「はっ!」
「っと……!」
寒空の下で模擬槍を持った真希と竹刀を手にした乙骨が対峙していた。
真希が横薙ぎ、打ち下ろし、突き、更に蹴りや合気道、フェイントなども織り混ぜられた攻撃を間断なく繰り出す。
しかし、乙骨もそれを竹刀で弾き、あるいは素早く躱して捌いていく。
数ヶ月前まで一方的にやられていた乙骨だが、ここ最近の成長ぶりは目を見張るものがあった。
「憂太も随分うまくなったよなぁ」
「しゃけ」
身体の動かし方、刀の使い方、そして何より呪いの扱い方を知ったことは大きい。
呪いを理解し、制御する。
六年経って、ようやく乙骨は、ずっと目を背けてきたものと向き合い始めたのだ。
だが、里香ほどの巨大な呪いを解呪するためには、何千何万もの呪力の結び目を読み、一つずつほどいていかなければならない。
気の遠くなるような作業だが、乙骨は確実に前へと進んでいた。
「憂太ー!」
「え?」
すると、組み手の最中、いきなり背後から聞こえた五条の声に乙骨は思わず振り返る。
その瞬間──
「うわっ!」
「チッ……!」
隙ありと言わんばかりに真希が殴りかかるも、乙骨が咄嗟に飛び退いたことで真希の攻撃は空振りに終わった。
以前なら反応できずに横っ面をぶっ叩かれていただろうに。
「余所見したまま躱すなんて随分と生意気なマネするようになったじゃねぇか」
「いや、今のはたまたま……」
不満げな真希に苦笑いしながら乙骨は手招きしている五条へ走り寄った。
「どうしたんですか?」
「今日は憂太に特別メニューをこなしてもらおうと思ってさ」
「特別メニュー?」
「うん。彼女と組み手をしてもらう」
いきなり知らない相手と組み手と言われて乙骨は少々面食らう。
五条の後ろに立っていた一人の女性。
乙骨の記憶にない人物だ。
五条の知り合いの呪術師だろうか。
しかし、後ろから追い付いてきた真希達も「誰だコイツは?」と言うように疑問符を浮かべていた。
「それでは! 紹介します!」
シュババッ! と効果音が付きそうなほど無駄にキレッキレの無駄な動きで女性を指し示す五条。
「こちら、かの有名な『呪詛師殺し』さんです!」
はい拍手ぅー! と五条は一人テンション高く叫ぶが、その瞬間の空気は極寒と表現していいほど冷えきっていた。
時間にして僅か数秒の沈黙。
その数秒が何十分にも感じられるほどに空気が重い。
──え? 何この空気……。
真希も、パンダも、棘も、拍手どころか身
ただ一人、『呪詛師殺し』のことを知らない乙骨だけが首を傾げていた。
乙骨が初めて真希達と顔を合わせたときの空気も中々に冷えていたが、今回ほどではない。
やがて「ふぅ……」とため息を吐いて最初に口を開いたのはパンダだ。
「悟、今日はエイプリルフールじゃないぞ? クリスマスだ。冗談にしてもそりゃ寒すぎだろ」
「しゃけ」
白けた様子で肩を竦めるパンダと、それに同調する棘。
まさかそんなはずはない。
いつもの冗談だろう、と。
その名前は呪術に関わる者なら誰もが一度は耳にするが、半ば都市伝説のような存在であるのだから。
それに、裏を渡り歩くアウトローの中のアウトローがホイホイと高専に来るものか。
さっさと本当のこと言えよ、とパンダが笑いながら促す中、ただ一人、真希だけはジッとその女性を見ていた。
──隙が見えねぇ。
自然体で立っているだけ。
別に異常なプレッシャーを感じているわけでもない。
それなのに攻撃が通るイメージが微塵も湧いてこないのだ。
「……マジで言ってんのか?」
「真希さん……?」
低く唸るような真希の声。
呪いを前にしたときのような──いや、それ以上のありありとした警戒と緊張、そして僅かな怯えがその声には混じっていた。
乙骨は思わず振り返って真希を凝視する。
こんな一片の余裕もないような雰囲気の真希は初めてだ。
「だから、そうだって。で、どうする憂太? やる?」
「え……? あっ、はい! ……ぐぇっ!?」
乙骨が再び五条のほうを向いて反射的に返事をした次の瞬間、後ろから伸びてきた真希の手が乙骨の襟を掴んで引っ張った。
「ま、真希さん? いきなりどうし──」
「いいから来い」
有無を言わさず真希はズルズルとグラウンドの端まで乙骨を引きずっていく。
「え……マジで?」
「……こんぶ」
そんな真希の様子を見て、パンダと棘もダラダラと冷や汗を流し始めた。
二人はバッと振り返り、『呪詛師殺し』に目を向ける。
相変わらず彼女は自然体のまま。
表情は若干の苦笑い。
「やっぱりこうなったか」と言わんばかりの顔である。
しかし、パンダ達はそれどころではない。
──憂太と『呪詛師殺し』が手合わせなんて色々とヤバくないか?
