兄・子世代ifチート能力を駆使して転生人生謳歌します! 作:八重歯
ハニーデュークスで買ったお菓子も、家から届けられるお菓子も全部食べてしまった。
「腹減ったなぁ」
クラッブが腹をさすりながら力無く呟く。ゴイルも「あぁ」と低く賛同した。
もちろん彼らは朝ごはんをたっぷり食べ、昼ごはんも二人で八人分くらいは食べていた。今は午後四時。夕食まで後二時間ほどあるが、胃の残量はとっくにゼロになっていた。
勉強などやる気はなく、宿題も見てみぬふりの二人は食べ物がどこかに落ちてはいないかと廊下をうろうろと歩き回っていた。──歩き回ることで、さらに腹が減るという悪循環に、二人は気づいていない。それ程の知能は、残念ながらないのだ。
クラッブの腹が鳴った。
廊下の角を曲がったところで、それは見事なまでに堂々と響いた。二人は足を止め顔を見合わせ、肩をすくめる。誰かに聞かれていたら恥ずかしいが、この二人の仲では気にすることはない──そのはずだった。
くすくす、と小さな笑い声が聞こえてきた。
誰かに腹の音を聞かれた。しかも笑われた!
となれば、流石に恥ずかしく文句の一つでも言おうとクラッブは振り返る。
しかし、「笑うなよ!」と言いかけたその言葉は一言も口から溢れることはない。
口元を押さえ、楽しげな笑みを浮かべていたのは、ノア・ゾグラフだった。
それに気づいた途端、クラッブとゴイルはぴしりと背を伸ばし頬を染め、慌てて髪を整えた。
ドラコに用事かな? ドラコと仲良いみたいだし。でも、ドラコどっかに行っていないんだよな。でも、話しかけられたいな、少しでいいから、ノアさんと話したい。
食事にしか興味がないクラッブとゴイルも、彼に話しかけられた瞬間には心が跳ね上がるのだ。重い体が羽のように軽く舞い上がる気さえする。言葉を交わせただけで昼食三回分くらいの幸福感が得られる。
「ノアさん、こ、こんにちは!」
「お腹減ってきましたね!」
二人とも、ノアと話したい一心で──何せ、ドラコが近くにいたら大体話しかけられずに終わってしまうのだ──必死にニコニコと笑い、話題を振る。ノアは優しく笑って「そうだな」と頷いた。
ノアが足を止めて、笑いかけている。──彼らは心の準備もないまま夢のような時間に突入した。
──その時。
ぐぅぅぅぅぅ。
獣の唸り声に似た第二波が来た。今度はゴイルの腹が空腹を訴えた。
沈黙。少しして、クラッブとゴイルは顔を一気に赤らめ、視線を彷徨わせた。
ノアはほんの少しだけ目を見開いて、それから「ははっ」と声を上げて笑った。
「いい音だな……あ、俺、お菓子持ってるんだ、食べる?」
「え!」
「いいんですか?!」
お菓子。と聞けば二人は羞恥も忘れて飛び上がって喜び、犬のように口の中に唾液が溢れ、キラキラと目を輝かせて手渡されるのを待った。
ノアは鞄の中に手を伸ばし、優雅な動作で上品な箱──リボンのかかった銀縁のクッキー缶を取り出す。
二人はまばたきを忘れ、「おおっ」と感嘆を漏らした。ノアの持つものは、なんでも特別に見えた。
「……あ」
しかし、ノアがふと手を止め、表情を翳らせた。
「これ、マグル生まれのパティシエが作ったクッキーなんだ。──二人は、食べられないよな?」
瞬間、反射的に、彼らは声を揃えた。
「食べます!!」
その勢いは、ディナーを掻き込む時よりも真剣だった。ノアは驚いたように目を瞬かせたが、すぐに緩く笑みを浮かべて箱を差し出した。
