上様が如く 成敗!   作:鳩胸ぽっぽ助

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第一話 大江戸の暴れ馬

 歳の瀬も近づいた頃、珍しく江戸に雪が降った。いつもはこの時期、土埃が舞う程に地面は乾燥しているが、江戸の町は屋根も道も一面すっかり真っ白になってしまった。

 

 そんな様子を江戸城から眺める姿があった。

 

 ──八代将軍、徳川吉宗である。

 

 この男は、ひょんな事から征夷大将軍になってしまった男である。

 

 そもそもこの男、徳川幕府を開いた家康を曾祖父に持ってはいるが、その息子である秀忠の男系の子孫である徳川宗家ではなく、親藩である徳川御三家の一つ、紀州徳川家の生まれである。

 

 取り決めでは、宗家の血が途絶えた場合、御三家から将軍を輩出する事になっていたが、この御三家というのは一般的に尾張徳川家、紀伊徳川家、そして水戸徳川家を指す事が多い。

 

 その御三家の一つである紀伊徳川家に生まれた吉宗は、四男であった。よって本来は紀州藩の藩主にすらなる事もなく、ましてや征夷大将軍になる事すら有り得ない立場であったのだが、なぜか吉宗は紀州藩主になった後、天下の大将軍となってしまったのである。

 

 どのような経緯で将軍になったのかはまた別の機会にするとして話を進めるが、この吉宗は大変好奇心が旺盛な男で、様子を見てはこっそりと城を抜け、お忍びで町を闊歩するのを趣味としていた。

 

 その際、吉宗は自らを「徳田新之助」として偽名を名乗り、庶民と安酒を酌み交わして世間話に華を咲かせる。そのようにして普通なら絶対に目にする事のできない江戸の町の風情や民の生活を知る事で政に生かし、人口百万人を超える江戸の地で、数々の改革を行っていったのである。

 

 

 

 

 吉宗は「はぁ」と白い息を吐く。

 

「新之助、風邪をひくぞ」

 

 足が悪く、杖を突きながらも頑として傍に侍っている老翁・風間新右衛門が、連子窓から一緒になって江戸城の外を覗く。この風間は御側御用取次(将軍近侍職)であり、吉宗からは「爺」と呼ばれている者である。

 

「そう言う()()()こそ、お身体大切になさいませ」

 

 立場を介して見てみれば妙な会話のようであるが、この二人の関係はただの殿と爺の関係ではない。まるで立場が逆なのは、この二人の類稀なる関係のせいなのである。

 

「親父様、もっと温かい格好をしてください。もう歳なのですから」

「ハッハッハ! まだまだわしは元気じゃわい」

「まったく……親父様は……」

 

 三十代の若い吉宗はまだ老いを感じさせないが、新右衛門の毛髪は日に日に白くなり、髷の量も減ってきている。昔は黒々としてハツラツに見えた口ひげも、白髪交じりではさすがの貫禄も薄らいでしまう。

 

「紀州でも雪が降る事はめったにありませんでしたね」

「ああ、そうじゃな」

「幼き頃、珍しく雪が積もった時に、余は彰之助(しょうのすけ)と由美と三人で雪遊びをした事を覚えています。あの時、親父様にたまたま雪玉が当たってしまい、叱られて三人で大泣きを致しました」

 

 吉宗は懐かしそうに笑った。

 

「そんな事もあったのう……」

 

 新右衛門は目を細める。

 

「新之助、雪が降ると静かじゃな。こう静かじゃと、あの頃のお前たち三人の笑い声が聞こえてくるようじゃ」

 

 新之助とは、吉宗の幼名である。「親父様」と慕う爺の名前から一文字を与えられた名前であるが、吉宗もそれを気に入っていて、新右衛門も吉宗と二人きりの時だけ昔のままで吉宗をこう呼ぶ。

 

「お前たち三人は本当に仲が良かった。お前は産まれてすぐに母親とは離され、紀州の我が風間家で育ち、遊び相手として孤児の彰之助と由美を同じ屋敷に住まわせた。お前も彰之助も、よく屋敷の物を壊したのう。喧嘩もよくしておった。特にお前は気も短く、紀州の暴れ馬じゃと言われておったな」

 

