上様が如く~八代目・将軍吉宗評判記~   作:鳩胸ぽっぽ助

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第二話 め組の狂犬

 その「遥」と名乗った少女の目はまっすぐ吉宗に向いていた。歳の頃は、十歳前後か。まだ幼さが隠せないが、その眼力の強さに、さすがの吉宗も一瞬たじろぐ。

 

「おじさんは?」

 聞き慣れない「おじさん」という言葉に、吉宗はドキリとした。

 

「ああ……。俺は徳が……、“徳田新之助”だ」

 思わず本名を言ってしまいそうになるほど、この遥と名乗る少女の目は澄んでいる。

 

「おま……、いや、遥。あやつに何を盗られた」

 と、伸びている男へ視線を移す。

「薬。おっ父の薬。……おっ父は元々体が悪くて、ずっと薬を飲んでた。でもここ最近、いつも飲んでる薬の値段が上がっちゃって……。でも、薬を止めるわけにはいかなくて……、それで最近はおっ母の着物とか、家具を質に入れて何とか薬を買ってたの。でも、とうとう売る物も底をついて、……それで」

 と、遥は涙を堪え、唇を噛んだ。

 

「それで自分の丹前を売ったのだな」

 遥はコクリと頷く。

「それで手に入れた銭で、薬を手に入れたは良いが、あの男が奪ったのだな?」

 吉宗はため息をつく。

「待ってろ」

 吉宗は、転がっている男を仰向けにした。頭を蹴られて、白目をむいている。

 

「……ったく」

 男の着物の襟を開き、懐に手を入れる。

「ん?」

 紙に包まれた薬の他、女もののかんざしや中身が入った巾着袋が何個も何個も出てきた。

(ったく、盗人が。……どれも女物ばかりではないか。どうしようもない輩だな)

 どうやらか弱い女ばかり狙って、ひったくりなどを繰り返していたようだ。

 

「遥、お前が盗られたのはこれか?」

 と、薬の紙包みを見せる。

「う、うん!」

 遥は立ち上がって、慌てて取りに行った。

「さあ、すぐに父上に届けなさい」

「あっ、ありがとう。……徳田のおじさんっ!」

 遥は嬉しそうに笑った。その笑顔を見て、吉宗は胸がすっきりとした。

 

(この子も生活が苦しいのか……。しかし、あいにく……)

 先ほどの医者の娘同様、いくらか恵んでやろうと思ったが、彰之助の言葉がその衝動を抑えた。

(……銀は持っておらんゆえ)

 小判を渡すと、また何か言われるだろう。

 

「気を付けろよ」

「ありがとう!」

 手を振って去って行くかわいらしい少女・遥を、微笑んでずっと見守る吉宗であった。

 

 

 吉宗は両手に持ったかんざしやら巾着やらを見て、深くため息をついた。

「……八代目、いかがいたしましょうか」

 またどこからともなく、彰之助の声がする。

「……こいつはきっと懲りない奴だろう。ほら、入れ墨もある。おそらく過去に何回も縛に就いたことがあるのだろう」

「……では、奉行所に」

「うむ、それがいいだろう」

 ひそひそと話していると、

 

 

「新ちゃんやないか~ぃ」

 

 

 と聞き覚えのある声がした。

「……ん?」

 吉宗はキョロキョロと辺りを見渡した。

「こっちや、こっち。め組のカシラ、辰吾朗のお出ましやでぇ~?」

 と、番傘を担ぎ、手を大きく振ってフラフラと歩いてくる姿が見えた。後ろには3人、若衆がついて来ている。

「…………」

 吉宗は目を細めた。

 

 辰吾朗は、この寒さの中、裸の上半身に黒腹掛を纏い、め組の揃いの法被を羽織っている。腰には本物の蛇の皮で作ったという帯を締め、ドスを差し、左目には「め」と書かれた眼帯をしている。

