生温いが、風が強い日だった。
暖かな日差し、鳥の陽気な歌声。
ついこの間まで雪が降り積もっていたというのに、こうして歩いていると、もう木々は青々とした葉をつかせ、辺りは生命の息吹の臭いで満ちている。
(もう、このような季節なのか)
妖怪退治の帰り。
薙刀を手にしたせつなは、そのことにふと気がつき、感慨深く辺りを見渡す。
しかしそれも短い間。
すぐに山中を歩いていく。
そして、獣道を抜けた、切り立った高い高い丘に来た時。
遥か遠くの風景に、ぽつんととシミのような、小さな見知った人影を目にした。
「……ふん」
せつなは足を止めた。
鼻を鳴らして眼下を見つめる。
そこは鬱蒼とした茂みに囲まれているが、一箇所だけ開けた場所になっている。
そのため、半妖の目を抜きにしても遠くからよく見えた。
そこにいたのは、先程見た二つの人影――とわと理玖だった。
彼らは何かを話し込んでいて、その会話の内容は強い風のせいか、はたまた距離があるためか聞こえない。
でも笑い合い、時にはしゃぎ、じゃれあうようなやり取りをしているのは分かる。
やがて無意識にか、次第に二人の距離はするりと近づいていく。
その内、理玖がタイミングを見計らったように、とわへ手を伸ばした。
まず、その短い白髪を、堪能するようにじっくり撫でる。
次は頬へ。
そのまま長い指を滑らさせ、華奢な首筋や耳たぶを愛撫するように触れる。
最後はとわを引き寄せ、その壊れそうな腰にそっと腕を回して抱き締めれば、額に口づけを行う。
とわはもちろん、くすぐったそうに身動きし、顔を赤くさせ、戸惑っていた。
それでも、嫌がる素振りは見せていない。
むしろ、身を任せている。
それは恋人同士の触れ合いと、なんら変わりないようにせつなには思えた。
少なくとも、理玖には激しい情念がある。
その手つきが言葉よりも雄弁にとわへの思いを語り、その顔にはとろけるような陶酔が浮かんでいる。
「……一体何がそこまで」
ベタベタと姉に言い寄る不届き者も、それを許している姉も、何もかもが気に入らない。
いつもの仏頂面を更に険しいものにして、せつなは二人を見続ける。
幸にして、ここは上風だった。
匂いが運ばれず、ばれることはない。
そして、どれくらい時間がたったか。
しばらくすると、後ろから名を呼ばれていた。
「おーい、せつな」
背後を振り向くと、もろはが腕をぶんぶんと振っていた。
その隣では、彼女の父母であるかごめと犬夜叉がいる。
せつなは慌てて背筋を伸ばした。もろはだけならともかく、叔父と叔母の前で失礼な真似はできない。
「もろは。それに叔父上に叔母上。おはようございます」
「おう」
丁寧に頭を下げれば、犬夜叉が短いながらも明るく返事を返した。
かごめは「相変わらず礼儀正しいわね、せつなちゃん」と、靡く髪を抑えながら、笑みを溢している。
それにしても、もろはか犬夜叉、どちらかならともかく、一家勢揃いでここにいるとは珍しい。
気になって、せつなはそのことについて聞いてみた。
すると、犬夜叉が答えた。
「ちょっと、そこら辺でな。“家族”でぴくにっくってのをやってたんだぜ」
無意識にか家族の部分を強調し、少し恥ずかそうに言う犬夜叉。
ぴくにっく……は何か分からないが、どうやら親子水入らず、一家団欒という奴をしていたらしい。
現にもろはは物凄くご満悦で、かごめも幸せそうに、手にしていた籠の入れ物を持っている(臭い的に、元はおにぎりが入っていたのだろうか)。
(もろは。良かったな)
その様子に、らしくなく、せつなは密かに微笑した。
かつて一人であったもろはが、今はこんなにも楽しそうに親と過ごしている。
その事実はクールなせつなでも、仲間として嬉しいものだった。
「で、せつなの方は何してんだよ」
朗らかな気持ちでいると、今度は当然の流れとして、もろはが聞いてきた。
せつなは途端、理玖のことを思い出し、元の仏頂面に戻る。
答える代わり、くるりと前に向き直って、眼下を鋭く睨みつけた。
それに気づいた犬夜叉一家は、仲良く顔を見合わせてから小首を傾げ、せつなと同じように、丘の下の方へ視線をやる。
「げ……、あいつら!」
「まあっ!」
「……お!」
すると、三者三様、びっくりしつつも、面白いくらい反応が別れた。
だが、流石家族か。
彼らのリアクションは共通して大きかった。
特にかごめは、キラキラ目を輝かせている。