「そうか。じゃあ──どうぞ」
「ありがとうございます!」
「これ、ずっと食べてみたかったブランドのやつだ! 父さんは絶対買ってくれなくて!」
二人は大喜びでリボンを剥ぎ取ると、早速クッキー缶を開き、上品に収まっているバタークッキーを太い指でひょいとつまみ、口の中に次々と放り込んだ。
「うめぇ!」
「おい食べすぎんなよ!半分こだぞ!」
言い合いながらも食べる手は止まらず、みるみるうちに缶の中は減っていき、数分後には──クラッブが缶を逆さにして粉のひとかけらまで食べたため、何も残らなかった。
「うまかったー!」
「最高でした!」
粉がついた唇や指を二人はぺろりと舐める。ノアは笑ったままそれを見ていたが、ふと思い出したように声を落とした。
「……マグル生まれが作ったものなんて食べないと思ってた」
「お菓子に罪はないですよ! 誰が作っても、おいしいもんはおいしいです」
「そうそう。いやーまじでうまかったなぁ」
その言葉に、ノアは目を細めた。
しばし、何を言うか悩むように目を伏せていたが、ついにノアは少し──いつも、彼が見せないような儚い笑みを見せた。
「……ありがとう。君たちがそう言ってくれて嬉しいよ。……マグル生まれのこと、よく思ってないと思ってたからさ」
ほんの少し、俯くように笑ったノアの顔に、クラッブとゴイルは、大慌てで声を上げた。
「父さんや母さんは……まあ、そうですけど!」
クラッブとゴイルは、間違いなく純血主義の思想を幼少期から叩き込まれている。
しかし、二人は──純血、半純血、マグル生まれがいるんだ。マグル生まれは穢れた血って呼ぶんだな。へー。僕たちは純血でえらいんだ。父さんと母さんがそう言ってるからそうなんだろう。
──くらいしか思っていない。
その事の重さも、家の歴史も、一切合切興味はなかった。
興味があるのは朝昼晩の食事や三時のおやつの事だけで、それ以外に対しては割とどうでもよかった。
だからこそ、ノアがマグル生まれであると知っても「そうなんだ。それより、お腹空いたな」とすぐに意識が空腹へ向かっていた。
──ただ、純血主義の連中は強い。それは愚鈍な二人であっても理解していた。
知性があり、魔力があり、金があり、コネがある。──揺るぎない力がある。強いものに従って入れば、甘い蜜を吸うことができる。それは知っていた。
二人にとって純血主義とは、たかだかそんなものだ。あとは、親が純血主義だから、自分もそれに頷けば親の機嫌がいい。それだけだ。
「僕たちは、あんまり……えっと、美味しいもんは──その……」
「美味しいもんだけ食べれたらそれで……」
なんと言っていいのかわからない。が、ノアが自分たちの言葉によって悲しそうな顔をするのは見たくなかった。ノアのそんな顔は、焼け焦げたケーキのような苦味を胸の中に広げていくから。
ノアは二人の言葉にきょとんとした顔をした。まるで、予想外の返答に出会ったように。
そして、ふっと肩を落としながら、声を立てて笑った。
「ははっ……スリザリン生みんなが、お前らみたいに思ってたらいいのになあ」
その言葉に、二人は沈黙した。
他のスリザリン生はそう思ってないのか?
確かにノアさんは、父さんたちが言うには、僕たち純血より劣っているマグル生まれだ。
(この人が、僕たちより劣っている?)
