黒船来航から安政の大獄に至るまで、歴史の経過を指でなぞるようにたどってゆくと、つい直弼への同情心が抑え難く湧いてくる。なるほどこれは、弾圧したくもなるわけだ、と。
それほどまでに京都に巣食う公卿衆と、彼らを使嗾し、煽動した志士どもは、無遠慮に幕府の神経を逆撫でし過ぎた。
関東と上方の意識の乖離、そして対立。これを説くに、発端をいったい何処に置くべきか。だいぶ悩んだが、ここはやはり、日米修好通商条約から開始するのが妥当であろう。
――アメリカの東洋に於ける貿易権益確保のために、タウンゼント・ハリスが大統領の国書を携え、伊豆の下田にやって来たのは安政三年七月二十一日のことだった。
この訪問はマシュー・ペリーのそれと比べて、やや性質が異なっている。彼は下田駐箚の領事として着任するため万里の波濤を越えて来たのだ。つまりは腰を据える心算であり、条約さえ締結したなら速やかに水平線の向こう側へと去ってくれる、一過性の存在では決してない。
(当然のことだ)
みずからの立ち位置について、ハリスには欠片ほどの疑念もなかった。なんとなれば下田に領事を置くということは、先年締結された日米和親条約中にきちんと銘記された一項だからだ。
その第十一条にはこう書いてある。
――此条約調印の日より十八ヶ月経過の後は、何時たりとも合衆国政府は、下田駐箚の領事又は事務員を任命することを得。但し両政府の一方、上の処置を必要と認めたる場合に於てすべきものとす。
日米和親条約の調印は一八五四年三月三日。
安政三年を西暦に直すと、一八五六年。
十八ヶ月はとうに経過し、そして今、合衆国政府が公式に下田に於ける領事設置を必要とした。
ならばハリスは、そこに着任することができるのである。
(子供でもわかる理屈だ)
そう確信しきっていただけに、現実の幕府の対応は、ハリスをあまりに困惑させるものだった。
「冗談ではない」
というのである。
幕府側が認識していた第十一条の内容とは、「両国政府に於て、よんどころなき儀之あり候模様にて、合衆国官吏の者下田に差置候儀も之あるべく、尤も約束調印より十八ヶ月後にこれなくては其の儀に及ばず候事」。領事駐箚は米国側の一存で決定可能な話ではなく、幕府の同意あってのもので、勝手に「今日から俺が領事だ」と名乗られてもふざけるなとしか返しようがないであろう。
この喰い違いは和親条約交渉の際、幕府側が原文をまずオランダ語に翻訳し、それからまた和訳するという「二度手間」を踏んだのが主な理由であるとされ、とにかくハリスにしてみれば青天の霹靂もいいところだった。
(これだから文明以前の連中は)
と、このニューヨーカーは辟易したことだろう。
下田奉行井上信濃守清直の名で抗議文が捻じ込まれたが、これで引き下がるような腰抜けならば、そもハリスは使節に任命されてなどいまい。彼はあくまで我と我が身の正当性を主張して、領事たるの扱いを強硬に求め、宿所として割り当てられた玉泉寺に星条旗を高く掲げた。
(なんとしてでも将軍に会い、国書を渡し、条約締結に漕ぎ付けてやる)
執念に眼をギラつかせていた甲斐あって、彼は間もなく説得に最適の材料を西方唐土に見つけ出す。
折しもこの年の十月に、アロー戦争の火蓋が切られた。
詳しい経緯は省略するが、イギリス・フランス両国が連合して清国をぶん殴ったこの戦争。否が応にもアヘン戦争を彷彿とさせるこの事態に、日本人としては勢い敏感にならざるを得ない。
その恐怖感情を鋭く見抜いたハリスは、従来の強引な態度を一度引っ込め、心からの同情を顔に滲ませ語りはじめた。