 今は将軍と爺の関係であるが、この二人は親子のような間柄である。吉宗の母・お由利の方は、和歌山城の大奥の湯殿番であった為、身分不相応として側室にはなれず、出産後に吉宗とは別離させられた。以来、人里で隠れ住んだが、吉宗はこの事実を知らず、出産時に死んだと聞かされている。

 

 当時、家老の職に就いていた新右衛門は、主である吉宗の父・光貞から請われる形で、産まれたばかりの吉宗の面倒をみる事となった。風間家では昔から孤児を引き取っては育て、その孤児が成長して祝言を挙げるに至るまでしっかりと面倒を見ていた。中には恩義に報い、使用人として風間家に仕える者もいて、全員が親しみを込めて新右衛門の事を「親父様」と呼び、評判も良かった。

 

 新右衛門は実の息子同然に吉宗を慈しんで育て上げた。そういうわけで吉宗にとっては、新右衛門は育ての親なのである。

 

 そんな「親」から昔話をされると、いつも吉宗はむずがゆくなる。

 

「親父様、その話はおよしください」

「ハッハッハ! なぁに、本当の事じゃないか」

 

 笑っていると、小姓が廊下から声をかけた。

 

「炭をお持ちいたしました!」

「入れ」

 

 小姓はまだ若い。名を田中進次郎と言って、つい最近吉宗に仕えるようになった。歳の頃は十五、六。

 

「はっ!」

 

 すーっと障子が開き、進次郎は頭を垂れて部屋に入る。すぐに火鉢に火のついた炭を足し、自らは部屋の隅に控えた。

 

「上様、さあ火にあたられよ。体を冷やされては毒ですぞ」

「う……うむ」

 

 本来は老齢の新右衛門の為に炭を足させたのである。だがそこは天下の大将軍、この上におわす者は江戸城にはいない。

 

 歯切れの悪い返事をしつつ、吉宗は窓の縁から動かずにずっと外の様子を見ていた。

 

「……ひどい感冒が流行っていると聞く。江戸の民にはちゃんと炭が行き渡っておるか」

 

 この寒空の下、江戸の民はしっかりと暖を取れているのだろうか。吉宗は気がかりになる。

 

「冬はどうしても需要が多く、炭の値段が跳ね上がっているようですぞ。さらには今年の夏の大雨で、山から町へ下る途中の橋が崩れてしまいました。炭を売りに山を下りるには、遠回りを強いられているようですので、一度で運べる量も少なく……」 

「まだ橋は直しておらんのか」

「はっ。歳の暮れまでには直せる見込みでしたが、この流行り病で人足たちも皆臥せてしまい、普請が途中になったままになっていると聞いております」

 

 新右衛門は事情を吉宗に説明した。

 

「そうか。……難儀だな」

「はっ。医者の数も足りておりませんゆえ……何やら怪しげな祈禱をする輩まで出る始末」

「怪しげな祈祷? 何だ、それは」

「さぁ何でしたか。ム……? ムナ何とかと申しておりましたが、何やら舶来のものでしょうかな。何とも聞いた事もない言葉でしてなぁ。老いぼれにはなかなか……いやはや、ハッハッハ!」

 

 新右衛門は笑った。

 

「舶来の怪しげな祈祷か……。それはまずいな」

 

 吉宗はどうしたものかと顎をさする。

 

 ふと進次郎を見ると、寒そうに肩を震わせていた。

 

「進次郎、ここへ来て爺と一緒に火にあたれ」

 

 吉宗は閉じた扇子で火鉢を差した。

 

「いえっ! とんでもございません!」

 

 進次郎は顔を下げたまま、むしろ畳に額が擦れるまで頭を下げた。

 

「お前が寝込んでしまうと余が困る」

「はっ! 申し訳ございません! 決してそのような事には……っ!」

 

 進次郎は一向に動こうとしない。

 

「余の命だ。ここへ来て座れ」

 

 上様が火にあたっていないのに、小姓である自分が火にあたるわけにはいかないと、進次郎はずっと平伏したままでいる。

 

「進次郎、上様がお呼びじゃ。……お前くらいじゃろう、これほどに上様にかわいがられておるのは」

 

 まだ小姓として侍って日が浅いが、吉宗は進次郎を気に入りかわいがっていた。頬や額に面皰(にきび)がポツリポツリとあり、純朴そうな少年ではあるが、剣の腕が立つという。

 

「ははっ、ありがたき幸せでございまする!」

 