せめて最低限の情報は伝えておかなければならないだろう。
変に萎縮してしまう可能性もあるが。
パンダと棘は顔を見合わせると同時に頷いて真希達のほうへ走り出した。
「オマエ、自分が誰の相手するかわかって返事してんのか?」
「え? 誰って……あの人でしょ?」
「ダメだコイツ……全ッ然わかってねぇ」
一方、グラウンドの端では真希が危機感のない乙骨を見てガックリと項垂れていた。
乙骨は所謂
そこへ追い付いてきたパンダと棘が真希の肩越しに顔を出す。
「まあ、無理もないわな。ちゃんと呪術に関わり始めて数ヶ月で聞くには重すぎる名前だ」
「パンダ君……重すぎる名前って?」
「それなんだがな……いいか、憂太」
ガシッと肩を組んで乙骨を引き寄せるパンダ。
「今からすんのは呪術界で生きていくための超大事な話だ。心して聞け」
「またそれ?」
真剣な顔のパンダに対して乙骨は微妙に疑いを含んだ視線を向ける。
以前、訓練の最中に神妙な顔で呼ばれたときに突然「オマエ──巨乳派? 微乳派?」などと聞かれたせいで、乙骨はパンダの言う『超大事な話』という前振りが若干信じられなくなっていた。
「今回はマジだ! 冗談抜きのガチなヤツ! 最悪の場合オマエは死ぬ!」
「────!?」
それを聞いて乙骨の表情が一気に緊張に染まる。
いくら何でもパンダは冗談でこんなことは言わない。
「そんなに大事な話なの?」
「ああ。呪詛師ってのはわかるな?」
「う、うん……呪術を悪用する呪術師のことだよね?」
「そうだ。そういうヤツらを捕縛、あるいは処分するのも呪術師の仕事の一つなんだよ。でもな、長く呪詛師を続けてるようなヤツらは狡猾な連中も多いんだ」
高専の監視網を潜り抜けて逃げ延びる。
あるいは追ってきた呪術師を罠に嵌めて返り討ちにする。
単なる強さの物差しでは測れない狡猾さを持ち合わせているのが呪詛師という存在だ。
「そんな連中を狩りまくってんのが『呪詛師殺し』なんだよ」
「えーっと……要するにめちゃくちゃ強い人ってことで合ってる?」
「強いなんてもんじゃねぇよ。その気になりゃ高専と戦争……いや、叩き潰せるって触れ込みだ」
パンダの説明を引き継いだ真希の言葉に乙骨は言葉を失った。
高専と戦争ということは必然的に五条と夏油ともぶつかることになる。
それでいて叩き潰せる?
にわかには信じがたい話だ。
だが、真希もパンダも、そして棘も顔は真剣そのもので一切ふざけた様子はない。
「噂でしか聞いたことねぇけど……とにかく容赦がねぇんだ。敵対したヤツらは組織ごと皆殺し。本名も出自も術式も何もかもわからねぇが、そのえげつなさだけは嫌ってほどいろんな筋から伝わってる。そこから言われるようになった言葉が──『呪詛師殺し』に手を出すな。呪術界で生きていくならこれだけは忘れちゃいけねぇ言葉だ」
「『呪詛師殺し』に……手を出すな……」
真希の言葉を復唱する乙骨。
手を出すな、どころか組み手をする羽目になっているのだが。
「でも、何でそんな人が五条先生と……?」
「知らねぇ。私だって実際に見たのは初めてなんだからな」
噂は数あれど、目撃者がほとんど殺されているために彼女に関する情報は真偽不明なものも多いのだ。
「あのバカ目隠しも、さすがに何の考えもなしに連れてきたわけじゃねぇだろうが……」
「おーい。始めるよー」
五条の声に三人は慌てて元の場所に戻る。
やると言ってしまった以上、後には退けない。
それに真希の言う通り、五条にも何か考えがあるのだろう。
「はい、憂太」
戻ってきた乙骨に五条が投げ渡したのは近くの木に立てかけてあった刀。
乙骨が普段の任務で里香の呪いを移すために使っているものだ。
「え? これ真剣ですよ?」
「いいからいいから。彼女の相手するなら竹刀じゃ話にならないよ」
「でも……」
本当にいいのか、と彼女を見れば、もう既に両手にはナイフが握られていた。
一切飾り気のない、ただただ『殺す』という目的しか感じられない無骨なナイフ。
以前、組み手をしている中で、常に実戦のつもりでやれ。
──絶対痛みだけじゃすまない……。
模擬槍で小突かれるくらいなら多少は慣れたが、今回は本物の刃物である。
──組み手……なんだよね?
真剣での斬り合い。
しかも、相手は『呪詛師殺し』。
普段の訓練とは明らかに違う。
──五条先生なら「反転術式使えるんだし、死ななきゃ大丈夫でしょ」とか思ってそうだなぁ……。
じっとりと嫌な汗を背中に感じながら乙骨は『呪詛師殺し』とグラウンドの真ん中で向かい合う。
何を考えているのか知らないが、ここまできてしまったらやるしかない。
「それじゃ始めるよ。特にルールはないから好きにやってね」
「は……はい!」
五条が足元から適当に拾い上げた小石を指で弾く。
落ちた瞬間が開始の合図。
乙骨は遅れを取らないように慎重に落下のタイミングを計っていた。
「ああ、そうだ……乙骨君」
「え?」
すると、今まで黙っていた『呪詛師殺し』が突然、乙骨に話しかける。
「本気でやりなよ。そうしないと──」
──死ぬよ。