「マジかよ。あいつらこんなとこで……。
お、また理玖の旦那から額に口づけしてやがる」
「本当に理玖さんって積極的よね。ここまでいってたなんて知らなかった〜」
気づかれぬようヒソヒソと喋りつつも、きゃっきゃきゃっきゃとはしゃぐ、かごめともろは母子。
反対に、何がそんなに面白いんだと微妙な顔をしている父、犬夜叉。
彼は同意しかないことを言った。
「っけ、あんな奴の何処がいいんだか。とわも男の趣味が悪いぜ」
「えー、何よ、犬夜叉。反対してるの?」
盛り上がったところに水を刺されたのか。
かごめが不満げな目を夫に向けた。
すると、犬夜叉は腕を組み、
「だってよぉ、見るからに怪しいというか、弥勒よりチャラチャラしてるじゃねえか。ぜってえ、碌でもねえ奴だぜ」
「まったく、叔父上の言う通りです」
せつなは一つ、こくりと犬夜叉の発言に頷いた。
そんな従姉妹に対し、もろははニヤニヤと笑った。
「相変わらずだな、せつな。やっぱまだ、姉ちゃん取られて嫉妬してんだな」
「……そうではないと何度も言っているだろう。逆にもろは。お前は何故、賛成しているんだ」
実は言うと、初めはせつな同様反対していたもろはである。
それがいつしか意見をころりと変え、現在ではとわの恋路を応援しているというのだから、せつなからしてみれば裏切り者なのだ。
だから、せつなは厳しい……というか、非難する目になっていた。
「そもそもお前だって、思うところがあっただろうが。とわと一緒にいれず、不満がっていたのを忘れたのか?」
そっちこそ、人のことは言えないだろう。
そんな無意識の刺々しい感情を声に乗せて、せつなはやり返すように問いかける。
が、もろは気づいているのかいないのか、頭の後ろで手を組んで、溜息まじりに言った。
「そりゃよぉ〜。あたしも親父とせつなと同じで、理玖の旦那は正直胡散臭いと今でも思ってるぜ。それにお前の言う通り、もやもやはしてたさ」
「ならば」
「だけど、あんなとわの顔を見てたらさ。あたしのわがままで、嫌とは言えねえじゃねえか」
もろはは少し複雑そうに目を細める。
言われてせつなは、とわに注目する。
彼女は理玖ほどでないにしろ、やはり、安心しきって、幸せそうに笑みを浮かべている。
それは妹である自分や、従姉妹であるもろはの前では、決してしない表情。
理玖にだけ見せている、女の顔だった。
そして、それを見ていると、成る程、言葉が出なくなるのは当然で。
少しだけ……ほんの少しだけ、せつなはもろはの気持ちが分かった気がした。
まあ、だからと言って、もろはに同意したわけではないが。
むしろより、嫌な感情がむくむくと湧き上がってくるのを感じる。
そのまま、誰に言われるでもなく、無言の時間が続いた。
四人はただただ、各々何かを考えるように、理玖ととわが抱き合っているのを見ていた。
そして……ふと、珍しく犬夜叉が呟いた。
「あいつら、まるで、昔のりんと殺生丸だな」
「……そうね」
かごめは懐かしそうに、目元を柔らかくして微笑んだ。
せつなは犬夜叉の言うことが気になり、小首を傾げる。
「とわとあの男が、父と母に似ているのですか?」
「ええ。貴女のお母さんとお父さん……りんちゃんと殺生丸は、今以上によくデートしてたのよ。それこそ毎日のように。だから、雰囲気の感じは違うけど、何だか似姿が、ね」
確かに似ている部分はあるのかもしれない、とせつなは思った。
りんが伴侶に選んだ殺生丸は、年が離れた男。
とわが好きになっただろう理玖は、とわより長く生きている。
そして殺生丸も理玖も、よく自分の女の元に通っていて。
その度に逢瀬に連れ出すのだから、そこに好みの相手が、母子揃って現れたのかもしれない。
だとしたら、このままいけば、いずれ――
「……!」
ぴくりとせつなは反応した。
理玖が抱き締めるのをやめ、とわの手を引いて茂みの中に入っていったのだ。
あっという間に消えゆくその背を、せつなはぼんやりと眺めた。
「とわ」
姉の名を呼ぶ。
何故か、思い出すのは幼少期。
森の火事で手を離してしまったこと。
ようやくとわと再会出来たのに、今、その手を握っているのは別の男だ。
知らない間に、どんどんどんどん、距離が離れていく。
(とわ、お前はこのまま遠くへ行ってしまうのか。お前はどうなっていくというのだ。お前は……お前は、私の知らないお前になってしまうのか?)
