「無事か二人共!」
大きな声で、スピカとウラヌスに話し掛けてくる者がいた。
殆ど反射的にスピカが振り返ると、そこには天幕で会った時と同じく血塗れになっているカペラがいた。剣を握り締めて駆け寄る姿はなんとも狂気的で、これにはスピカもギョッとしてしまう。
しかしカペラの、こちらを心配する顔を見れば、そんな見た目の印象など彼方に吹き飛んだが。
「ええ、私は大した事な、いっ……!?」
「む! 脇腹が痛むのか!」
返事をしようとして、脇腹に走る痛みに呻く。カペラが心配したように尋ねてくるが、痛みの原因はすぐに思い当たった。
「やったなスピカー。仇を倒せたぞー!」
ぴょんぴょんと、暢気に跳ねながらやってきたウラヌス。
こいつに蹴られたのが痛みの原因であろう。
「はいはい、良かったわね。あとコイツは仇じゃないよ」
「む? そうだったか? まぁ倒したなら良いな!」
「良いのかそれで……」
ウラヌスの納得の仕方に、カペラは若干呆れ気味。スピカも痛みを忘れて乾いた笑みを浮かべる。
なんにせよワイバーンは倒せた。魔物化した同種個体の撃破は、魔王討伐にとって大きな一歩と言えるだろう。
とはいえこれもまた局所戦での勝利に過ぎない。
「ねぇ、カペラ。他の様子はどうなの?」
長い間ワイバーンと戦っていたスピカは、戦場全体の事が分からない。状況を把握するべく、カペラに問う。
尤も、答えは教わる前に察しが付いた。カペラの顔に、僅かだが力強い笑みが浮かんでいたからだ。
「全体的に勝利している。また多くの動物達が突進を止め、うろうろするだけになった。どうやら仲間の死骸を見て、突破する気力も失せたらしい」
見てみろ、と言わんばかりにカペラはとある方に片手を広げる。
示された方を見れば、確かに、もう戦いは起きていない。クマや鹿が、兵士達の前でうろうろするたけになっていた。時折突破しようとする個体もいたが、兵士達が武器を構えると、すごすごと引き下がっていく。
やがて鹿の一頭が兵士達を見てからびくりと震えるや、全速力で要塞都市とは反対方向に逃げていく。
一頭が逃げると、まるでその後を追うように他の動物達も同じ方に逃げ出した。今まで死を覚悟してでも戻らなかった道を、今度は全力で戻り始めたのだ。その変わり身にスピカも兵士も呆気に取られ、何人かの兵士が追おうとしたが、周りに静止されて立ち止まる。
もう、これは戦いとは言えない。いや、本来は戦いではなかったのだ。獣達はただ逃げていただけ。その逃げ道が
魔物化したワイバーンが倒れた今、兵士達と真正面から戦える個体はいない。獣達の快進撃も、これで終わりなのだ。
……勿論、これで『戦争』そのものが終わるという事ではないが。
「……魔王は?」
スピカや帝国兵達がこの前線を築き、動物達と戦っていたのは、魔王が来るという情報を信じたがため。
しかし魔物化したワイバーンこそ倒したが、魔王らしい姿は何処にも見られなかった、とスピカは思う。もしかすると他の兵士達は見たのだろうか? そう思って尋ねるも、カペラからの答えは首を横に振る事だった。
「こちらが知る限り、確認されていない」
「そう……来てない、のかしら?」
「ないとは言い切れない。伝令からの報告も、魔王がこちらに向かっているというだけのものだったからな」
伝書鳩を使った連絡には、どうしても時間差というものがある。魔王を監視していた斥候が新たな情報を得たとしても、伝書鳩が目的地へと届くには一〜二日は必要だ。
勿論伝書鳩は人間が走るよりずっと速く、何より斥候が逐一目標と本部の間を行き来しなくて良い。時間差という欠点があると言ったが、見方を変えれば人間自身がやるよりもその短所を改良したものと言えよう。つまりこれはないものねだりであり、時代が進んで凄まじく便利な道具が出来ない限りは解決しない問題だ。
なんにせよ、斥候が伝書鳩を放った後、魔王が行動を変えたという可能性は否定しきれない。軍隊など国家が関わるものなら政治的判断云々でそうもいかないだろうが、
油断はすべきではない。しかし『終わり』の可能性が現実味を帯びれば、人間の心は容易く気を抜いてしまうもので。
「……ふはあぁぁ」
間の抜けた声を上げて、スピカはその場にへたり込んでしまった。
どうやら思っていた以上に疲弊していたらしい。魔王が現れるという緊張感も(早とちりの可能性もあるが)解けて、腰に力が入らない。
強がっていてもこんなものかと、自分の情けなさにスピカはついつい笑ってしまう。カペラも微笑ましさを感じたようで、血塗れなのも忘れるぐらい朗らかな笑みを浮かべた。
「あれだけ勇ましく前線に出た割に、ちゃんと怖がっていたんだな。そもそも君に頼んだものは助言なんだから、前線に出る必要もないんだが」
「うるへー……一応魔王打倒を考えるのに役立つ情報は得たわ。直にワイバーンとやり合えたのは間違いなく収穫よ」
「そうか。なら、一旦都市の方に戻るか……いや、その前にみんなでお祝いだな」
「お祝い?」
何をするつもりなのか。訪ねようとするスピカだったが、その言葉はカペラに届かない。
がしゃがしゃと鎧の擦れる音が、近付いてきていたからだ。鎧の音に声を遮られ、スピカは反射的にそちらを振り向く。
