遥かな永遠を一緒に   作:鐘餅

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遥かな永遠を一緒に 八話 後編

 気がつけば、見知らぬ場所にいた。

 吹き抜ける穏やかな風。

 この切り立った崖の上からは海がよく見る。

 そのためか、林檎の大樹の下、ふとぽつりと呟かれた言葉は、潮騒のリズムに消えてしまいそうだった。

 でも、とわの耳にははっきりと聞こえていた。

 どうして。

 その問いは、様々な感情を孕んでいる。

 諦観、懺悔、悲嘆、憤怒、虚無……とてもとても複雑に混ざり合っているのだ。

 

「……どうしてですか。母様」

 

 再び問いが紡がれる。

 その声の主は、美しい女性。

 木に背を預け、片足を立て、物憂げな顔を少し俯かせている。

 着ている服は実にシンプルだ。

 柄もなく安物で、相当長く着ているのかあちこちが汚れ、修繕した跡がそこかしこに見受けられる。

 その黒く長い髪は無造作に横に流され、一つに纏められていた。

 

(何でだろう。何処かで見たような……)

 

 とわはその既視感から、彼女の全身を見た。

 女には足があった。手があった。目があった。

 何も欠けてはいなかった。

 ただその右目だけは、忌み嫌い、隠すかのように、眼帯がされてあった。

 

「おや、君は……」

 

 とわに気付いたのだろう。

 女は顔を上げてこちらを向いた。

 きょとんとしているようで、最初は不思議そうにとわを静かに見ていた。

 しかし、何を思ったのか。

 やがて、ふっと笑みを溢し、和やかに話しかけてきた。

 

「こんにちは、娘さん。今日は良い天気だね。風も穏やかで、日もぽかぽかとしていて。ここから見える海も、良い眺めじゃないかい?」

 

 その言葉に、とわは思わず遠くを眺める。

 地平線の彼方まで続く、広い広い海の方を。

 女もそちらに視線をやって、懐かしそうに目を細めた。

 

「ああ、やはり海は良いな。特に誰かと見る海は最高だ。いつ見ても心が躍る」

 

 そして、楽しそうに女は言い、また、とわの方に目を向ける。

 

「君は、海が好きかい?」

「……えっと」

 

 見知らぬ人物からの突然の質問。

 真面目なとわは真剣に答えようと、一瞬口を噤み、考えること少々。

 素直に返答する。

 

「はい、好きだと思います」

「そうか」

 

 その答えに、女は優しい顔になった。

「私も海は好きだ」と、朗らかに笑う。

 

「海は思い出の場所でね。幼い頃、母様と婆ちゃん、それに弟の旭と一緒に、よく遊びに行ったんだ。何より、あの向こうのことを考えるとワクワクする。海は私にとって、希望であり、幸福や居場所という概念の象徴のようなものだよ」

「……幸福や居場所」

「君にとって、幸福とは、居場所とは何かな?」

 

 心を見透かしたように、今、最も悩んでいることを女は聞いてきた。

 当然答えられず、とわはまたしても無言になる。

 だが、ふっと思い出す顔がある。

 それはせつなにもろは、父母達、日暮家の皆。

 それから、楓や妖怪退治屋、親しい村人達が浮かんでは消えて、そして最後に理玖――彼の眩しくて穏やかな笑顔が、とわの鼓動を鳴らす。

 それだけでもう、堪らなく嬉しくて。

 思わず頬が緩み、とわの顔は暖かな感情で柔らかくなっていた。

 それを見て、女性の雰囲気も何処か弛緩していた。

 

「そんな顔をするということは、君は大勢の者から愛されているんだね」

 

 女はしみじみといった感じで呟く。

 まるでそれは、とわの暖かな境遇に喜んでいるみたいにも見えて……実際そうだったらしく、次に女はこう言った。

 

「なんというか、君のような子を見るとほっとするよ。なにせ半妖は疎まれてることが多いからね。今まで何度か会ってきたが、皆、孤独だった。だから、嬉しいんだよ――本当に嬉しくて仕方がない」

 

 暗闇の中で希望を見出した様な。

 そんな感じで、黒髪の女は思わず涙ぐんでしまうくらい、感動した様にとわに思いを伝える。

 勿論、その言葉は、とわと出会えて良かったと、そう心の底から思っているものだった。

 

 とわの胸が、何だかよく分からない感情でじんと熱くなる。

 こんな自分でも、この女にとっては、救いの存在なのだ。

 

「あの、どうして私が半妖だってことを?」

 

 それでも不可解な点が一つ。

 それを持ち前の素直さから女に聞くと、茶目っ気たっぷり、彼女はくすりと笑いながら肩をすくめた。

 

「そんなの見てれば分かるさ。なんせ、私も同じだからね」

「ってことは、まさか貴女も?」

「そうさ」

 

 そう言って眼帯を外してみせる女。

 果たしてその下にあったのは、まったく奇妙と言わざる得ない瞳だった。

 なんと、その色彩は白濁した青なのである。

 明らかに人間のものではない。

 正しく物の怪の血を引くと証明している。

 