理玖と逢瀬をするようになって、とわは日に日に変わっていった。
言葉に出来ないものが、とわを変なふうにしていった。
その姿を見て、何度怒りが湧いたことだろう。
居場所で悩んでいるのなら、既にせつなやもろは、父母逹がいるではないか。
それなのに、どうして。
何故よりによって、自分達を酷い目に合わせた麒麟丸と縁が深い、その男を選ぶのだ、と。
でもそんなこと言う機会も勇気もなくて、そしてとわに決定的な変化が起きたのが、あの秋の時。
かごめに不思議な髪型をやってもらって、送り出された後だ。
何があったか知らないが、あれ以降、とわと理玖の関係に何かが生まれた。
とわは逢瀬に行くことを否定しなくったし、一層、理玖を受け入れるようになった。
理玖の方も、アプローチが激しくなった。
好意を隠そうともせず、以前にも増して姉に言い寄り、触れ、気を引こうと定期的に贈り物まで送る。
とわはその度にお返しをして、いちいち幸せそうな笑顔を振りまいて――せつなの知るとわじゃないような表情ばかりして。
今ではあんなにも理玖と仲が深まり、他なんてどうでもいいみたいだ。
そうして、彼女が逢瀬で外の世界を知っていく度。せつなと周囲は置いていかれるような気がする。
とわが、そんな酷い奴じゃないと分かっていても。
(そうだ。それが私を何より、戸惑せるのだ)
だから、せつなはこんなにも恐怖し、嫌悪している。
認め難く思っている。
そのことを深く考えて自覚し、内心で自嘲する。
なんともまあ子供らしい、幼い情動だ。
本来なら、姉を祝福してこその妹なのだが。
「……」
何だか、少し自分に気分が悪い。
ちょっとだけ整理がつかなくなって、せつなは弱音を出して、聞いてしまう。
「叔母上、叔父上、私は正直、今のとわに良い思いをしていません。こんな思いを抱いて、おかしいのでしょうか。
もろは、反対してないと言ったが、とわが離れてしまうこと、お前は本当に怖くないのか。とわは私逹のことを、居場所だと思ってくれていないのかもしれないんだぞ」
「……」
せつなの問いに、犬夜叉一家はしばらく何も答えなかった。
その中でも、もろは気まずそうに目を逸らしていて、その頬を人差し指で掻いていた。
どうやら完全に否定は出来ないらしい。
その娘の代わりに、やがて犬夜叉が言った。
「あー、上手いこと言えねえけどよ。まあ、別におかしいことはねえんじゃねえか。あいつは俺逹の敵だった麒麟丸の分身って話だろ? それが姉と一緒にいるってんなら、思うところの一つや二つ、ねえ方がどうにかしてるぜ」
割と肯定されたことに、せつなは驚いた。
そして次に、かごめから優しく言われる。
「せつなちゃん、それにもろはも。不安にならなくても大丈夫よ。とわちゃんは、せつなちゃんともろはのこと、とっても大切だと思ってるもの」
「……そうなのか、お袋」
「ええ。ただね、自分らしくあれる場所が、とわちゃんには一つ増えただけなのよ、きっと」
その言葉に、せつなともろはは、不思議そうにするのだった。
まだ、その意味が理解できるほどの器でないためだ。だが、やたら印象的な響きのそれは、胸に突き刺さって残るには充分。
「自分らしくあれる場所、ねえ」
もろはが呟いたそれを、せつなは頭の中で、また繰り返してみた。
(それが居場所だということか?)
