上様が如く 成敗! 龍が如く×暴れん坊将軍   作:鳩胸ぽっぽ助

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都合上、史実とは違う部分が多数あります。ご了承ください。


第三話 白洲の閻魔様

「次の者!」

 

 処断された男はガックリと肩を落として連れられて行く。後ろ手のまま腰を縄でグルグル巻きにされたその男は、お前も同じ目に遭うぞと絶望を訴えるかのように茂吉(しげきち)を見た。

 

 自分の運命は明らかである。だが茂吉は「俺はテメェとは違うぜ」と言わんばかりの態度を見せる。

 

「イテッ! 俺はまだ裁きは受けてねぇんだぞ! 丁重に扱え!」

 

 入れ違いで(むしろ)の上に乱暴に放り出された茂吉は、何とかして縄を外せないものかと藻掻いた。

 

「ほどけ! あんな狭ぇ(たまり)から出た時くらい手足を伸ばしてぇんだよ! 凝り固まって仕方ねぇや!」

「神妙にしろ! 態度を改めんと──」

「改めんと何だッ!? 叩っ斬るのか!? ハッ、いいぜ、やれよ! 念入りに手入れされた越前お気に入りの神聖な庭を、俺の汚ねぇ血で真っ赤に染めてやるぜ!」 

「黙れと言っておろう、この人殺しが‼」

 

 江戸城数寄屋橋門のすぐ傍にある南町奉行では、午後から多くの罪人が法の捌きを受けていた。数いる罪人の中でも、取り乱して大暴れをしていた茂吉は最後に回され、ようやくこの白洲の上へとやって来たのである。

 

「ったく、またお前か馬場茂吉。懲りない奴だ」

 

 ピンと張った裃に、ビシッと整えられた髷を結い、公事(くじ)場からギロリと睨む眼光鋭い大岡越前守こと大岡忠相は、口書(くちがき)に書かれた名前と罪状を見て呆れたように言った。

 

「お久しぶりですねぇ。ヘッ、アンタの面なんか二度と見たくなかったぜ」

 

 刺股(さすまた)で取り押さえられた茂吉は、顔半分を砂利に押し付けられながら大岡越前を睨むと、ペッと唾を吐いた。

 

「それはこちらも同じ事。娑婆ではずいぶん羽目を外したようだな。あまりにはしゃぎすぎて、人としての道まで踏み外したとか。その罰はしっかり受けてもらうぞ」

「おう、死ねって言うんだろ? 俺は人を刺したもんなぁ?」

「分かっておるなら話は早い。市中引き回しの上、打ち首だ」

「打ち首だと? 俺は武士だぞ! 俺はな、甲斐の武田に仕えた馬場家の──」

「嘘をつけ!」

「嘘じゃねぇって! 親父からそう聞いたんだ! その親父は爺さんから、爺さんは曾爺さんから、曾爺さんは──」

「ええい、法螺はもう良い! お前は何度も人を騙して金を取り、酔った挙句に勢いで全く関係のない者を刺し殺した。実に勝手極まりない男だ。懺悔してあの世へ行くんだな」

「ふざけんじゃねぇッ‼ 俺にはまだやらなきゃいけねぇ事があるんだ!」

「お前がやらねばならん事は死んで詫びる事だ! これ以上狼藉を働かれては江戸の民が困る。世の為に潔く逝くが良い」

 

 茂吉は数人の同心たちに体を掴まれながら無理矢理立たせられたが、暴言を吐きながら足蹴にしたり唾を飛ばしたりして暴れ回る。このまま町を引き回され、収容されていた小伝馬町牢内の処刑場に連れて行かれて打ち首になるのだ。

 

「ええい、見苦しいぞ! いい加減にしろ!」

「離せよバカ野郎!」

「イテッ! 噛みつくな!」

 

 たまにこういう輩がいる。往生際まで暴れちぎり、慣れた御様御用(おためしごよう)*1である「ヒゲ朝右衛門」こと二代山田朝右衛門吉時でさえも手古摺(てこず)ってしまう事があると聞く。やれやれと思いながら、大岡は顔をしかめて今日の吟味の者の罪状をまとめて眺めていた。

 

「うわぁぁぁぁぁ~ッ‼」

 

 突然、見張りをしていた同心が白洲の上を転がって横滑りしながら飛んで来た。何事かと大岡は顔を上げる。

 

「こっちや、兄弟!」

 

 誰もが見上げるほどの大男が髪を振り乱しながら、バッタバッタと人を投げ倒していく。身なりは御薦(おこも)の様に汚れた筵をがっしりとした体に巻き付け、月代(さかやき)も伸び切った髷も結わぬ髭面の男である。

 

「兄貴!」

 

 茂吉はその男に気付くと、驚きと同時に顔に笑みを浮かべて目を輝かせた。

 

「どかんかい! 俺の兄弟に何するんや!」

 

 大男は茂吉を取り巻く同心たちの顔面に殴りかかり、あっという間に打ちのめした。そして茂吉を縛っていた縄を掴んで左右にムンと力を込めて引っ張る。するとブチブチと音を立てながら縄が千切れ、茂吉の身は自由になった。

 

「行くぞ、兄弟。立てるか?」

「まさかホントに来てくれるなんて。どうやって抜け出したんですか?」

「話は後や、馬場ちゃん。早よ逃げるで」

「フッ、分かりましたよ。しっかし派手にやりますねぇ、冴島の兄貴」

 