 とわは息を飲んだ。

 その反応に女はくつくつと笑い声を立てる。

 

「ご覧の通りさ。まあ、分かり辛かっただろうけどね」

「はい。気づかなかったです。臭いも普通で……」

「無理もない。箱を抜きにすれば、見た目も能力も、私はほぼ人間だからね」

 

 皮肉げに苦笑。

 やはり忌々しい物を封じ込めるかの如く、女は眼帯ので再び右目を隠すと、立ち上がってパッパと尻の土を払い、とわに歩み寄る。

 そして「さて」と呟き、

 

「その持っている物を見せてくれるかな?」

「え……」

 

 言われ、とわははたと気づく。

 いつの間にか手の中に何かがある。

 開いてみれば、それは小ぶりな珊瑚。

 あの童が箱から出した珊瑚だった。

 

「何でこれが……」

 

 びっくりしていると、納得した様に女は頷く。

 

「やはりね。思った通り夢珊瑚だ」

「夢珊瑚?」

「ああ。夢珊瑚とは、あの向こうの海から取れる珊瑚のことを言う。謂わばこの世界の一部であり、これに触れた者は問答無用で母様の妖力が移る。現に最近、不思議な夢を見なかったかい?」

 

 そう聞かれてとわは思い返す。

 不思議な夢。

 ああ、そういえば確かに、見たかもしれない。

 現代への郷愁と、寿命に対する恐れ、半妖への境遇の不安。

 それらが混ざり具現したアレは、実のところ強制的に夢珊瑚の影響で形になったものだったのか。

 

「今の母様はな、欲望の反射鏡なんだ」

 

 悲しげに、静かに女はそう告げる。

 

「なにせ欲望の邪気の集合体だからね。本能が暴走してる分、他者の迷いに敏感に反応する。つまり母様と相対する者は、己の欲望や負の感情、あるいは願いを突きつけられるんだ。

 恐らく、母様の妖力が君の中の迷いと結び付き、無意識の自我が反映されやすい夢という形で、君に影響を及ぼしたのだろう。そして今度もまた、夢を通じて魂のカケラがここに迷い込んだ。ここは君にとって、幻の世界に過ぎない」

 

 ようは、実際にはとわの体は、今グースカと寝てるわけである。

 文字通り、ここは現実ではないのだ。

 ますますこの世界が不思議な場所に思えてならない。

 気になって、とわは女性に問いかける。

 

「あの、この場所って一体何処なんですか?」

 

 すると、女性は驚きの返答を返した。

 

「諸方の箱、そう呼ばれる箱の中さ」

「……!」

 

 とわはあまりの衝撃に瞠目。

 信じられず、周りをキョロキョロと見渡す。

 そんな彼女に、女は観察する様な視線を送っていた。

 そして、本当に真剣な表情で、夢珊瑚を渡した者について聞いてくる。

 

「君はいつ、誰からその珊瑚を貰った。まさか母様……箱の大妖怪からではないよね?」

「いえ、小さい男の子からです。不思議な木箱を持ってて、母親の知り合いの持ち物だと言って――」

「――なんだと?」

 

 そこで酷く狼狽して、女はとわの言葉を遮った。

 抱える様に頭に手をやり、ぶつぶつと呟く。

 

「母親? 知り合い? 木箱? 何だ、それは。私が死んだ後、私の箱が他の者の手に渡ったのか? それで、外に出られない代わりに、私の欲しい物を集めさせるためにそいつを通じて……」

 

 呟けば呟く程、女の蒼白ぶりは酷くなる一方だった。

 最終的には自身の肩をぎゅっと抱き、唇すらも青くさせて、震えていた。

 

「なんてことだ。私は母様から何一つ守れず――」

「あの……大丈夫ですか?」

 

 女の混乱、その唐突さに驚きつつも、流石に心配になって、とわは彼女を気遣う。

 女は弾かれた様にハッとした。

 瞳の奥で様々な感情が浮かんでは消えていく。

 そして、最後に残ったのは、どうやら恥と申し訳なさのようだった。

 女はふにゃりと悲壮感すら感じさせる自嘲を浮かべ、弱々しい声で謝った。

 

「大丈夫だよ。すまない。迷惑をかけたね」

「いえ、そんなことは」

「……優しい奴だね、君は」

 

 当たり前のことをしただけなのに、女は眩しそうに左目を細めた。

 

「一つ、気になることがあるんだが。私――じゃなく、そいつの母親は、どんな感じだったの? もし会ったなら教えて欲しい」

「えーと……遠くからしか見てませんけど、何だかその子を認識してないっていうか、ふらっといなくなるみたいで。その子もずっとその母親を探し続けてました」

「そうか。……成る程。抵抗したせいで、外に魂の残りカスが取り残されたか。まったく、皮肉なものだ」

 

 頷くと、女はまたもよく分からないことを呟く。

 それから、しばし思案する素振りをし、やるせ無いように静かに首を振った。

 