せつなは茂みの向こうへ目をやる。そうして、届くはずがないのに、姉に聞いてみた。
「とわ。お前にとっての居場所とは一体……私達にとっての居場所とは、なんだ?」
◆◇◆◇
とわの一日の初まりは、今日も何一つ変わりはしなかった。
朝日と共に起き、りんとせつなと一緒に朝ご飯の支度を始める。
もう慣れたもので、てきぱきと作業する手つきには目を見張るものがある。
でも、この戦国時代、材料も調味料も充実しておらず作り上げる料理の味はいつだって質素だ。
だから内心、罪悪感を感じるものの、現代のコッテリした食事を食べたくなる時がたまにあるのだった。
手早く食事を終えた後は、片付けを済ませ、各々、予定をこなす。
せつなは、今日も妖怪退治だった。
彼女は近くに住むもろはに声をかけたが、犬夜叉と何処か仲良く出掛けてしまったようで、諦めて一人で行ってしまった。
とわはりんの仕事を手伝う。
楓とかごめ、二人の巫女と共に薬草取りをするのだ。
目での判別も行うが、どちらかというと嗅覚でより分ける。
理玖に色々教えてもらったこともあり、その精度はなかなかのもの。
おかげで割と重宝され、最近では屍屋の依頼より、こちらに駆り出されることが多くなったのだった。
「ありがとう、りんにとわ、かごめ。お前達のおかげで、今日も助かったわい」
小二時間程。
ある程度薬草を積み終わると、老巫女は感謝を述べて、いっぱいになった籠を背負おうとした。
すると、足腰が弱くなったのかよろけ、慌ててかごめとりんが支える。
「大丈夫? 楓お婆ちゃん」
「これ、私が持つよ。お婆ちゃん。力強いし任せて」
気遣うようにとわが籠を抱える。
楓は思わずといったように涙ぐんだ。
村への帰り道を歩いていく。
かごめとりんは、そのまま楓を支え続けた。
とわは最近の近況を報告し、楽しく喋り続けた。
楓はその暖かな心遣いが嬉しかったのだろう。
口元を綻ばせては、いちいち感じ入るように頷いている。
そして、皺だらけの顔に、遠い情景に思いを馳せるような表情を浮かべ、
「……もう長く生きておったし、このような日々はないと思っておったんじゃがな。お前逹が帰ってきて、とわともこのように話せて、まるで夢のようじゃ。わしは幸せもんじゃな。このまま死んでも、悔いはないわい」
「ちょっと、やめてよ、楓お婆ちゃん。縁起でもないこと言わないで。この村にいなかった分、まだ習ってないこと色々とあるんだから」
「そうですよ。楓様にはまだまだ生きてもらわないと困りますよ」
年をとって精神的に脆くなった楓を、若い女逹は励ました。
「それに、ほら、楓様。あの子逹のこれからも見守らないと」
「おお、そうだったな。すまん」
老巫女は謝り、遠くの田んぼで作業をする、村人の若い男女二人を見つめる。
彼らは仲睦まじく話をしながら仕事をしていて、こちらを見つけると「楓様ー! かごめ様ー!!」と手を振った。
それに手を振りかえしながら、楓は息をつく。
「両思いだというのに今まで喧嘩しておって、まったく。一時期はどうなるかと思っていたが、ようやく祝言を挙げて安心したわい」
ほっとしたような老巫女。
りんやかごめも若夫婦とは顔馴染みなのか、感慨深そうにしている。
一方でとわはきょとんとしていた。祝言の意味を思い出すのに時間がかかっている。
(えーと、祝言……祝言って何だっけ。確か結婚ってこと?)