イギリスという国の正体――連中が悪意の権化としかいいようのない集団であり、その貪婪な野心の赴くままに、地球の大地をどんなにか惨いやり方で強奪してきたかということを。
「清国に城下の盟を結ばせ次第、連合軍は余勢を駆って、直ちに貴国へ押し寄せてくることだろう。英国の要求は、誓って言うが、断じて米国の如く緩慢なものでは有り得ない。英国の態度は米国の如く温和なものでは決してない。余は日米両国が等しく利益を享けられる条約を提案している。英人来る前にこの条約に調印すれば、もしこれより先英人来ても、彼らに米国の要求よりも以上を望むことは許されなくなる。何故ならその時、米国は貴国を援けて英国に当たるを辞さないからだ。速やかに決断あった方が貴国の為である」
――まさか、よな。
幕府は最初、半信半疑の状態だった。こいつは
ところが明くる安政四年二月二日、長崎出島のオランダ商館長、ドンケル・クルティウスからの注進が届くや彼らの心は一気に「信」の側へと傾く。
数年前、ペリーの砲艦外交を予言して見事に的中させてのけたこの人物は、同じ筆で今回またもや警告したのだ。清国に城下の盟を結ばせ次第、英・仏連合軍は余勢を駆って必ず貴国に押し寄せるだろう、注意されたし、と。
米・蘭人の口吻は、奇しくも判で押したように一致した。
この当時、英国が諸外国にどんな印象を持たれていたかがよくわかる。
兎にも角にも、これで漸く幕閣の尻に火がついた。以下、略歴風に並べると、
同月二十四日、評定所一座の奉行、目付及び海防係、長崎、下田、函館の三湊奉行に対し、以後断然開国の方針を執るべき旨を通達。
四月十八日、堀田正睦筆をふるって開国の国是を定めねばならぬ理由を説明、方々の有志に向かって諒解を求め。
五月七日、中村時万を下田に派遣、ハリスと折衝。
そして同月二十六日、彼との間に全九ヶ条からなる日米追加条約を結び、以って長崎の交易を開き、下田、函館に米国人の居住を許した。
ハリスは、成功したといっていい。
もはや彼が米国領事であることにケチをつける幕閣は――少なくとも表立っては――誰一人としていなかった。
だが、未だ江戸には入れず、大統領の国書も渡せていないままである。
(満足するには程遠い)
彼はあくまで、初志を貫徹する所存であった。
タウンゼント・ハリスがアメリカ合衆国を代表し、江戸城本丸表向の大広間で徳川家定と対面したのは安政四年十月二十一日のことである。
それに先立ち、幕府要路の人々は、この一件が
日米追加条約の時点で既に、世情は沸騰の兆しを見せつつあったのである。
攘夷論の卸問屋、水戸の烈公斉昭などは、「此度夷情切迫之儀に付存寄申上候次第」という書き出しからなる激越な建白書を送り付けて来さえした。
無思慮に、なんの配慮も施さず、事を実行に移してしまえばそれこそ火薬庫に油を撒いて松明を投げ込むような事態となろう。堀田正睦を筆頭に、筒井政憲、川路聖謨、岩瀬忠震といった俊英たちは、そのことをよく知っていた。
彼らがどれほど苦心して、智慧を絞ったものであったか。八月二十八日の布達を見れば、たちどころに瞭然たろう。
豆州下田表滞留のアメリカ官吏、国書持参、江戸参上の儀相願ひ候処、右は寛永以前イギリス人等も、度々御目見え仰付けられ候御先蹤も之あり、且つ条約取替せ相済み候国々の使節は、都府へ罷越候儀、万国普通の常例の趣に付、近々当地に召呼ばれ、登城拝謁仰付けらるべしとの御沙汰に候。此度の心得の為め向々へ相達し候。
何一つ間違ったことは書いていない。
字句の選定にも、よほど気を遣った痕跡が見て取れる。
