上様が如く 成敗!   作:鳩胸ぽっぽ助

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第二話 め組の狂犬

 

 

「私は『(はるか)』……お前じゃない」

 

 

 

 

 その「遥」と名乗った少女の目は、まっすぐ吉宗に向けられていた。歳の頃は、十歳前後か。見た目や声はまだ幼さを隠せないが、その眼力の強さにさすがの吉宗も一瞬たじろぐ。

 

「おじさんは?」

 

 聞き慣れない「おじさん」という言葉に、吉宗はドキリとした。

 

「あ、あぁ……。俺は徳が……いや、徳田新之助だ」

 

 噓を見抜くような少女の瞳を見ると思わず本名を言ってしまいそうになる。吉宗が動揺してしまうほど、この「遥」と名乗る少女の目は澄んでいる。

 

「お前……いや、遥とやら。あいつに何を盗られた」

 

 と、吉宗は倒れて伸びている男へ視線を移す。

 

「……薬。おっ父の薬。……おっ父は元々体が悪くて、ずっと薬を飲んでた。でもここ最近、いつも飲んでる薬の値段が上がっちゃって……。でも、薬を止めるわけにはいかなくて……。それで最近は死んだおっ母の着物とか、家具を質に入れて何とか薬を買ってたの。でも、とうとう売る物も底をついて……それで」

 

 遥は涙を堪え、唇を噛んだ。

 

「それでこの寒さの中、自分の物を売ったのだな」

 

 遥はコクリと頷く。

 

「それで手に入れた銭で薬を手に入れたは良いが、あの男が奪ったのだな?」

 

 吉宗は深くため息をつく。

 

「ちょっと待ってろ」

 

 吉宗は、転がっている男を仰向けにした。頭を蹴られて、泡を吹いて白目をむいている。

 

「……まったく、この不届き者が」

 

 男の着物の襟を乱暴に開き、懐に手を入れる。

 

「ん?」

 

 紙に包まれた薬の他、女物のかんざしや中身が入った巾着袋が幾つも幾つも出てきた。

 

(ひどい盗人だな。……どれも女物ばかりではないか。どうしようもない輩め)

 

 どうやらか弱い女ばかり狙って、ひったくりなどを繰り返していたようだ。

 

「遥、お前が盗られたのはこれか?」

 

 と、薬の紙包みを見せる。

 

「う、うん!」

 

 遥は立ち上がって、慌てて取りに行った。

 

「すぐに父上に届けてやれ」

「あっ、ありがとう。……徳田のおじさんっ!」

 

 遥は嬉しそうに笑った。その笑顔を見て、吉宗は胸がすっきりとした。だがすぐに胸の痛みを覚える。

 

(この子も生活が苦しいのか……。まだこんなにあどけない少女が、自分の身を削ってまで父親の看病を……。しかし、あいにく今は……)

 

 先ほどの医者の娘同様、いくらか恵んでやろうと思ったが、才蔵の言葉がその衝動を抑えた。

 

(……小銭は持っておらんゆえ)

 

 小判を渡すと、また何か嫌味を言われるだろう。

 

「気を付けろよ」

「ありがとう、おじさん!」

 

 手を振って去って行くかわいらしい少女・遥を、微笑んでずっと見守る吉宗であった。

 

 

 

 

 吉宗は両手に持ったかんざしやら巾着やらを見て、また深くため息をついた。このような事は他でも多数起きているのではないか。誰も彼もが貧困に喘ぎ、無い者が無い者からなけなしの財を奪う。この寒空に流行病、民の心が休まる時はない。

 

「……八代目、いかがいたしましょうか」

 

 またどこからともなく、才蔵の声がする。

 

「こいつはきっと懲りない奴だろう。見ろ、腕に入れ墨もある。おそらく過去にも縛に就いた事があるのだろう。このままにしておくと(ろく)な事にならん」

「……では、すぐに奉行所に」

「うむ、それがいいだろうな」

 

 吉宗と才蔵がひそひそと話していると、

 

 

「新ちゃんやないか~ぃ」

 

 

 と、聞き覚えのある声がした。

 

「……ん?」

 

 吉宗はキョロキョロと辺りを見渡した。

 

「こっちや、こっち。め組の()()()、辰吾朗のお出ましやでぇ~?」

 

