麒麟丸がいなくなり、暇になった理玖が現在、りおんの世話以外で何をやっているかというと、それは厄介な妖怪の退治であった。
東国の大妖怪が死んだ影響は、良くも悪くも非常に大きい。
妖怪達のパワーバランスにも変化が見られ、ここ最近、活発になる輩も増えた。
理玖はとわの手を煩わせぬために……また麒麟丸の負の遺産を消すために、一つ一つ、りおんと情報を集めながら彼らを潰していった。
それ以外の余った時間は、主にとわと過ごすことに費やす。
それはりおんたってのお願いであったし、とわの方も来てくれるから、理玖は頻繁に逢瀬に出かけた。
とわといると、やっぱり理玖は変な感じになった。
その姿を見れば体温が急に上がり、恥ずかしくなるくせに、こちらを呼ぶ声で、もう堪らなく嬉しくなる。
どんどん色んな表情に魅せられては、可愛いなあとか、綺麗だなあとか、本気で思う。
何より、彼女との時間は、どんな些細なことでもワクワクして楽しかった。
それは何でだか分からない。
分からないけれど、とわが笑えば理玖も笑顔になったし、とわが目を輝かせれば、理玖も胸が熱くなった。
一人でいる時とは、世界がまるで違って見える。
ずっとずっと綺麗で華やかで……、こんなにも充実しているなんて、今までの人生からは想像できない。
これ程の幸せがあるだろうか。
むしろもったいないくらいで、充分過ぎるその日々に、理玖はこれ以上ない程、感謝し、満足していた。
でも……それでも。
とわにもっと触れてみたい。
その先にもっと進みたい。
もっと側にいたい。
逢瀬を積み重ねれば積み重ねる程、そんな思いが膨らんでいく。
勿論、我慢しようと努めるが、どうしてもとわの笑顔を思い出してしまい、切ない感情に苦しくなる。
まったく、我ながら自分の強欲さに呆れるばかりだ。
こんなこと良くないだろう。
無相応だし、とわは許してくれないかもしれない。
それなら、このまま――そう思っていた理玖に、とわは言った。
『幸せになっても、良いんだよ。それこそ今以上に、もっともっと』
その言葉を聞いた時、理玖の思考に一筋の希望が差し込む。
じゃあ貴女を求めても、何も怒られないのか、と。
そして、受け止めて下さると、そう言うのなら。
……試してみても、良いのだろうか。
そんな邪念が、頭の中を支配して。
ある時、遂に勇気を出して、実行してみることにした。
それはある冬の日だった。
少し寒かったせいか、辺りは雪が積もっていた。
せっかくだから、とわと二人で一緒に雪遊びをした。
まず、雪だるまを作る。
大きなものから小さなもの。中くらいのものまで。
そこら辺の木の枝を拾って、顔や腕のパーツにする。
とわは人参がないのを残念がった。
未来ではそれで大きな鼻にするらしい。
理玖は彼女を悲しませたくなくて、代わりに赤い木の実を積んで持ってきた。
雪だるまの顔の中央に乗せると、なんともちょこんとしていて可愛らしい。
とわは歓声を上げ、次々と別のものにも赤い木の実を鼻としてつけては、段々とご機嫌になってきて、令和で流行ったというアイドルソングの鼻歌を歌いながら、犬夜叉やかごめ、殺生丸にりん、それからせつな、もろはと、家族を模した雪だるまを作り始める。
勿論、その中には日暮家の面々やりおんも当たり前にいて、とわは理玖の分も忘れず、ちゃんと作ってくれた。
理玖はそれを嬉しく思い、その隣にとわの雪だるまを寄り添うように作る。
何だか皆と一緒にいるみたいで、二人して微笑ましい気分になった。
雪だるま作りの次は、雪合戦だ。
あんまり強いと怪我するから、軽い力で雪玉を投げ合う。
最初はとわが優勢だった。
あまり遊びの経験がない理玖を揶揄うように、その長年培った(と言っても彼女だって数えるぐらいしか遊んでいない)技術を生かし、翻弄する。
しかし理玖も次第に慣れてきて、巻き返し、最終的には互いに互角と言った感じで、勝負はつかなかった。
だから、いつしか走り合って雪玉を投げる内、いつの間にか雪合戦から追いかけっこになっていた。
「早く、早く!」
とわは白い息を吐きながら、まるで兎のように先を走り、時折こちらを振り返っては、悪戯っぽい顔で誘ってくる。
その様が一層眩しく感じられて、「待ってくだせえ!」と理玖も駆ける。