「とにかく、今こうしているのは不味いね。案内するから着いてきて欲しい」

「着いてきて欲しいって……」

「勿論、出口にさ。このままだと君は永遠にここにいる羽目になるぞ。当然、肉体の方は二度と目覚めない」

「え……」

「一度入り込むと、脱出出来ない。この箱庭は、そういう場所なのさ」

 

 それはまるで悪い冗談みたいだった。

 自分の危機に、とわはサッと血の気が引いた。

 だが、安心させる様、すぐに女は言葉を続ける。

 

「私がいれば平気だよ。私はこの場所を知り尽くしている。私の力でも、まだ母様の魔の手が及んでいない君なら、無事に外に出せる筈だ」

「……」

 

 とわはどうすれば良いか、一瞬かなり迷った。

 でも、女の顔は、信じて欲しいと強く強く言っている。

 それを見ていると、何だか警戒するのも馬鹿馬鹿しくなってくるもので、とわは一つ、「分かりました」と返事を返す。

 

「良し。こっちだよ」

 

 女性はそれに満足げにすると、先導を開始する。

 崖を降り始め、獣道を歩いた。

 その間、女性は無言だ。

 とわもまた口を閉じていた。

 何処となく気まずい雰囲気の中で、とわは女の背中を追う。

 それは頼もしくもあり、不安でもある後ろ姿で。

 この人は一体何者なのだろうと、とわは思った。

 するとそれを察してか、ずっと黙っていた女はここで振り返り、とわに話しかける。

 

「そういえば君の名前を聞くのを忘れていたね。君は何というんだい?」

「とわです。日暮とわ」

「ふむ、永遠か。良い名前だね」

 

 女はさっきしたみたいに左目を細め、何故か懐かしそうにした後、自分も名乗る。

 

「私は若葉だ。母様がつけてくれた大切な名前だよ」

「そうなんですか。お母さんがつけてくれたなんて、とても素敵な……ってお母さんと言えば、そういえばさっき、何度も母様って言ってましたけど、それって箱の大妖怪のことですよね? 何だかここにも詳しいみたいですし、貴女はもしかして――」

 

 頭に過ぎる可能性を、疑問としてぶつけてみる。

 すると女性――若葉は驚いたような顔をし、

 

「君は箱の大妖怪のことを知っているのかい?」

「はい。冥加じいちゃんや理玖から聞いて」

「理玖……はどっかで聞いたような覚えががあるが、知らない人だとして――そうか、君は冥加様の知人なのか。あの御方は今も息災なんだなあ」

 

 嬉しそうに、あるいはホッとしたように若葉は息をついた。

 どうやら冥加のことを、若葉は憎からず思っていたようだ。

 それに伴い、とわを見る目が親しみを込めたものになる。

 

「うん。そういことなら、はっきり言おう。確かに君の思った通り、私は箱の大妖怪の娘さ」

 

(この人が……!)

 

 とわは驚愕の表情を浮かべる。

 やはりそうだったのか。

 箱の半妖の双子。

 その片割れが彼女だった。

 

 だが、どうして若葉はこんな場所にいるのだろう。

 まったく不可解でならない。

 と、今度もとわの疑問を読みとったのか、若葉は苦々しい面持ちで、驚くべきことを言った。

 

「実はな、私は死んでるんだよ」

「え……」

「でも母様はそれを受け入れられなかった。そして、返す事の出来なかった数少ない宝を使い、無理やり私を蘇生させようとした。しかし、恐らく命が二つあったせいで、失敗したんだろう。中途半端に魂だけがあの世から戻ってきてしまった。それでずっと箱の中に閉じ込められてるんだ。

 と言っても、魂が一部欠けているから、かなり記憶や感情があやふやでね。どういう経緯で死んだかよく覚えてない。……まあ、大体の予測はつくけど。多分、私はすべてに裏切られた。私は半妖というだけで生贄にされて、殺されたのさ」

 

 なんてことない、軽い口ぶり。

 だがそれに反して、語られた境遇はあまりに重い。

 思わず言葉を失ってしまう。

 その表情をちらりと見て、若葉は無機質に、乾いた声で続ける。

 

「気にする程のことでもない。良くある話だよ」

「そんな、良くある話って……」

「言っちゃ悪いが、大なり小なり、半妖というのは往々にしてそういう扱いを受ける定めにあるものだ。君だって少しは覚えがあるんじゃないのかい?」

「……それは」

 

 確かに思い当たりがある。

 言い返すことが出来ない。

 

「けど、私はね、妖怪も人間も嫌いではないんだよ。特に人間は憎しみきれないんだ」

「どうしてですか? 凄く酷いことをされたのに」

「愚かなことに、未だ人間への憧れ――執着を捨てきれてないのさ」

 

 若葉は返答してから苦笑、古傷をなぞる様に眼帯を触る。

 

「私は幼い頃から、いつも父様の話を聞かされてきた。とても優しくて、とても平等で、とても勇気がある人だったのだと。私はそんな父様が恋しかったが故に、少しでも父様に近づきたいと思ってた。