 遠くから番傘を担ぎ、手を大きく振って雪の中をフラフラと歩いて来る姿が見えた。後ろには三人、若衆がついて来ている。

 

「…………」

 

 吉宗は目を凝らして確かめた。

 

 辰吾朗は、この寒さにもかかわらず裸の上半身に黒腹掛だけを纏い、め組の揃いの薄手の法被を羽織っている。腰には本物の蛇の皮で作ったという帯を締めてドスを差し、左目には「め」と書かれた眼帯をしている。

 

「……何だ、め組の兄さんか」

「何だとはご挨拶やなぁ?」

 

 この火消しの男「め組の辰吾朗」は、江戸生まれにありながら関西の言葉を話す。

 

「何や、喧嘩や言うて聞いたから来てみりゃあ、もう終わったんかいな」

「……ああ」

「つまらんのぅ。江戸の冬や言うたら、火事が多くて退屈せぇへんのに、何や最近はジメジメと雪なんか降りくさって、火事なんかひと~つも起きへん。あんまり暇やから、火ぃでもつけたろうか思うとったところやで~?」

 

 辰吾朗はジロジロと吉宗を挑発するように見た。

 

「兄さん、そ、それは……よしてください」

「火事と喧嘩は江戸の華やて、よう言うやろ~? 何でワシを呼ばんのや」

「…………」

 

 にやけ顔で迫る辰吾朗から、吉宗は思わず目を逸らした。

 

 すると突然、辰吾朗は番傘を振りかざし、傍に引き連れた若衆の一人を思いきり引っ叩いた。

 

「せっかくの喧嘩にワシが呼ばれとらんのはどういう事やねん! おおっ!?」

「ヒィッ!」

「いっつも言うとるやろ~!? 新ちゃんが大立ち回りしとったら、ワシを呼べってなぁ‼」

 

 辰吾朗は文句を言いながら、バシバシと鈍い音を立てて傘で殴りつけている。

 

「かっ、カシラ! どうかご勘弁を~ッ!」

 

 理不尽に因縁をつけられた若衆は腕で頭を囲んで許しを請うが、辰吾朗の手は止まらない。他の者も止めるに止められずに、見てオロオロしているだけだ。

 

「このドアホっ‼ オラッ! オラッ! オラーッ!」

 

 番傘はボロボロになり、軸が()の字に曲がってしまった。

 

「何や、傘が曲がってしもたやないか!」

 

 辰吾朗は若衆を蹴り転がす。

 

「あほんだらあぁぁぁぁっ!」

 

 興奮が収まらない辰吾朗は、転がって仰向けになった若い男の目に傘の先を突き立てようとした。

 

 吉宗は、傘を振りかぶった辰吾朗の腕をむんずと掴んで動きを止める。

 

「……何や、新ちゃん」

「……兄さん、その辺で」

 

 動きを止められた辰吾朗は、何ともつまらなさそうな顔をした。

 

「甘いなぁ、新ちゃんは。アマアマや~」

 

 辰吾朗はニタリと笑った。

 

「お前の為に言っとるんやでぇ? 天下の()()ちゃんに何ぞあったらこの日本(ひのもと)は終わりや。そこんとこ、ちゃ~んとわかっとるんか?」

 

 「吉宗」と聞いて、辰吾朗と一緒にいた若衆たちは顔を見合わせた。

 

「か、カシラ‼ 吉宗って……あの将軍の……?」

 

 吉宗がギロリと睨むと、若衆たちはひるんで口を閉じた。

 

「め組の兄さん……俺は一人で大丈夫ですから」

「ほぅ~」

 

 吉宗と辰吾朗は、鼻先が触れ合いそうな程の近距離で睨み合った。まさに一触即発の状況である。

 

「ま、ええわ」

 

 辰吾朗はすっと離れた。

 

「……新ちゃんも下っ端にはこんくらい厳しくシツケせなあかんでぇ? ……でないと、いつ何どき寝首を掻かれるかわからん。……せやろ?」 

「…………」

 

 吉宗は、雪の上で腰を抜かしている若衆に目をやった。危うくカシラと同じように隻眼になるところであったせいか、ガタガタと青ざめた顔で震えている。

 

