遥かな永遠を一緒に   作:鐘餅

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遥かな永遠を一緒に 七話 後編

 その女は、始めから何も持っていなかった。

 

 女は箱の邪気から生まれた妖怪である。

 アレが欲しい、アレを手に入れたい、アレを独占し、自分だけのものとしたい。そういう唾棄すべき欲望の果ての果て、チリのように無数に積み重なった所有欲の集合体こそが、彼女である。

 

 女は生まれながらの略奪者だった。

 西に蓬莱の枝が有れば、それを妖怪から奪い。

 東に珍しい動物があれば、これも人間から奪う。

 とにかくありとあらゆるこの世の宝を蒐集した。

 

 だが、それとは裏腹に、女が心の底から欲しいものは見つからなかった。

 それは女の自我が元々希薄だったことも関係がある。

 女は感情に疎かったが故に、自分の望みというものが分からなかったのだ。

 加えて、女が宝を集めるのは、妖怪としての本能からである。

 つまり、彼女が元々、率先してやりたいと思ったことではなく――とある龍と出会い、多くのものを知っていく度に、彼女はそれを強烈に自覚していった。

 

 やがて、女は気づいてしまった。

 自分という存在が、酷く空虚だということに。

 その心の中に、満たされぬ穴があるということに。

 

 その理由は明白、紛い物として生まれたからであると女は思った。

 だって、この感情も、この感覚も。

 初めから箱の機能としては、不必要なものだ。

 だからこそ、何もないと感じた。

 そして、この自分が無意味であるのなら……唯一、与えられていた“箱の蒐集本能”だけがすべてであると考えた。

 

 それでも、何のために自分は生まれてきたのだろう。

 自分とは一体何だ?

 女はそんな疑問を抱き、偽物の自分に対するコンプレックスから、生きる意味を探し、全国を旅した。

 だが、長い時を流浪しても尚、答えには手が届かない。

 

 もちろん問いかければ、側にいた龍は何でも答えてくれる。

 しかし聡明な彼女であっても知らない事は多くあり、どんな賢者や愚者に聞いても、納得できる返答は返ってこず、ただ無意味な質問だけが積み重なって、やがていつしか、“どうして”が女の口癖となっていた。

 

 それは文字通りの問いかけであり、女の諦観であり、叫びである。

 とにかく、女は必死だった。

 大妖怪と呼ばれ、周囲から畏怖されようとも。

 蒐集した宝物を求め、狙われようとも。

 そんなものいらなくて、どんなものでも瑣末事で、女はひたすらにその苦しみにもがく。

 そんな時に――彼女は出会った。

 出会ってしまった。

 最早運命とさえ言える、その男に。

 

 まだ十八にも届かぬ若い人間だった。

 病弱で、家族からも疎まれている村の厄介者。当然伴侶らしき者はいない。

 目元は切長で、鼻もすっとして涼やか。

 美形だが、女と比べれば天と地の程の差がある。

 腕を振るえば、その命は塵芥のように木っ端微塵に吹っ飛んで消えてしまうだろう。

 けれど、どうしようもなく、価値なんてあるはずも無いその命に、女は見惚れた。

 後から思えば、一目惚れだったのかもしれない。

 

 女は苦しみを忘れて、男に近づいた。

 気を引こうと、様々な宝物を見せては、自身の有益性をアピールする。

 

「私のことを受け入れてくれたら、どんなものでも手に入れられるよ。国も、財も、地位も、名声も。その病弱な体だって治して、不老不死にもしてあげられる。だからどうか、私と一緒に――」

「そんなものはいらない」

 

 しかし、女の申し出に男は首を振った。

 何の意味もないとばかりに。

 女は酷く驚いた。

 いつだって人間は、飽くなき欲望のままに生きる生物だったのに、こんな奴は初めてである。

 

「ど、どうして!? 私のこと嫌いだからそう言うの!? 何でも望みが叶うなんて、それこそとんでもない幸運なのに!?」

 

 衝撃的過ぎて、女は衝動のままに聞いていた。

 すると、男は数秒無言になって、やがて諭すように大人びた顔でニコリと笑い、

 

「じゃあ逆に質問するけどよ、君はそういうので必ずしも、人の心を満たすことが出来ると思ってるのか?」

「……」

「他人が押し付けてくる幸福なんざ、結局のところ、中身が空っぽの嘘っぱちだ。しかも他人から奪ってるんだろう、その宝物ってのは。だったら俺は、そんなものいらないね」

 

 人間のくせして、男は女に対し、真正面から言い放った。

 女は心の隙間を突かれ、押し黙った。

 更に男は偉そうに言う。

 

「受け入れて欲しいんなら、ありのままの俺を好きになりなよ。じゃなきゃ、俺は君を認めない」

「ぐぅ……もう、そう言うなら分かったよ! そのかわり、私を認めるときは、貴方もありのままの私を好きになってよ!?」

 

 女は悔しくてそう叫ぶ。

 男は目を細め、カラカラと笑い声を立てた。

 何だか馬鹿にされてるようで、女はぷくりと頬を膨らませた。

 

 その日から、女は男のことを理解しようと努めた。

 男は変な奴だった。

 まず人間のくせに女を恐れない。

 どころか、積極的に会いに来てくれるし、妖怪としての本性を見せても、優しくその頭を撫でてくれる。

 遥かに年上で、恐ろしい力を持つこの女を、彼はまるでか弱い少女のように大切に扱ってくれたのだった。

 そして、一緒にいるのを馬鹿にされたら、それが妖怪だろうと、人間だろうと、「ふざけるな! 彼女は俺に惚れてくれたんだ! その気持ちを貶す奴は、どんな野郎でも許さねえ!」と、本気で怒ってくれた。

 

 女は男と接する内に、外見ではなく中身の方が好きになった。

 どんどん逢瀬する度に惹かれていく。

 選んでもらった簪は、女が心の底から大切に思う、初めての宝物となった。

 けど、彼が何で自分を差別しないのか分からなくて、女はある時聞いてみた。

 

「ねえ、どうして貴方は、妖怪の私を拒絶しないの? 普通は怖がる筈でしょう?」

「おいおい、四方ちゃん、もう忘れたのかよ」

 

 すると、呆れたように男は溜息をついた。

 

「ありのままの俺を好きになってくれたから、あの時、四方ちゃんが頼んだ通り、俺もそのままの四方ちゃんを好きになったんだよ。それに四方ちゃんは優しくて可愛いし、むしろどうして、怖がる必要があるんだ?」

「……」

 

 ストレートな物言いに、女は顔を赤くさせる。

 単純にずるいと思った。

 こんなところが、ますます女の心を鷲掴みにするのだ。

 

