ここは──地獄だ。
右を見ても左を見ても、視界に入ってくるのは吐き気がする程の残虐非道な光景。自由という名の権利を奪う鎖の音が響き、それを掻き消すような大声が常に騒ぎ立てている。
この
虐げる者と、虐げられる者だ。
世界貴族──"天竜人"。
この世界で最も誇り高く気高い血族として、世界の頂点に君臨する者達の総称である。その称号に違わぬ絶大な権力を有しており、"海軍"の最高戦力である海軍大将ですら顎で使える程だ。
自分達以外の全ての人間は家畜以下の存在であると信じて疑っておらず、奴隷遊びに気に入った一般人の略奪、"天上金"という多額の徴税を世界政府加盟国に課している。その天上金によって飢餓で滅んだ国すらある程だ。
"遊びで両目を奪われた"。
"妻が生きたまま焼き殺された"。
"息子を目の前で無惨に撃ち殺された"。
"奪われた娘が帰って来て三日後に自害した"。
"気に入らないという理由で街に火をつけ滅ぼした"。
自らが至高の存在である。そんな意識が受け継がれて来た結果、生み出された怪物が天竜人だ。
そんな者達に奴隷にされれば、間違いなく心は壊れる。抵抗は出来ず、振るわれる暴力を耐えて、飽きて捨てられるのを待つしかない。そんな奴隷達に唯一出来ることは"逆らわない"ことだけなのだ。
──ふざけるな。
これ程の理不尽が許されていい筈がない。
そんな強い意志を持ち、立ち上がった一人の男が居た。
その男は天竜人達の住む聖地《マリージョア》を目指し、世界を分つ巨大な壁《
男の名──フィッシャー・タイガー。
新世界・《魚人島》出身の
そんな男が月の照らす夜、
「早く仕留めろッ! 相手は一人だぞ!!」
「う、うわぁぁぁっ!」
「ダメですッ! 止まりませんッ!!」
激しく響く銃撃音に爆発音、現在聖地《マリージョア》は戦場と化していた。清潔感の溢れる白い建物は燃え盛る炎によって焦がされ、戦いの影響で瓦礫に姿を変えたものも多い。
そんな状況を作り出した男、タイガーは叫ぶ。
「──走れ! 二度と捕まるなッ!!」
襲撃した最大の目的である奴隷の解放を彼は成し遂げていた。ありとあらゆる種族の奴隷、その全てを解放したのだ。心から憎んだ"人間"という種族さえ、奴隷であれば救う対象であった。
地獄から逃げられる最大のチャンス。これを逃せばそんな機会は二度と訪れない、それが分かっているからこそ彼らは死に物狂いで走った。裸足のため足を傷付けても、炎の熱で肺を焼かれても、ただひたすらに命を削って走り抜いた。
「何やってるえ〜っ! 早くわちしを助けろ〜っ!」
「このグズっ!」
「奴隷を逃すな! 捕まえるんだえ〜っ!!」
シャボン玉のようなマスクを付ける者達が下品に騒ぎ立てる。
自分達の安全を、逃げていく奴隷を、世話係となっている人間へ強く命令していた。この騒いでいる者達こそが天竜人であり、鼻水や汗を流す様子はとても世界最高の血族とは思えない醜さだ。
「使えないえ〜!!」
バンッと銃声が鳴る。必死に動いていた世話係をピストルで撃ち抜いたのだ。この状況で最も意味が無い行動、天竜人は頭も悪かった。
「"海軍"はまだか!?」
「大将を呼べっ!」
「──フンッ!」
「「ぐあぁぁぁァァッ」」
そう声を荒げる者達も、走り抜けるタイガーの拳によって気絶させられた。この短い時間で、彼は既に百人近い衛兵を倒している。
「……ハァ、ハァ」
疲労が体を支配し始める。それも無理はない、素手で《
見かけた奴隷は全て逃した。ならば自分もこの場に用はない。タイガーは考えていた逃げ道に向かい、全力で走り出した。
(海に飛び込めば……逃げられる!)