 それにな、私の身内に人間は誰一人としていなかったんだよ。勿論、家の近くに人間の村はあったし、母様達に定期的に町へ連れて行ってもらって、人間の世界に触れさせてもらってたけど。

 それでも、仲良くなれなくて、ずっとずっと、人間とは遠い存在だった。

 そして更に言うなら、半妖という事実が嫌だった。

 幼い私は、自分が半妖だから、母様が眠りについてしまったと思ったんだ」

「それは、お母さんが“半妖”の自分達を守ろうとして、宝物を手放していったからですか?」

「そうだ。私達姉弟が半妖じゃなきゃ――私達がいなければ、母様は壊れずに済んだんだ。水面お婆ちゃんは、そんなことないよ、アンタ達はそのままで価値があるんだよって言い続けてくれたけど……心の奥底ではずっと、納得出来なかったよ」

 

 子供達のありのままを肯定し、その未来と自由を守ろうとした四方。

 しかしその母の望みと裏腹に、若葉は深く深く傷つき、半妖であることに劣等感を抱いたのか。

 ある意味皮肉な結果だと言える。

 とわはその事実が、苦しくて仕方がなかった。

 

「まあ幸にして、私は半妖だが人間に近い見た目だった。普段の身体能力も普通の女と変わらなかった。お婆ちゃんや弟には反対されたけど、独り立ちした後は、妖力や青い目を隠して、人里に降りた。工夫して素性を偽れば、私は簡単に受け入れてもらえたよ。だから思った。人間として暮らしていけるって。私は人間になれるって」

「……」

「だがね、私はどう足掻こうとも半妖なんだ。人間の姿である分、より顕著に、老化しないという異常性が浮き彫りになって、十年ちょっともすると正体がバレて追い出さた。

 そして、また別の場所に住み着いて、追い出されて……そんなことの繰り返しさ。

 かと言って、妖怪連中とも上手くいかなくてね。人間以上に差別されて、何度も殺されそうになった。友達が欲しくて、逸れものの雑魚妖怪を助けても、どいつもこいつも最後は私を見捨てた。対等な関係を結べなかった」

 

 ――そう。

 そうして結局彼女は、人間と妖怪、どちらにも寄り添えなかったのだ。

 けれど人間への憧れが捨てられなくて、ただただ、半妖である自分を偽り。

 そうやって、愚かにも殻に引きこもって、心を守ったのだと若葉は語った。

 

「私はとんだ臆病者だったのさ。私は自分から逃げていた」

 

 その笑顔は自責に満ちていて、くしゃっとしたものだった。

 

 その時初めて、水面が言っていた“人間の姿”が残酷であるという理由がとわには分かった。

 冥加の予想通り、水面はやはり、若葉ととわを重ねて合わせて見ていたのだ。

 

「……」

 

 半妖であることに振り回された若葉の生涯。

 あまり良い人生とは言えない。

 そして、とわもそうならないとは限らない。

 その未来を想像するとぞっとしたし、若葉のことは純粋に切なく思った。

 悲しいと思った。

 だが下手に励ましの言葉をかけるわけにもいかず、とわはまた口をもごもごとさせていた。

 すると、若葉は気まずそうに謝ってくる。

 

「すまないな。さっきから暗い話ばかりだろう」

「いえ、そんなことは……」

「……やっぱり君は良い奴だな。必ず送り届けないといけないな、これは」

「……」

 

 今度も、当たり前のことをしただけなのに。

 若葉は再度、妙に目を細めた。

 何故この人は、こんな顔をするのだろうと、とわは甚だ疑問だった。

 

 そうこうしてる内、徐々に水の臭いと音が近づいていた。

 しばらくすると川があり、一石の艀船が停められている。

 若葉はそこに乗り込み、手招きしてとわを後ろに座らせると、中にあった櫂を使い、漕ぎ出した。

 船がゆっくりと進み出す。

 目指すは海から離れた下流。

 流れは思ったより遅く、乗り心地は悪くない。

 まるで揺籃の中で揺られているようだ。

 

「若葉さん」

「なんだい?」

 

 ふと声をかければ、楽しげに若葉から返事が返ってくる。

 一瞬迷いが生じる。

 しかし、聞かずにはいられない。

 とわはずっと胸の内に蟠った、不躾とも言える質問をぶつけていた。

 

「辛くないんですか? ずっとこんな場所にいて、ずっと一人で、こんな……」

 

 あんまりです、と。

 最後まで言葉にはしなかったけれど、とわは沈痛な面持ちを向けた。

 それに若葉は驚きの表情で息を飲み……しばらくしてから、嬉しいような、困ったような苦笑を浮かべ、戯けた様に言った。

 

「どーだろ。どっちなんだろうなぁ」

「……」

「だって、ほら、箱の中は永遠だから。時が止まっているから。なんか気が遠くなる程ここにいて、もう色々と分かんなくなっちゃった」

 

 必死に取り繕う様な下手くそな笑顔。

 無理やり出しただろう明るい、だが震えた声。

 そこから若葉の苦しみが伝わってくる。

 自分で言う通り、彼女は訳が分からなくなるくらい、ここに長くいたのだろうか。

 それこそ何十年も。

 下手したら何百年、何千年単位で……。

 