「今度はちゃんとワシを呼ぶんやで? ほな」

 

 壊れた傘を振り回しながら、辰吾朗は来た道を戻って行った。その後を、同じ揃いのめ組の法被を着た若衆たちが慌てて追いかけて行く。

 

(……相変わらずだな)

 

 吉宗は短いため息をついた。

 

 江戸の火消しとして「め組」を率いる辰吾朗は、元々鳶職人であったらしい。詳しい素性はわからないが、今は所帯を持ち、自宅を詰所として多くの人足を抱えている。顔見知りとは言え、辰吾朗は神出鬼没、まるで掴みどころのない雲のような男であった。

 

 

 

 

 吉宗とその辰吾朗との出会いは、まだ将軍になって日も浅い頃の事だった。

 

 

 ──初めて江戸城を抜け出し、夜の町をあてもなく歩き回って見聞していた時の事。

 

 

「ワシにも仕事させろっちゅうてんねん!」

「だめだ」

「ワシは元々鳶やったんやでぇ?」

「知った事か」

 

 目に眼帯を着けた男が、ボヤで駆けつけていた火消したちに詰め寄っていた。どうやら格好と風格からして、大名所管である大名火消のようである。そんな事も気にせず、男は話し続けた。

 

「なんや、江戸言うたら火事が多いそうやな? からっ風がそうさせるのかのう。すぐ燃え広がるらしいやないか、イーッヒヒヒッ」

 

 眼帯の男は気味悪く笑った。

 

「だいたいお前は何だ。言葉も変だし、何を言っているのかよくわからない」

「ああん? ワシの言葉か? ワシはのぅ、生まれは江戸やけどなぁ、つい最近まで大坂*1におったんやでぇ? 大坂っちゅうたらな、天下の台所や言うてなぁ……」

 

 酒に酔っているのかどうなのか、フラフラと男の足元はおぼつかず、上半身は大きく身振り手振りでクネクネと動きながら、延々と身の上話と愚痴をこぼしている。

 

「ええい、うるさい! 去れ!」

「何でやぁ。……江戸の奴らは冷たいのぅ」

 

 そんな様子を吉宗は通りすがりに横目で見ていた。

 

「のう、お侍さん。ほれ、アンタや、その綺麗なべべ着とるアンタ。ちょっと助けてぇな」

「……なにっ」

 

 吉宗は突然話しかけられてドキリとした。見た感じからすると、あまり関わりたくない。着物も着ず、裸の上に直に羽織を一枚軽く羽織っており、とても普通の輩に見えない。

 

「ほぅ……。アンタ綺麗な顔しとるなぁ」

「…………」

 

 ヤクザな風体の男のジロジロと見る様子に、吉宗は思わず腰の物に手を掛けそうになった。

 

(あん)ちゃん、ワシは最近まで大坂におってな、こっちに来て日も浅いんや。でも何かせんと食うていけへんやろ? せやから火消しになりたい言うとるんに、このけったいな男があかん言うんや。それにワシの言葉もわからん言うて、あっち行け言うんや。まるでハエみたいに追い払いよる」

 

(火消し……か)

 

 吉宗が江戸に行くにあたり、この地のいくつかの課題点を挙げていた。その一つに、火事の多い江戸の町の消火作業の効率化を図るというものがあった。

 

 江戸の町は、年々人口が増え続けていた為、住宅が密集し、ひとたび火事が起これば瞬く間に燃え広がっていた。また、冬の間は雨も少なく、空気が乾燥していた為、その被害は容易に広がりやすかった。

 

 火事の対応というのは、長い間ずっと江戸の課題であり、あれこれ対策をしてきたもののどれもパッとせず、やはり兵農分離の政策があるせいか、立場が違えば我関せずなところもあり、うまく機能していなかった事もあった。よってこの事は、吉宗が将軍になってから真っ先に取り掛かりたいと思っていた課題であった。

 

「お主は一体……?」

「ワシか? ワシは真島組の辰吾朗や。真島組いうのはな、大坂でやっとった鳶の屋号やで。(あん)ちゃんは?」

「……俺は徳が……いや、徳田新之助と申す。旗本の三男坊だ」

「旗本ぉ!? 坊ちゃんやないかい! どうりで何やええ格好しとるわけやな!」

 