「まあ、と言っても、妖怪を嫌わないきっかけみたいなものはあるけどね」

「きっかけ?」

「ああ」

 

 男は頷き、懐からある物を取り出す。

 それはこの時代、この国にあるはずのない、外の宗教の象徴、十字架を模したロザリオであった。

 驚いていると、男は何処か寂しそうに語り始める。

 

「実はな、小さい頃、川で溺れて死にかけたんだけど、ある妖怪に助けてもらったことがあったんだ。そいつは村の外れに住んでてな、俺は助けてもらったこともあって、そいつの元にこっそり通ってた。

 奴はどうも海の向こう……大陸からやってきたらしい。俺を歓迎してくれるついでに、色々と不思議な話を聞かせてくれたよ。例えば黒い肌の人間が当たり前のようにいるんだとか、砂漠っていう砂の海があるんだとかね」

「知ってる。多分そこは暑い国だね。皆、頭に布を巻いているんじゃないのかな」

「ああ、そんなことも言ってたな。四方ちゃんは物知りだなあ」

「えへへ。それ程でもないよ」

 

 照れてしまい、デレデレとなって女はだらしない笑みを浮かべる。

 男はくすりと笑みを溢すも、話を続ける。

 

「でも、ある日な、いつものように話を聞かせてくれた後、ふとそいつは言ったんだ。もうそろそろ旅を再開する。海の向こうに戻るってね。

 俺は当然ぐずったんだが、その際にお守りとしてこれと……後は植物の種? みたいなのをもらったんだ。

 なんか、聖書がどうとか、イエスなんちゃらとか言ってたけど、詳しくはしんない。しんないけど、そいつは独自の神様を信じてて、その教えに従って俺を励まそうとしてくれてんだなってのは分かった。だから、俺は悲しいけど、そいつとの別れを受け入れることにしたんだ。

 けれど――海に出るその前の日に、何処かからやってきた高名な坊さんに、そいつは殺されちまった。ただ妖怪だからという理由で、何の悪さもしてなかったのに、殺されちまった」

「……」

「俺はさ、妖怪だとか、人間だとか、そんなくだらねえことで色眼鏡かけるの馬鹿だと思うんだ。どんな奴でも、ちゃんと目の前のそいつ自身と向き合っていたい。それが俺の信条なんだよ」

 

 男はらしくなく真面目な顔だった。

 女は男の過去を思いながら、その顔を見つめた。

 ずっと……ずっと見つめていた。

 と、何か勘違いしたのか、男は恥ずかしそうに頬を掻く。

 

「なーんて、くだらねえ話だったかな。つまんなかったら忘れてくれ、こんなの大したことじゃ――」

「くだらなくなんかないよ」

 

 気がつけば女は、強い口調になっていた。

 男のびっくりした顔を覗きこみ、彼の手を握り、

 

「立派な考えだと思う。普通だったら絶対出来ない。時読君は凄いよ」

「……そうか。ありがとう」

 

 男は表情を柔らかくさせて、感謝を伝える。

 女はそのまま男と手を繋ぎながら、ふと呟く。

 

「どうして、人間と妖怪ってだけで、お互い争い合うんだろうね。私も人間のこと沢山殺して、馬鹿にしちゃってたし……貴方だって、村で色々と言われてるんでしょう? 人間と妖怪は、やっぱ一緒にいちゃいけないのかな?」

「そんなことないだろ。俺といて、四方ちゃんは楽しくなかったりする?」

「ううん」

「だったら、もうそれが答えで良いんじゃないかな。俺、馬鹿だからさ。他にも色々とあるだろうけど、そう難しいこととか考えられねえよ」

 

 男は朗らかに眩しく、そう笑った。

 そして、静かに言葉を付け加える。

 

「あとさ、妖怪と人間だけで争い合うもんじゃないぜ。妖怪も妖怪同士、人間も人間同士で、差別し合うし、喧嘩だってするだろう? 結局さ、心の扉を皆閉め切って、知らない物を怖がってんだと思うんだ。だから妖怪だとか、人間だとか、はたまた身分が低いだの、余所者だの、そんなくだらねえことに拘って相手を判断しちゃうんだよ。でも、その扉を開いて、相手のこと理解しようとしたら、どんな奴でも友達になれると思う。現に、俺と四方ちゃんは仲良しでしょ?」

「……うん」

「だから、あんまり気にすんなよ。四方ちゃんは四方ちゃんのまま、俺の隣にいてくれるだけで良いんだよ」

 

 いつだって男は、聡明で優しかった。

 女は彼の言うことにただ頷き、甘えた。

 最早、彼女にとっての居場所とは、この男のことを指していた。

 けれども。

 

「今すぐ別れなさい、アンタ達! あたしはアンタ達の仲は認めないわぁ!」

 

 僕の龍だけは、ずっと反対していた。

 その訳は、至極単純。

 

「どれだけ愛し合おうとも、人間の寿命は妖怪に比べて短いの! すぐ死に別れるだけなの! しかも時読、アンタは特に時間がない! ただでさえ、四方は愛が分からず苦しんでいるというのに、これ以上この子の隣にいないで頂戴! 目障りなのよぉ!」

 

 ヒステリックに叫ぶ龍。

 彼女は初めから分かっていた。

 人間と妖怪、その種族の違いからくる残酷さを。

 そのために、強く強く、二人を否定した。

 しかし、この程度で負ける男ではなかった。

 既に病気になり、元気もなくなってきていた彼は、それでも低い声で言い返す。

 

「そっちの方こそ、うるさい婆さんだな!! 口を開けば、寿命、寿命、そればかり!! 一緒にいられるのが短いからって、何がいけねえんだよ!?」

「そんなの決まってるわぁ!! 後に残される四方がずっと泣く羽目になるからよ! でも、今のうちならまだ間に合うっ!! 美しい思い出のままにすることが出来る! これはアンタのためでもあるのよ!?」

 

 鋭いのに、悲痛な怒鳴り声。

 見れば、龍の目には涙があった。

 それに気がついた男は、しばらく呆けたように黙ってから……ふっと悲しい笑みを溢し、その真意の是非を確かめるかのように聞いた。

 

「婆さん。アンタそれで良いのか?」

「何ですってぇ?」

 

 龍は不機嫌に唸る。

 男は龍に近づくと、その鱗を優しく撫でて、

 

「アンタは口悪いけど良い奴だ。こんな俺のことも気にしてくれてるし、何より四方ちゃんの事を大切にしてる。だから、アンタはそんなにも必死になってるんだろ? 俺達を守ろとしてさ」

「……何を言ってんの。勘違いも甚だしい。小癪な小僧が、あたしのことを分かった風に言ってんじゃないわよぉ」

 

 相変わらず龍の言葉は刺々しかった。

 しかし、その瞳からは、一粒、二粒と、立て続けに水滴が零れ落ちていく。

 