「……何だ、め組の兄さんか」

「何だとはご挨拶やなぁ?」

 

 この男、め組の辰吾朗は、江戸生まれにありながら関西の言葉を話す。

 

「何や、喧嘩や言うて聞いたから来てみりゃあ、もう終わったんかいな」

「……ああ」

「つまらんのぅ。江戸の冬や言うたら、火事が多くて退屈せぇへんのに、何や最近はジメジメと雪なんか降りくさって、火事なんかひとーつも起きへん。あんまりに暇やから、火ぃでもつけたろうか思うとったところやで~?」

 と、辰吾朗はジロジロと吉宗を舐めるように見た。

 

「兄さん、そ、それは……、よしてください」

「火事と喧嘩は江戸の華やて、よう言うやろ~? 何でワシを呼ばんのや」

「…………」

 にやけ顔で迫る辰吾朗から、吉宗は思わず目を逸らした。

 

 突然、辰吾朗は番傘を振りかざし、傍に引き連れた若い男を思いきり引っ叩いた。

 

「せっかくの喧嘩にワシが呼ばれとらんのはどういうことやねん!? おおっ!?」

「ヒィッ!」

「いっつも言うとるやろ~!? 新ちゃんが大立ち回りしとったら、ワシを呼べって!!」

 と言いながら、バシバシと鈍い音を立てて傘で殴りつけている。

 

「かっ、カシラ! どうかご勘弁を!」

 若い男は頭を抱えてうずくまっている。

「このドアホっ!! おらっ! おらっ! おらーっ!」

 番傘はボロボロになり、軸がくの字に曲がってしまった。

 

「何や、傘が曲がってしもたやないか!」

 と、辰吾朗は若い男を蹴り転がす。

「あほんだらあぁぁぁぁっ!」

 辰吾朗は、転がって仰向けになった若い男の目に傘を突き立てようとした。

 

 吉宗はすかさず傘を振りかざした辰吾朗の腕を掴み、動きを止めた。

 

「何や?」

「……その辺で」

 

 動きを止められた辰吾朗は、おもちゃを取り上げられた子供のように、つまらなさそうな顔をした。

 

「甘いなぁ、新ちゃんは。アマアマや~」

 辰吾朗はニヤリと笑った。

 

「お前の為に言っとるんやでぇ? 天下の()()ちゃんに何ぞあったらこの日本(ひのもと)は終わりや。そこんとこ、ちゃあんとわかっとるんか?」

 

「吉宗」と聞いて、辰吾朗と一緒にいた若い男たちは顔を見合わせた。

 

「か、カシラ。吉宗って……あの将ぐ……?」

 吉宗がギロリと睨むと、男たちはひるんで口を閉じた。

 

「め組の兄さん、……俺は一人で大丈夫ですから」

「ほぅ~」

 吉宗と辰吾朗は、鼻先が触れ合いそうな程の近距離でにらみ合った。

 

「ま、ええわ」

 辰吾朗はすっと離れた。

 

「……新ちゃんも下っ端にはこんくらい厳しくシツケせなあかんでぇ? ……でないと、いつ何どき寝首を掻かれるかわからん。せやろ?」 

「…………」

 吉宗は、雪の上で腰を抜かしている若い男に目をやった。

 

「今度はちゃんとワシを呼ぶんやで? ほな」

 壊れた傘を振り回しながら、辰吾朗は来た道を戻って行った。その後を、同じ揃いのめ組の法被を着た男たちが慌てて追いかけて行く。

 

(……相変わらずだな)

 吉宗は溜息をついた。

 

 江戸の火消しとして「め組」を率いる辰吾朗は、元々鳶職人であったらしい。詳しい素性はわからないが、今は所帯を持ち、自宅を詰所として多くの人足を抱えていた。

 

 

 吉宗とその辰吾朗との出会いは、まだ将軍になって日も浅い頃のことだった。

 