 吉宗は自分の着物の袖に、袴に、草履に、すべて目をやった。確かにこんな格好でこんな夜にうろつくなど、さも襲ってくれと言わんばかりの格好だ。

 

(どうも一般的ではなかったか)

 

 茜が咎めるのも気にせず、自分なりに町に馴染むような格好をしたつもりだが、どう見ても花街で遊ぶ裕福な盆暗(ぼんくら)にしか見えないような格好をして来てしまったようだ。

 

(やはり茜に用意させればよかった)

 

 変装を得意とする茜の言う事を聞けば良かったのだが、今さら後悔してもどうしようもない。

 

「そこの旗本の三男坊とやら。こんな怪しげな男に関わっていると碌な事がないぞ。さっさと無視して立ち去った方が身の為だ」

 

 と言いながら、火消したちはこれ以上関わりたくないといったように去って行った。

 

「ひどいのぉ。ホンマ、江戸の人間は冷たいわ」

「……俺の生まれは関西でな。普段は使う事はないが、関西の言葉がわかる」

 

 見た目は怪しいが、そう悪い人間ではないように見え、吉宗はこの辰吾朗という男に少し興味を持った。

 

「そりゃホンマか? 嬉しいのう。ここに来て、みーんな変な顔するんや。ワシからすりゃあ、江戸の言葉こそわけわからんっちゅうに。せっかちで早口で、怒っとるみたいやで。『てやんでい』ばーっか言いくさって、のう?」

 

 吉宗は何も言えず、視線を落とした。

 

「新ちゃんゆうて呼んでええか?」

「しっ、新ちゃん……だと?」

「ええやん。なぁ、お近づきのしるしに、今から飲みに行かへんか?」

「…………」

 

 吉宗は建物の陰に隠れていた才蔵に目配せをする。

 

「な? ええやないか。一杯だけや」

 

強引に手を引かれ、近くの店に押し込まれてしまった。       

 

 

 

 

 一杯だけ、という話だったが、辰吾朗はザルだった。吉宗もなかなかに大酒飲みであったが、さすがに飲み続けているとそのうち瞼が重くなってくる。

 

「……何や新ちゃん。ゴツい顔して強いのかと思うたら、何や弱いんやのう。ヒヒヒ」

 

 卓に伏せかかっている吉宗の背中に手をやる。

 

「ん?」

 

 酔って緩んだ着物の背中に、辰吾朗は何かを見つけた。

 

「おう?」

 

 辰吾朗は襟を掴み、中を見た。

 

「こっ、こりゃ何や!?」

 

 辰吾朗は、吉宗の背中に入った入れ墨を見つけた。

 

「新ちゃん、起きぃや」

 

 激しく揺さぶる。──が、吉宗はむにゃむにゃ念仏を唱えるように口説き、固く瞼を閉じたままだ。

 

「よう見してくれへんか? 背中のもんやが」

「んぁあ?」

 

 ようやく目を開けた吉宗は、寝ぼけているのか言われるまま着物を(はだ)けた。

 

「オホホホーッ! すごいやないかい!」

 

 目を見張るほど色鮮やかに彫られた龍の絵を、辰吾朗は興奮気味に見た。

 

「何やワレ、ホンマに旗本の三男坊か? ワシ、噂で聞いたんやけど、今の将軍様も背中に龍が入っとるっちゅう話やないか。ほら、あれやろ? 『紀州の龍』っちゅうて言われた男らしいやないか!」

 

 そう言われて、吉宗はハッと目を覚ました。

 

(! ……まずい)

 

 まさか、天下の将軍・吉宗の背中に「龍」が彫られているのを、このような男でも知っているとは思いもしなかった。

 

「なぁ、姉ちゃん」

 

 辰吾朗は、決して「姉ちゃん」と呼ばれるような年齢ではないようなどっぷりと熟した店の女将を呼んだ。

 

「この辺の旗本で、徳田っちゅう家はあるんかいの?」

 

 と、宙に指で字を書いてみた。

 

「徳田? ……さあねぇ。ちょいとお前さん。『徳田』じゃなくて、『得田』ならあったかねぇ?」

「どうだったかな。俺らはお武家さんには用事がねぇからなぁ」

 