彼女の足は結構速くて、なかなか追いつけなかった。
けれど、理玖も負けていない。
息を荒げつつも、ぱっと後ろから飛びつく。
「捕まえました、とわ様!」
「うわ!」
とわは逃げれず、そのまま理玖と一緒に倒れて、ゴロゴロっと地面の上を転がった。
雪がクッションになったおかげで、痛みはなかった。
当然、その代償として全身雪まみれになったのだが。
「うわー、負けちゃった!」
とわは心底から悔しいとばかりに叫んだ。
理玖はニヤリと勝ち誇る。
「おいらの勝ちですね、とわ様! すっごい真っ白になってますよ!」
「アハハハ、そう言う理玖の方も凄い真っ白だって!!」
「そうですか? いやあ、ハハハハハハ!! こうでもしないと勝てませんでしたから!」
二人で大の字になり、互いにグチャグチャになった姿を見てとてもおかしかったから、理玖達は心の底から笑い声を上げた。
しばらくすると、無意識だろう。
とわの方から手を伸ばされ、理玖も答えるように、自身の手を伸ばす。
からめるように指の隙間と隙間から握りしめて、恋人繋ぎ。
少し力を込めると、とわからもぎゅっと返ってきて、理玖の胸が甘く締め付けられる。
(凄い好きだな、これ)
とわと繋がっている。
とわの隣に自分がいる。
体力を使い気怠い体、雪の冷たさすら、手から伝わってくる体温を引きたたせるみたいで気持ち良い。
多幸感に満たされ、なんて、なんて素晴らしくて――ああ、だからこそ、
(もっと……貴女といる実感が欲しくなる)
「とわ様」
「なあに、理玖」
その甘美な名前を呼ぶと、とわはごろりと横向きになって、こちらの方を向いた。
理玖も横向きになった。
互いの距離はたったの十数センチ。
桜色の小さな唇、しなやかで、女性らしい柔らかそうな体のライン。
とわの色んなところが目につき、甘くて良い匂いが鼻を擽る。
視線と視線が合ってることもあり、ドキドキと暴れ狂う心臓の鼓動が、理玖の決意を妨げる。
けれど、もう一度だけ名前を呼んで、勇気に変える。
「とわ様……あの、お髪に少し触れてもよろしいでしょうか」
「えと……」
すると、少し戸惑うような反応を返すとわ。
理玖のことをじっと見つめ、やがて俯くようにこくりと頷く。
理玖は空いている方の手を動かした。
優しくそっと、いつかの夜のようにとわの銀髪に触れてみる。
あの時と変わらず柔らかい。
ゆっくりと撫でると、くすぐったかった。
ずっとずっと、焦がれていた感触だった。
「……」
とわは恥ずかしそうにしつつも、でも気持ち良さそうに目を細めていた。
嫌じゃないらしい。
それだけで、溢れんばかりに嬉しく、もっと幸せになった。
体が勝手に動く。
髪を撫でていた手をとわの後頭部に回し、自身の顔に優しく引き寄せると、そのままそっと、額に口づけをした。
「……っ!?」
とわが茹ったみたいに、ぼふんと赤くなる。
何とも愛らしくて、理玖はからからと笑い、それを指摘してやった。
「とわ様、恥ずかしいんですか?」
「いや、その……ってか、そう言う理玖だって顔真っ赤じゃん!」
「……そうですかね?」
惚けてみる。
でも、とわに言われるまで頬に熱が集まっているなんて、気づけなかった。
流石に自分でも照れていたのか。
「……ハハ」
「……アハハハ」
また、笑い合う。
この時間が愛おしかった。
不恰好でも良いから、もっと触れ合おうと思えた。
だから、その日から理玖は、積極的にいくことにした。
そうして、自分の気持ちの赴くまま、とわと手を繋ぎ、口づけをして、抱きしめた。
安心したかったというのもある。
手放したくなくて、その確かな実感をいつも肌で感じていたかった。
時にはとわの方も、理玖を求めてくれた。
例えば、おずおずとだけど、こちらの頬に触れてみたりしてくれて。
彼女に身を任せるのが、こんなに心地良いものだとは思わなかった。
理玖は……この甘ったるい幸せにぐずぐずやられて、溺れた。
「理玖。最近、とわ様とはどうですか?」
お昼時。
小屋の中での食事中、りおんからふと、そんなことを聞かれた。
よく強請られるので、笑顔になって理玖は話し始める。
「そうですね、この前は――」
とわとの思い出は日に日に増えている。