 口ではそう言いながらも、進次郎はまだ平伏している。

 

「……まあよい。遠慮する気持ちもわかる。ならば温かい茶でも飲ませてやろう。そうじゃ爺、爺の点てた茶を飲ませてやれ。進次郎も爺から茶の湯を教わるのだ。爺はこの江戸城で一番の茶を点てる男だ。その爺が死んでしまっては、飲めなくなるからな。覚えるなら今のうちだぞ、ハハハハ」

「うっ、上様! 何という事をおっしゃいますか! わしは老いぼれではござりまするが、まだまだ上様のお傍に置いてもらうつもりですぞ!」

 

 新右衛門は、吉宗の冗談を真に受けたかのように振る舞っては唾を飛ばす。

 

「進次郎、日々精進だ。何事も学んで生かせ」

「……はっ!」

 

 新参の進次郎は、吉宗と新右衛門の実のところの間柄をよく知らない。先の様子からも分かるように、二人きりで話す時は新右衛門の話し方はとても将軍と話すようなものではないのだが、他の者がいる場合は吉宗を「上様」と呼び、吉宗は新右衛門を「爺」と呼ぶ。

 

 遠く紀伊の国から共に出てきた二人は、器用にその主従関係を交代させて過ごしていた。

 

 

 

 

 新右衛門と進次郎が退出し、吉宗は一人になった。

 

 誰も居なくなったところで、吉宗は着替えの間の襖を開けた。そこには待ち構えていたように、若い女性が衣装盆に着物を用意して座っていた。

 

「どうだ茜、町の様子は」

「……病は七日ほどで完治する様子ですが、それは比較的裕福な者のみ。普段から食うに事欠く者たちは、高熱や肺炎を患い、死に至っております」

 

 吉宗は羽織を脱ぐ。それを茜が手伝い、衣紋(えもん)掛けに掛けてしわを正す。

 

「……亡骸もそのままになっております。何しろその家族も全員床に臥せっておりますので。どうやら一人が患うと、たちまち家中の者までもが臥せってしまうようです」

「それはいかんな」

「幸い、この寒さですので。……夏ならばひどい事でしたでしょう」

 

 吉宗は死臭を思い、顔をしかめた。

 

「では失礼いたします」

 

 茜は吉宗の上衣の帯を解き、順番に脱がしていく。最後に肌襦袢の紐を引くと、緩んだ胸元から吉宗の筋肉質な上半身が露わになった。肌の色は健康的に浅黒く、油を塗ったように艶がある。

 

「今日はより温かい肌襦袢を用意いたしました」

「うむ」

 

 茜は、吉宗が着ている肌襦袢を背中側から全て脱がせた。

 

 すると、背中一面に彫られた応龍の見事な入れ墨が露わになる。

 

 この入れ墨は、吉宗が将軍になると決まった際に「幼き日の絆に」と、吉宗、彰之助、そして由美の三人がそれぞれ体に彫ったものだ。

 

 吉宗は応龍、彰之助は緋鯉、そして由美は胸に月下美人。吉宗は征夷大将軍として天下の頂点に立ち太平を守り、彰之助と由美もその補佐をすると誓い合った。その三人の志と決意が入れ墨に示されているのだが──。……

 

 吉宗は金糸で織られた派手な袴を脱ぎ、いつもの質素な灰色の袴に足を通す。その上衣は臙脂(えんじ)色の無地の着物に、薄鈍(うすにび)色の羽織を羽織る。それが町を歩く際の吉宗の格好だ。平凡な一張羅ではあるが、この格好がちょうど具合がいい。

 

「このような日に、本当に行かれるのですか?」

「……ああ」

「せめて雪が解けてからではいけませんか? 明日は晴れそうですが」

「いや。事態は一刻を争う。医者がちゃんと患者を診ているか、薬を処方しているか気になる。この目で確認したい」

 

 吉宗は言い出すと聞かない。その性格を、普段は侍女に化けた御庭番の茜はよく知っている。

 

「では、才蔵に舟を出させましょう。感冒をもらわぬよう、くれぐれも病人と接触致しませんように」

「……ああ、承知した」

 

 着替えを終えた吉宗は茜の導きに従って、隠し廊下から城の裏口へと向かった。

 

 

 

 