話を聞く限り、彼らはすれ違っていたものの、この度仲直りし、愛し合う関係になった、ということらしい。
なんとも、おめでたいことだ。
そして、ああ、いずれ自分もあれくらい理玖と……なんて思考が一瞬、頭をよぎって。
気がつけば、とわは若夫婦をじっと食い入るように見て、呟いていた。
「良いなあ……」
「……?」
すると、かごめが不思議そうな顔をした。彼女は数秒程考えるような仕草をして、尋ねてくる。
「とわちゃん、もしかして結婚に興味あるの?」
瞬間、とわは恥ずかしくなって、びくりと固まった。
すぐに慌てて誤魔化し、否定しようとする。
が、口を開く前に、楓はおかしくもないと頷き、
「まあ、とわも年頃じゃしな。そろそろ、そういうことを考えても良い時期ではあるな」
「ちょっ、楓お婆ちゃん!? 何言ってんの?」
唐突の言葉に驚き、とわはぎょっとなった。
「私、まだ二十歳にもなってないんだよ? いくらなんでも早すぎるって!」
「? そちらこそ何を言うておる。月の物も来ておるし、何も早くはないだろうて」
「え、そうなの?」
「そうじゃないかな。現にりんは、とわぐらいの時にはもう、殺生丸様と一緒にいたよ」
りんもなんてことないように言う。
とわは少し口を開けた。
若いと思っていたが、まさかそんなに早く母が殺生丸に嫁いでいたとは信じられなかった。
だが、それですぐに気づき、はっとなる。
そういえば戦国時代……昔の時代は、現代と違って寿命が短く、その分平均的な結婚年齢も早かったはずだ。
つまり、ここで明らかにおかしい発言をしたのは自分の方であり――
「あ、そ、そっか。そうなんだ。……そうだよね。ごめん」
「いやなに、こっちこそすまんの。とわ」
「うん。いきなりの話だったよね」
悪い訳でないのに、とわは罪悪感から笑って謝った。
何か気づいて、楓もりんも謝った。
こっそりとかごめが心配する。
「とわちゃん、大丈夫?」
「……はい」
別にショックを受けていない訳ではない。
だが、戦国の常識が自分の中の常識とギャップがあるのは、今更な話だ。
とわは気にしないよう感謝を述べる。
「ありがとうございます、かごめさん」
「いいのよ。とわちゃんにとっては、まだ慣れないことだろうし」
かごめはまだ少し心配なようで、気遣うようにそう言ってくれた。
それを見て、りんが複雑そうに少しだけ俯き……ふと、何を思ったのか。
とわへと目を細め、何故か嬉しいような、それでいて悲しそうな優しい眼差しを向けて、
「でも、そっか。一緒に暮らしてて全然気にしてなかったけど、とわももうそんな年か。短い間だけど、こうして見ると会った頃より成長してるね、とわ」
「……母上」
りんの言葉を聞いて、思わず涙腺が熱くなる。
娘を見守れず、ずっと十四年も眠っていた彼女の気持ちを思うと、胸がいっぱいにならざる得ない。
そして同時に、はたと気がついた。
戦国時代に来て、いつの間にか成長したと思われるほど、時間が経過していることに。
そして、季節が一巡りしていることに。
それが意味することは、即ち――
(私、もう戦国時代で暮らして、一年過ぎてたんだ)
それは、今更の気づきだった。
そして気づいた途端、自分の中で様々な感情が蠢き、別の意味でまた、胸がいっぱいになった。
それが何か、とわにはよく分からない。
ただ、どうしようもなく泣きたくなった。
「……」
その後何事もなくかごめと楓と別れ、帰宅するも、とわの心中は晴れなかった。