「寛永以前」、すなわち家康大御所時代、かの神君が国外使節を引見したのは一度や二度では到底済まず、数多に及び、中でも特に語り草となっているのは慶長十四年(一六〇九年)のサン・フランシスコ号座礁にまつわる一件だろう。
前フィリピン総督、ドン・ロドリゴ・デ・ビベロ・イ・アルベサを乗せ、メキシコへ向かっていたこの船が上総沖で嵐のために難破して、今でいう千葉県夷隅郡御宿町に漂着したとき。
幕府はこの不幸なるスペイン人一行を手厚く保護し、また江戸に於いては秀忠と、駿府に於いては家康と、それぞれ直に対面しさえしているのである。
家康との対面がどのようにして行われたか、その様子をドン・ロドリゴ自身の手記から抜粋すると、
皇帝は青色の天鵞絨の椅子に坐し、その左方およそ六歩のところに私のためにこれと少しも異るところのない椅子が備えてあった。皇帝の衣服は青色の光沢のある織物に銀でたくさんの星や半月を縫い出したものであった。腰には剣を帯び、頭には帽子とほかの冠物などを冠らず、髪を結んで色紐で結んであった。彼は六十歳で中背の老人だった。尊敬すべき愉快な容貌であった。太子(筆者註・秀忠のこと)のように色が黒くない。また彼よりも肥満していた。
同じ拵えの椅子を用意し、着座するを許すなど、日本古来の形式を全然忘れ、あからさまに向こうの習俗に合せたもので、もしこのときの情景を、
――鎖国は開闢以来の国法。
と、無邪気に信じ込んでいる単純剄烈な攘夷志士が目の当たりにしたのなら、ショックのあまり心が壊れ、わけもわからず土手っ腹に刃をぶち込み、自決したに違いない。
家康のこの破天荒な馳走ぶりには、当時スペインが握っていた最先端の銀精錬法を欲する底意があったという。
どういう情報網を持っていたのか、家康は、スペイン人が遠く離れた――それこそ地球の反対側まで――南米の地で何をしているかよく知っていた。彼らがここを征服し、植民地化してからというもの、如何に盛んな勢いで銀山を開発しているのかを。
飽くなき欲は、往々にして技術進歩の動力となる。果たして彼らは十六世紀の半ばごろ、水銀アマルガム法なる銀鉱石の精製方法を確立しており、これを積極的に用いることで、たとえばペルーのポトシ銀山などは大いに活況を呈するに至った。
家康はこれを欲しがったのだ。
この男の対外感覚の鋭さは、江戸時代どころか日本史全体を総覧してもひときわ群を抜いていた。
――権現様に於いて、既に斯くの如しである。
然らば我らがその行跡に倣ったところで、なんの否やがあるだろう。堀田正睦以下幕府内の開国派は声を大にして言いたかったに違いない。
正論である。
一分一厘、反論をはさむ隙もない。
ところがこれほど明快な「理」が、どういうわけか攘夷志士にはわからない。
否、彼らにはそも最初から、理解しようとする気がないのだ。であるが以上いくら説得を重ねたところで骨折り損のくたびれ儲け、彼らはいよいよ激昂し、刀槍を用いた直接的手段に訴えてくるだけだろう。
八月二十八日の布達以来、不平の声は天下に漲り、またぞろいきり立った斉昭が、
「夷狄をして都門の地を汚さしむるのは国辱である。
一声叫ぶやたちまちこれに志士が和し、「安政」の元号を「
「ハリス引見の一件は、中止した方がよいのではないか」
という趣旨の意見書を、連署して差し出したほどだった。
が、堀田正睦は頑張り通した。
「米国総領事が将軍に謁見を請うのは使臣の節であり、閣老に大事を告げんとするのは、これ友邦の誼である。又何の疑うことかあらん。衆議は過慮である。用いるに足らぬ」
そう言って総ての反対意見を退けて、あくまでこの一件を遂行し抜く構えを見せた。