そのため話のネタは尽きないし、彼女のことを思い出すと、どうしてもふわふわとした気持ちになって、理玖の口は饒舌となる。
けれど、りおんも楽しそうに聞いてくるので、そのまま長い時間は話し込んでしまうのなんてざらだった。
「ふふっ、とわ様らしいですね」
一時間後。
食事が終わり、会話が一区切り着いたころ、りおんはころころと笑いながら言った。
理玖もまた、微笑み返して頷く。
「はい。とわ様は本当に明るく……そして優しい方です。いつも側にいるだけで、心が暖かくなります」
「……本当に理玖はとわ様のことが好きですね」
「もちろんですよ。とわ様はまさしくおいらの――」
「――おいらの、何ですか?」
と、そこで何故か、りおんが何か期待するような……というかキラキラとしたような目で、じっとこちらを見つめてきた。
こんなりおんは珍しい。
その視線に押され、思わず理玖は動揺した。
しかし、彼女は身を乗り出して来ていて、どうしようもない。
仕方なく、もう一度その先を言おうとする。
が――
「とわ様はおいらの……」
「……」
「おいら、の……」
「……」
何度挑戦しても、喉が閉じてしまったのように声が出ない。仕舞いに口がパクパクとなって、その様はおかしいったらありゃしなかった。
すると、呆れたようにりおんが、
「もう、理玖ったら。とわ様をいつも揶揄ってるくせに、これくらいのことで今更照れてどうするんですか」
「そ、そんな照れてって……!!」
「違うんですか?」
「……」
一瞬強く否定しそうになり、しかし、りおんの言葉で首を振る。
確かにりおんの言う通り、今の理玖は照れているようだ。
だって、妙に顔が熱くて恥ずかしいし、とても冷静ではない。
どうして、急にこんなことになったのだろう。さっきまではちゃんと言えそうだったのに……。
というか、よく考えてみたら、そもそも自分は一体何を口走ろうしたのやら。
思い返せば思い返す程分からなくなり、頭を抱えたくなる。
何だか、さっきからおかしい。おかし過ぎる。
「もう……これじゃあ先が思いやられますよ、理玖。とわ様に思いを伝える時、貴方はどうするつもりなんですか」
「それはその……」
りおんの強い口調に、先程よりも理玖はあたふたとしてしまう。
りおんは重ねて問いかける。
「理玖は、とわ様とそのままでいるつもりはないんですよね?」
「もちろんです。とわ様ともっと一緒にいたいので、何れはちゃんと……」
「ですが、それはいつなんですか?」
敬愛する主の声が一段と厳しくなる。
理玖はとても居心地が悪くなった。
何だか凄く責められてる気がする。
「私は以前、同じようなことを聞きましたよね?」
「はい。覚えていやす。貴方にとって、とわ様は一体何ですか、と……りおんお嬢様は仰られました」
「あれから一年です。まだその気持ちに気づけませんか?」
「……それは」
聞かれ、言い淀む。
理玖だってこの一年間、何も考えなかったわけではない。
それなりに向き合ってきたつもりだ。
しかし初めてのこの感情に、実はいうと理玖は結構振り回されっぱなしだった。
というのも、感情の動きが予測不可能だからである。
とわの手前、必死に平静を装ってはいるが、ふとした瞬間にドキリとしては、どんどん知らない甘酸っぱい感覚が芽生え、その度に動揺している。
そして、衝動の方が先に出て、溺れるようにそれ以外何も考えられなくなる。
だから、はっきりとした答えが全然出せなくて。
けれど、たった一つ言えることがある。
それはとわが特別だということ。
本当に特別な――
「理玖、とわ様と良い雰囲気だからって、実は油断していませんか?」
「う……」
じっ……と、りおんにジト目を向けられ。
理玖は目を逸らす。
心辺りがないでもなかったからだ。
「甘過ぎます」
ばっさりと一刀両断するみたいに、そうはっきりとりおんは告げた。
「とわ様はもう十四を超えるんですよ? 祝言を上げる良い年頃です。それに半妖ですが、あれだけの美貌を持っておられるのです。そこら辺、ちゃんと分かっているのですか?」
りおんの言いたいこと。
それを理解した途端、理玖の頬に冷や汗が流れる。
同時に膨らむのは、最悪のイメージ。