 女将の夫は煙管を咥えて笑った。

 

「辰吾朗、出よう」

「んあっ?」

 

 吉宗は小判を置いて、辰吾朗の手を引いた。

 

「毎度~っ!」

 

 暖簾をくぐって外へ出ると、女将とその夫の元気な声が背中に響いた。すぐにその卓に乗せられた小判に、二人が驚いた事を吉宗も辰吾朗も知らない。

 

「お前さん、これ見とくれよ」

「おいおい、旗本ってのはあの男の事だったのかい? 何だかいい格好をしてたしなぁ。あの妙な眼帯の男なんかと釣り合わねぇなぁって思ったけどよ」

「釣はいらないのかね」

「……いいんじゃねぇの? 釣銭寄越せって言わずに出て行ったんだからよぉ、ハハハ」

 

 夫は上機嫌に笑った。

 

 

 

 

 吉宗が辰吾朗を引っ張って店を出ると、外に控えていた才蔵が、慌ててさも通行人のように店の前を横切った。

 

「新ちゃん、どうしたんや。女将がブッ細工で機嫌悪ぅしたんか? まぁあれでも若い頃はかわいげがあったはずやで? 女っちゅうもんは年増になるとどうしても肉襦袢を着込むよってからに……」

 

 まだ吉宗は辰吾朗の手首を離さずに、人気のない暗がりを探して歩く。

 

「何や、酔うと気が短うなる(タチ)か? ハハハ、ならワシと同じやでぇ? 酔うとすぐ喧嘩しとうなるんや」

「いいから黙ってくれ」

 

 辰吾朗はちょっとしたイタズラ心が働き、ニヤリと笑った。

 

「離せ……っちゅう……」

 

 と、掴まれている手の指を広げ、くるりと手の平を上に向けた。

 

「に!」

 

 辰吾朗が吉宗の腕を押すようにはたくと、掴まれていた腕が自由になった。

 

「イーッヒヒヒ! どや、もういっぺん捕まえてみっか?」

 

 吉宗は驚いて、はたかれた右腕をさすった。

 

「ワシは勘がええんや。……アンタ、徳田新之助っちゅうのはホンマの名前やないやろ」

「…………」

 

 吉宗はキッと睨んだ。

 

「偽名とちゃうんか」

「…………違う」

「ほぉぉぉぉぉっ? ほな、その肌襦袢の背中の刺繍は何や」

「──!?」

 

 吉宗はハッと目を開いた。

 

「……三つ葉葵。徳川の家紋やあらへんか?」

 

 ニヤリと笑う辰吾朗の白い歯が、月明かりに照らされてぬらりと光って見える。

 

「んんっ……!」

 

 思わず声が出てしまったが、その声を聞くと、辰吾朗はよりニタニタと笑った。

 

「……天下の上様を目の前にして、このまま帰すわけにはいかんのう」

 

 ザザッと二人分の足音が微かにする。吉宗は左右を交互に見たが、すでに背後には才蔵と茜が控えている。

 

「ホホホホ~ぅ、やっぱりそういう事かいなぁ」

 

 と、辰吾朗は懐からドスを取り出した。

 

「ワシにはなぁ、兄弟分がおってな。その兄弟分が江戸で牢屋にぶち込まれとる言うて聞いたんや。大坂からここへ来たんも、その兄弟を開放してもらおう思うての事や。そのうち上様に直々に文でも書こう思っとったんやでぇ? 無実の兄弟を長い間牢屋に入れっぱなしで何してくれとんねん! っちゅうてなぁっ!? 」

 

 突然鞘からドスを抜き取ると、鞘をその辺に放り投げた。

 

 それに反応し、才蔵と茜が機敏に動く。

 

「才蔵、茜、控えろ!」

「はっ! ですが!」

「……辰吾朗、お前がしている事は、どういう事かわかっておるのか?」

「上様に刃を向けたっちゅう事か?」

「……そうだ」

「それが何やねん。上様や言うても、酒には酔うし、居眠りはするし、ワシらとなーんも変わらんやろがい!」

 

 辰吾朗は長く尖った舌で、ドスの刃をすーっと舐め上げた。

 

「上様も、ワシらと同じ赤い血を流すんかいのぅ? ヒーッヒヒヒ!」

 