 ──初めて江戸城を抜け出し、夜の町を当てもなく歩き回り、見聞していた時のこと。

 

「ワシにも仕事させろっちゅうてんねん」

「だめだ」

「ワシは元々鳶やったんやでぇ?」

「知ったことか」

 目に眼帯を着けた男が、火消したちに詰め寄っていた。どうやら格好と風格からして、大名火消ではないか。そんな事も気にせず、男は話し続けた。

 

「なんや、江戸言うたら火事が多いそうやな? からっ風がそうさせるのかのう。すぐ燃え広がるらしいやないか、イーッヒヒヒッ」

 と、男は気味悪く笑った。

 

「だいたいお前は何だ。言葉も変だし、何を言っているのかよくわからない」

「ああん? ワシの言葉か? ワシはのぅ、生まれは江戸やけどなぁ、つい最近まで大坂*1におったんやでぇ? 大坂っちゅうたらな、天下の台所言うてなぁ……」

 と、酒に酔っているのかどうなのか、フラフラと足元はおぼつかず、上半身は大きく身振り手振りでクネクネと動きながら、延々と身の上話と愚痴を話している。

 

「ええい、うるさい! 去れ!」

「何でやぁ。……江戸の奴らは冷たいのぅ」

 

 そんな様子を吉宗は通りすがりに横目で見ていた。

 

「のう、お侍さん。ほれ、アンタや、その綺麗なべべ着とるアンタ。ちょっと助けてぇな」

「……なにっ」

 吉宗は突然話しかけられてドキリとした。見た感じからすると、あまり関わりたくない。着物も着ず、裸の上に直に羽織を一枚軽く羽織っており、とても普通の輩に見えない。

 

「ほぅ……、アンタ綺麗な顔しとるなぁ」

「…………」

 

 ジロジロと見る様子に、吉宗は思わず腰の物に手を掛けそうになった。

 

(あん)ちゃん、ワシは最近まで大坂におってな、こっちに来て日も浅いんや。でも何かせんと食うていけへんやろ? せやから火消しになりたい言うとるんに、このけったいな男があかん言うんや。それにワシの言葉もわからん言うて、あっち行け言うんや」

(火消し……か)

 

 吉宗が江戸に上るにあたり、この地のいくつかの課題点をあらかじめ聞いていた。その一つに、火事の多い江戸の町の消火作業の効率化を図るというものであった。

 

 江戸の町は、年々人口が増え続けていたため、住宅が密集し、ひとたび火事が起これば瞬く間に燃え広がっていた。また、冬の間は雨も少なく、空気が乾燥していたため、その被害は更に大きくなっていた。

 

 火事の対応というのは、ずっと江戸の課題であり、あれこれ対策をしてきたものの、どれもパッとせず、やはり兵農分離の政策があるせいか、立場が違えば我関せずなところもあり、うまく機能していなかったこともあった。よってこの事は、吉宗が将軍になってから真っ先に取り掛かりたいと思っていた問題であった。

 

 

「お主は一体……?」

「ワシか? ワシは真島組の辰吾朗や。真島組いうのはな、大坂でやっとった鳶の屋号やで。アンタは?」

「……俺は徳が……、徳田新之助と申す。旗本の三男坊だ」

「旗本ぉ!? 坊ちゃんやないかい! どうりでなんやええ格好しとるわけやな!」

 

 吉宗は自分の着物の袖に、袴に、草履に、すべて目をやった。確かにこんな格好で、こんな夜にうろつくなど、さも襲ってくれと言わんばかりの格好だ。

 

(どうも一般的ではなかったか)

 由美が咎めるのも気にせず、自分なりに町に馴染むような格好をしたつもりだが、どう見ても花街で遊ぶ裕福な男にしか見えないような格好をして来てしまった。

(やはり由美に用意させればよかった)

 今さら後悔してもどうしようもない。

 