 想像するだけで、あまりの途方もなさにゾッとする。

 そして、それでも尚、若葉がとわを優先するのは、その苦しみが分かっているからか。

 優しいと同時に、ある意味痛々しいとも言えた。

 とわの胸が張り裂けそうになる。

 余計なお世話かもしれないが、とわはこの人を助けたいと思った。

 そうでなければ救われない。

 

「どうしたら、貴女をこの箱から出せるんですか? 一緒に出ることが出来れば、きっと……」

「気持ちはありがたいが、それは無理な話だよ。私はもう……何度も何度も。万を数える程試したんだ。そして悉く失敗した。半妖である私では、母様に敵わない」

 

 若葉の目には諦め切った色があった。

 胸が苦しくなると同時、その発言の内容にさっきから違和感を感じていたとわは、恐る恐る聞いてみる。

 

「あの、もしかして四方さんの封印って解けてるんですか?」

「私のせいだよ。私が死んだから、彼女は暴走してる」

 

 その答えが肯首だった。

 とわはびっくりして腹の底が重くなる。

 

「それって不味いんじゃ……」

「かなーり不味いね。ただ封印は二重だ。一つを引っぺがしても、数日すると二つ目の封印が発動し、諸方の箱は亜空間に閉じ込められる。そして、一つ目も二つ目も、母様の妖力が利用されている。つまり母様は今、無尽蔵に妖力を吸い取られ、相当弱ってる筈なんだ。あと五年もすれば勝手に死ぬ」

「ってことは、放っておいても問題ない……今は表に出る事が出来ないって事ですか?」

「遠回しな解決方法だろう? でも、こうするしかなかったんだ。自死は箱の本能から禁止されているし、強敵に挑んでも誰も母様を殺せなかった。そのくらい母様の力は強大で、本当のところ母様は――」

 

 そこで、若葉は後悔の念を声に混じらせ、言った。

 

「でも、そこまでしてくれた母様に、私はどうして絶望を突きつけてしまったんだろうか。どういう経緯であれ、自分のためにも、周りのためにも、私は死んではいけなかったのに。こんな私でも家族は愛してくれたのに。……私はその思いを踏み躙ってしまった」

「……若葉さん」

「良いかい、とわ。愛されてる以上、君の命は君だけのものじゃない。愛される者は、誰であれ自分を大切にして、幸せになるべきなんだ。それが愛される者の責務なんだよ」

 

 それはとても、実感の篭った重たい言葉だった。

 とわは自然、その言葉を心の内に刻み込んでしまう。

 そして、若葉は厳しい目をじとりと向けると、

 

「ていうか、話変わるけど、君ってばアレだろ? 他人より自分を優先する危篤な人間なんだろ? 一度や二度ならず、何度も何度も大切な人のために命を投げ出してるんじゃないのかい?」

「……!! どうしてそれを……」

「これまでの態度でなんとなく。優しい奴って大抵そうなんだよね」

 

 似た誰かがいるのか。

 うんざりした風に若葉は溜息をついた。

 

「でもさ、そういう展開って誰も求めてないから。うざいだけだから。自己犠牲かまして気持ち良くなってんの本人だけだし、周りはその度に泣かされるから、今後は金輪際やめなさい。君だってやだろ。自分のために大切な人が犠牲になるのは」

「……っ」

 

 とわは何も反論できなかった。

 何故なら若葉の言う通り、それはとても嫌なことだから。

 もし、そんな状況になったら、とわは気が気でなくなる。

 それと同じで、周りだってとわのことが大切だから、気をつけろと若葉は忠告しているのだ。

 

「……」

 

 そして、ふと、とわは思った。

 もしかしたら自分は、裏で沢山理玖を泣かせたんじゃないか。

 だって、あんなに彼は守ってくれたのに、とわはその思いと献身を踏み躙り、命を何度も粗末に扱ってしまった。

 普段は笑っているけど、でも許していない筈だ。

 理玖はとわのことを、本当は――

 

「もし後悔してることがあるなら、今のうちに解決なさい」

 

 罪悪感に沈むとわに、若葉が声をかけた。

 いつの間にか俯いていた顔をあげる。

 若葉は少し切なげな表情で笑っていた。

 

「死んでからでは遅いんだ、そういうの。何故なら、未来を創れるのは生者だけだ。思いっきり悩んだり、何かに向き合ったり出来るのも、言ってしまえば生者だけの特権なんだ。後悔のない様生きたければ、やりたい事は何であれ、今のうちにやるべきだよ」

 

 でなければ、私みたいになる。

 なんて、若菜は戯けて言う。

 しかし、その瞳はこの上なく真剣だった。

 思わず圧され、ごくりと唾を飲み込む。

 するとそれに気づいたのか、若葉は慌て、「でもね」と続ける。

 

「失敗したって大丈夫だよ。よっぽどのことがない限り、どんなことでも大抵は何度だってやり直せるし、乗り越えられるものさ。もし、それを笑う様な奴がいるなら、ぶっ飛ばしてしまえ。こう、拳で」

