苦手だというフリで近付かせた上で首をへし折られる──という可能性があるが、それがない順平では何も怖くない。
「さっきから何か語ってるけどさぁ……アンタの言葉じゃないでしょ、それ」
借り物の薄っぺらい言葉を並び立てられたところで何も感じない。
菜々子の脳裏に『呪詛師殺し』の言葉が過った。
──マインドコントロールに一回陥ると自分で考えることを放棄して指示者の言うことしか聞かなくなる。真偽や善悪がどうであれ、それが絶対だってね。
魂──と言っていたあたり、恐らくは一連の事件の犯人に吹き込まれたのだろう。
ただでさえイジメに遭って精神的に不安定になっているところに宿儺の指の件も重なったのだ。
甘い誘いをかけられれば理性は簡単に崩壊する。
「無闇な救済に何の意味があるんだって言ったっけ? ねーよ、そんなもん」
これは菜々子のワガママなのだから。
今の順平にどれだけ道徳や倫理を説いたところで意味はない。
ならばいっそシンプルにわかりやすい理由を示してやったほうがいい。
「私はただムカついてんの。私達がどれだけ求めても、もう二度と手に入らないものを持ってるアンタが、それを平然と捨てようとしてるのがどうしても許せねー」
本当の家族がいて。
あんなに愛されていて。
普通の生活を送っていたクセに。
呪いに唆され、そのありがたみも知らずに手放そうとしているのが気に入らない。
「そんな理由で……そんなくだらない理由で」
「復讐だって私からしてみれば同じようにくだらないけど?」
くだらない動機にくだらない動機を返しただけだ。
お前はくだらない理由で何もできずに終わるのだと。
──外からの情報を遮断させないこと。何でもいいから相手に考えさせるんだよ。指導者の言葉がどうでもよくなるくらいに。
怒れ怒れ。
今はそれでいい。
殺意も敵意も全てこちらへ向けろ。
──安心しなよ。私はアンタなんかに殺されてやらないからさ。
「まあ、何言ったって聞かないでしょ。昔から言うし──バカは死ななきゃ治らないって」
菜々子は自然体で構えると順平を正面から見据えた。
順平の動きは素人だ。
喧嘩慣れしているわけでもないし、術師の動きですらない。
──術式を使えるようになったのはつい最近のはず……例の特級呪霊が何かしたっぽいね。
以前、菜々子達が戦った改造人間は呪霊のように呪力が漲っていた。
改造の程度や方向性によっては脳を改造し、非術師に術式を使わせることができるのかもしれない。
しかし、まだ術式に慣れていないなら必ず隙はある。
『毒』と口にしたことから恐らく順平の術式は式神を介して毒を相手に注入するもの。
体育館に倒れていた生徒達の状態からして毒は効果を自在に調合できる。
式神の大きさも調整できるようだ。
──なら、やっぱり術師本人を叩くか。
菜々子は順平に向かって走り出した。
「初めて殺す相手がアンタかぁ……ちょっと物足りない気もするけど贅沢言ってる場合じゃないしね」
わざとそう口に出してやる。
余計なことを考えていると死ぬぞ、と。
そのとき順平の顔に僅かに浮かんだ恐怖を菜々子は見逃さない。
さっき感情なんてものはまやかしだと自分で言っただろうに。
なぜ怯えているのか。
順平が自分の身を顧みないで特攻してくるほどに例の特級呪霊に心酔していたなら少々厄介だった。
だが、まだ死に恐怖できるほどには頭は回っているらしい。
その恐怖をきっかけにして植え付けられて凝り固まった思考を抉じ開ける。
「澱月!」
死をチラつかせたことで順平もようやく菜々子はここで倒さなければならないと気付いたらしい。
式神の触手の先端にさっきまでなかった極太のトゲが生えている。
「奪える命を奪うことを止める権利はないって言うならさぁ」
だが、当たらなければ意味がない。
菜々子は触手を避け、更に式神を飛び越えてかわすと再び順平に向かって走り出す。
菜々子を倒そうとして式神を前に出しすぎだ。
式神と順平との間に距離が開いてしまっている。
盾にするために呼び戻そうとしても菜々子が距離を詰めるほうが早い。
一気に順平に肉薄した菜々子は躊躇なく拳を振りかぶった。
「私に奪われたって文句はないってことだよねぇ!」
再び菜々子の拳が順平の腹に突き刺さる。