見知らぬ男がとわの隣に立ち、彼女をかっさらっていく……そんな悪夢だ。
(嫌だ)
すぐにそう思った。
どうしてこんな簡単なことにも気づけなかったのか。
どうしてこんな重要なことを気にしなかったのか。
とわの隣は絶対ではない。
水に絵の具を垂らしたかのように、動揺がじわりと広がっていく。
少女は更に、釘を刺すように言った。
「改めて言いますが、あまりうかうかしてはいけませんよ、理玖。こういうものは、結局早い者勝ちなんですから」
「……」
「それに、とわ様の方も貴方の思いに薄々勘づいて、ずっとずっと待っておられますよ。とわ様も貴方と同じなんです」
「彼女がおいらと同じ……?」
首を傾げて訝しがる。
まさかそんなこと、ある訳がない。
そりゃあ可愛いだの、美しいだのは言ってるし、愛おしいとまでは伝えているが……だからってこの思いのすべてをはっきりと口にしたことは、これまで一度だってない。
そして、とわは理玖のことを受け入れてくれてるが、それはあくまで受け入れてくれてるだけであって、彼女の方が理玖を特別に思ってるかどうかなんて、それこそ確信が持てない。
「とわ様がおいらに抱いているのは、せつなさん達と同じ感情ではないのですか? とわ様にとって、おいらは大切な仲間の一人に過ぎないと思いやすが……」
「はたして、そうでしょうか。だったら何故とわ様は、貴方に会いに来てくれるのですか?」
「それは、恐らく約束があるからで――」
「違いますよ」
りおんは静かに否定した。
沈黙する理玖。
少女は続ける。
「とわ様はそんなの関係なく、純粋に貴方と一緒に居たいから来ているんです。貴方といる時のとわ様は、皆の前のとわ様とは違います」
そう言われて、これまでとわと過ごした時間がフラッシュバックする。
キラキラとしたあの愛らしい笑顔。
いつも子犬のように駆け寄っては、理玖の手を引っ張ってくる。
その姿は誰に対しても同じ、ありのままの彼女だと思う。
でも、未来を語り合う中、じっとこちらを見つめる目に違和感を感じる時はある。
それは何だか、熱を帯びているような……。
他にも、ふとした瞬間、凄く優しく、でも狂おしい感情を我慢するみたいに、顔をくしゃりとさせる時もあって。
せつな達といると、彼女は絶対にこうはならない。理玖と二人でいる時だけ見せてくれるもので、あれがもし、本当に――
「……」
理玖は口元に手を持ってきて、火が出そうになる程の恥ずかしさに耐えながら震えた。
嬉しさとか、期待とか。
それでも往生際が悪く、違うと叫んでしまっている不安とか。
頭の中が真っ白なくせに、感情がぽんぽんと飛び跳ねて暴れ回っている感覚がする。
我ながら混乱しているな、と思った。最早どうしたら良いか分からない。
と、くすくすとおかしそうにりおんが笑った。
「まあ、時間はないと言いつつ、慌てる必要はありませんよ。ゆっくりと自分の気持ちに向き合えば、自ずと答えは出てくると思います。きっと今の理玖なら大丈夫です」
柔らかく少女は言って、立ち上がった。
「そろそろ行きましょう。今日は私に付き合ってください、理玖」
理玖とりおんは、二人で出かけ、あちこちを見て回った。
大きな町の営み。
輝く草原。
鏡のような湖畔。
すべてとわとの逢瀬で行った場所で、何度も何度も話をしたところだった。
それでもりおんは楽しそうに笑った。
やはり、りおんは旅自体が好きなのかもしれない。
この世界を愛しているから。父と一緒にいた時のことを思い出すから。
そう考えると理玖は悲しくなった。けれど、りおんを傷つけたくなくて、理玖もまた楽しげに振る舞った。この時ばかりは、りおんに幸せでいて欲しかった。
やがて、付近を一回りした頃。
ある山火事の跡に来た。
以前、妖怪退治の際、一度来た場所だ。
相変わらず荒れ放題だ。
ただ丸裸にされた大地がそこにある。
りおんは理玖に呼びかける。
「理玖」
「はい、りおんお嬢様」
理玖は持ってきた鋤で等間隔に軽く土を掘り、途中で買ってきた若木の苗を数十本、その場に置いた。
りおんはそれを一つ一つ、丁寧に土を被せ、埋めていく。
理玖も当然手伝った。
「理玖、ありがとうございます」
作業をしながら、りおんは感謝を伝える。理玖はいえいえと言いながら、