「拳で……」

「腕力は全てを解決するのさ。現に私もいじめられた時、よく殴り返して追い払って……」

 

 と、何かおかしいことに気付き、若葉は首を傾げる。

 

「って、何の話だっけかな、これ。なんかこう……良い感じに締め括るつもりだったんだけどな」

 

 そしてその後も、えーと、えーと呟きながら、悩み続ける若葉。

 そんな姿を見ていると、何だか暗い気持ちも吹き飛んで、とわはクスクスと笑ってしまう。

 若葉は当然、大袈裟にががん!! とショックを受け、

 

「ちょ、酷くないかい!? そりゃ私がいくらおかしいからって、そこまで笑うことないだろう!?」

「す、すみません。でも、ふふふ……」

「あー、また笑った!」

 

 ぷんぷんと擬音が付くほど怒って、拗ねる様にぷっくりと若葉は頬を膨らませる。

 何だか意外と子供っぽい人だ。

 とわは再度、くすりと微笑した。

 

「ありがとうございます。若葉さん。なんか元気出ました」

「え、本当? 本当に?」

「はい。帰ったら、謝ろうかなって」

「そっか。なんか良く分からないが、それは……うん。良かった」

 

 若葉もまた、りおんを彷彿とさせる様な優しい笑みを浮かべた。

 

 船はゆっくりと確実に進んでいた。

 気がつけば鍾乳洞の中に入っている。

 不思議なことに、前に行く程、壁に沿って続く蝋燭に火が灯って、暗い洞穴を明るく照らし出していた。

 

「ここだ」

 

 やがて船が止まり、若葉が終着を告げる。

 そこは洞窟の行き止まり。

 先は水が引いて地面があり、重々しい観音扉が出迎えている。

 

「……これは」

「せめてもの抵抗にと、三百年の時をかけて作った扉の一つ。結局、私は出られないけど……君なら潜り抜けられるだろう」

 

 そう言って、若葉は手招きする。

 疑問に思って近づくとわ。

 若葉は夢珊瑚にそっと掌を翳した。

 途端、その珊瑚が淡く発光し始め――

 

「うん、これで良い」

 

 満足気に頷いて、若葉は手を戻した。

 とわが聞こうとする前に、言葉を紡ぐ。

 

「また君がここへ入ってこない様、母様の妖力を封じた。これで大丈夫なはずだよ。それでも、君が迷ったり落ち込んだり、大切な誰かが深く悩んで、再度この奈落の箱庭へ落ち……私の助けも届かなかった場合、その光に縋りなさい。そうしたらきっと、希望が君の元へ届くだろう。それは君と君の大切な者を繋ぐ、愛の縁だ」

「……愛の」

「その縁は大切にね。それが君の居場所を形作っているのだから」

 

 若葉はそう言って、最後にまた目を眇めた。

 何だかいやせり尽くせりだ。

 罪悪感で一杯になり、申し訳なさそうに謝ろうとして……それを見抜かれたのであろう。

 若葉が静かに、気にしない様に伝える。

 とわはその顔をじっと見つめ、やがて数秒黙した後に「はい」と頷く。

 

 お礼を言って船から降りた。

 背を向けるのに躊躇いがある。

 しかし既に、若葉のその影からは黒い触手が立ち上り、彼女を雁字搦めに拘束している。

 とわはハッとして固まった。

 

「大丈夫、私の心配はしなくて良い」

 

 すると、若葉は優しく笑って。

 死に行く老人が若人を見守るような眼差しで、言った。

 

「それよりも自分のことを考えなさい。そして、未来へ行きなさい。希望を創りなさい。その名の通り、遥かな永遠を一緒に歩む人を、見つけなさい。私は君と出会えて良かったと思ってる。……君の幸せを、心より願っているよ」

「……若葉さん」

 

 とわは若葉の名を呼んだ。

 不思議そうにする彼女へ、自分の思いを伝える。

 

「私、やっぱり貴女を助けたい。貴女のこと、助けてみせます」

「……、何でそこまで……」

 

 若葉は少し、驚いた様な表情を浮かべる。

 とわはそれに対し、当たり前のように答えた。

 

「だって、若葉さんは私を助けてくれたから。今度は私が若葉さんを助けたいんです。それに貴女は、ここにいて良い人じゃないから」

 

 短い間だったが、話していて分かった。

 この女性は何処までも優しい。

 きっと今まで一生懸命に生きてきて、幸せになろうとしていたのだ。それなのに、こんな末路は許せない。

 だからとわは、告げる。

 

「約束します。私がここから貴女を連れ出してみせます。絶対にです」

「……」

 

 真っ直ぐに目を見つめくるとわに、若葉は何と言ったら良いか分からない、複雑な顔をした。

 きっと信じられないのかもしれない。

 それでも期待してしまうのかもしれない。

「本当に君という子には参るな」と、そう言葉を溢し、

 

「ありがとう」

 

 彼女はあまりにも綺麗な笑顔を見せる。

 それまるで、草原に咲く花のように、可憐で無垢で。

 思わず目を奪われた瞬間――バタン。

 一人でに背後の扉が開く。

 内側へ向かって風が吹き荒れ、なすすべもなくとわの体が浮き、吸い込まれていく。

 

(私を無理やり外に出そうと……!)