だが、順平の目はまだ死んでいなかった。
まだ式神はやられていない。
自分に集中している今なら背後から──とでも考えているのだろう。
「甘いんだよ」
視線の動きで考えていることが丸わかりだ。
しゃがんで背後から伸ばされた触手をかわすと、しゃがんだバネを立ち上がる勢いに乗せて強烈なアッパーを順平の顎に見舞う。
「素人に負けるほど柔な鍛え方してないっての」
よろめいた順平の襟を菜々子が掴む。
次の瞬間、順平の視界は
そして、仰向けに転がされた順平を菜々子が膝で押さえ込む。
「うっ……!」
「やっぱりつい最近までパンピーだったヤツが相手じゃこんなもんかぁ」
集中が途切れたことで式神の顕現が維持できなくなったのだろう。
式神が霧散して消えていく。
「ねぇ、何でこんなことしたの?」
「アイツが……伊藤が……」
やっぱりそんなところか、と菜々子はため息を吐いた。
指を置いたのは恐らく例の特級呪霊。
その本人にものの見事に謀られたわけだ。
きっと心配するフリをして内心では大笑いしていたに違いない。
「アンタ、素人だから付け込まれるのも無理ないけどさ。非術師が宿儺の指をどうこうするとかまず無理だから」
順平の家に置かれた指は封印が外されていたから呪いを寄せた。
しかし、封印の外された特級呪物を持ち運ぶのはリスクが大きすぎる。
あの指は直前まで封印がかけられていたはず。
そして呪力のない人間に封印は外せない。
ステージで吊り上げられていた男は明らかに式神が見えていなかった。
間違いなく非術師だ。
「それじゃ……」
「騙されたんだよ」
欺き。
誑かし。
殺す。
それが呪霊だ。
精神的に不安定で知識もない順平は最高のカモだっただろう。
菜々子は順平の上から退くと手を掴んで引っ張り起こす。
「まだ凪さんは死んだわけじゃない。目を覚ましたら悲しむよ」
「人に心なんてない……その悲しみだってまやかしだ」
「まだ言うの? それが本当だっていう証拠は──」
「──ないんだよ!」
順平は菜々子の手を振り払い、駄々を捏ねるように否定を続ける。
それを認めるわけにはいかない。
人に感情なんてない。
感情なんてものはまやかしでなければならない。
だって──
「そうでなきゃ……そうでなきゃ母さんも僕も人の心に呪われたっていうのか。そんなの……あんまりじゃないか!」
「
あっさりと。
順平の叫びを菜々子は肯定した。
凪も順平も人の心に呪われた──その通りだと。
「
「────!」
「呪いはいつでもすぐ傍にある」
目を見開く順平に菜々子は淡々と現実を突き付ける。
順平は良くも悪くも善人なのだ。
呪いの恐ろしさをまるで知らない。
年に一万人近くいる呪いの被害者。
そのほとんどは見知らぬ人々から生まれた呪いから被害を受けている。
子供でも大人でも、男でも女でも、善人でも悪人でも、事故でも故意でも関係ない。
凪の件も特級呪霊や両面宿儺の指という特例が絡んできているがシンプルに見れば悪意ある者によって呪殺されかけた──という呪術師にとってはよくある事件の一つに過ぎないのだ。
しかし、当事者である順平は「はい、そうですか」と納得はできないだろう。
だからこそこんな事件を起こすまでに至った。
どこまでも他人に翻弄されて。
あんまりだと言うのも無理はない。
だが、どこまでいってもそれが現実である。
「アンタは知らなかっただけ。この世界は元々そういう場所だよ」
なまじ見えるようになってしまったせいで順平は気付いてしまった。
世界の理不尽に。
それを知らなければ。
それが見えなければ。
まだ幾分かマシだっただろうに。
「ただ……まだアンタは誰も殺してない。だから引き返そうと思えば引き返せる。あの日向の側に」
そこだけはまだ救いがある。
越えようとした一線から足を引くなら、ここが瀬戸際だ。
「だから戻りなよ。この件は私達がうまく収めておくからさ。他に学校なんていくらでもあるんだから、どこか別の場所で凪さんと二人でまた平和に暮らせばいい」
これから先、学校でのイジメを含めたこの一連の事件に関して順平の溜飲が完全に下がることは多分ない。
それを堪えて折り合いをつけるしかないのだ。
順平が唇を震わせて何か言おうとしたそのとき──
「──あれ? 今日は七三術師じゃないんだ」