 城を抜け出すには正門はもちろんの事、裏門もどこも通る事はできない。よって、舟に乗って堀を行き、人気(ひとけ)のない場所で舟を下りるのだが……。

 

 舟を漕ぐのは茜と同じ御庭番の才蔵である。吉宗と一緒に茜も舟に乗り、吉宗はごまかしに舟の半分に乗せた俵や行李を覆ったむしろの下で荷物と一緒に隠れている。

 

「……着きました、()()()

 

 才蔵は声を殺しながら、低い声で呟いた。

 そこへ吉宗がひょっこりと顔を出す。堀から江戸の町中まで繋がる水路を行き、船着き場でこっそりと下りる。

 

「いつも悪いな、才蔵」

「いえ」

 

 才蔵と茜は吉宗よりも五つほど年が下だが、彼らも吉宗と共に紀州の風間家で育てられた子供たちで、秀でた運動神経を見込まれて紀州忍者になるべく厳しい訓練を受けて育った。免許皆伝と同時に吉宗と一緒に江戸へやって来たこの二人は、今や江戸城徳川吉宗の抱える御庭番衆として常に吉宗の身の回りを警護していた。

 

 その他、様々な変装をして江戸の町に出向いたり、城内でも情報収集に努めたりして、間諜としての役割を担っていた。

 

 さて、舟を下りた吉宗は、この瞬間から徳田新之助となる。侍の格好をして、何食わぬ顔で江戸の町に溶け込んで見聞するのである。才蔵と茜もこの時はどこにでもいる町人風に身を整え、付かず離れずの距離でついて行く。吉宗がどこへ行こうと、才蔵と茜は決して見失う事はない。

 

(やはり寒いな。今日は手短にいきたいところだが……。とりあえず、まずは医者の所を見て回るか)

 

 吉宗は、まるで踏み潰した牡丹餅のように土と雪でぐちゃぐちゃになった悪路を進んだ。

 

 この時代の医者には主に漢方医と蘭方医が存在する。漢方医が勧める東洋医学は「健康とは五臓六腑の調和」とし、それを支えるのが「氣」。その調和が乱れた状態を「病」とした。診察後は個人に合わせた薬を調合したが、中国伝来の漢方薬の他に、日本独自の薬草なども使用された。また、薬には特効性がないものが多く、滋養強壮の薬が多かった為、効き目が期待できるまでには長期間かかる事もあった。また、鍼灸も盛んに行われた。

 

 一方蘭方医学は、長崎出島のオランダ人医師らを介して日本に伝えられた医学である。これは外科的治療を得意とし、化学的な薬品などを用いた治療を行っていた。現代の感覚に近い治療法と言えばわかり易いだろう。

 

 元々東洋医学を主としてきた日本の地において、この蘭方医学が行う外科治療は、目から鱗のものとして学ぼうとする者も多くいたが「患者に刃物を使う」などと敬遠される事もあった。

 

 吉宗に言わせれば、どちらも優れた点があり、どれが正しく、どれが間違いだという事はない。全ての民が健康に生活できるであれば新しい医学をどんどん取り入れていきたいと思ってはいるが、残念ながらまだこの頃、この蘭学は庶民にはあまり受け入れられていなかった。

 

 

 

 

 吉宗が長屋のはずれを歩いていると、何やら通りの家の前に人が群がり、ガヤガヤと騒がしい。

 

「おっ母がずっと咳込んでいて、あばらを痛めたみたいでさァ! ちょいと診とくれよォ」

「お願いします! この反物で何とか! 薬代として納めますから……!」

「赤ん坊が熱で泣きっぱなしなんです! 何か薬はありませんかっ!?」

 

 急いで医者の家の前まで来ると、一人の若い娘が何人もの人に取り囲まれていた。

 

「先生もこのところの診察続きでお疲れですので、もう半刻だけでもお休みさせてくださいませ!」

 

 医者の娘なのか何なのか、申し訳なさそうにしきりに頭を下げている。

 

「何だよそれ! こっちだってなぁ、看病続きでろくに寝てないんだぞ!」

「こんなに頼んでいるのに、休んでいるだって!? どういう神経してるんだい!」

「申し訳ありません! 先生もお疲れですので……」

 

 その娘も目の下に隈を作って顔色が悪い。飲まず食わず、そしてろくに眠らずに過ごしているのだろう。

 

(……なんと)

 