幸い近くの衛兵は片付けられたので、自分を追ってくる者はもう居ない。魚人であるが故に海へ入ってしまえば逃げられたも同然、タイガーは再び途方もない断崖へ挑もうとしていた。
──新手の登場がなければ、だが。
「……ッ!! なんだ!!」
一瞬の光。タイガーは直感とも呼べる反射で攻撃を回避した。避けられていなければ手痛い一撃を喰らっていたことだろう。
荒れる呼吸を無理やり鎮め、臨戦態勢に入るタイガー。白い光と共に飛来した何かへ意識を集中させた。
「襲撃者、フィッシャー・タイガーだな?」
やはり敵のようだ。まあ、味方である訳もないのだが。
「そのコート……海兵か。まだガキだってのに」
「ガキで悪いな。お前は俺が拘束する」
バチバチと白い電撃が展開される。世界を旅する冒険家として危険を察知、少年への警戒レベルを最大にまで引き上げた。
「捕まるのは懲り懲りでな。怪我しても恨むなよッ!」
「こっちの台詞だッ!」
英雄と新星が──激突した。
「おい……」
「なんだ?」
雲に隠れる星、そのため辺りは暗い闇に染まっていた。そんな空を飛行する少年、そしてその少年の腕には一人の大男が掴まっていた。
「俺達、さっきまで殴り合ってなかったか?」
「そうだな」
あっけらかんとした口調で肯定する少年。先程までの迫力はどこかへ消え、穏やかさすら感じさせる。
そんな少年に運ばれている形の大男、フィッシャー・タイガーは戸惑いながらもストレートに訊ねた。
「じゃあ何故……
現在、聖地《マリージョア》から離れて海の上を飛行中。客観的に見れば少年がタイガーの逃走を手助けしているようにしか見えないのだ。
そんなタイガーの言葉に返答せず、少年は静かに飛び続ける。そして見えてきた小さな島へ降り立つと、タイガーへ向き直って衝撃の行動を起こした。
「──ありがとう」
「お、おい! 何してやがるッ!?」
砂浜に降りた途端、少年がタイガーへ
いきなりそんなことをされれば誰だって驚く。しかも相手はまだ子供、タイガーは急いでやめさせようとした。
「何のつもりだ! 急にこんな!」
体勢を起こそうと肩を掴むタイガーだったが、少年の予想外な力強さに土下座をやめさせることが出来ない。まるで岩でも相手にしているようだ。
「──奴隷を解放してくれたんだろ?」
砂浜へ額を擦り付けたまま、少年は口を開く。その言葉に動きを止めるタイガー、海兵から土下座されただけでなく自分の行動すら理解されるとは思っていなかったのだ。
「ありがとう。アンタのお陰で多くの人が救われた。本当に……ありがとう」
「お前……はぁ、分かった。分かったから頭上げろ!」
「うおっ」
お礼を言った際に少しだけ頭を上げた少年。その隙を逃さずタイガーが頭を鷲掴んで少年を持ち上げた。顔についた砂を手で優しく払いながら、呆れたように声を出す。
「なんなんだお前……俺を捕まえにきたんだろ?」
「もちろん。"海軍"に緊急連絡が入ったんだ、《マリージョア》が襲撃を受けたってな。だから飛んで来た」
頭を鷲掴まれたまま、少年は当たり前のように返答した。
「本当に飛んで来る奴を初めて見たよ……」
少し引いたような素振りを見せながらタイガーは少年の頭を離し、砂浜へ自身の腰を落とした。怒涛の展開に力が抜けてしまったらしい。それを見た少年も続けて腰を落とす。
「……お前。……名前は?」
人間に名前を訊ねるなど何年振りか、タイガーは自然に溢れた自分の言葉に少し驚いた。
「グレイ。スティージア・グレイ」
「……グレイ、か。良い名前じゃねぇか」
「アンタもな、タイガーさん。鯛とタイガーって掛かってるんだな」
「人の名前をシャレみたいに言うんじゃねぇ。……変わったガキだな」
頭に巻いたバンダナを外し、完全に肩の力を抜いたタイガー。海兵の隣とは思えない無防備さだが、同じく無防備なグレイを相手にしていれば仕方ないことであった。
「……俺を捕まえねぇのか? そのために飛んで来たんだろ?」
「捕まえない」
即答、そして固い意思の伝わる一言であった。覆すつもりなど微塵もない、そんな覚悟すら感じさせられた。
「確かに不法侵入、器物損壊、暴力に放火、アンタを捕まえる理由なんて数えればキリがない」
「……まあ、そうだな」
「でも、俺はアンタを捕まえない」
「ハッ、"海軍"の正義とやらはどうしたよ?」
揶揄うような口調で訊ねるタイガー。そんなタイガーの方へ視線を向け、グレイは強く言い切った。