「これくらいお安いごようですよ。なにせりおんお嬢様の頼みですからね」
「……迷惑をかけますね、理玖」
りおんは申し訳なさそうにしつつも、微笑み返す。
でもその視線は、何処かここではない場所を見ているようで。
「実は言うと、私は安心しているんですよ」
そして、ふと。
唐突にぽつりと呟かれた声も、酷く遠く聞こえた。
「改めて言いますが、私に残された時間はそう長くありません。その時、理玖。貴方は一人になってしまうでしょう」
「……」
残酷に告げるりおん。分かりきっていた未来に、理玖は苦い顔して黙る。
思うところが色々とあり過ぎて、上手く言葉にはならない。
りおんは目を伏せた。
「ずっと心配でした。それに一年前、あの頃の理玖は凄く遠慮していた。このままだと本当に後悔しか残らないのではないかと思うと、気が気でなかった。ですが、とわ様に積極的になって、幸せを求めるようになって……ああ、大丈夫だなって、思えたんです」
「……」
「前を向いてくれて、私はとても嬉しいです、理玖。貴方の幸せが、今の私の幸せですよ」
伏せていた目をあげ、優しくそう言うりおん。
改めて言葉を失う。
この人はずっと、こんな自分を思っててくれたのだ。
それだけで、胸が締め付けられ、涙が出そうになる。
「りおんお嬢様、ありがとうございやす。りおんお嬢様がいたから、おいらは大切なことに気づくことが出来たのです。りおんお嬢様がいなかったら、とっくにおいらは……」
「気にする必要はありませんよ。私だって理玖に色々としてもらってるんです。むしろ感謝すべきなのは私の方ですよ」
自分だって辛いだろうに、りおんは相変わらず、気丈に振る舞うばかり。
理玖はそれを、彼女の美徳であると共に、非常に悲しいところだと思った。
そうして沈んだ顔をする内に、りおんもまた、少し悲しそうな表情となって。
何事かを考えるように作業の手を止め、しばらくそのままでいた。
数分後、理玖にお願いする。
「……理玖、今更ですが、人払いをお願いいたします。出来ますか?」
「……はい」
理玖は頷く。
すぐに耳飾りを弾き、その場からちょっと離れた場所へと飛んだ。
(気を使わせてしまった……)
理玖は罪悪感で項垂れる。
ここら辺に人は住んでおらず、また妖怪もこの間大物を退治した影響で、殆ど近寄りたがらない。人払いの必要などないのに、そうりおんが言ったということは、その意味は言うまでもなかった。
「はあ……」
自然と溜息が漏れる。
いつだったか、一年前も同じことがあった気がする。
あの時同様、きっとりおんは、その心中に整理をつけさせるために、理玖を一人にさせたのだろう。
それとも……、
(今度はりおんお嬢様が、一人で考えたがっているのだろうか)
普段は明るいりおん。
だが彼女の状況は複雑だ。
先に逝ってしまった麒麟丸と是露。
ずっと閉じ込められていた六百年間。
自由になったのに、今更近づいてくる二度目の死。
整理出来なくて当たり前だ。
そこにはどれだけの苦悩があるだろう。ここのところ、物憂げな表情を浮かべることも増えた。
けれど、りおんは前に進もうとしている。
その一つが、先程の植林。
あれはりおんなりのメッセージなんだそうだ。
死んだ自分でも、何かを残せるという気持ち。
世界を愛するからこそ、その枯れてしまった大地を復活させることが、彼女にとって大きな意味を持つのだろう。
「……」
理玖は遠くを見つめた。
今日は良い天気だ。
蒼穹に目を細め、風に靡く髪を抑え、理玖は何とも言えぬ寂しさにも似た気持ちを抱く。
思い出すのは、これまでりおんと共にいた、この一年間の日常。
とわとはまた違った意味で、りおんは特別だ。
彼女は敬愛すべき主人であり、過去との縁であり、支えである。
ずっと側で仕えていたいと思う。
でも、それが叶わない願いであるという事は初めから分かっていて、だからこそ認め難く、理玖は今日までその事実から目を逸らし続けてきた。
しかし、もうそろそろ、向き合あわなければならないだろう。
それが今、理玖のやるべき事で、そうでなければ真剣に今後のことを考えている彼女に失礼だ。
(とはいえ、どうすればいいのだろうか。おいらは彼女のために何が出来る?)