 

「若葉さん!」

 

 すべてを悟ったとわは、もう一度、若葉の名を叫ぶようにして呼んだ。

 しかし、若菜の返事は残酷だった。

 

「君の言うことは有り難い。だが、君の助けはいらない。こんな私のために、君に苦労をかけさせる訳にはいかないよ」

「……っ!」

「“助ける”なんて、忘れてくれ。私は君のこと――」

 

 聞こえた声は、そこまでだった。

 完全に扉の外へと出たとわは、その瞬間に意識を失った。

 そして……この夢の記憶を、頭の奥底へ封じられ、忘却してしまったのだった。

 

 

 

 

 

「行ったか」

 

 とわを見送った後。

 若葉はそう呟き、この場に満ちる妖力を操って、扉を閉めた。

 そして、その外へと繋がる入り口を見続ける。

 

「……貴女を助けたい、ねえ」

 

 ふと、先程のとわの言葉を呟いてみる。

 ああいう風に言われたのは、いつぶりだろう。

 百年前? 千年前?

 ……いやもっともっと前。

 

『姉様。何があろうとも、この旭は貴女の味方です。だから、何かあったら俺を頼って下さい。ずっとずっと、俺は貴女をお待ちしております』

 

 旅立つ前日、そう弟に言われたのが最後だった気がする。

 以来、今まで一度だって、誰からもそんな優しいことは言われなかった。

 確かに海辺の国にいた時、愛してくれる人もいたけれど……やはり向けられる言葉は、どれも他人行儀か、若葉を讃えるものばかり。

 流石ですとか、頼りになりますとか、今度もよろしくお願いしますとか。

 ずっと裏切られてきたから、あの城主の子息以外、期待なんて始めからしてなかったけど、でもそういう距離感のある言葉が欲しい訳じゃなかった。

 だから、なんだかとても虚しくて……他者を助ける時は、決まってお人形を相手にしてる様な感覚が何処にあった。

 けれど。

 

(あの子は違ったな。あの子はなんか……)

 

 今まで助けてきた大勢の人々と比べ、とわはちょっと変わっていた。

 ちゃんとこちらの目を見てくれて、まるで自分のことのように若葉を心配し、尊重してくれた。

 あんなの、家族以外で初めてだ。

 凄く良い子だった。

 

「ごめんね、とわ。私、少し嘘ついてた。本当はちょっとだけ最後のこと覚えているんだよ」

 

 ここにはいないとわへ向けて、若葉は語りかける。

 目を閉じればいつでも思い出す。

 あの死の間際。

 殺せという声と、侮辱の数々。

 助けてと言ったのに、誰も助けてくれなかった絶望と諦念。

 それだけがあの時のすべてだった。

 そして箱に閉じ込められても尚、若葉の精神はそこで止まっている。

 だからこそ、若葉は先に進めないし、何も求められない。

 寂しいとか、悲しいとか、かつてあったであろう温もりを欲する気持ちも、長い徒労と孤独の果てに、麻痺してしまっている。

 とわを助けたのだって、きっと気まぐれか何かで、そうじゃなきゃ、ただなけなしの倫理観が奇跡的に働いただけなのだ。

 

 それなのに、とわは「今度は私が若葉さんを助けたいんです」だなんて言ってくれた。

 もったいない言葉だ。

 それになんて返せば良いか、若葉には分からない。

 戯言だと思って喜べないのだ。

 それに心苦しいが、とわのことは少し憎かった。

 何故ならとわが教えてくれた外の情報は、若菜の残した影響が良くない方へ転がっているという――つまり自分のせいですべてが絶望的な状況になったという、彼女にとって見れば、あまりにも残酷極まりないものだったからだ。

 

 そんなの、今更知りたくなかった。

 特に子供がいたという事実には内心笑ってしまう。

 だって、あの時、若葉は息子を殺したということになるから。

 ずっとずっと待ち望んでいた愛の結晶を壊してしまったことは、悪夢以外何物でもない。

 

「今になってこんな気持ちになるだなんて。私はどうすれば良いんだよ」

 

 胸をぎゅっと掴む。

 長い間凍てついた心が、どうして今になって熱くなっているのか。

 奇妙なことに、目からボロボロと涙さえ溢れ出ている。

 

『ああ、苦しい』

『悲しい』

『こんな思いを抱いて、とわに申し訳ない』

『怖い』

 

 そして途端に、声が反響する。

 それは若葉の負の感情。

 背後には突如現れた人影がある。

 振り返らなくても分かった。

 長い黒髪を簪でまとめた女性、愛おしい母の四方だ。

 

 四方はいつもの様に若葉に抱きつくと、娘の声で耳元に囁いた。

 