「俺達のこと心配してくれてありがとな、婆さん」

 

 それを見て、これ以上ないくらい、温もりに満ちた声で男が礼を言った。

 

「でもさ、アンタは苦しむと分かった上で、四方ちゃんに感情を教えたんだ。それは四方ちゃんに幸せになって欲しいからじゃないのか?」

「……それは」

「“傷つくから”ってだけで、すべてを終わらせるのはもったいねえよ。それに別れは寂しいけどさ、どっちみち遅かれ早かれ、皆死ぬ時はあっさり死ぬんだぜ? だったら、命の長さなんて関係なく、今この一瞬、一秒でも長く、一緒にいる方が良いんじゃねえの?」

「……」

「安心しろよ。四方ちゃんがこの先笑ってられるように、俺が今以上に、彼女をもっともっと幸せにしてみせる。絶対にだ。こんな体だけど、それくらいのことは男として誓う」

 

 男の堂々たる言葉。

 龍は項垂れた。

 何も彼女とて鬼ではない。

 女も男に便乗するように言った。

 

「お願い。時読君と一緒にいさせて。私、彼と幸せになりたいの……」

「か……、かかかかかっ!! 全部その気持ちが嘘じゃないかと怖がっているくせに――愛が分からないと聞いて回っては、苦しんでるくせに!! 何の覚悟も出来てない奴が、偉そうにしてんじゃないわよ!」

「……っ」

 

 指摘され、女は反論出来ずに目を伏せる。

 龍はまた無理やり、かかかかかかっ、と笑うと、男を見やり、

 

「一丁前に言うからには言わせてもらうけどね。この子を幸せにするのなんて、そんな甘くはないのよ。お前はそこら辺分かってんの?」

「ああ。分かって言ってる」

「じゃあ、お前はさ、どうやって四方を幸せにするつもりなの? どうやって、その時間に意味を与えるつもりな訳?」

「……そうだな。例えば未来や希望を作るってのはどうだ?」

「未来……希望?」

「子供だよ。子供」

「はあ!?」

 

 瞬間、龍は涙を引っ込めて驚愕する。その重さを理解してるが故に、彼女は男の正気を疑った。

 

「アンタ本気で言ってんの!? アンタと四方の子供ってことは、つまり半妖ってことじゃない!? わざわざ生まれてくる子供にまで、差別される苦しみを押し付けるつもり!?」

「確かに婆さんの心配は最もさ。半妖ってだけで、いっぱい辛い目に遭うかもしれねえな。大勢の奴らから疎まれると思う」

「だったら!」

「でも、どんな姿だろうと、生まれてくる子はきっと可愛い」

 

 男は確信するように言い切った。

 龍は息を呑んだ。

 

「俺はそれで十分、その子に価値があると思う。何も半妖だからって、この世に生まれちゃいけない理由が何処にあるよ?」

「……い、いや、しかしねぇ。現実ってのはそう甘いもんでもな――」

「後、俺、死ぬ前までに童貞だけは卒業したいし」

「お前そっちの方が本命だな!?」

 

 今まで良い事を言っていたのに、男は急に俗っぽい発言をした。

 龍は酷くショックを受けたのか、思わず荒い口調でツッコミを入れる。

 

「くっそ、こいつ! この変態が! 幸せにするとかなんとか言っときながら、そんなくだらねえ事考えてんじゃねえわよぉ!」

「いやいや、何をおっしゃるか! これはとても重要な事ですよ? だって正直、好きな子の胸もお尻も触れずあの世に行くとか、色々と悲しすぎるよ!?」

「知るか、馬鹿! そんなもん一人で妄想でもしてろ!」

「それでは足りん! ずっと我慢してたんだから、せめて一摩りでも触らせてくれ……!」

「おい、こいつサイテーだぞ!? 四方、やっぱ違う意味でもこいつと別れ――」

「何だ、我慢してたんだ。別に言ってくれたら、いくらでも触らせてあげたのに…」

「四方さん!? アンタ何言ってんですか!?」

 

 モジモジと顔を赤らめて女が許可するものだから、一周回って龍のツッコミは敬語になった。

 しかも男が感涙して女に抱きつき、イチャイチャとし出すので、たまったものではない。

 龍は段々と疲れ果て、大きな溜息を吐いた。

 

「まったく、もうすぐ病気で死ぬかもってのに、そんな煩悩まみれでどうすんのよぉ。普通そこまである?」

「当然だろさ。性欲もありゃ、物欲も食欲もあるぜ? 俺だって幸せになりたいんだ。やりたい事はそれこそ、何でもやらなきゃ損だろ」

「……お前、つくづく変わってるわね」

 

 男はあんまりにも前向きだった。

 龍は笑って良いのやら、呆れて良いのやら、複雑そうにしていた。

 

「で、四方。こいつこう言ってるけど、アンタはどうしたいの?」

「……」

 

 女はどう答えれば良いか分からず、俯いてしまった。

 龍は真剣な顔で忠告する。

 

「言っとくけど、子供が生まれたらそれなりに責任が伴うんだからねぇ? 子供の人生は子供自身のものであって、アンタのものではないし、これまで妖怪や人間にしてきたように、何もかもを奪うというわけにはいかない。むしろ、愛情を与えて、守って、導いていかなきゃいけないのよぉ。そんな難しい事、アンタに出来るの? 生まれながらの略奪者である、アンタに」

「私は――」

 

 女は黙る。

 答えをその場では出せなかった。

 幸い、男も龍も待ってくれたので、半月悩み続けた。

 

 未来。

 未来。

 未来。

 希望――

 

 その間、常にその単語が女の頭の中を周っていた。

 怖かった。

 けれど男は、不安がる女の肩に両手を乗せ、額を合わせ、そのままずっと側にいてくれた。

 だから、女は縋るように聞いた。

 どうして?