 その姿を見て、吉宗は胸が痛んだ。

 

「てやんでぇ! べらぼうめ!」

 

 男が激しく罵り、娘の肩を突いた。

 

「キャッ」

 

 娘は積もった雪の上に倒れ込んだ。

 

「この野郎! おっ母が死んだらテメェらのせいだからな! お医者だからって偉そうにしやがって!」

 

 男は娘に向かって雪を蹴り上げた。

 

「やめないか!」

 

 吉宗は見ていられなくなり、娘の前に立ちはだかった。

 

「ああん? 何だテメェは」

「通りすがりの者だ。おぬし、か弱い娘に手を出すとは見上げた根性だな」

「へっ! 侍風情が何を言っている! こんな戦のない世ではなぁ、刀差して踏ん反り返った侍なんぞ要らねぇんだよ! テメェらに病気が治せるのか、アアッ?」

 

 そう言われると、吉宗も耳が痛い。

 

「こっちはなぁ、明日の身も分からないんだ! 隣の家もよぉ、向かいの家もよぉ、みーんな家族が死んでるんだ! 医者がちゃんと診てくれりゃ、死ななくてもよかったのによぉ!」

「そのような事で、八つ当たりか」

「けっ! 小綺麗な格好してよぉ! どうせ侍なんか底辺の貧乏人の俺たちを見て、ほくそ笑んでんだろっ。医者もなぁ、どうせ銭持ってる奴しか診てくれねぇんだよ! だからこうやって断ってやがるんだ」

「違います! 父はそんな医者ではありません! ただ、ここずっと寝ておらず、夜中も町中を駆け回って診察をしていました。食事も取らず、薬を調合して……。立っているのもやっとなほどで……それで少しだけ睡眠をとってから診療を再開しようと……!」

「……そういう事だ。診ないとは言っておらん。出直して来いと言っておるのだ」

 

 吉宗が眉間にしわを寄せギロリと睨むと、娘を取り囲んでいた輪はスーッと離れていった。

 

「わ……わかったよ! くそっ、後でまた来るからな! 診てくんねぇと、ひ、ひひ……火ィつけるぞォ!」

 

 男はひるんで走り去った。集まっていた者たちも、ブツブツ文句を言いながら散って行く。

 

「……大丈夫か?」

 

 吉宗は娘に手を差し伸べた。

 

 娘は吉宗の手を掴んで立ち上がると、雪と泥で濡れた着物の裾を払った。

 

「お侍様、ありがとうございました」

「いや……。それよりお父上は大丈夫か?」 

「一刻ほど寝させてくれと言ったきり、すぐに寝入ってしまいました」

「……十分休憩を取って、飯も食わせてやるのだぞ。医者がくたばってはいかん。そしてお前も同じだ。ほら、せっかくの別嬪顔が台無しだぞ」

 

 吉宗は懐から手ぬぐいを出し、娘の雪で濡れた頬を拭いてやった。

 

「あっ……」

 

 娘は顔を真っ赤にし、うつむいた。

 

(……このお侍さん、きっと高貴なお方なんだわ)

 

 吉宗の手ぬぐいには香が焚きつけてあり、いい香りがした。伽羅か白檀か。娘にはそれがどの香木の香りかわからなかったが、胸のつかえがスッと消えるような気がした。

 

「ところで、流行病がひどいようだが。薬は足りているのか?」

「いえ、それが……。父は河川敷で薬草を育てていましたが、この雪で採りに行けずじまいで。例年ならこの時期は乾燥しているので、収穫した薬草を干すのにもちょうどいい時期だったのですが」

 

 娘の顔は未だ火照っているようだが、吉宗はそういう事に気が付かない。目を合わせず、顔を背けるように話す娘の様子を、ただ落ち込んでいるだけだと思ったようだ。

 

「そうか」

 

 吉宗はそう言ったきり、無言になった。

 

「娘。俺は手伝ってやる事はできないが、今の話、しかと聞いたぞ。また様子を見に来る。俺にできる事があれば何でも言ってくれ。あと……」

 

 と、懐に手を入れる。

 

「これで父上と一緒に、何か体が温まるものでも食ってくれ」

 

 吉宗は小さな手に小判を握らせた。

 

「こっこれは! いえっ、お侍様にこんな事をしていただくわけには……!」

「……この様子では、患者から金を貰っとらんのだろう。医者も稼ぎがなければ食うに事欠く。どうやらここは漢方医のようだな。漢方は医食同源。食事は大事だぞ」

 