信念の発露といっていい。
そう、堀田はかねてより、
「国運を拡張するの道は開国にあり、国力を増強するの策は通商にあり」
との思いを胸に秘めたる男であった。
結果的に彼の強気が功を奏して、十月二十一日の対面は、つつがなく完了することとなる。
上段には圧畳七枚を重ね置き、更にこれを錦で包み、四隅に紅の大総をあしらったものを将軍の座席としたというから、当日の現場の華やかさは、ほとんど舞台さながらだった。
堀田は、さぞや鼻高々であったろう。彼もこの場に居合わせていた。下段、東の方に松平忠固、久世広周、内藤信親たちと並び座し、その対面たる西の方には井伊直弼が、これまた松平忠矩などと共に居流れている。
が、このとき既に、このきらびやかなる舞台の裏で。
幕末史の流れを決定せしめる、重大な事態が進行していた。
烈公斉昭が水戸から四方に鼓吹した攘夷論はやがて京都にたどり着き、先住の尊王論と激しく反応。電磁的な融合を遂げ、極めて可燃性の高い、おそるべきイデオロギーの発生を見る。
その思想の使徒どもが、王城の地で暗中飛躍し、年来幕府に不平塗れの貧乏公卿を抱き込んで、急速に影響力を増しつつあったということを、迂闊にも幕閣の誰もが見逃していた。
幕府が如何に上方を軽視しきっていたかについては、勅許もまだ得ていないのに、いそいそと条約調印の日取りを決めてしまっていたという、この一事からでもよくわかる。
彼らにしてみれば、それは規定事項以外のなにものでもなかったのだ。
――長袖者流ふぜいに、何ができるか。
自覚不能なほど自然な驕りが、誰の意識の中にもある。筆頭老中・堀田正睦に於いてすら例外ではない。二百五十年の泰平の、賜物といえば賜物だろう。
――それゆえに。
いざ京都に派遣した林大学頭・津田半三郎の両名が、「散々の不首尾」で勅許奏請を却下されたと聞いたとき、彼らは驚く以前に意味が分からず、半ば茫然自失の態を示した。
(……?)
白昼の大路でいきなり頬桁を張られたとしても、これほど当惑することはなかっただろう。
が、いつまでも呆けてばかりはいられない。上に於いても記した通り、日米修好通商条約は
「安政五年三月五日」
に調印すると予定して、ハリスの同意も既に得たのだ。
この期に及んで不都合が起きたからやっぱりちょっと待ってくれなど、言おうものならそれこそ足許を見透かされ、すべての信を失おう。一刻も早く事態を把握し、解決の目処を立てねばならない。
事のあらましはこうである。林大学頭一行が王城の土を踏んだのは、安政四年十二月二十一日、年の瀬迫る師走の下旬。彼らはさっそくその足で京都所司代を訪れて、責任者である本田忠民と話し合い、意識のすりあわせを行ったのち、やがて東坊城聡長・広橋光成両卿の招請に至る。
これは「伝奏」と呼ばれる人々であり、朝廷―武家間の連絡をつけるのが役儀であった。
この両名に、林大学頭はつらつら語った。四囲を取り巻く時勢を鑑み、開国通商の一件はもはや不可避であることを、ハリスとの応接対話の記録等々、関係書類を添えながら説き、以って勅許の旨を奏聞して貰いたいと願い出た。
伝奏は、みずからの職務に忠実だった。その通りにした。
しかしながら「外夷」に対して動物的な恐怖を覚え、恐れる以上に嫌悪して、彼らにこの神州の清浄な大気を呼吸させたくもないと考えておられる孝明帝が、素直に頷くわけもなし。
「宸襟安からず思召され」、陛下は直ちに諸卿を招集。御前会議が開催されるも、その出席者のほとんどは、既に尊王攘夷論にかぶれきっている手合いであるから、結果など端から知れていた。