 

「時読君、どうして私に触れたいと思うの? 貴方がなんと言おうと、私、妖怪だよ? 化け物だよ? 人間の貴方から見たら気持ち悪いし、傷つけてしまうかもしれない」

「そんな事あり得ない。君はどんな姿でも可愛くて綺麗だし、たとえ傷つけられても、俺は君を嫌いになったりしない。本当に心の底から君が好きなんだ」

「けど私の体、私のものじゃない。自我がない時、たまたま他人から奪った体が女だったというだけで、本当は男でも女でもない。生き物ですらない。それでも良いの?」

「妖怪と人間同士なんだ。今更だよ。それに君が女であろうと、男であろうと、そういう事するのに抵抗ないよ?」

「……っ、どうして貴方は」

 

 男は望んでいる以上の暖かな言葉をいつもくれる。

 おかげで女の顔は赤くなるやら、涙でぐしゃぐしゃなるやらで、散々だ。

 嗚咽を漏らし、その胸にしがみつく。

 男も肩に置いていた手を背中に回し、女を抱きしめた。

 

「四方ちゃん。俺の短い命は、後に残される君にとっては呪いかもね」

「そうだよ。託す方は託すだけで楽だし……押し付けられて、縛られてるも同然だよ。私、どうすればいいか分かんないよ」

「まあ、信じるって言葉程、残酷なものはないよね」

 

 男は苦笑する。

 その身勝手さを、彼自身自覚しているんだなと、この時女は思った。

 

「けど、生まれた意味の答えを俺も欲しい。俺も君と同じで、“どうして”生きているのかよく分かんないってずっと思ってた」

「時読君が? 意外だね。そういうの悩みそうにないって思ってたのに」

「そうでもないさ。君が思っている以上に俺は弱いんだ」

 

 茶目っ気たっぷりにそう言って、男は女を抱きしめる力を強くする。

 

「普通だったらさ、俺みたいに病弱な奴、赤ん坊とかの内にすぐ死ぬ筈なんだ。実際、子供の頃から何度も死にかけてるし。けど、病気で先に死んでいったのは、兄弟や村の人達ばかりでさ。そんで、恩人の妖怪の人も結局は死んでしまうし……何でこんな俺なんかが毎度生き残るんだろうって辛かった」

「……時読君」

「でも、生き永らえた果てに、君という光に出会えた。これがもし、俺の生きてる意味なんだとしたら……この大きな奇跡に、俺は形を与えたい」

 

 顔を上げれば、こちらを見つめ返す男の微笑みがある。

 いつ見えても胸が苦しくなるくらい、優しくてカッコいい。

 

「勿論、これは俺の我儘だから、君が子供いらないっていうなら、それで良いよ。俺は君の意志を何よりも尊重する。けど、子供はね、可能性の塊なんだよ。俺はそこに自分の意思を託したいと思うし、きっとその子供は四方ちゃんを未来に連れていってくれる……君の迷いを晴らして、笑顔にしてくれると思うんだ」

「……」

「どうかな、四方ちゃん」

 

 男の真っ直ぐな思い。

 女は自身のコンプレックスを思い浮かべた。

 生まれながらの略奪者。空っぽ。何もない紛い物。

 何度、気持ち悪いと己を卑下したことだろう。

 多分一生、自分を好きになることなんて有り得ないと思ってた。

 それでも、愛してくれてる人が目の前にちゃんといて、その愛情の結晶を残したいとまで言ってくれてる。

 それがあれば、自分は変われるのだろうか。

 そして、生き物ですらない自分が、初めて誰かと一緒に、何かを生み出せるのなら――私は奪うだけじゃなくて、愛を与えてみたい。

 

「……私、貴方が好きだ。私は貴方の子が欲しい」

 

 女は身を乗り出し、男に口付けする。

 男もそれに答えるように目を閉じた。

 この時、二人は始めて、夫婦の誓いを立てたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 それから女は、男と毎日のように体を重ねた。

 時に人間の姿で。時に化け物の姿で。

 男は言っていた通り、どちらの姿でも、変わらず女に触れて愛してくれた。

 嬉しかった。

 女はますます男を愛した。

 

 しかし男の命の炎は、日毎に勢いを弱くしていく。

 一日中寝込み、魘されることもあった。

 更には迫害も酷さを増し、遂には妖怪の妻を作ったことがバレて、村からも追い出された。

 

 女は男を引き取ることにした。

 外れの山、その頂上に大きな屋敷を用意すると、蒐集した手下の妖怪を使わず、自分の手だけで、彼の面倒や家事を行った。

 出来ることは進んでやる。

 それが女の決意だった。

 まあ、といってもかなり不器用だったから、失敗の連続。

 男はそれでも笑って許し、女の頭を撫でるのだった。

 次こそもっと上手くなるよ、と言って。

 

「ふん、先が思いやられるわよぉ。ったく!」

 

 その様子を見て、そう吐き捨てるのは一匹の小さな蛇である。

 これが龍の本性であり、建物の中ではこちらの姿でいることの方が多かった。

 

「料理で火事を起こしかけるわ、獲物は取れんわ、掃除もできんわ……分かっていたけど、ここまで酷いとは思ってもみなかったわよぉ! 目も当てられないわぁ!」

「まあまあ、婆さん。気持ちだけで嬉しいからさ。そんな怒るなって」

 

 男は寝床の中、横になりながら苦笑して言う。しかし、蛇は口を開けて、シャー!! と怒る。

 

「なーに、甘ったれたこと言ってんのよ! アンタら子供作るんでしょうが!! 妖怪ならいざ知らず、半妖ともなりゃ、まともなメシも寝床も、人間の子供と同じ生育環境が必要なのよぉ! 自分の手で育てるって決めたんなら、今のうちに出来なくてどうすんのよ!」

 

 それから蛇は「見なさいよ、このあたしの体!! 手なんて生えてます!? 手伝いたくても出来ないのよ」と叫び、その重大性を訴える。

 男はまたも苦笑した。

 

「婆さん、そう言うってことは、アンタ認めてくれたんでだな。俺たちの仲」

「は、はあ!? そんなんじゃないわよぉ! ばっかじゃないの!?」

 

 すると、蛇はぴょんと飛び上がって抗議した。

 そして、ぐちぐちと小言が始まる。

 男は人の良い顔を浮かべるばかりであった。

 

 と、その時、ドンガラガッシャン!!

 片付けをしていた女が、物置に頭から突っ込んで転げた。

 蛇は呆れたように嘆息する。

 

「ほら、見たことか! 何してんのよ、四方!!」

「……」

「ちょっと四方!?」

 

 返事が無い事に慌てた蛇は女に近づく。

 女はその場で喘ぎ、胃の中のものを吐き出していた。

 

「うっぷ、うえええ、何これ……」

「あ、あわわわ! どうすれば……」

 

 流石に男も飛び起き、その場であたふたとし始める。

 こんなことは初めてでどう対処して良いか分からないのだろう。

 そのまま彼が混乱していると……蛇は何かに気づいたように、ぽつりと言った。

 

「……これ、つわりなんじゃないのぉ?」

「へ?」

「良かったわね、アンタら待望の子供が出来たのよ。時読の寿命的には、ギリギリだったわね」

 

 蛇は何を思ったのか、平坦な声で言った。

 女は一瞬、ぽけっとしつつも……夢でないのかと頬をつねって、絶叫。

 痛みで涙目になり、つわりで顔色を悪くさせながらも、ぱっと明るい顔を作る。

 男も喜色満面の笑みだ。

 

「時読君、やったよ。私、ついに……」

「ああ! 四方ちゃん!! 俺達これで――」

 