(見た目も、中身も、賢さも、全てが自分よりも素晴らしい人だ)
(なら、マグル生まれだからといって、劣っているわけではないのか)
──と、二人は思った。それは他の純血の子どもが持つような混乱と葛藤はなく。ただ当然のように受け入れた。
そうだ。僕は純血だ。昔から、マグルの血が一滴も混ざっていない。由緒正しい血筋。
でも、僕は馬鹿だし飛行術も上手くないし、魔法だっていつも失敗ばかり。同じスリザリン生に笑われてるって知ってる。
けど、別にいいんだ。美味しいお菓子が食べれて、強いドラコの後ろにいたらいい思いができるし。何も困ったことも、悩みもない。
だから、そんな強いドラコが仲良くしてるノアさんは、マグル生まれだけどなんにも劣ってないんだ。
「僕、ノアさんからもらったクッキーの味、忘れないです」
「僕も、これから何を食べても忘れないです」
食べたクッキーの甘さが口の中でまだ広がっていた。
ノアは、二人の言葉を聞いて嬉しそうに頷き、軽く手を振った。
「じゃあな、ビンセント、グレゴリー。マグル生まれとかを気にしないならさ、またいいお菓子が手に入ったらやるよ」
ノアは背中を向けて、軽やかに廊下を歩き出す。その姿は、どこか眩しくて、追いかけたくなるような存在だった。
──残された二人は、口に残る甘さをかみしめながら、ぽつりと呟いた。
「僕たちの名前、知ってくれてたんだな」
「ドラコですら、呼ばないのにな」
二人はゆっくりと歩きながら、ノアの笑顔を思い出していた。
「……ノアさん、マグル生まれなんだよなぁ」
「ああ、でもさ……別に。うまいお菓子くれたし。優しいし。強いし。関係ないかもな」
「……ドラコも仲良いしな。マグル生まれってだけで、悪いわけじゃないよな?」
「うん。うん。……それにさ、ノアさんを見下してるスリザリン生なんて、見たことないよな」
「ないない」
二人はそれ以上、考えを深めることはなかった。考えるまでもなく、答えはもう出ていたのだ。
ノアさんは、ただ優しくて、かっこよくて──うまいお菓子をくれた人だったから。
マグル生まれだけど、純血と比べて劣っていない。マグル生まれだからと言って必ずしも劣っているわけではない。
それは一般的には当然の事だが、純血主義の人間は、認める事が困難な事だった。
それでも、二人は誰よりもあっさりと認め、また「腹が減ったなぁ」といつものように、何も混乱する事なく歩き出すのだ。
ーーー
その日の午後、クィディッチの練習開始までには、まだかなり時間があった。
だが、スリザリンの更衣室にはすでに一人、マーカス・フリントがいた。キャプテンとして、チームの誰よりも早く着替え、誰よりも早くグラウンドに立つ──それは責任というより、彼なりの矜持だった。
古びたロッカーの前で、フリントはぼんやりと箒の手入れをしていた。もうすぐスリザリンとグリフィンドールの試合がある。これはなんとしてでも勝ちたい。今年で卒業だし、優勝杯を手に晴れやかな気持ちで卒業したい。
数週間後に控える試合への気持ちを高め、集中する心地よい時間。誰にも邪魔されない静寂。
しかし、その静寂は思いがけない人物の登場で破られることになった。
扉が開いたのは、ほんの些細な気配だった。こんな早い時間に誰が練習に来たんだろう。スリザリンチームはみんないつもギリギリなんだがな。──そう考え、振り返ると、そこにいたのは金の光をまとった──ノア・ゾグラフだった。
箒を持つノアは、少し驚いたように目を開いた。
ノア・ゾグラフ。
ハッフルパフの五年生。言わずと知れた、イギリス魔法界でのトップモデル。──クィディッチの能力は、プロ選手級。
試合で何度か会ったことはある。しかし、試合の時は必ず敵であり、友好的に会話したことなど一度もない。こうして、長く目が合ったことも、なかった。
「あれ……次、スリザリンの練習でしたっけ?」
呆然としていたフリントに、ノアが問いかける声は意外にも落ち着いていた。
「ノ、ノア……? いや、今日はうちだ。ハッフルパフの練習は明日だったろ」
「……あ、本当だ。予定表、見間違えました。すみません、お邪魔しました」
素直に頭を下げる姿に、フリントはどこかほっとしながら、少し慌てて立ち上がる。