まず真っ先に萬里小路正房が、
「外夷の請うところは、名を通商に藉り、人心を誑惑し、果ては我が国を併呑するの下心に他ならぬ」
血膨れた貌で「絶対反対」を獅子吼すると、たちまち内大臣三条
誰がいちばん情熱的に外夷と幕府の悪口を叫べるかを競っているようなものであり、そういう文句なら日頃自邸に出入りする「憂国の志士」から耳にタコが出来るほどに聴かされている。彼らはただそれを口移しにすればよく、見ようによればこれほど楽な商売もなかった。
「そうか、皆はそういう意見か」
会議がこのような状態であれば、帝としても安心して勅許請願を退けられる。
(なんということだ)
たまらないのは林であった。こんな箇所での蹉跌など完全なる想定外、切り崩しを行いたくとも
反面尊攘志士の側には水戸・長州・薩摩から潤沢な資金が流れ込み、惜し気もなく公家の間にばら撒いたから勝負になる筈もない。
撤退以外に途がなかった。
その背に向って投げつけられた嘲罵の類は無数に及ぶ。
公卿に蹴られて恥を大がく
ごうけつと林たてられ京へ来て
大きなはぢを大学の守
堂上へのぼるもはやし大学の
四角な文字もしらぬアメリカ
大学が孟子ひらきを四書こなひ
論語なひのが丸で中庸
大学はもうし違ひをしたゆゑに
ろんごどうだん首尾は中庸
下二つは、林が四書五経を研究する儒学者なことにかけたものであったろう。
「みやこびとの薄情ぶりよ」
とは、林ならずとも口惜しがらずにはいられまい。これはもう、ほとんど死体蹴りの域である。
とまれ幕府はこれで漸く、上方の情勢ただならざるを理解した。
「わしが直接、行って説く」
そうでなければ、これはとても治められまい――腕まくりして屹立したのは、なんと筆頭老中・堀田正睦ご本人。
反対意見など、誰に呈せられよう筈もなく。彼が江戸を発ったのは安政五年一月二十一日、川路聖謨・岩瀬忠震以下選り抜きの外交通十数名を引き連れて、説得用の「実弾」に関しても遺漏なく、準備万端、堂々たる陣立てでの「乗り込み」だった。
堀田が京都到着後、各所に配った贈物は以下の通り。
禁裏へ 伽羅一本
黄金五十枚
大紋綸三十端
准后へ 羽二重二十疋
色綸子十端
太閤へ 白銀百枚
巻物十本
関白へ 白銀百枚
巻物十本
伝奏へ 白銀五十枚
巻物五本
匂当内侍へ 白銀三十枚
なお、これらはあくまで表向きの目録に表された品であり、公にできない裏金の類は更に夥しい数に上ったかと思われる。
東からの攻勢を受け、尊攘派も黙ってはいない。
賄賂をいくら使ったところで所詮は無駄な悪足掻き、否それどころか逆効果にしかならぬわと落首で以って反撃し、梅田源次郎、梁川星巌、頼三樹三郎、池内大学といった論客たちが公卿の間を駈けずり廻って、ともすれば動揺しがちな彼らの腰に喝を入れる。
およそ数百年ぶりに、京都は陰謀渦巻く魔窟としての面目を復活させた。
結果から先に言ってしまえば、堀田正睦は敗北する。
必死の周旋もとうとう実を結ばずに、林大学頭と同様、空手で京を去らねばならない破目になる。
しかしながらそこに至るまでの道筋は、決して平坦なものでなく、紆余曲折、起伏重畳せしものだった。
ある時点では、はっきり堀田の勝ちの目が見えた刹那もあった。
これは何より、鎖攘派の中でも最右翼と目されていた九条関白の一本釣りが与って力あったろう。
関白、名は尚忠。
その娘夙子は孝明天皇の妃であり、以前彼女の立后の話が持ち上がった際、幕府がこれに口を挟んで妨害した都合上、もとより関東に対して好意を抱いているはずがない。
この尚忠が、
「誰が転んでも、あの宮だけはころぶまい」