 しかし、嬉しさのあまり、男が駆け寄ろうと立ち上がった刹那、今度は彼の方がふらりと倒れる。

 ゴホッ、ゴホッと咳き込めば、出てくるのは夥しい量の血。

 思わず女は冷や汗を流して叫んでしまう。

 

「時読君!?」

「大丈夫、俺はまだ……ゴホッ!」

 

 再度咳き込めば、また男は血を吐き出す。

 女は息を飲んだ。ここまで……ここまで弱っていたのかと。せっかく幸せを掴めそうだったのに、これじゃあ……。

 

「……心配しないで、もう落ち着いたから」

 

 しばらくして。

 男は再び横になり、女以上に顔色を悪くさせながら、「子供が出来て良かった。今は本当に嬉しい」と、健気にも笑ってみせた。

 女は涙を零した。

 分かっていたはずなのに、こうも現実を突きつけられると、辛くて辛くて、どうにかなりそうだった。

 

 その日を境に、男の容態は一気に悪化した。

 薬草を煎じて飲ませるも、嘔吐、下痢、熱に苦しみ、毎日のように何度も何度も生死の境を彷徨う。

 気がつけば男の体は、骸骨のように痩せ細った。

 反対に女の腹は膨らんでいく。

 まるで子が父の命を食らっているようだった。

 けれど、当の本人は愛おしそうに女の腹を撫でるので、女の情緒は滅茶苦茶だった。

 本当に本当に、運命を呪わずにはいられなかった。

 

「どうするの? これから」

 

 そうして、男の命が、あと一日かそこらというとこまで来た時。

 深く悩む女に対し、龍の姿となった僕は聞いた。

 女は優しくお腹に触れる。

 愛おしい、早く会いたい私の命。

 

「……私は今、幸せだ。こんな気持ちになるのは初めてだ」

「そうねぇ。アンタは今まで、ろくすっぽ笑わなかった」

「この子と時読君と、家族になりたい。でも時読君はどうやったって先に死ぬ。彼は子供の顔を見れない」

「そんなこと、時読も覚悟の上でしょうが」

「皆と一緒が良い」

「……」

「箱の中でなら……きっとそれが叶う」

 

 女は手の中の箱を見下ろす。

 迷いは止まらない。

 しかし、龍は首を振った。

 

「駄目。それだと、アンタと時読の決意が無駄になる」

「……」

「四方、初めから分かってたことでしょう?」

「……もう、冗談だよ。そんな事やる訳ないじゃない」

 

 戯けた振りして肩をすくめ、女は答えた。

 箱を己の内側に仕舞う。

 この龍の言う通りだった。

  いくら悩もうとも、疑問の答えを探そうとも、結末はもう見えきっている。

 だったら――悲しんだところで、やるべき事は何一つとして変わらない。

 最後の瞬間まで、彼を幸せにする。

 

「だって私は、ありのままの私を認めてくれた、あの彼が好きなんだもの。私の都合でその彼を……歪ませたらいけないんだ」

「……」

 

 龍は目尻を下げ、まるで怒られた犬のように暗い顔をした。

 どうすれば良いのかと悩んでいるようですらあった。

 

 ……と、その時だ。

 後ろから足音が一つした。

 振り返れば、杖をつき、なんとかといった感じで立っている男がいる。

 

 女はぎょっとし、慌てて駆け寄った。

 

「ちょっと時読君、何してんの!? 寝てなきゃ駄目じゃん!」

「それは……ふぅ、君も言えた事じゃないだろ。そろそろお腹も大きくなってきたんだから、安静にしてなきゃ……」

「妖怪と人間じゃ、造りが違うだよ! 私は大丈夫なのよ!?」

「そうか……」

 

 怒りで叫ぶ女に、男は安心したように息を漏らした。

 それから、龍の方を向き、

 

「婆さん。今からでも良い。一日……俺と四方ちゃん乗せて、海に行ってくれねえか?」

「……また、何で」

「なんか行きたいんだよ。どうしても」

 

 男の目はいつになく真剣だった。

 彼の最後の頼み。

 本能的にそう悟った龍は、一瞬動揺したように目を見開き……しばらくして溜息をつき、ゆっくりと頷いた。

 

「四方ちゃん。行こ」

「……っ」

 

 男が手を繋いでくる。

 そのあまりの力の無さに、女は胸が張り裂けそうになった。

 それでも、心配させたくないから、ふにゃりと無理やり微笑んで。

 女は男と共に、龍の頭に乗った。

 

 そして、翡翠の龍は空を飛ぶ。

 雲の合間を縫い、光を舞わせ、幻想的に。

 

 やがて海に着くと、龍は女達を下ろし、去っていった。

 気を利かせて二人きりにしてくれたらしい。

 大きく広がる海に目を細め、男は笑った。

 

「綺麗だねえ」

「そうだね」

 

 女も笑った。

 男を横にして膝枕し、その頭を優しく撫でる。

 

「……君は、大陸の果てから来たんだろ?」

「うん。あの海の向こうが、私の本当の故郷」

「どんなところかな。見てみたいなあ」

 

 男は寂しそうに言った。

 彼は本当は、憧れていたのだ。

 あの海の向こう。

 氷の国、炎の山、神々が住まうという黄金の都。

 そして……あの十字架の掲げられた教会。

 恩人の妖怪のように旅をし、多くの人々と出会い、その目で世界を見てみたかったのだろう。

 でも男は人間で、農民で、病弱だ。

 そんな自由も力もなくて、だから想像することしか出来なかった。

 男は叶わぬ夢に囚われていた。

 

「話を聞かせて。あの海の向こうの話を」

「うん」

 

 女は語る。

 自我がない箱の時でも、ずっとこの目で諸方を見てきた。

 

 浅ましき欲望から身を滅ぼした君主。

 香辛料を使ったとっても辛い鍋料理。

 海の底には人魚がいて、絶世の美女がそこにいる。

 無限の迷宮には、牛の化け物が閉じ込められてるとの噂だ。

 

 男は話を聞きながら、一つ一つのことに耳を傾け、驚いたり、笑ったり、様々な反応を返してくれた。

 女は強請られれば強請られる程、楽しい話をした。

 その時ばかりは、立場も現状も忘れて、彼女達は誰よりも自由になれた。

 一緒に旅をしていた。

 そして……いつか、子供と一緒に世界を見たら、もっともっと、幸せだろうねって笑って。

 

「きっと君の故郷は素晴らしいんだろうな。君が生まれたところだから、間違いない」

「うん。綺麗なものも美味しいものも、たくさんある。貴方も気に入るよ」

「俺達の子も、大好きになるかな?」

「そうに決まってる。だって私達の血を引いてるんだから」

「そうだな。あ、でも悪いところも似てなきゃ良いけど」

「あら、私がドジだとか、馬鹿だとか言いたいの?」

「別にそんな事言ってねえじゃん!」

 