『お前は何故そうなんだ。お前は愚かで弱くて、本当に駄目な奴だな』

「……っ」

 

 言葉のナイフが心を抉る。

 若葉は唇を噛み締めた。

 何百年、何千年と経験してきたのに、いつまで経ってもこればかりは慣れやしない。

 

『何故お前は強くなれなかった。母様が眠った時、母様の分まで皆を守ると誓ったのに。この残酷な世界と、半妖という境遇に抗うには、それしかなかったのに』

「……」

『お前が死んだのは、お前が弱かったせいだ。お前が弱かったから、母様も、大切な物も、自分自身でさえ守れなかった。お前の弱さが全ての引き金を引いたんだ』

 

 声は続ける。

 負の感情は止まることがない故に、反響も止まらない。

 

『さっきだってそうだったな』

『何であれ全てを覆すチャンスだったのに、何故助けて欲しいと言わなかった』

『未来ある生者への嫉妬心から、見栄を張ったのか?』

『それとも偽りの仮面を被ってしまったからか?』

『そうだな。なんせ事情を話したのも、自分のことを分かって欲しいという自己満足だし。あの子の同情が欲しくて、わざと可哀想な人のふりをしたに過ぎない』

『そのくせ、いざ信頼するとなると、怖くて拒絶した』

『巻き込みたくないだなんて嘘』

『心配はしてるかもしれないけど、でもお前は自分のことしか考えてない』

『また人に裏切られたり、期待して何も成せない事実に、傷つきたくないだけ』

『本当に弱いな』

『弱いお前は一体何なんだ』

『本当のお前は何処にいる』

『お前に先なんてない。未来も希望も、何もない』

『お前は所詮――』

 

(黙れ……!)

 

 若葉は強く強く、心の中で叫んだ。

 この怪物を今すぐにでも黙らせたくて仕方がなかった。

 だが出来ない。彼女は母だから。

 母に抵抗するのは、若葉にとって死よりも辛いことだ。

 

「もう良いじゃない、若葉ちゃん。素直になりなよ」

 

 四方は甘美な誘いを言った。

 

「外に出るのは苦しいだけ、辛いだけ。今は自分の望む姿を保ててるけど、ここから出れば逆戻り。駆け回るための足も、誰かを抱きしめる腕も無くして、その美しい世界を見る目も失ってしまう。おまけに外は、貴女を傷つける敵が沢山。私はそんなの耐えられない。私はもう、貴女を失いたくはないの」

「……」

「貴女だって外に行きたくないでしょ。いくら子供に会いたくて助けたいって言っても、貴女のせい不幸にしてるんだから、今更母親面なんかとてもとても出来ないんだし。もう死ぬ様な思いも、痛い思いもしたくないよね?」

 

 母は確かめる様に優しく問いかけてくる。

 若葉は俯いた。

 すべて本心を言われたら、黙るしかなかった。

 

「よしよし、大丈夫。ここでは弱くても良いんだよ」

 

 四方はゆっくりと若葉の頭を撫でた。

 その手はぞっとする程に冷たいのに、悲しみとは相反する安らぎが浮かび上がり、若葉は震えた。

 涙はいつしか赤く染まっている。

 

「その弱さを私は受け入れる。私が貴女を守る。弱さを許容出来ない世界など、私が壊してやる。そして貴女が望む限り、大好きな旅をし続けられる世界を用意する。何処までも優しくて、素敵な世界を……」

「そんなのっ……。旅をし続けたのは、単に私が私のことを認めてあげたいからで――」

「だから、大好きな若葉ちゃん。ずっと、ずーと一緒にいてね」

「っ!」

 

 その時、四方の抱きしめる力が強くなった。

 船が沈んでいく。

 狂った笑い声が響き渡った。

 

「貴女のすべては永遠に私のものだ。ギヘヘ、ギヘヘヘヘヘヘ、ギキキキキキキキキキキキキキキキキ!!」

 

 歪なノイズ。黒板に爪を立て様な不快な音。

 かつて母だったものは、こんなにも変わり果てた。

 その事実がひたすら怖くて、悲しくて、水の中に引き摺られながら、思わず誰かに助けを求める様に、手を伸ばしてしまう。

 だが当然、何にも届かない。

 ふっと笑みが溢れた。

 ここにきて思い出すのが何故か、とわと、そしてまだ見ぬ自分の子供だったからだ。

 

(私は未だ、あんな子に縋りたいということか? 愚かな……)

 

 若葉は自分で自分を馬鹿にする。

 こんな弱ささえ、彼女は認められない。

 それを乗り越えようと思っての、旅だったのに。

 

「どうして……」

 

 若葉は何万と繰り返した問いかけを最後に呟く。

 きっとまた水底に付いたら、一からのスタートだ。

 全てを忘れて幽霊の様に彷徨い、夢を見て。

 でもやっぱり違和感に気づき、どうにかしようと抗い、最終的には母に敵わず、絶望する。

 それがこの世界の、何十万回も回り続けるサイクル。

 逃れる術はない。

 だってここは――

 

(永遠の、地獄の箱の中だから……)

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