と、尊攘派から全幅の信頼を寄せられきっていたことは、当節都に謡われた、
うらぬ関白大丈夫大臣
この狂歌一つを取っても十分に知れよう。
実のところこの認識は幕府側でも共通したものであり、
「関白を口説き落とすのは、泥水を酒にするより更に不可能に属することだ」
諦観を籠め、まことしやかに囁かれたものである。
今度の関白九条殿は、何分手強き御方にて、江戸表より御贈物更らに御請け相成らず、二十年禁裏を御疎略になされ候儀等につき御憤り少なからず候云々
江戸に内報された書簡に於いても斯くの如し。
ところが、ふしぎなことが起こった。
堀田正睦の着京から二週間余を隔てた安政五年二月二十一日、改めて請願された条約勅許の一件につき開催された朝議の席で、劈頭一番この関白が従来の鎖攘論を一擲し、
「万事堀田閣老の請うままに、これを幕府に一任すべし」
とやりだしたものだから、一同こぞって目を見張らずにはいられなかった。
まるで中身を入れ替えられでもしたかのように。あまりにも鮮やかな変節ぶりは度肝を抜くのに十分であり、すかさず鷹司太閤がこれに和し、あれよあれよという内に、場の雰囲気をいっぺんに幕府協調路線に押し流してしまう勢を見せた。
このとき、末席に居た大原三位重徳が、三条実万の袖を引いたという。
不安に駆られた幼児の所作といっていい。彼らを操り人形に仕立て上げた尊王攘夷の志士たちでさえ、散々に苦汁を舐めさせられた公卿といういきものの先天的な腰の弱さ。その欠点が露骨に表現された形であろう。
(この、馬鹿が――)
しかしながら同族のその劣弱ぶりが却って三条を激発せしめ、もはや自分がやるしかないと飛躍を覚悟させた点、人間社会はほとほと一筋縄ではいかないらしい。
「あいや待たれい」
三条実万、やおら声を張り上げて、幕府一任論の不可なるを弁じ、
「事は重大、まず列藩諸侯の意見に
こう結論すると、漸く声を取り戻した久我・徳大寺・正親町の諸卿らがたちまち雷同、ほぼ決しかけた形勢はまたもや紛糾の態を示した。
やがてその騒擾が鎮まった――少なくとも見かけ上では――とき、採用されたのは三条の意見。惜しくも紙一重のところで堀田の願いは受け入れられず、その旨通告する勅答書が差し向けられた。
この朝議の顛末は、風よりも早く京都中に知れ渡る。その証拠に、翌二十二日の暁方にはもう九条関白の邸内に、怪文書を投げ込んでゆく輩があった。
油紙に包まれ、コヨリにて括られた文書の中身は以下の通り。
是迄数度内願仕候処更らに御聞入もこれなく、此の節に至り、堀田備中守より、賄賂を取り、終には関東御役人共懇願の通り御評定御決断にも相成るべき旨、風聞承はり、以ての外の儀に御座候。年来朝廷を
如何にも狂信的国学者があつらえたらしい香ばしさが到る処から漂っている。
要するに関白の変節を裏切りと責め、この上は貴様も国賊の一味だと断じ、遠からず全員に天誅を下す、首を洗って待っていろと脅迫しているに過ぎない。
実際問題、九条尚忠の変節は、この文書に云うような金銀の魔力に幻惑された結果だろうか? 筆者にはどうもそうは思えぬ。
関白がその程度の、言ってしまえば低人格の男であれば、当然この種の斬奸状にふるえあがる筈であり、また幕府が積んだ以上の金を積まれたならば、至極あっさり再びの寝返りを打つ可能性とて十分有り得た。
ところが現実の関白ときたらどうであろう。尊攘派の脅迫など野良犬の遠吠えも同然よとせせら笑って
単なる金慾亡者ふぜいに発揮できる誠実さではないだろう。
この一徹ぶりからは、何か、信念に支えられた硬骨漢の面影が浮かんでくる。