 静かな裏通りに、辰吾朗の奇妙な笑い声がこだました。

 

「貴様!」

 

 思わず才蔵が刀に手を掛けた。

 

「才蔵! 控えぃっ!」

 

 吉宗の低く張りのある声は、いつでも忍びの二人の動きを制する。

 

「……辰吾朗、刃をしまえぃ」

「イヤじゃ。吉宗ちゃんも抜きぃ。そうすりゃおあいこやでぇ?」

「しまえば無礼を問わん」

「ハッ、どうでもええわ! こちとら生まれてこのかたずーっと無礼じゃい! ……行くでェ?」

 

 辰吾朗は吉宗めがけて突進してきた。

 

「ヒャ~ッハッハッハーッ!!」

 

 吉宗は咄嗟に避けたが、辰吾朗は腕が立つのか、右から左からドスを振り回して、避ける吉宗を執拗に追いかける。

 

「抜けやぁぁぁ、よっちゃぁぁぁん! 潔くワシと勝負せえっ‼」

「くそっ!」

 

 吉宗の袖がスパッと斬れた。

 

「……ワシはなぁ、大坂では『狂犬』や言われとったんやでぇ~? その狂犬が江戸へ参上(つかまつ)ったんや! 兄弟の為になぁぁぁぁ!? 」

 

 辰吾朗は目を見開き、吉宗の首元を狙ってドスを振りかざした。

 

 鋭い音が響く。

 

 辰吾朗の目の前で、月明かりが何かに反射してキラリと光った。

 

「……なっ!」

 

 握っていたはずのドスがない。見渡すと、民家の戸に突き刺さっている。どうやら吉宗が、抜いた刀で打ち払ったらしい。

 

「……ほぉ……やるのぅ」

「俺も紀州では暴れ馬と言われた悪ガキでな」

 

 と、吉宗は抜いた刀をだらりと下げた。

 

「その構え、柳生新陰流やな」

「ふっ、よく知っておるな」

「さすがお坊ちゃんや。ワシのはなぁ、真島狂犬流っちゅうてな。ヒャハッ、嘘や嘘。んなもんあるかぁぁぁぁっ!」

 

 辰吾朗は素手で飛びかかって来た。

 

「甘い!」

 

 それを吉宗はかわしざまに、刃を返して腹を抜き打ちした。

 

「おごっ!」

 

 強かに腹を打たれた辰吾朗は崩れ落ちると、その場で仰向けに寝そべった。

 

「ごっ……ごっついのう」

 

 吉宗はその様子を見ながら、刀を納めた。

 

「上様のくせに、こだけ強いなんて卑怯やで~?」

「フッ」

「喧嘩で負けたんは初めてや。ワシの連勝記録を破った新ちゃんには、ワシ、従うわ」

 

 辰吾朗は飛び起きると土下座した。

 

「今までの無礼は謝る! どんな罰を受けても構へん! せやけど、兄弟だけは助けたってくれ!」

「ん……?」

「何かの間違いなんや! 濡れ衣なんや! ホンマや! ちゃんと調べてくれればわかる!」

 

 その「兄弟」という人物の話になると、辰吾朗は取り乱すように懇願した。

 

「ワシは兄弟分の妹に約束して大坂を出てきたんや。お(やす)言うてな、えらい別嬪なんやけど、兄貴が牢に入っとる言うたら、どこも嫁に行けんようなってしもうて。ワシにとっても妹分やし、何とかしてやりたいんや!」

 

 吉宗は周りの目もあり、一旦辰吾朗を立ち上がらせて場所を変えた。

 

 

 

 

 川のせせらぎが聞こえる橋の上で、闇夜を照らす月が映った川面に目をやりながら、この辰吾朗の話を一通り聞いてやった。先ほどの剣幕とは違い、辰吾朗はこの事を話すと終始暗い雰囲気を漂わせていた。

 

「そうか。そのような罪で」

「兄弟は誰も殺しとらん。そないな男やない」

「しかし……死罪を逃れたとは言え、無実なら気の毒な事だな」

 

 この事について、再度吟味する必要があると吉宗は思った。

 

「よし。辰吾朗の願い、この吉宗がしかと聞き届けた」

「ほっ、ホンマか? いやっ、ホンマでっか?」

「ああ。だからしばらく待っているが良い」

 