どうしても、もやもやとしてしまって、内職の作業も覚束ない。
その内、何かを察したりんに「出かけておいで」と言われ、とわは家を出た。
しばらく歩くと、気がつけばそこはただっぴろい草原だった。
ちょうど良い感じに切り株があったので座り込む。
風が気持ちいい。
そのまま、ぼーと青い空を見上げていると、雲の合間を縫うように、人型の何かが飛んでいるのを見つける。
それは銀の長髪と白くもこもことした尾を靡かせ、村の方に向かっている。
父、殺生丸だ。
邪見も、いつものようにもこもこに掴まっている。
「父上ー!!」
未だ慣れぬ称呼で呼びかけ、とわは大きく手を振った。
すると、邪見はこちらに気がついて何事か騒ぎ立てるようなリアクションを取ったが、父は降り立つことなく一瞥、去っていってしまった。
「相変わらずだなぁ」
ちょっとだけ寂しいが、いつものことなのでとわは気にしない。
それに、とわは知っている。
ああ見えて、実は殺生丸は子供にきちんと愛情を持ってくれている。
でなければ、贈り物はしないだろうし、家族に定期的に会いに来たりもしないだろう。
(……家族、か)
そこで、とわは溜息をつく。
この一年の間、こっちの家族――血の繋がった家族とは、驚くほど上手くやれている。
りんとはすぐに仲良くなれた。
殺生丸とはぎこちないながら、互いを父子と認識し、それらしく接することはできるようになった。
せつなとは姉妹の絆を取り戻してから、ずっと一緒にいる。
それだけじゃない。
犬夜叉とかごめ、もろはとも、楽しく過ごせてる。
なんて温かな繋がり。
これだけ大切な人達と一緒に日々を紡げるのだから、とわは幸せものだ。
間違いなく彼らのおかげで、戦国時代を選んだことが、正しい選択だったのだと思える。
でも、それでも――
「……会いたいなあ」
ぽつりと呟く。
頭の中で浮かび上がったのは、これまでの一年間の記憶。
四苦八苦しながら、戦国時代の暮らしを学んだ。
せつなともろは、二人と妖怪退治に明け暮れた。
りんやかごめ、犬夜叉達と現代の話で盛り上がった。
ただ一度、時代樹の下で殺生丸と共に腰掛け、日向ぼっこをしたこともある。
そして、理玖との逢瀬。
彼と色んなところに出かけて、色んなものをこの目で見た。
一緒に居場所について考えた。
彼の人柄を知っていった。
理玖の心は寂しくて、でも暖かくて、優しい。
その目には熱があり、その手は慈しむようにとわに触れる。
そして彼は常に、とわが愛おしいと口にする。
おいらだけの姫様だと、うっとり笑って。
そんな理玖に、とわはいつも恥ずかしくて何も出来ない。
もちろん、顔なんて見れないし、何を思って自分にそんな感情を向けるのか分からなくて、困惑する時もある。
でも、理玖にされるがままなのは、一緒にいると甘酸っぱい感覚が芽生えて、それが齎す安心感と多幸感が、何ものにも変え難いから。
だから、理玖は特別だ。
特別なのだ。
愛とか恋とかよく分からないけれど、少なくとも自分の中で理玖は、他の男の人と全然違うということはもう自覚している。
でも、だからって、じゃあそこから何をすれば良いんだろう。
そりゃあ、とわだって一端の乙女である。
もっと理玖と仲を深めたい、良い感じになりたい、なんて考えるのはしょっちゅうだ。
けれど、思いを伝えて拒否されたら?
そして仮に告白が成功したとして、その先に待っているのは?