 吉宗は微笑んで、その場を離れた。

 

「お侍様! お名前は? お名前を伺っても……?」

「俺か? 名乗るほどの者ではないが……ゴホンッ」

 

 吉宗はもったいぶって咳払いをした。

 

 

「俺は徳田新之助、貧乏旗本の三男坊だ」

 

 

 吉宗はそう言うと娘に背を向け、歩き出した。

 

「徳田……新之助様」

 

 娘はもらった小判を両手でぎゅっと握りしめた。

 

 

 

 

 しばらく往来を行くと、また雪が降って来た。

 

「……また雪、か」

 

 ひらひらと舞い下りてくる雪を手で受け止める。雪が降れど、江戸の空の寒さは雪国ほどではない。それは手の平ですぐに溶けてなくなってしまう。

 

 吉宗は近くの軒下で雪が止むのを待たせてもらおうと屋根の下へ入った。

 

「八代目、娘に小判はいけませんな」

 

 どこからともなく才蔵の声が聞こえる。

 

「ん? なぜだ。猫に小判というわけでもあるまい」

「あれでは何か買おうとも、医者の娘と知れていれば、店の者が何と言うか」

 

 吉宗はその意味が分からない。

 

「もっと細かな銭で渡すべきだと申すのです。このご時世、医者は民の救いでもあり、敵でもあります。救えば神、殺せば鬼、尊敬される者は常に紙一重の存在なのです。いくら地位があっても、民の中の一人でなければならないのです」

「分からんな、どういう事だ」

「能や力がある者は、与えるだけでは足りぬのです。ある者がない者に分け与えるのは道理でありますが、ない者から痛みを分けてもらってこそ、真の平等というもの」

 

 吉宗は首を傾げた。

 

「八代目の精神そのものではありませんか」

 

 吉宗は江戸に上り、将軍職に就いてから、あれもこれもとこれまでの慣例を捨てさせてきた。生活は質素に、食事を一日三食から二食へと減らし、一汁一菜にした。贅沢を好まず、また、城の者にもそのように通達した。

 

「こうして城の外を出歩くのも、民の生活を知りたいとの事からでしょう。志は御立派ですが、まだ足りませんねぇ……」

「何が足りない。言ってみろ」

「…………」

 

 そこまで言って、才蔵は黙ってしまった。才蔵は幼少から変に賢く、頭が回る。小生意気な物言いはその頃から何ら変わっていない。

 

「言え、才蔵」

 

 吉宗はムッとする。どうせまた猪突気味な自分を皮肉っているのだろうと思ったのだ。

 

「……ゴッ、ゴホッ」

 

 その圧に、才蔵は顔を逸らして咳込んだ。やや()()()が足りないなどとは死んでも言えない。

 

「と、とにかく、あの娘が店で小判を出せば、あの者の父親が診療費や薬代で大儲けしていると噂が立つでしょう。ですから細かい銭で渡せば良かったのだと申し上げたわけです」

 

 何とも回りくどい言い方をしたものである。ようやく合点がいった吉宗は「しまった」という顔をして、娘の家の方向を振り返った。せっかく良い事をしたつもりだったのだが、何だか後味が悪い。

 

「……ありがた迷惑だったというわけか」

 

 才蔵は返事をせず、逃げるようにすっとその場を離れた。

 

 

 

 

 すぐ止むだろうと思っていた雪はだんだんひどくなってきた。どうにもこうにも、寒くて仕方がない。もう二、三軒医者の様子を見に行くつもりであったが、足元が悪く、歩こうにも歩く気力が失せる。足袋も解けた雪や泥でべちゃべちゃだ。

 

(くそ。散々だな)

 

 やはり茜の言う通り、明日にすれば良かったと後悔する。ついでに豪快な(くしゃみ)が立て続けに出た。

 

(いかんな、一旦暖を取らなければ)

 

 ブルっと身を震わせ、吉宗はちょうどこの近くにある行きつけの居酒屋「天晴屋」の暖簾をくぐった。

 

女将(おかみ)、いつもの熱燗を頼む」

「あら新さん、いらっしゃい。やっぱりまた降ってきたのね」

 