 そう吉宗が言うと、辰吾朗は小躍りして喜んだ。

 

「やった! やったでぇ兄弟~‼ お靖~‼」

「おいおい、あまり騒ぐと川に落ちるぞ」

「構へんわ! 大坂では嬉しい事があったら、川に飛び込むんやでぇ!」

 

 子供のように無邪気な辰吾朗を見て、吉宗は笑った。

 

「せや! お礼っちゅうたら何やが、新ちゃんがお忍びで出歩く時、ワシみたいなアホに絡まれたらすぐ呼んでくれや!」

「なっ」

「ワシは喧嘩が好きなんや。買ってでもしたいくらいにのぉ。せやから新ちゃんがする喧嘩、ワシが代わりにしたる!」

 

 吉宗は苦笑いをした。

 

「ええか!?」

「……それは助かるが」

「ホンマやな!? 武士に二言はないでぇ~?」

 

 人なつっこく腕を引っ張って顔を摺り寄せている。

 

「……それより、辰吾朗は火消になりたいと先ほど言っていたようだが」

「せや。火事と喧嘩は江戸の華なんやろ?」

「……それはどうだか。だがちょっとお前に頼みがある」

「おおっ! 何でも言うてくれや!」

 

 辰吾朗は目を輝かせていた。

 

 

 

 

 それから数年後、江戸の町は南町奉行の大岡越前守により、火消しの改革が行われた。

 

 江戸の消防組織は、万治年間に始まったと言われているが、それを整備したのはこの吉宗の享保年間である。

 

 それまでは、

 

 幕府の「定火消」

 大名の「大名火消」

 町奉行の「町火消」

 

 の三種類があったが、十分に機能しているとは言えなかった。

 

 そこで、大岡越前守は吉宗と協議し、町人による町火消を結成させた。それが「いろは四十七組」であり、後に四十八組となり、本所・深川十六組も加わり、江戸には延べ一万人以上の火消しがいたとされている。

 

 この消防に当たる人間を「鳶」と呼んだ。それは鳶職の人間が消火にあたった事に由来している。

 

 当時の火消し作業と言えば、消すのではなく、火の延焼を抑える事が主流だった。これは破壊消火と言って、火が燃え移りそうな場所を破壊してあらかじめ取り払う事で延焼を防ぐ方法である。その為、建物の構造をよく知っていて、壊す事に長け、高い場所も怖がる事なく行き来できた鳶を火消しにする事は、非常に効率的であった。

 

 こうした火消しの改革は吉宗が進言した事であり、その甲斐があって、現在辰吾朗は「め組」の頭として火事場で活躍している。

 

 以来辰吾朗は多くの江戸の火事を収めてきた。そんな火消しの人間は、町の者からは「いなせ」と賞賛され、派手な揃いの衣装に、懐も暖かく、とにかく注目される存在であった。

 

 当時、火事場を収めた火消したちが、こぞって羽織を裏返しに着て、そこに描かれている絵を見せびらかして町を闊歩したという。だが、このめ組の頭である辰吾朗の場合は少し違った。

 

 彼の背中や胸に彫られた般若、白蛇、そして椿の入れ墨。辰吾朗は、法被ではなく、それを脱ぎ捨てて自分の背中を見せて歩いたのだ。それは江戸の町で知らぬ者がいないほど、いつしか有名になっていた。般若には「情熱」「激情」「人間らしさ」という意味がある。まさに粋な男・め組の辰吾朗を表しているようだ。

 

 吉宗と辰吾朗の友情は、この頃から生まれた。

 

 もちろんめ組の者たちは、辰吾朗以外に吉宗が「上様」である事を知らない。辰吾朗はその事を決して人に言う事はなかった。また、他の者に変な印象を与えないよう、辰吾朗は失礼なほどに吉宗に対し傍若無人な振る舞いをした。その事がかえってめ組の者には()()に映り、仲の良い兄弟のようにすら見えていたようである。

 

 こうして大坂の狂犬から江戸の狂犬となった辰吾朗は、江戸の主・吉宗のお抱えの番犬として(まつりごと)に協力していったのである。

*1
幕末まではこの表記だった

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