(例えば、楓お婆ちゃんが言ったみたいに、この時代だと結婚とかになるのかな……けど、それってまったく想像が出来ない)
この年で結婚するのは、おかしくないという。
思い返せば、確かに村の同年代の子が嫁に行ったりした……なんてことを、何度か耳にした気がする。
きっとせつなやもろはに聞いても、そのことは当たり前だと言うのかもしれない。
そして、とわが結婚したいと言い出しても、あれこれ反対こそするだろうが、楓達のように普通のことだと言うのかもしれない。
つまり、現代育ちのとわからすれば違和感バリバリでも、この戦国時代では割と現実味を帯びた選択肢だということだ。
しかし、前述にもあるように変に感じる気持ちがあって、それが嫌だとか思う前に、ただただそんな選択肢が取れることに戸惑いがある。
そうして、ぐるぐるぐるぐる。
どうすれば良いんだと思考がぐだぐだになってどうしようもなく、ああと、途方に暮れ、一周回ってどうしてこうも苦悩しているんだろうと、少しだけ虚しい気持ちになった。
戦国に行くと決めた時は、まだ決意がある分、気持ちは明確で揺れなかった気がする。
それがまさか、こうも何をやりたいか(しかも恋愛絡みで)悩む日がこようとは、夢にも思わなかった。
向こうに残した日暮家の皆に言ったら、きっとびっくりされるに違いない。
「会いたいなあ……」
とわはまた、さっきと同じことを呟いた。
ここに来て、とわは何故か、無性に日暮家の皆と話をしたくなったのだ。
だって、この一年間、思い返してみて分かった。
自分でも自覚出来る程、とてもとわは変ったのだ、と。
それを伝えたいと思ったし、離れた分だけ積み重なった日暮家の変化も知りたいと思った。
でも、それは叶わないから、とわは心の中で思いを馳せて語りかける。
ねえ、草太パパ。
私ね、この一年間すごくすごく頑張ったんだよ。
今まで変わらないこともあったけど、慣れないこともたくさんあって。
その度に挫けそうになったけど、それを乗り越えて、色んなことがなんとか出来るようになったんだ。
いつも喧嘩してて、その度に迷惑かけちゃった私だけど、今なら自慢の娘として胸を張ってもらえるよね、きっと。
ああ、でも、喧嘩で思い出したけど、やっぱり今悩んでる時みたいに、どうしようもない時もあるからさ、萌ママのバイオリンがまた聞きたいな。
せつなもね、随分とバイオリンが上達していて、よく聞かせてくれるんだよ。
萌ママとせつなが二人で曲を弾いたら、すっごく素敵なはず。
それと、芽衣は今どうしてる? 私がいなくて寂しくない?
芽衣はすごくしっかりして真面目だから、落ち込んじゃってもすごく頑張って、私なんかが負けちゃうくらい、大きく成長していそうだよね。
お姉ちゃんとして、その姿が見てみたいなあ。
それでさ、いっぱい話をして……それから久しぶりに手を繋いで一緒に歩きたいよ、芽衣。
そうそう、大ママ。
かごめさん帰ってきたよ。
もろはと犬夜叉さんと一緒にね、幸せそうに暮らしてるんだ。
いつもいつも助けてもらって、可愛がって良くしてもらえてる。
大ママのことを話したら、一度だけ会いたいって、ぽろっと口にして、少し涙ぐんでた。
あの人も私と同じで現代には帰れない。
だけど、せめて大ママと再会出来ないのかなって思うんだ。
じいちゃん。
ブヨと一緒に長生きしてよ。日暮神社はじいちゃんがいないと駄目だし、まだまだ芽衣だって大人になっていくんだから、ずっとずっと見守ってて。
あ、でも、だからって無茶なことはしちゃダメだよ。腰が悪くなってるんだから。
あとね、それから――
「……ああ、駄目だなあ」
次から次に、日暮家への言葉が溢れて止まらない。
そして、いけないと分かっていても、現代での思い出を振り返ってしまい、また泣きたくなる。
こんなにホームシックになるのはいつぶりだろう。
久々なこともあって結構キツい。
とわは暗い顔をして項垂れた。
「……?」
と、そんな時だ。
ふと、嗅覚が知らない臭いを捉えた。
それは妖のような、人のような……そして、死臭のような。
どれとも表現できない独特の臭いをしていて、一瞬とわは困惑する。おまけにこの、肌が粟立つような強烈な妖気。
今までの戦闘経験から、とわは気を引き締めた。