 二人で取り止めのないやり取り。

 何だかすごく穏やかだ。

 波の寄せては返すリズムが耳を撫でていく。

 ずっとそのままでいた。

 そうして、一刻、半日と時が過ぎ、夕刻を通り越して夜となって、日がまた海の地平線から登ってきた。

 その時――世界が、眩しい光に照らし出される。

 

「四方ちゃん」

 

 男は最愛の妻の名を呼び、ゆるゆると手を伸ばした。

 覗き込む女の頬に触れると、一つ質問する。

 

「ねえ、今、幸せ?」

「……幸せだよ。貴方は?」

「俺も幸せ。ずっと君のこと愛しているよ。ずっとずっと……」

 

 掠れるような声で、男はそう愛の言葉を言い残した。

 手がゆっくりと滑り落ちていく。

 男の目は閉じられていた。

 まだ温もりはあったけど、命の火は消えていた。

 

「……」

 

 女は静かに泣いた。

 泣いて、泣いて、泣き続けた。

 そして泣きながら、男の遺体を燃やし、その灰を海に撒いた。

 箱には閉じ込めなかった。

 代わりに男が持っていた種を、己の中に広がる空間の中に植えた。

 いつしか若葉が芽生え、それはやがて大樹となるだろう。

 

「ありがとう、時読君。私、未来を守るから。貴女に託されたこの希望を、ちゃんと次に繋ぐから」

 

 だから、見守っててね。

 

 静かにお礼を言って、彼女は誓った。

 決して男の意志を無駄にしないと。

 男をいつまでも忘れず、未来永劫、愛し抜くと。

 

 そして数ヶ月後、女は半妖の子供を生んだ。

 女の子と男の子。

 双子の赤ちゃんだ。

 人間のように丸い耳をしていたが、それぞれ片目の色が白濁した青い妖怪の目で、明らかに半化けの姿だ。

 でも男の言う通り、最高に可愛かった。

 それに双子だということに、何より安心した。

 これならもし自分に何かあっても、互いに支え合うことができる。

 

「四方。この子達に名前をつけてあげて」

 

 龍は慈しむよう、すやすやと眠る双子を見ながら、女にそう言った。

 

「名前は愛の証。最初に送る、最も大切な贈り物なのよ」

「……愛の証」

 

 腕の中の双子を、女も見つめた。

 溢れ出る愛情が止まらない。

 この子達のためなら何でも出来る気がする。

 もしその命を脅かす者がいるなら、たとえ私を壊してでも守ろう。

 自分はそのために生まれてきた。

 

「初めまして、私の赤ちゃん達。貴方達の名前は――」

 

 

 

 

 

 

 

「起きて」

「起きて」

「起きてくれ、もうアンタしか望みはないんだ」

 

 声が――複数の歪な声が聞こえる。

 それは大妖怪を必死に呼び覚まそうとしている。

 

 大妖怪の意識は揺れた。

 微睡の中、自然と今までのことを思い返そうとし……それが出来ないことに気がつく。

 自分が何をしていたのか、よく分からない。

 ここが何処かも分からない。

 そもそも自分は誰だろう。

 何もない。

 頭の中の大部分を空白だけが埋めている。

 残っているのは、輝くような遠い遠い思い出と、その思い出に出てくる三人の名前。

 それを大妖怪は呟いた。

 

「時読君、旭君、若葉ちゃん。私の――」

 

 ――私の大切な、愛おしい家族達。

 

 彼らは一体何処にいるんだろう。

 子供達をその腕で抱き締めたい。

 ずっとずっと、長い間眠っていた時も、心配していたのだ。

 

 寒くない?

 寂しくない?

 元気にしている?

 

 もし、泣きたくなったら、膝枕をして頭を撫でてあげよう。

 そして、話を聞かせてあげよう。

 

 遠い海の向こう。

 美しい御伽草子。

 不思議でハラハラする冒険譚。

 いつもいつも、最後は楽しい締めくくりでなくてはいけない。

 そうでないと、とっても悲しい。

 

 だから、子供達の最後も笑顔が良いと思う。

 いくらでも傷ついて良いから。

 いくらでも泣いて良いから。

 大きく成長して、未来を創って欲しい。

 大丈夫。

 すべてに意味はあって、無駄なことなんて人生何もない。

 いくらでも話しは聞くし、いくらでも甘えて良い。

 皆の帰る場所に自分がなる。

 ちゃんと待って見守っているから、安心して世界を見て欲しい。

 

 大妖怪はただひたすらに、彼らの幸せだけを願っていた。

 それでも、寂しくて寂しくて、黒板を爪で引っ掻いた時のような醜い声で呻きながら、その邪気で出来た百の触手を動かす。

 

「ああ……あああ……」

 

 すると、そっと何かに触れる感触。

 何だろうか、これは。

 何か……何かが凄く違和感がある。

 おまけに酷い臭い。

 気になって、大妖怪は白く濁った青い目を開けた。

 

 すると、視界に飛び込んできたのは――全裸にされた、横たわる黒髪の若い娘。

 目玉が繰り抜かれてて、ちょん切られたのか手足がなくて、全身に醜い火傷の傷があって、裂かれた腹から内臓が取り出されてて、赤い糸を引く柘榴のような腐った肉には蛆虫が湧き、蠅が集り、所々食らわれた箇所から骨が見えて、とても直視出来たものではない。

 それはこの上なく無残な死体だった。

 見覚えのある、死体だった。

 当然、その口元は笑っておらず。

 ありとあらゆる地獄での拷問の刑を受けたかのような、そんな苦しみと、嘆きと、怨嗟を顔に浮かべていた。

 

「あ……、あああ、あああああああああ……」

 

 大妖怪は一瞬、訳が分からなかった。

 否定したかった。

 しかし、大妖怪を起こした声が、次々に言う。

 

「助けて」

「彼女は死んだ」

「主は殺された」

「アンタなら生き返らすことが出来る」

「彼女は逸れものの我らを、孤独から救ってくださったのだ」

「大罪を犯しても助けたい」

「だからどうか」

「早く」

 

 周囲を見やると、娘の死体の周りには、数えきれぬ魑魅魍魎がいた。

 妖力を失いつつある、かそぼい命だ。

 その姿を薄れさせながら、こちらに懇願している。

 

「ふざけるなよ、この愚か者どもが!!」

 

 それを真正面から怒鳴るのは、翡翠の龍である。

 彼女は怒りに身を震わせ、妖気を昂らせている。

 