そういえば堀田正睦は着京間もなく、件の贈物と併せてこの九条関白に、『米使対話書』八冊と『条約草稿演説書』二冊を差し出していた。
或いはこの書籍群が九条関白の脳髄を、想像以上に啓蒙したのではなかろうか。
とするならば純粋なる言論が政局を転換させたという点で、我が国に於けるかなり稀有な事例に属する。
否、
何しろ結局、堀田正睦は負けるのだから。二十一日の朝議で再び勅許を拒まれても、彼に諦める心算は毛頭なかった。なおも京都に留まって、執拗なる裏面工作に明け暮れている。
堀田跡から何をしよとて
雲の上人はまりこまねば
なにとて公方ちゑなかるらん
暗中飛躍する志士が、如何に陰険極まりない落首を張り出そうとも屈しなかった。
何とて町はさびしかるらん
九重の花を東へ匂はせて
佐倉は春のくれにちるらむ
この二首は、堀田が佐倉藩藩主であることにカケたものであったろう。
既に個人攻撃の域である。
ここまでの悪意に曝されて、それでも己が職責を全うしようと粘って粘って粘り抜く堀田の姿勢は確かに称賛に値しよう。
が、頑張ればいつもいい結果に恵まれるなどというのは、きょうび小学生でも真に受けやしない戯言だ。
やがて、敗北が来た。
断崖にすがりつく堀田の指を纏めて切断するような、完膚なきまでの敗北が。
これ実に、安政五年三月二十六日のことである。
もはや通常のやり口では条約勅許の一件を引き出すことは不可能と断じ、思い切って極論をぶつことにしたのだ。
具体的には、ここで条約を拒否しようものならたちまち戦争、国破れて山河ありの憂き目を見る破目になるぞと脅しつけてやるべきだろう。
そのような趣旨に基いて、彼らは意見書をしたためた。
永世安全に叡慮を安んじ奉らんには和親を修せざるべからず。国体を傷けず、後患を
外夷相手に、現状ではとてものこと勝ち目がない、だからせめて勝ち筋が見えるようになるまでの間、表面上は彼らと握手し、友好的に振る舞うべきだ。
そうして結んだ関係性から技術を吸い上げ、国力を養い、いつか主導権を取り戻す。
きわめて正確な現状認識であったろう。論理展開も滑らかで、まずまず名文といっていい。
然るに朝廷通商を不可として条約を結ぶを許さず。条約を結ぶを許さざらんか日米条約の草案は廃棄せざるべからず。この草案を廃棄せんか、彼は必ず武力に訴ふべし。我に兵器なく、軍艦なく、何の術を以て之を防がん。一敗地に塗れんか、城下の盟を結ばんこと固より免るべからず。
(少々、悲観的に過ぎまいか)
そんな危惧が一瞬脳裏によぎったが、堀田はすぐに気を取り直した。
(ここまで言わねば、あの連中にはわからないのだ)
川路聖謨、岩瀬忠震のような当代きっての英才たちが日夜東奔西走し、血を吐くような必死さで勧説しても糠に釘、蛙の面に小便でてんで響かぬのが殿上人という種族である。
この連中にわからせるには、いっそのこと考え得る限り最悪の未来図を突き付けてやるしかないであろう。更に続けた。
割地又避くべからず、償金又拒むべからず。是に至りて国体を傷け、後患を貽さん。此眼前の安全すら保つ能はずして、何ぞ永世の安全を計るを得んや。
アヘン戦争に敗れた清国の二の舞になるぞと警告している。
あの敗北で清国は香港を失い、二一〇〇万ドルの賠償金を背負わされ、片務的な最恵国待遇を強いられる等々、およそ惨憺としか言いようのない目に遭った。
第二次アヘン戦争の名でも呼ばれるアロー戦争についても、ほぼほぼ趨勢は決しきり――むろん清国の敗北という形で――、天津条約の成立は日に日に近くなっている。
そのこともまた、堀田を焦らせる一因だったに違いない。