 ここの店の女将・お麗が店先に駆け寄り、吉宗の肩に積もった雪を払い落した。

 

 歳の頃は吉宗よりも幾つか上か。子供はおらず、旦那とは数年前に死に別れ、以来一人でこの店を切り盛りしている。

 

「……客は? 今日は随分静かだな」

「それが、流行り病にこの雪でしょ? 今日は暖簾を下げようかって思ってたのよ、誰も来なくて。新さんが今日初めてのお客さんだわ」

「……そうか」

 

 まだ宵まで一刻ほどある。いつもは昼間に店を開ればすぐに客が出入りするような繁盛店なのだが、今日は閑古鳥が鳴いている。

 

 吉宗はいつもの奥の席に座り、冷えた手をこすり合わせて熱燗が出て来るのを待った。

 

「新さん、大丈夫なの?」

「ん?」

「流行り病よ。この辺でも、寝込んでしまって店を休んでるって人が増えてきてね。暖を取りたくても炭の値段は上がってるし、お医者にかかりたくても銭がなくて薬も買えないし、結局家族全員がかかってしまってどうしようもないんだって聞いたの。でも新さんは元気そうね。こんな寒いのに、いつもと変わらず顔色はいいし、いつもと変わらずお酒を頼むなんて」

 

 お麗は皮肉っぽく笑った。

 

 確かに元気なのは取り柄と言っても差し支えないだろう。たまたま近くまで来たから寄っただけだったが、何やら嫌味のように聞こえてしまい、吉宗は咳払いをした。

 

「はいお待ちどうさま」

 

 徳利が二本、猪口が二つ、卓に置かれた。

 

「ん?」

「私も飲ませてもらおうと思って」

 

 お麗は小皿に載った蒲焼きを置く。

 

「ったく調子がいいな。ん? ……鰻か?」

 

 甘辛い醤油の匂いに「これは豪華な」と、吉宗は嬉しくなった。

 

「新さん何言ってんのよ。鰻なわけないでしょ? これはね、(ニシン)よ。鰊を蒲焼きにしたの」

 

 この時代、鰊は下魚である。

 

「これが鰊だとっ!?」

 

 吉宗は生まれてこのかた食べた事がない。

 

「あら、お嫌い?」

「いや……」

 

 お麗は吉宗の猪口に酒を注いだ。

 

「まさか食べた事ないなんて言わないわよね?」

「…………」

 

 吉宗はグイっと猪口を傾け、酒を一気に飲み干した。喉がカァっと熱くなる。

 

「ま、いいわ。足が早いのよ、鰊は。新鮮なら、酢で〆るか、そうでなければ焼きにするか。私が手に入れたのはそうでなかった鰊よ。悪かったわね」

 

 お麗は不機嫌そうに鰊をパクリと食べた。

 

 

 ようやく体が温まってきた頃、何やら表が騒がしい。

 

「てーへんだ! 新さーん! 新さんはいねぇかッ!?」

 

 ガラッと店の戸が開く。

 

「今日はもう暖簾よ!」

 

 お麗が声を上げた。

 

「ちげぇよ! 俺ァ新さんに用事があるんだ!」

「俺だと?」

 

 吉宗は猪口を置き、緩んだ襟元を正して席を立った。

 

「あっ、新さんやっぱりここにいたか! め組に行ったんだけどよォ、今日は新さん来てねェって言うから」

 

 め組の詰所の傍で表具屋をしている顔馴染みの男だ。

 

「で、どうしたんだ、そんなに慌てて」

「悪いがちょっと来てくんねぇか! そこの奥の長屋の通りで喧嘩してるんだ!」

「喧嘩だと? また揉め事か……。仕方ない、参ろう」

 

 吉宗は懐に手を入れ小判を取り出すと、一枚卓に置いて店を出た。

 

「あっ、新さん! ちょっと待っ……」

 

 お麗はその代金を見て驚いた。

 

「新さんったら……いくら何でも払い過ぎよ」

 

 こんなに出してくれるなら、もっと他にも肴を出せば良かったとお麗は思った。

 

 

 

 

 表具屋に導かれて駆けつけてみると、若い男2人が取っ組み合いの喧嘩をしていた。

 

「いってぇどういう神経してるんだ! おめぇにはお天道様が見えねぇのか!?」

 

 馬乗りにされて、下になっている男が叫んだ。

 