「自身とその子の箱に残った妖力をすべて絞り尽くして、無理やり封印をこじ開けるなんて、アンタらなんてことしてくれてんのよぉ! 四方に何を思ってこんな、こんな残酷なことを!!」

 

 だが、魑魅魍魎は怯みはしない。尚も、頭を地に擦り付け、繰り返す。

 

「助けてくれ」

「助けてくれ」

「助けてくれ」

 

 ぐるぐるとその言葉が大妖怪を取り囲んだ。大妖怪はどうすれば良いか呆然としていた。歪な牙が生えそろう口から、半ば自然と問いが溢れる。

 

「どうして。どうしてこうなったの」

 

 すると――口々に、魑魅魍魎は答えた。

 

「彼女が半妖だから」

「半妖だから、裏切られた」

「人間にも、妖怪にも。どちらにも寄り添い続けることが出来なくて、彼女は何にもなれなかった」

「彼女が望む希望も未来もなかった」

「ありのままではいられなかった」

「それを許す程世界は優しくなかった」

「彼女が生まれたのは間違いだった」

「どうか」

「どうか」

「どうか彼女を、人間として生まれ変わらせて」

「母親なら、彼女を助けてあげて──」

 

 その時、灼熱の豪火が放たれ、魑魅魍魎の内、数十が一瞬で黒ずみとなって消えた。

 翡翠の龍は口の端から尚も炎を漏らし、吠え狂う。

 

「黙れ、黙れ、黙れええええええええ!!!! 何を言っているんだ、貴様らは!! その子はそんな弱くない! そんな風に育ててない! 四方も時読も間違ってない! 私達が何を思って一生懸命に生きて、誇りを守ってきたことか……!! それを汚して踏み躙るその蛮行、私の主人達への侮辱は、それ以上許さないわぁ……!」

「どうか」

「どうか」

「どうか」

「どうか」

 

 しかし魑魅魍魎達の懇願は止まらず、どころか激しくなるばかりである。

 龍は苛立ちを隠せぬ様子で金の瞳を鋭くさせていた。

 

「……ああ」

 

 その様子をブラウン管越しに眺めるように、大妖怪は見ていた。

 すべてが瑣末事だった。どうでも良かった。何も感じてなかった。

 それでも、この喉から出ている絶叫はなんなのか。

 

 体が震える。

 意識が震える。

 世界が震える。

 

 何だこれは。

 何なんだこれは。

 

 壊れて、凍って、奪われて、ひび割れて、砕けて、破けて、大切なものが、私の、私の可愛い子、何で、何でこんな、どうして、どうして、こんな事に。

 

 私が信じた愛はなんなのか。

 何のために、私はこの子を生んだのか。

 私達は、すべて間違っていたのか。

 私は、ありのままのこの子が好きだった。

 妖怪の血も、人間の血も、等しく平等に価値があると思ってそれを教えて、大切に育てた。

 そして、この子がこの子らしく生きれるように、あの時誓ったように何でもした。

 宝物を元の場所に返したのも、今まで買ってた沢山の恨みをなくして、少しでも敵を減らすためだったし、私が眠りについたのも、この子の自由を願ったからなんだ。

 本当はずっと側にいたくて苦しくて、寂しかったのに。

 なのに、未来がないとか、希望がないとか、どうしてそんなことになったの。

 私が悪いの? 私が不甲斐ないばかりに。

 ごめんなさい、時読君。

 こんなことなら――

 

 大妖怪は絶望した。

 大好きだったこの世界と愛に絶望した。

 

 だから触手を伸ばした。

 たったそれだけで魑魅魍魎が一気に黒い群れに飲まれて消えていく。

 それはそのまま天に向かい、空を覆い、今たった山の稜線から登ってきた太陽さえも食らい尽くしていく。

 

「四方……」

 

 愕然としたように龍が呟く。

 大妖怪はケタケタと笑った。

 

 ――世界は、今この時闇に包まれた。

 

 

 

 

 

◆◇◆◇

 

 

 

 

 

 長い記憶の旅、その終着に行き着き、理玖はようやく現実へと帰ってきた。

 

 それは愛の物語。

 それは悲劇の物語。

 それは一人の大妖怪の――絶望の物語。

 

 御伽草子のように、すべて都合よく、めでたし、めでたしで終われたら良かったのに。

 それをこの世界は許してくれなかった。何処までも何処までも残酷に、綺麗だった心と決意を踏み躙った。

 故に彼女は叫ぶのだ。

 

『愛されるものは、儚く散ってしまう。散ってしまうなら、閉じ込めないと。失われる前に』

 

 理玖は呆然として、目の前の女を見た。

 彼女の足首がないのは、幽霊だからじゃない。

 本当に足がないのだ。

 彼女の着物の袖が長いのは、単純にそういう趣味だからじゃない。

 手がないのを隠すためだ。

 そして目玉がないのは、誰かにくり抜かれてしまったから。

 これは本当に誤魔化せなかった。

 

 恐らくこの女は、何重もの責め苦を受けて、尊厳を徹底的に破壊されて、死んだのだ。

 ただ半妖であるという理由で。

 

「……」

 

 息を飲む。

 信じられぬ思いだった。

 悲しかった。

 先程まで理玖は、大妖怪と一体化し、その半生を見届けた。

 だからその気持ちが手に取るように分かる。

 理玖は大妖怪に共感し、悲痛な表情にならざる得なかった。

 

『半妖に未来はない。半妖に希望はない。半妖に幸福などない。半妖は生まれてきてはいけない命なのだ』

 

 声が響く。

 これは脳内に直接語りかけられた幻聴。

 理玖は女の中に大妖怪がいるのを感じた。

 まだ彼女はそこに取り憑いている。

 女を通じ、“どうして”と問いかけてきている。

 

「――違う。違う!」

 

 理玖はその問いかけに対し、強く否定した。

 その大妖怪の誓いを理解してるからこそ、そしてとわを慕うからこそ、理玖はその言葉が我慢ならなかった。

 

「半妖は生まれて良い! 未来はある! 希望はある!! 幸福はあるんだよ!」

『私は何も信じない。私は間違っていた』

「それも違う。アンタは信じて良かったんだ!! アンタは間違ってなんかなかった!」

『私がいたから、時読君はいじめられた。私がいたばかりに不幸に』

「アンタの夫は笑ってただろ。アンタが幸せにしたんだよ」

『――私が生きた意味はなかった。所詮、紛い物なのだ、私は』

「……っ」

 

 今の大妖怪がどうなっているのか、正直理玖にはよく分からない。

 分からないが、聞こえているのかいないのか、こちらの言うことが届いていないことは明らかだった。

 

『愛は……愛される者は、儚く消える』

 