するとそこには全身を鎧で包んだ帝国兵や騎士達が、猛然とこちらに駆け寄る姿があった。それもざっと数十人以上。
まさかこんな大人数とは思わず、スピカはギョッとしてしまう。驚いて仰け反ったものの、力の抜けた腰では立ち上がれず。あっという間に兵士達に囲まれてしまう。
「お前達か! あのワイバーンを倒したのは!」
「たった二人でワイバーンを、それも魔物となった個体を倒すとは驚いたぞ」
「ははっ! どうした? 腰が抜けたのか? なら救護兵のところに運ばないとな!」
やってきた兵士達はスピカの返事を待たず、次々と言葉を掛けてくる。スピカがおろおろしている間に動けない事を見抜かれ、ついには担ぎ上げられてしまった。
そこまでしなくても自力で、と言おうとしても、運ばれる揺れで上手く話せない。いや、そもそも彼等は聞く耳を持つだろうか? どうにもこの救助活動を楽しんでいる素振りすらある。
「わっしょーい! わっしょーい!」
それと何故かウラヌスも兵士達に混ざっている。お前も救助される側じゃん、と言ったところで楽しんでいる彼女は聞く耳も持たないだろうが。
カペラもくすくす笑うだけで、助けてくれる気配は微塵もない。帝国兵は兎も角、騎士団員達は彼女の命令に絶対服従だと言うのに。
どうしてこんな事になったのか。理由を考えてみれば、答えはすぐに浮かんだ。
勝ったからだ。
負ける可能性の方が高い『戦争』だった。しかし蓋を開けてみれば、苦戦はしたが勝利を掴んでいる。生き延びて今を迎えたがために、彼等は笑えるのだ。
勿論この勝利の一番の要因は、敵方最大戦力であろう魔王が現れなかった事である。また勝ったとはいえ、兵士の犠牲がない訳ではない。黒焦げになったり、潰れていたり、様々な『鎧』があちこちに転がっている。それらの傍には膝を折り、祈るように頭を下げる者の姿が見られた。倒れる帝国兵に祈りを捧げる騎士団や、その逆の光景もある。
そして兵士に倒された動物達の亡骸も、あちこちに転がっている。彼等とて魔王がいなければ、こんな形での死を迎える事はなかった筈だ。今でも故郷の地で、激しい生存競争はあれど、自由に過ごしていたに違いない。
傷跡はあまりにも大きい。起きた悲劇は今更消えない。
けれども生きている者がいる。逃げていった民の暮らしを、完璧ではないにしても、守れたのだ。
喜びを顔に出す理由としては、十分だろう。
「は、はははは! ははははは!」
「勝った! 勝ったんだ!」
「勝った勝ったー! わははははー!」
兵士が、ウラヌスが、笑い声を上げる。
「……ふ、ふふ。ぷ、あっははははは!」
スピカも笑う。
十人十色な笑い声。スピカ達から上がった笑い声は瞬く間に戦場だった場所を満たし、兵士達が喜ぶように拳を振り上げる。
そして、
「キャーキャッキャッキャッキャッキャッ」
なんとも癪に障る笑い声が、聞こえてきた。
多くの兵士達が顔を顰めた。誰だこんな品のない笑い方をしている奴はと言わんばかりに。そして周りにいる全員が同じ反応をしている事に気付き、犯人が見付からなくて怪訝とした顔になる。
ただ一人、スピカだけは青ざめていた。
――――覚えている。その笑い方を。
忘れるものか、忘れられるものか。何度夢に見た事か、何度うなされ、何度起こされた事か。
「どうしたスピカ? 顔色が今にも死にそうなぐらい悪いぞ?」
ウラヌスに声を掛けられたが、スピカは何も答えない。持ち上げられた状態のまま身体を起こし、辺りを見回す。
右も左も背後も見た。けれども、『そいつ』の姿は何処にもない。
「キャッキャー。キャッキャキャキャキャ」
なのに笑い声は聞こえてくる。すごく、近くで。
兵士達も表情を強張らせていく。何かがおかしい。近くで笑い声がしているのに、何故笑い声を出している輩の姿が見えないのか?
誰もが警戒心を強めていく。恐怖心や猜疑心が顔に現れる。
「キャーッ、キャッキャッキャッ。キャキャキャキャ」
その様子すらおかしいかのように、笑い声は聞こえ続けた。
スピカは、一点を見つめた。笑い声が聞こえてきた、そう思う場所を。兵士達が誰もいない、がらんとした空間だ。
しかし何も見えない。誰もいない。あるのは、戦いで倒されたであろうイノシシの亡骸ぐらい。
だというのに。
その亡骸が
笑い声以上にハッキリとした音。それは数多の兵士達の視線を集める。生きたモノなんて何もない荒野を大勢で眺める姿は、胡散臭い新興宗教を思わせるだろう。しかし此処にいる誰もが、そんな出鱈目な信仰ではなく、自身の感覚でそこを見つめている。
無論、確信は誰も抱いていない。抱きようがない。何故なら見えないのだから。
故に『そいつ』は最後まで誤魔化す事も出来た。出来たが、そうはしなかった。折角観客が気付いてくれたのだと言わんばかりに。
ゆらゆらと、何もない空間が揺らめく。
何が起きている? スピカと同じ事を、誰もが思っていただろう。呆けたように皆が立ち尽くしていて、精々揺らめきの近くにいた兵士が後退りするだけ。
やがて揺らめきの『膜』から、そいつが顔を出す。
この戦いの元凶たる、御伽噺の存在が――――