「それは──
ポカンとした表情になるタイガー。まさかそんな言葉が返されるとは思ってもいなかったようだ。
軽く息を吐き、グレイは海を眺めながら言葉を続ける。
「アンタは凄いことをした。……俺には出来ないことを」
嬉しそうに、そして悔しそうに、グレイは呟いた。
「腐ってるんだよ、あそこは。聖地なんて呼ばれちゃいるけど、実際はただのゴミ捨て場だ」
「おいおい……海兵がそんなこと言って良いのかよ?」
「良いさ、ここには俺とタイガーさんしか居ないんだから」
今のグレイの言葉を天竜人が聞こうものなら、間違いなく打首案件だろう。タイガーが心配してしまう程の言葉なのだから。
「まあ、腐ってるのはあそこだけじゃない。あそこが一番酷いってだけで、他が素晴らしいって訳でもないからな」
「……お前、ガキっぽくねぇな」
「よく言われる。こんなに大きな夢を抱えてるのに」
「ああ? 夢ってなんだ?」
疲れからか特に思考もせず質問するタイガー。そんな疲れ切った彼にグレイはニヤリと笑いながら、己の夢を語った。
「そんなもん決まってる──世界平和さ」
この言葉にはタイガーも思わず固まってしまう。そして硬直が解けた途端、大声で笑い出した。
「……ふ、ふははははっ!! 世界平和だ!? 面白ぇっ! 面白ぇガキだなァっ!」
「ふん、笑ってろよ。いつか実現させてやるから」
タイガーとは反対方向を向き、拗ねたような声を出すグレイ。こういった部分は未だ年相応とも言える。
ひとしきり笑った後、タイガーはそんなグレイに謝罪した。
「笑ってすまなかった、馬鹿にしたつもりはねぇんだ。ただ……ありえねぇことだと身を以て知っちまってるからよ」
「……アンタ、ひょっとして」
悲しさを感じさせる表情に、グレイが一つの予想を立てる。最悪の、当たっていて欲しくない予想を。
「……これが何か分かるか?」
「──ッ! ……それは」
「そう、
着ていたシャツを脱ぎ、
「──……クズ共が」
バチィッと辺りに電撃が走る。感情の昂りから、グレイの意志とは関係なく能力が表へ出てきてしまったようだ。
そんな様子を見て、少し救われるタイガー。同情などではない、自分のために純粋に怒ってくれているのが分かったからだ。
「……タイガーさん。人間が憎い?」
「…………そりゃあな。ただ良い人間が居るってことも知ってる、伊達に世界を冒険してきてねぇ。今日もこうして、変わった人間に会えた訳だしな」
タイガーはグレイの質問を苦しそうな声音で肯定した後、グレイの頭に手を置き笑いながら言葉を続けた。
「俺はもう……人間を愛せねぇかもしれねぇ」
「……」
気付けば、タイガーは泣いていた。その凛々しい瞳から次々と流れ出す涙を彼は止めることが出来ない。
頭では分かっている、全ての人間があんなゴミではないことを。だが受けた仕打ちが、傷付けられた心がそれを否定する。
「……なあグレイ、俺は……どうすりゃ良いんだろうな」
タイガーを知っている者が今の彼を見れば、目を疑うことだろう。常にリーダーシップを発揮し、頼れる兄貴分。《魚人島》の憧れである彼が見せた、弱々しく情けない姿だったのだから。
この言葉はタイガーの心の叫びであった。人間を信じたい、だが信じられない。相反する感情に挟み込まれ、何が正しいのか分からない。
この質問に対する返答で、タイガーの未来が決まる。
決して大袈裟ではない。この問答にはそれだけの意味が含まれている。
センゴクであろうと、ガープやゼファーであろうと、その他全ての海兵が正解と呼べる答えを提示することは不可能だろう。何故ならタイガーは世界政府へ反逆した犯罪者。指名手配と賞金首になる現実からは逃れられないのだから。
──しかし、この場に居る男は違う。
戦いを挑んですぐに状況を理解、タイガーの逃走を手助けし、すぐに朗らかな会話も繰り広げ、最大のトラウマすら話させてしまう、そんな海兵だ。
信じるのは己の正義のみ、それ以外は覚悟を鈍らせる不純物でしかない。
「……なら、こうしよう。タイガーさん」
将来、【ありきたりな正義】を掲げる海兵──スティージア・グレイ。
自らの正義を信じる男は、奴隷解放の英雄へ一つの提案をした。
「──俺と一緒に……世界を変えよう」
名も無き小さな島で、未来への希望が誕生した。
タイガーさん良いキャラですよね。やっぱ死に様がカッコいいキャラは記憶に残ります……。