「そこの旗本の三男坊とやら。こんな怪しげな男に関わっているとろくなことがないぞ。さっさと無視して立ち去った方が身のためだ」

 と言いながら、火消したちは逃げるように去って行った。

 

「ひどいのぉ。ホンマ、江戸の人間は冷たいわ」

「……俺の生まれは関西でな。5歳からはこっちで過ごしていたが、少しなら関西の言葉がわかる」

 見た目は怪しいが、そう悪い人間ではないように見え、吉宗はこの辰吾朗という男に少し興味を持った。

 

「そりゃホンマか? 嬉しいのう。ここに来て、みーんな変な顔するんや。ワシからすりゃ、江戸の言葉こそ、わけわからんっちゅうに。せっかちで早口で、怒っとるみたいやわ。“てやんでい”ばーっか言いくさって、のう?」

 吉宗は何も言えず、視線を落とした。

 

「新ちゃんゆうて呼んでええか?」

「しっ、新ちゃん……だと?」

「ええやん。なぁ、お近づきのしるしに飲みに行かへんか?」

「…………」

 吉宗は建物の陰に隠れていた彰之助に目配せをする。

 

「な、ええやないか。一杯だけや」

 強引に手を引かれ、近くの店に押し込まれてしまった。

 

 それが辰吾朗との出会いだった。

 

 一杯だけ、という話だったが、辰吾朗は“ザル”だった。吉宗もなかなかに大酒飲みであったが、さすがに飲み続けていると瞼が閉じてくる。

 

「……何や新ちゃん。固い顔して強いかと思うたら、弱いんやのう」

 卓に伏せかかっている吉宗の背中に手をやる。

「ん?」

 酔って緩んだ着物の背中に、辰吾朗は何かを見つけた。

 

「おう?」

 辰吾朗は襟を掴み、中を見た。

「こっ、こりゃ何や!?」

 

 辰吾朗は、吉宗の背中に入った入れ墨を見つけた。

 

「新ちゃん、起きぃや」

 激しく揺さぶる。が、吉宗はむにゃむにゃ言って、固く瞼を閉じている。

 

「見してくれへんか? 背中のもん」

「んぁあ?」

 ようやく目を開けた吉宗は、寝ぼけているのか、言われるまま着物を脱いだ。

 

「オホホホーッ! すごいやないかい!」

 目を見張るほど色鮮やかに彫られた龍の絵を、辰吾朗は興奮気味に見た。

 

「何やワレ、ホンマに旗本の三男坊か? ワシ、噂で聞いたんやけど、今度の将軍様も背中に龍が入っとるっちゅう話やないか。ほら、あれやろ? “紀州の龍”っちゅーて言われた男らしいやないか」

 そう言われて、吉宗はハッと目を覚ました。

(……まずい)

 まさか、天下の将軍・吉宗の背中に“龍”が彫られているのを、このような男でも知っていたとは思いもしなかった。

 

「なぁ、姉ちゃん」

 と、辰吾朗は決して「姉ちゃん」と呼ばれるような年齢ではない、熟した女性を呼んだ。

「旗本で“徳田”っちゅー家はあるんかいの?」

 と、宙に指で字を書いてみた。

「徳田? ……さあねぇ。ねぇアンタ。“徳田”じゃなくて、“得田”ならあったかねぇ?」

「どうだったかな。俺らはお武家さんには用事がねぇからなぁ」

 と、おかみの夫は煙管を咥えて笑った。

 

「辰吾朗、出よう」

「んあっ?」

 吉宗は小判を置いて、辰吾朗の手を引いた。

 

「毎度っ!」

 暖簾をくぐって外へ出ると、おかみとその夫の元気な声が背中に響いた。すぐにその卓に乗せられた小判に、2人が驚いた事を吉宗も辰吾朗も知らない。

 