(習性として、公卿は戦火を恐れるものだ。この薬はきっと効く)
ところが事態はまたしても、堀田の期待を裏切った。尊攘派はとうの昔に、日本で一番戦争を恐れているのは実のところ幕府であると見抜いていたのだ。よって堀田の態度をむしろ奇貨とし、逆ねじを喰らわせてしまう算段を立てた。
その目論見が成就したのが、件の三月二十六日である。この日下された勅諚を
去る二十二日書取の趣、言上に及び候処、今度の条約とても、御許容遊ばされ難く思召し候。
貴殿の意見は委細違わず伝えたが、やはり今度の条約について、朝廷では認められないとの結論に達した。
衆議中、自然事差縺れ候節は、先件の御趣旨を含み、精々取鎮め談判の上、彼より異変に及び候節は、是非なき儀と思召され候。右叡慮の旨相立ち候様頼み思召し候間、宜しく差含み、御取計ひ有之べく候。
そのことについて、もしアメリカ側がグダグダ文句をつけて来て、戦争をふっかけて来るようならば、仕方ないので覚悟を決めてしっかりやれ。それでこそ幕府の存在意義を全うできるというものだろう――。
(国が亡びる)
今戦っても勝てないという堀田の必死の諫言は、まるきり無視される形となった。
彼の心中、如何ばかりか。
ほとんど気死しかけたといっていい。
やがてその衝撃から立ち直ると、堀田正睦は血走った眼で筆を取り上げ、江戸に向けて一通の書をしたためる。翌日岩瀬忠震をして運ばしめた、その内容は以下の通り。
京地の模様、過日申上候通り、追々差縺れ何分穏かならず、実に堂上方等正気の沙汰とも存ぜられず、嘆息仕り候。此上は篤と御談合、時勢至当の御処置御座なくては、容易ならざる儀に相成るべしと心配仕り候。定めし種々風説等御聴込み、其の中には事実相違の儀も之あるべしと存じ奉り候。右等の処岩瀬肥後守能く心得居り候間、委細御尋問下され、御疑惑なく、早々御取調の程希ひ奉り候。余り憂苦に堪えず候間、不敬の至に候へども、赤心残らず申上候。
これを書いている堀田正睦の精神状態、もはや尋常一様の域でない。
「堂上方等正気の沙汰とも存ぜられず」――朝廷は気狂いの群れに占領されたと喝破して、そのすぐ後に要求している「時勢至当の御処置」とは、いったい何を意味しているのか。
決まっている。舌と金を駆使しての、タタミの上の戦争に敗れた者が、それでも己が意を貫き通さんとした場合、頼りにするのは一つしかない。
すなわち、純然たる武力。開国に異を唱える馬鹿公家と、彼らの影でチョロチョロ蠢く目障りな自称「志士」どもを、強引に力づくで排除してしまえと言っているのだ。
この構想はそのまま井伊直弼に引き継がれ、苛烈さを十倍も加味されたのち、安政の大獄として成就する。
が、このときはまだ幕府内に、そこまでの飛躍に打って出る思い切りが存在しない。
むしろ堀田に帰東を促す挙に出たがため、
「たとえ死すとも、本件の解決を告げざる間は滞京する」
という以前の見栄を断腸の思いで反古にして、四月五日、ついに堀田は京を離れた。
――勝った。
尊攘派の得意は言うまでもない。
けふ九重にしほれぬるかな
松かれて牡丹はしぼむ藤は咲
蘭のにほひは日々に芳ばし
江戸方のぼたんは藤にからまれて
とふ将軍は
得意満面、鼻高々の代償を、やがて彼らはみずからの血で支払わされる。
その流血を彼らに強いた「井伊の赤鬼」直弼もまた、桜田門外で暗殺団に首を上げられ、腥風吹きすさぶ「幕末」の世の到来を日本中に告げるのだ。
まこと、歴史は血で綴られる。
「新時代」は権高なのだ。血を
哀れだよ、炎に向かう蛾のようだ。
(『DARK SOULS』より、女神の騎士ロートレク)