「おう、お天道様だぁ? どこにそんなもんがいるんだよ! ああぁ?」

 

 あいにく今日は分厚い雪雲に隠れて太陽は見えない。

 

「そういう意味じゃねぇよ! 俺はな、悪い事をすれば神や仏が必ず見ているんだぞという事を言ってるんだ!」

「はぁぁぁん? だったら何だよ」

「かわいそうに、この寒いのに自分の褞袍(どてら)*1を質に入れて、薬を買ったんだぞ! それを奪うとは……!」

「はんっ、知るかよ」

 

 どうやら薬を奪ったらしい男は、下にいた男の腰を蹴った。

 

「おい、ガキ。そんなに金が必要ならいい置屋を紹介してやるぜ? ヒヒヒ……」

 

 男は傷のある顔でニタニタと笑いながら、自分の長いもみあげとそこから繋がる汚らしい無精ひげを撫で、小さくなって震えている少女に近づいた。

 

「おい、ツラ見せろォ」

 

 男は少女の顎に手をやり、グイっと顔を上げさせた。

 

「ほう……よく見りゃ上等な顔じゃねぇか。こりゃ年頃になれば化けるなァ、ヘッヘッヘ……」

「やっ、やめてください!」

 

 少女は目にいっぱい涙を溜めて男を睨んだ。

 

「何だぁ、その目つき。大人しそうだと思ったら、なかなか気が強そうじゃねぇか。ハハハ! こりゃあいい! お前なら禿(かむろ)から花魁になるまでそう時間はかからねぇだろうなぁ! 金になるぜぇ! ヒャ~ハッハッハ! 」

 

 男は下劣にも高笑いをした。

 

「手を離せぃ!」

 

 低い声が響いた。

 

 するとどこからともなく扇子が飛んで来て、少女の顎を掴んでいた男の手に鈍い音を立てて当たった。

 

()てっ! 何だ?」

 

 飛んできた扇子には、「成敗」の文字が書かれている。

 

「聞いていたぞ。その少女から薬を奪った上に、遊郭に売り飛ばそうとは、下劣千万。即刻薬を返せ」

「はぁん? 何だテメェ。関係ないだろうが」

「ふっ、確かに関係はないが、このような狼藉を見聞きした以上、貴様を放ってはおけん。今すぐ返さねば、二度とお天道様を拝めぬようにしてやるが、いいのか?」

 

 吉宗は拳を握り、静かに構えた。

 

「……何だァ? やんのかァ?」

 

 男は拳を構えた吉宗に対抗し、懐に隠していたドスの柄を掴んだ。

 

「拳で勝負か? 腰のモノはお飾りかよ」

「……俺は今日、大変な一日でな。すこぶる機嫌が悪いんだ」

「だからどうだってんだ! テメェの機嫌はテメェで取りやがれッ!」

 

 男は鞘からドスを抜き、吉宗に斬りつけようと振りかざした。

 

「遅い!」

 

 吉宗は身をかわし、ドスを握る男の手首に手刀を落とした。

 

「ウガッ!」

 

 ビリビリと痛む手首に男が気を取られると、すかさず吉宗は男の後ろ襟を掴み、遠心力を使って放り投げた。 

 

「ゥオラァァァァァァッ!」

 

 男は民家に立てかけてあったよしずに激しく背中を打ちつけ、弾みで積んであった樽が崩れ落ち、男の頭にかぶさった。

 

「こっ、コノヤロー! 何しやがんだァァァ‼」

 

 男は頭にかぶった樽を外そうと、樽に手を掛け、目を出した瞬間──。

 

 既に目の前に吉宗の足が迫って来ていた。

 

 吉宗は樽をかぶったままの男の頭に回し蹴りをし、倒れた男はそのまま雪の上に突っ伏して伸びてしまった。

 

「しばらく寝てろ」

 

 吉宗は吐き捨てるように言うと、襟を正し、首をゴキゴキと鳴らした。この騒ぎを見ていた者たちは皆あっけにとられ、言葉をなくしている。

 

「……大丈夫か?」

 

 吉宗は座り込んでいる少女に近づき、声をかけた。

 

「お前、名前は何と言う?」

「……お前じゃない」

「ん?」

「私は『遥』。……お前じゃない」

 

 少女は座ったまま、じっと吉宗を見上げていた。

*1
防寒用に綿を入れた着物

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