「アンタ、これ見なよ」

「おいおい、旗本ってのはあの男のことだったのかい? 何だかいい格好してたしねぇ。あの妙な眼帯の男なんかと釣り合わねぇなぁって思ったけどよ」

「釣はいらないのかね」

「……いいんじゃねぇの? 釣寄越せって言わずに出て行ったんだからよぉ、ハハハ」

 夫は上機嫌に笑った。

 

 

 吉宗が辰吾朗を引っ張って店を出ると、外に控えていた彰之介が、慌ててさも通行人のように店の前を横切った。

 

「新ちゃん、どうしたんや。怒っとるんか?」

 まだ吉宗は辰吾朗の手首を離さずに、人気のない暗がりを捜して歩く。

 

「酔うと気が短うなる質か? ハハハ、ならワシと同じやでぇ? 酔うとすぐ喧嘩しとうなるんや」

「いいから黙ってくれ」

 

 辰吾朗は、ちょっといたずらしてみようと思い、ニヤリと笑った。

 

「離せ……っちゅー」

 と、掴まれている手の指を広げ、くるりと手の平を上に向けた。

「に!」

 辰吾朗が吉宗の腕を押すようにはたくと、掴まれていた腕が自由になった。

 

「イーッヒヒヒ! どや、もういっぺん捕まえてみるか?」

 吉宗は驚いて、はたかれた右腕をさすった。

 

「ワシは勘がええんや。……アンタ、徳田新之助、っちゅーのはホンマの名前か?」

「…………」

 吉宗はキッと睨んだ。

 

「偽名とちゃうんか」

「…………違う」

「ほぉぉぉぉぉっ? ほな、その肌襦袢の背中の刺繍は何や」

「!?」

 

 吉宗はハッと目を開いた。

 

「……三つ葉葵。徳川の家紋やあらへんか?」

 ニヤリと笑う辰吾朗の白い歯が、月光に照らされてぬらりと光って見える。

 

「ぬっ!!」

 思わず声が出てしまったが、その声を聞くと、辰吾朗はよりニタニタと笑った。

 

「……“上様”を目の前にして、このまま帰すわけにはいかんのう」

 ザッと足音が二つ聞こえた。吉宗は左右を交互に見ると、すでに背後には彰之助と由美が控えている。

 

「ホホホホ~ぅ、やっぱりそういうことかいなぁ」

 と、辰吾朗は懐からドスを取り出した。

 

「ワシにはなぁ、兄弟分がおってな。その兄弟分が江戸で牢屋にぶち込まれてる言うて聞いたんや。大坂からここへ来たんも、その兄弟を開放してもらおう思うてのことや。そのうち“上様”に直々に文でも書こう思っとったんやでぇ? 無実の兄弟を長い間牢屋に入れっぱなしで何してくれとんねん! っちゅうてなぁっ!?」

 と、突然鞘からドスを抜き取ると、鞘をその辺に放り投げた。

 

 それに反応し、彰之助と由美が動く。

「錦、夏日(なつひ)、控えろ!」

 夏日とは、由美の忍び名である。

 

「はっ! ですが!」

「……辰吾朗、お前がしていることは、どういうことかわかっておるのか?」

「上様に刃を向けたっちゅうことか?」

「……そうだ」

「それが何やねん。上様や言うても、酒に酔うし、居眠りはするし、ワシらとなーんも変わらんやろがい!」

 

 辰吾朗は長く尖った舌で、ドスの刃をすーっと舐め上げた。

 

「上様も、ワシらと同じ赤い血を流すんかいのぅ? ヒーッヒヒヒ!」

 静かな裏通りに、辰吾朗の奇妙な笑い声がこだました。

 

「貴様!」

 思わず彰之助が刀に手を掛けた。

「錦! 控えぃっ!」

 吉宗の低く張りのある声は、いつでも忍びの二人の動きを制する。

 