「いやいや、いいって。別に怒ったりしないし。ていうか……ちょっと、話せてラッキーだったかもな」
ぶっきらぼうな口調の裏に、喜びが滲んでいた。自分は今年で卒業する。その前に、ノアと話す機会がないかと、実はこっそりと探っていたのだ。
誰だって話せる機会があるのなら話したい人。それがノアだ。ノアは明るく、誰に対しても分け隔てなく接する。……常に一緒にいるセドリックや一部の生徒以外、その他大勢は、あくまでその他でしかないのだ。
ファンサービスもするし、手を振れば振り返す。贈り物をすれば受け取ってくれる。──ただ、それだけだ。よく考えてみれば、ノアの懐に入る事が許されている人は限りなく少ないだろう。
明るく柔らかな口調、太陽のような笑顔、それでいてどこか距離を取るような涼やかな特別さがある。目の前にいるだけで、空気の色が変わるような美しい人だった。
写真や遠目に見るのと、全然印象が違う。
より美しくて、いい匂いがして、男なのに──愛らしい。
ノアは男にしてはそれほど身長が高くない。
新入生として入学して来たときは、それこそ女子生徒だと思った。今は女の子──の影は薄く、性別を間違えられることはない、それでも。
端正で小さな顔立ちに、大きな瞳にそれを彩る睫毛。流れるような銀色の髪に、喉仏のあまり出ていない細い首、陶器のような白い肌。華奢な手足に、薄い腰。──男臭さは、限りなく薄い。
頭ひとつ分は身長が低いノアを舐め回すように見ていたフリントの粘着質な視線に、ノアは少しだけ表情を固めたが、にっこりと笑い
「俺も、話せて嬉しいです」と告げた。
それだけで、フリントは今年一年のツキを使い果たしたのではないかと思うほどで、小躍りしたい気持ちを堪え、ごくりと生唾を飲んだ。
「そ、そうか? この前の試合、すごかったよ。ノアのセーブ、あれ……まるで予知してるみたいだった」
「そんな、嬉しいです。……去年の先輩の飛び方もすごかったですよ。あの上からの旋回、あんな角度で曲がれるなんて……コツあるんですか?」
ノアは箒を後ろ手に持つと、一歩分距離を詰めた。まっすぐな尊敬の眼差しに、フリントは照れたように鼻を鳴らす。自分が褒められることには慣れていない。だが、ノアにそう言われると、まるで心臓の奥に静かな光が灯るようだった。
(俺は、あのノアが褒めるほどの人間なんだ!)
──だが、唐突にその空気が変わった。ノアの笑みが、ふと翳った。
「どうした?」
何気なく問うたフリントの声に、ノアはほんのわずかに視線を逸らす。言いにくそうに、下唇をきゅっと噛み、少しだけ目を揺らせた。躊躇しながらも、どこか決意を込めるように、そっと口を開く。
「あの……マーカスさん。去年、俺たちのことを、穢れた血って呼んだって、聞いて……」
その一言は、刃のように胸を裂いた。
フリントは「ノアが俺の名前を知っていた」という事実よりも、去年の自分のとんでもない過ちを突きつけられ、強く胸が痛んだ。
勢いだった。ノアの事を忘れていた。──ノアがマグル生まれだとは知っていたが、ノアは他のマグル生まれとは違う、特別な存在だった。
マグル生まれへの差別、酷い蔑称はファンクラブの中ではタブーとなっている。勿論だ、だってみんなノアを愛しているのだから。
スリザリン生であってもマグル生まれのノアのファンクラブに入っている者は多い。
ファンクラブ会員同士の交流や、イベントの最新情報の交換。はたまたレアな商品の売買や──隠し撮り写真の売買がこっそり行われているのだ。ホグワーツでノアのファンならば、全員入っていると断言してもいいだろう。
そのファンクラブは、寮の垣根を越え、スリザリン生であっても他の寮生と仲良く交流できる唯一の場でもあった。フリントも去年、あの事件までは会員としてさまざまな情報や隠し撮り写真を交換し、充実した日々をこっそりと送っていた。
だが、それも過去の話。
フリントは退会させられて、今も復帰は叶っていない。あれから同じファンクラブ会員だった他の寮生たちは勿論、同じスリザリン生もどこかよそよそしくなっている。
普通ならば──純血主義の子として生まれたフリントは、その事に怒り狂うべきだ。なぜ、マグル生まれのせいで、俺が肩身の狭い思いをしなければならないのか!──と。