今、理玖の心の中では、二つの感情が鬩ぎ合っている。
このまま、りおんを死なせたくないという気持ちと、良い加減彼女を解放すべきだという気持ちだ。
不憫だったりおんには、これから先、もっと自由に生きる権利があるように思う。
閉じ込められていた分、きっと色んな沢山のものを手にすべきだ。
でも……無理やり止まらせては、辛いだけというのも事実で。
今のりおんは過去の残滓そのもの。
未練の塊であり、それを消化してやることが、彼女の心を救うことにもなるのかもしれない。
はたして、どちらが真に、主人の幸せとなるのだろう。
理玖にはよく分からなかった。
りおんには多くの優しさをもらったから、その分まで、今のうちにお返しをしたいのに。
(何でこうもパッと答えを出せねえんだか。……少し情けねえな)
自分の不甲斐さに、頭が痛くなってくる。
理玖は二度目の溜息をついた。
今のところ、ぐるぐると考えても、しょうがない気がしてきた。
りおんには悪いが、少ししたら彼女の元に戻って――
「ど……し……」
その時だった。
聞き覚えのない掠れた声が、後ろから一つ。
同時に悍ましい妖気が全身を撫で、理玖はあまりの恐怖から一瞬、硬直した。
すぐに背後に振り返る。
そして目を見開いた。
「……!!」
そこにいたのは、一人の体が透けた女だった。
簪で纏められた濡羽色の髪。
腕が隠れるほど袖の長い着物。足首がないのに、何故か立っていると錯覚してしまうように浮いている。
人並み外れた美貌を持ちながら、ただ一つだけ、闇の如き眼窩がぽっかりと空き、そこから淀みなく血涙を流していた。
「……し……」
女の口から、掠れた声がもう一度紡がれる。
それはとてもとても小さかったが、今度ははっきりと聞こえた。
“どうして”。
彼女は訳の分からない問いかけを、理玖に投げかけていた。
「な……」
理玖は驚愕に目を見開いた。
とわの話で聞いていた女の幽霊。
それが今、唐突に目の前に出現した事実が信じられない。
しかも見覚えのない顔だった。
確かに、箱の大妖怪の面影はある。
だが美形とはいえ彼女のような隔絶した美しさはないし、鼻だって高ければ、目だって切長気味だ。外見年齢も若干上のような気がするし、どう考えても大妖怪本人じゃない。
合致するその特徴は、たった二つだけ。
その美しい黒髪と、シンプルなデザインの簪のみ。
何処のどいつだかさっぱり分からなかった。
「お前は一体……」
奇妙な不安が胸を掻きむしるが、理玖は何故か無意識のうちに、不用心にも女に近づいた。
女もまた血涙を流しながら、理玖に近づいていく。
そして、その顔をじっと空洞の瞳で見つめて、三回目の質問。
「どうして」
「……」
それが何に対しての問いかけかなのか、当然理玖には理解できない。だから何も答えられず、彼は口を閉じている。女は構わず、四回、五回と問いを繰り返す。
理玖は段々とイライラしてきた。
恐れ、嫌悪、強烈な忌避感を、この女からは感じる。
何より……りおんに近づかれては困る。
無言で耳飾りを弾き、カトラスを手の内に出現させる。とわの話では、彼女に息子がいるとのことだが、障害になるのであれば、何であれ敵である。
理玖は一切の容赦なく、一切の躊躇なく、カトラスを女へと振り落ろした。
しかしその直後――頭の奥で何かノイズのようなものが走る。
斬撃が、途中で静止した。
「……!」
眩暈がして、理玖は少しふらりとなった。頭に手をやって耐えようとするが、とてもノイズは収まりそうにない。
思わず、何をしたのかと睨みつけるも、女はノーリアクションであった。
そして。
女が何事かを呟いた時。
視界は暗転した。