「……辰吾朗、刃をしまえぃ」

「イヤじゃ。吉宗ちゃんも抜きぃ。そうすりゃおあいこやでぇ?」

「しまえば無礼を問わん」

「ハッ、こちとら生まれてこのかたずーっと無礼じゃい!」

 と、辰吾朗は吉宗めがけて突進してきた。

 

「ヒャ~ッハッハッハ!!」

 吉宗は咄嗟に避けたが、辰吾朗は腕が立つのか、右から左からドスを振り回して、避ける吉宗を追いかけてくる。

 

「抜けやぁぁぁよっちゃぁぁぁん! 潔くワシと勝負せぇっ」

「くそっ!」

 吉宗の袖が斬れた。

 

「……ワシはなぁ、大坂では“狂犬”や言われとったんやでぇ~? その狂犬が江戸へ参上(つかまつ)ったんや! 兄弟の為になぁぁぁぁ!?」

 辰吾朗は目を見開き、吉宗の首元を狙ってドスを振りかざした。

 

 鋭い音が響く。

 

 辰吾朗の目の前で、月明かりが何かに反射してキラリと光った。

「……なっ!」

 握っていたはずのドスがない。見渡すと、民家の戸に突き刺さっている。どうやら、吉宗が抜いた刀で打ち払ったらしい。

 

「……ほぅ……、やるのぅ」

「俺も紀州では“暴れ馬”と言われた悪ガキでな」

 と、吉宗は抜いた刀をだらりと下げた。

 

「その構え、柳生新陰流やな」

「ふっ、よく知っておるな」

「さすがお坊ちゃんや。ワシのはなぁ、真島狂犬流っちゅうてな。ヒャハッ、嘘や嘘。んなもんあるかぁぁぁぁっ!」

 辰吾朗は素手で飛びかかって来た。

 

「甘い!」

 それを吉宗はかわしざまに、刃を返して腹を抜き打ちした。

「おごっ!」

 強かに腹を打たれた辰吾朗は崩れ落ちると、その場で仰向けに寝そべった。

 

「ごっ……ごっついのう」

 吉宗はその様子を見ながら、刀を納めた。

 

「上様のくせに、そんな強いなんて卑怯やで~?」

「ふっ」

「喧嘩で負けたんは初めてや。ワシの連勝記録を破った新ちゃんには、ワシ、従うわ」

 

 辰吾朗は飛び起きると土下座した。

 

「今までの無礼は謝る! どんな罰を受けてもかまへん! せやけど兄弟だけは助けたってくれ!」

「ん……?」

「何かの間違いなんや! 濡れ衣なんや! ホンマや! ちゃんと調べてくれればわかる!」

 その“兄弟”という人物の話になると、辰吾朗は取り乱すように懇願した。

 

「ワシは兄弟分の妹に約束して大坂を出てきたんや。お(やす)言うてな、えらい別嬪なんやけど、兄貴が牢に入っとる言うたら、どこも嫁に行けんようなってしもうて。ワシにとっても妹分やし、何とかしてやりたいんや!」

 吉宗は周りの目もあり、一旦辰吾朗を立ち上がらせ、場所を変えた。

 

 

 川のせせらぎが聞こえる橋の上で、闇夜を照らす月が映った川面に目をやりながら、この辰吾朗の話を一通り聞いてやった。先ほどの剣幕とは違い、辰吾朗はこのことを話すと、暗い雰囲気を漂わせていた。

 

「そうか。そのような罪で」

「兄弟は誰も殺しとらん。そんな男やない」

「しかし……、死罪を逃れたとは言え、無実なら気の毒なことだな」

 

 この事について、再度吟味する必要があると吉宗は思った。

 

「よし。辰吾朗の願い、この吉宗がしかと聞き届けた」

「ほっ、ホンマか? いやっ、ホンマでっか?」

「ああ。だからしばらく待っているが良い」

 

 そう吉宗が言うと、辰吾朗は小躍りして喜んだ。

 