しかし、フリントは、そんな感情はちっとも抱かなかった。ただ自分の発言を反省し、項垂れるばかりだったのだ。つまり、フリントはノアの純粋なファンなのだ。
ファンクラブ会員になれないのは、仕方がない。俺が悪い。だから、俺はこっそりとノアを見守ろう。愛そう。──と、フリントは考えていた。
そんなノアが笑っていた。悲しげに、静かに。
許そうとするでも、責めようとするでもなく。ただ、少しだけ傷ついた人間の微笑みだった。
(違う。ダメだ。そんな顔をさせたいわけじゃない)
フリントは、叶うならば去年の自分を殺しに行きたくなった。
「……ごめんなさい、俺、もう行きますね」
ノアは目を伏せ、小さくそう言うと踵を返す。フリントは咄嗟に手を伸ばした。言葉よりも先に、身体が動いていた。
「待ってくれ!」
ノアの腕は掴まなかった。──掴めなかった。ただ、その背中に届くように手を伸ばし、足を踏み出し、声を押し出した。
「違う──いや、違わない。言った。あの時、苛立ってて……バカみたいに、何の意味も考えずに、口にした。ずっと、後悔してたんだ。ノアの耳に入ったらって……ほんとに、ごめん」
自分の声が震えていることに気づいたとき、フリントはようやく自分がどれほど焦っていたかを理解した。
ノアは扉の前で立ち止まっていた。「待ってくれ」もう一度、願うようなフリントの掠れた声に、ゆっくりと振り返る。
その目には、失望と寂しさ、そして、少しの諦めが混ざっていた。──そんな表情を見た事がなかった。
ノアは箒を盾にするように胸の前まで持ち上げ、きゅっと掴む。その指がかすかに震えているのを、フリントは見た。
青灰色の目が星屑を散らばせたように輝いている。ただ、その輝きは──悲しさを孕んでいた。
「でも……マグル生まれを差別するんでしょう?」
囁くような声だった。静かで、しかし鋭い。
フリントは口を開いた。だが言葉は返せなかった。
否定したい。しかし、それは正直ではない。自分の中に根を張っていた価値観を、言葉一つで否定できるほど、彼は賢くも純粋でもなかった。
ノアは微かに笑った。寂しげな笑顔だった。
「俺、マーカスさんと一緒に空を飛んでみたかった。生まれなんか関係なく。……仲良くできたらよかったのにな」
フリントが何も言えないでいると、ノアはそう諦めたように笑いながら言った。
底抜けに明るいノアの、確かな影。
ノアにはこんな表情は似合わない。──だが、美しい表情が憂いている。それは、背筋がぞくりとするほど蠱惑的な表情だった。
全てを投げ出し、抱きしめたくなるような。その憂いを全て自分が取り払ってやりたくなるような、胸の奥が苦しくて、ひどく喉が渇く。フリントはかすかに首を振った。それでも、やはり言葉は出てこない。
ノアはふっと笑った。眉を下げて、精一杯の虚勢をはるように。──フリントには、その笑みがいつもの明るさを保とうとして失敗してしまったような、歪で切ない笑に見えた。
そのまま、ノアは扉を開けて、出て行った。
静かに閉じる音が、いつもよりずっと重たく響いた。
──更衣室に一人残されたフリントは、ただ呆然と立っていた。
穢れた血。マグル生まれ。純血。誇り。伝統。
今まで、意味も考えずに口にしてきたそれらの言葉が、渦を巻いて脳内をかき乱す。ノアの目。あの目を思い出すたび、喉の奥に錆びた棘が刺さる。
自分よりも小さく、細く、けれど誰よりも空を駆け、仲間を守るようにゴールを守り続ける姿が、浮かぶ。
友人に囲まれ、太陽のように楽しげに笑う姿。モデルとして艶やかな表情で完璧な笑顔で見せる姿。
どれも、誰よりも輝き、誰もが焦がれてやまない存在。
ノアはマグル生まれだ。
だが、穢れた存在ではない。
それなら、他のマグル生まれは……?
思考はまとまらない。けれど、確かに何かが崩れた。
ゆっくりと、音もなく、信じていたものがひとつ、崩れていった。
──ノアは言った。「空を飛びたかった」と。
同じ空を。生まれの違いも、名前の違いも関係なく。ただ、同じ風を感じたかっただけなのだと。
それが叶わないのは──自分のせいだった。
そう気づいたとき、フリントは目を閉じた。
風のない部屋の中で、ひとり箒を見つめながら、彼は静かに拳を握った。