そして、自然と切り株から立ち上がり、常に携帯している菊十文字に手を伸ばす。
が、次にその臭いの主が後ろから来た時……とわは拍子抜けした。
それはまだ十歳にも満たぬ、幼い童だったのだ。
せつなのような綺麗な黒髪。少年らしいあどけなさがあるが、将来成長すれば、さぞ甘いマスクを持つ青年になるだろうことを予感させる面立ちをしている。
小箱を大事そうに抱え、さっきから仕切りに「母様ー! 母様ー!!」と叫んでいる。
やがて、しらばくして。
辺りをきょろきょろと見渡すと、途方に暮れたように呟いた。
「母様何処ぉ、母様ぁ……」
童は可哀想になるくらい、悲痛に顔をくしゃりとさせた。
よく見れば、服はボロボロで泥だらけ。
瞳の下には隈があり、黒髪はボサボサであっちこっち跳ねまくっている。
「どうしよう。いなくなってもう一ヶ月も経つなんて……。このまま離れ離れになっちゃったら……」
そこから先は言葉に出来ないようだった。
童はじわじわと瞳に涙を溜めて、ついにはぴゃーん!! と声を上げて泣き始めた。
流石のとわも、これには黙って見ていられない。
すぐに童に駆け寄って、同じ目線になるようしゃがみ、宥める。
「どうしたの? 君、何があったの?」
「……!?」
するとびっくりしたように童は肩を跳ねさせた。
怯えるように縮こまりつつも、慌てて涙を拭い、武器を構えるかの如く箱を向ける。
「だ、誰ですか! アンタ!!」
「私はとわ。日暮とわだよ。大丈夫。酷いことなんてしないから」
「……」
「君のお名前はなあに?」
名前を問うと、童は数分の間、何故か固まった。
どうやら彼は、酷く狼狽したようだった。
口をぱくぱくさせ、……やがて聞き取れないほど小さな声で呟く。
「……そんなものないですよ」
「え?」
「何でもありませぬ。……ていうか、どうして僕が、初対面のアンタに名前なんて教えなきゃいけないんですか。そんなもの聞いたって、別に何の得にもなりはしないでしょうに」
皮肉げに言って、童は強気に鼻を鳴らした。
そうして、
「まあ、良いです。こんな奴に構ってる暇などありません。気にしなければ良いんです」
と、ぶつぶつ呟き、自分を納得させるように頷く。
それから、童は頭を下げ、踵を返そうとした。
「では、これにて失礼。僕はさっさと母様を――」
「待って」
だが、そこでとわは呼び止めた。再度童がびくりとしたように固まる。
「な、何ですか? どうしてまた声をかけるんです? 大して用はないはずでしょう?」
「そうかもしれないけど、でもそんなこと言われたって、私、君のこと放っておけないよ。あんなに泣いてて、よっぽどのことがあったんだろうなって思うし」
「……っ」
童は思わずといったようにたじろいだ。
そして、また信じられないとばかり「う、嘘ですよね。流石にお人好し過ぎますっ。何でそんなこと……」とぶつぶつ呟いた。
どうやら、信用してもらえてないらしい。
とわの口元に苦笑が浮かび上がる。
出来るだけ安心させるよう、優しい声音を出した。
「確かに私は、君からすれば怪しく見えるかもしれない。だけど、本当にただ純粋に、君の力になりたいだけなんだよ。ゆっくりで良いから、何があったか聞かせてくれるかな?」
「……笑ったり、馬鹿にしたりしませんか?」
「そんなことしないよ」
首を振る。
童はじっと、とわのその紅い瞳を覗き込んだ。
次に箱を見て項垂れる。
掠れたような声が出たのは、その後だった。
「母様が……」
「うん」
「母様がね。いつもみたいにふらっと、いなくなって。それでずっと探してるんです」
「そうなんだ……」
とわは童をもう一度見た。
見窄らしいその姿に、今までこの子は一生懸命母親を探していたんだろうなあ、と少し切ない気持ちになった。
それに、いつもみたいにいなくなって……という言葉が気になったものの、母親だって、子供を探しているはずに違いないと思った。
だから、彼女は童の手を取って提案した。
「じゃあ、一緒に探そう。私も手伝うよ」
「……良いんですか?」
童は目を見開く。思案する仕草をしてから、おずおずといった感じで、
「なら……よろしくお願いします。とわさん」
「うん」
とわはそれに、柔らかい笑みを返すのだった。