 かつての是露と同じ言葉を、もう一度声は繰り返した。

 理玖は歯噛みした。ここにきてようやく、昔々のことが思い出された。その分、余計に痛ましく感じた。

 

「アンタ、それ嫌だったんじゃないのかよ……」

『愛とは、自由を願うことではない。愛とは、この手で守ることを指す。私の愛は、愛は、愛は、愛は――』

 

 苦しむように続ける。

 やっぱり分からなかったのか。最後の最後まで、家族に献身的でありながら。

 

『ああ、恋とは何だ? 愛とは何だ?』

「……」

 

 そしていつかの時のように、かつての質問が投げかけられる。

 理玖はその時と同じように、何も答えられなかった。

 でも、ふっと、思い浮かぶ顔がある。

 それはとわだ。

 日暮とわ。

 殺生丸の娘。

 

『迷い……迷いを感じる。私と同じ迷いを。どう向き合えばいいのか分からぬという苦しみが、聞こえる』

 

 びくりと硬直する理玖。

 同時にあまりの悍ましさにぞっとする。

 今、彼女は何と言ったか。

 迷い……?

 

(言い当てられた……)

 

 正気を失っているくせに、そして、どうしてこちらの声が届かないくせに、そっちは一方的に分かるのか。

 まるで、全身、丸裸にされている感覚だ。

 そして、心の中を土足で踏み躙られているような……そんな屈辱を感じ、先程から一転、怒りへと感情が傾く。

 しかしカトラスを持つ手が震えている。

 らしくない。体がやっぱり動かない。

 

『半妖の少女。特別で大切な女子……。守りたいと思うているのか。お前にとって救いなのか。光なのか』

 

 女の影の表面がどぷりと蠢き、触手が立ち上り、理玖の手を包む。

 ぞっとする程に冷たい。

 ひゅっと、かそぼい悲鳴が理玖の口から漏れる。

 女は眼窩から血涙を流した。

 

「どうして」

『どうして、お前はそう思うのか。お前は少女をどうしたい』

「おいらは――」

『お前は、少女が好きなのであろう。自分だけのものにしたいのであろう。それとも何か。希望や未来などという下らないものを夢見て、ただひたすらに彼女の幸せだけを願うのか? そのためなら、お前は身を引けるか?』

「それは……」

 

 言い淀んでしまう。

 それは出来ないと、己の内側が拒否している。

 是露や麒麟丸が生きている時ならいざ知らず、邪魔者がいない今、一体どうして自身を優先してはいけないのだと、己自身が何よりも叫んでいる。

 それはりおんの願ったことでもあった。

 だが理玖の心に綺麗な感情はなくて。

 ただそこにあったのは、大部分がぐちゃぐちゃでどろどろになった浅ましい欲望。

 理玖は、一度知ってしまった幸せという名の美酒の味を、忘れることが出来ないのだ。いつまでもそれを飲んでいたいし、酔っ払って浸っていたい。ずっと、ずっと、何処までも――

 

『……少女の幸せに、お前は必ずしも必要ではない』

 

 声は冷酷に告げる。

 理玖の闇が再び肯首し、気持ち悪くなる。

 これ以上はやめて欲しかった。

 けど、先が続いていく。

 

『少女の世界は、父母達と妹と従姉妹。それだけで満ち足りている。隣にいる伴侶も、お前じゃなくて良い。お前の代わりはいくらでもいる。対してお前はどうだ。主人がいなくなれば、お前には少女しかいない』

 

 そうだ。

 理玖にはとわしかいないのだ。

 とわがいなくなれば、理玖は今度こそ本当に――

 

『お前は所詮、少女がどう言おうが、中身が空っぽなお人形なのだ。お前は少女に相応しくない』

「……おいらが、とわ様に相応しくない?」

 

 そう言われて、遂に理玖の手からカトラスが滑り落ちる。

 まるでこの世のすべてが崩れ落ちたような感覚であった。

 そうして、理玖の心に穴が開く中、そこに一つの言葉が入り込む。

 

『お前が幸せになる方法は一つだけ。少女を文字通り永遠にすることだ』

 

 理玖は瞬間、眉間に皺を寄せた。

 それが意味することを、推察出来ぬ程馬鹿ではない。

 すぐに認め難いと返す。

 

「それはとわ様の幸せにはならない! 彼女をアンタの箱に閉じ込めるなど、そんなこと出来るわけがない! アンタが嫌った押し付けそのものだ! 何より、彼女は生きる意味を探そうとしている! それはとわ様の覚悟を台無しに――」

『半妖に未来はない。希望もない。すべては無駄なことだ』

「……っ!」

『半妖というだけで次から次へと試練が降りかかる。少女がこれから先どんな思いをするか……その迫害から守ってやることが優しさであり、愛ではないのか。お前は彼女が泣くところを黙って見ていられるか?』

「……」

 

 自然と考えてしまう。

 最悪の未来。

 とわは迫害らしき迫害を受けていないが、実際に半妖という理由だけで家族と離れ離れになって、大変な思いをした。

 それに匹敵する絶望が、また来ないとも限らない。

 半妖を憎む者は、それこそ多くいるからだ。そして、いくらとわが強いとはいえ、もしそれで命を落としでもしたら……理玖は耐えられない。

 理玖はあの優しい少女を失いたくはないのだ。

 

(だって、おいらは、ずっととわ様と一緒にいたいから……)

 

『安心して欲しい。現実と比べ、箱の中は優しい。半妖がありのまま、好きに生きていける世界がちゃんとそこにある』

「……何がありのままだ。紛い物だろ。そんなのは」

『嘘であろうと突き詰めれば本物なのだ。そこには文字通りすべてがある。無限の広がり、海の向こう、楽しい御伽草子の世界を旅して、今度こそめでたし、めでたしで終わる。辛いことなんて何もない。別れもない。これで時読君とも、若葉ちゃんとも、旭君とも、遥かな永遠を一緒に……』

「……」

『さあ、来い。名も知らぬ誰かよ。こんな離別が溢れる世界でもがき苦しむ者こそ、見ていられないのだ。私は皆を愛しているから、寂しい者には幸せになって欲しいのだ』

 

 甘美な誘いで、声は理玖を誘惑してくる。

 無視したいのに、最早心を鷲掴みにされて、首を振ることが出来ない。

 どうすれば良いか分からない。

 自分はどうすれば良いのか――

 

「おいらはどうして……」

 

 思わず出てしまう、苦悶の呟き。

 すると、女は血涙を流しながら、にこりと微笑んで。

 触手が理玖の手から離れ、まるでお別れでもするみたいに、ぶんぶん振られると、影の中にどぷんと吸い込まれた。

 同時に女の姿も薄れ、消えていく。

 

「……」

 

 理玖はその様を、ずっとずっと、見つめていた。

 いつまでも、見続けていた。

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