「やった! やったでぇ兄弟!! お靖!!」

「おいおい、あまり騒ぐと川に落ちるぞ」

「かまへんわ! 大坂では嬉しいことがあったら、川に飛びこむんやでぇ!」

 子供のように無邪気な辰吾朗を見て、吉宗は笑った。

 

「せや! お礼っちゅうたら何やが、新ちゃんがお忍びで出歩く時、ワシみたいなアホに絡まれたらすぐ呼んでくれや!」

「なっ」

「ワシは喧嘩が好きなんや。買ってでもしたいくらいにのぉ。せやから新ちゃんがする喧嘩、ワシが代わりにしたる!」

 

 吉宗は苦笑いをした。

 

「ええか!?」

「……それは助かるが」

「ホンマやな!? 武士に二言はないでぇ~?」

 人なつっこく腕を引っ張って顔を摺り寄せている。

 

「……それより、辰吾朗は火消になりたいと先ほど言っておったようだが」

「せや。火事と喧嘩は江戸の華なんやろ?」

「……それはどうだか。だがちょっとお前に頼みがある」

「おおっ! なんでも言うてや!」

 辰吾朗は目を輝かせていた。 

 

 

 それから数年後、江戸の町は南町奉行の大岡越前守により、火消しの改革が行われた。

 

 江戸の消防組織は、万治年間に始まったと言われているが、それを整備したのはこの吉宗の享保年間である。

 それまでは幕府の「定火消」、大名の「大名火消」、町奉行の「町火消」の三種類があったが、十分に機能しているとは言えなかった。

 

 そこで、大岡越前守は吉宗と協議し、町人による町火消を結成させた。それが「いろは47組」であり、後に48組となり、本所・深川16組も加わり、のべ一万人以上の火消がいたとされている。

 

 この消防に当たる人間を「鳶」と呼んだ。それは鳶職の人間が消火にあたったことに由来している。当時の火消し作業と言えば、消すのではなく、火の延焼を抑えることが主流だった。これは破壊消火と言って、火が燃え移りそうな場所を破壊してあらかじめ取り払うことで、延焼を防ぐ方法である。その為、建物の構造をよく知っていて、壊すことに長け、高い場所も怖がることなく行き来できた鳶を火消しにすることは、非常に効率的であった。

 

 こうした火消しの改革は吉宗が進言したことであり、その甲斐があって、現在辰吾朗は「め組」の頭として火事場で活躍している。

 

 以来辰吾朗は多くの江戸の火事を収めてきた。そんな火消しの人間は、町の者からは「いなせ」と賞賛され、派手な揃いの衣装に、懐も暖かく、とにかく注目される存在であった。

 

 当時、火事場を収めた火消したちが、こぞって羽織を裏返しに着て、そこに描かれている絵を見せびらかして町を闊歩したという。だが、このめ組の頭である辰吾朗の場合は少し違った。

 彼の背中や胸に彫られた般若、白蛇、そして椿の入れ墨。辰吾朗は、法被ではなく、それを脱ぎ捨てて自分の背中を見せて歩いていた。それは江戸の町で知らぬ者がいないほど、有名になっていた。般若には「情熱」「激情」「人間らしさ」という意味がある。まさに粋な男・め組の辰吾朗を表しているようだ。

 

 

 吉宗と辰吾朗の友情は、この頃から生まれた。

 もちろんめ組の者たちは、辰吾朗以外、吉宗が“上様”であることを知らない。辰吾朗はそのことを決して言うことはなかった。また、他の者に変な印象を与えないよう、辰吾朗は失礼なほどに吉宗に対し傍若無人な振る舞いをした。そのことがかえってめ組の者には「普通」に映り、仲のいい兄弟のようにすら見えていたようである。

 

 こうして大坂の狂犬から江戸の狂犬となった辰吾朗は、江戸の主・吉宗のお抱えの番犬として(まつりごと)に協力していったのである。

*1
幕末まではこの表記だった


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