 大岡は、目の前で起きた一瞬の出来事に身動き一つできなかった。できた事と言えば、去っていく罪人二人の背中に「待て」と呼びかけた事くらいである。

 

 一度目は詐欺で、二度目は殺人で投獄されていた馬場茂吉は、昨日牢内で揉め事を起こした。同じ牢の者と大喧嘩になり、その相手の太腿を箸で突き刺したのである。その際、止めに入った者たちも怪我を負った。またいつ喧嘩になるとも分からず、急遽馬場は早々に裁きを受ける事になったが、たった今さらに「牢破り」という罪を犯した。さらに、馬場の手引きをしたのは同じ牢にいたさっきの大男であり、その者も一緒に逃げて行ってしまった。

 

 これでは上様に面目が立たない。老中にもさんざん嫌味を言われるだろう。一切の裁きを任されている身としては、切腹ものの事態かも知れないと思い、大岡は呆然とした。

 

 

 

 

 怪我を負った同心たちはすぐに手当ての為に運ばれて行く。流血する者、気を失っている者、中には骨を折った者もいるようで、あちらこちらで痛い痛いと叫ぶ声がある。

 

「すぐにあの者たちを捕まえろ。牢の様子はどうだ? 他に逃げた者がいないか確認しろ。それからここは水を撒いて清めておけ。怪我人の具合も後で報告しろ」

 

 幾つか指示を出す。バタバタと慌ただしく人が動く様子を見ながら、大岡は頭を抱えたくなった。

 

 死罪を言い渡したばかりの馬場を逃がしたのは、冴島猛虎(たけとら)──。博徒十八人殺しの罪で投獄されていた男である。

 

 その類稀なほど鍛えられた体躯とニコリとも笑わない不愛想な風貌のせいで、入獄当初から牢名主に目を付けられ様々な揉め事に巻き込まれてきた。ある時は殴られ、ある時は飯を便所に捨てられ、折に触れて拷問のように痛めつけられていた男だが、冴島はやり返す事なく黙ってそれを受け入れていた。

 

 見かねた牢番が励ましの声をかけようとも、冴島はうんともすんとも言わない。庇い甲斐のない男なのだと大岡の耳にも入っていたが、その姿は自らの罪に向き合い、どんな罰を与えられようとも甘んじて受け入れるという姿勢の表れだと思っていた。

 

 まさかその冴島が牢から抜け出して処刑前の馬場を助けて逃げてしまうとは。

 

 従順な男だと思っていたのは間違いだったか。猛虎の名前よろしく、実は虎視眈々と脱獄の時を待っていたと言うのか。

 

(いや、違うな。あれは馬場を助ける為に……。しかし馬場とは意外な……)

 

 大岡は胃の腑から苦酸っぱい汁が込み上げてくる思いだった。

 

「よう、伊達さん」

 

 自室に引こうとしていた大岡の元に、思いがけない客が現れた。

 

「うっ、上さ……! いや、徳田殿!」

 

 将軍吉宗が徳田新之助としてやってきたのである。二人は吉宗が将軍となるずっと以前に、たまたま江戸城の梅園で出会った。その時の吉宗の格好は質素なものであり、名前は幼名である「新之助」を名乗っていた為、まさか後に上様になられるお人だとも思わず小姓か何かだと思っていた。

 

 田舎に住んでいたので江戸の事をまだあまり知らないのだと無垢な目であれこれと尋ねてくるので、大岡はこの若造に偉そうに蘊蓄(うんちく)も含めて地理やら歴史、風俗などを教えてやって親しくなった。

 

 しばらくお互いの素性も知らずにいたが、後に吉宗が正式に八代将軍としてお目見えした時に、この大岡は腰が抜けるほど驚いた。言葉を交わす機会があった時にこれまでの非礼を詫びたが、吉宗は笑い飛ばして気に留める様子もなかった。

 

 吉宗にとって大岡は良き先生でもあり、良き相談相手でもあったのだ。二人で話す時は身分の事は抜きにして、これまで通りの仲でいたいと言うので、全くの無礼講となっている。

 

 そうは言っても他の者の目もある。吉宗の顔を知る者はここにはいないが、町奉行ともあろう人間に親し気に話しかけている浪人風の男を見れば、変に思われる恐れもある。

 

 大岡はコホンと咳払いをすると、顎で人を遠ざけた。

 

「……どうしたんだ、急に来て」

 

 仲が良いと言っても、大岡にはたった今後ろめたい事ができてしまった。不機嫌な物言いの裏には、緊張が走っていた。

 

「いや、伊達さん(・・・・)にちょっと訊きたい事があるんだ」

「いい加減その伊達さんってのは止めろ。体が痒くなる」

「いいじゃないか。この江戸に聞こえる名裁きをする大岡越前は、大変な伊達男(・・・)だって町でも噂になってるぜ」

「バカ言え。これはな、娘のお沙耶(さや)が俺に無理矢理着せているだけだ。あいつ、女房が死んでから洒落っ気が出ちまって、俺にもああしろこうしろってうるせぇんだ。ったく、金の使いっぷりと口うるさいのだけは女房にそっくりだぜ」

 

 伊達さん──、吉宗は大岡の事をこう言っては揶揄っていた。かつてはパッとしない風貌の男だった大岡だが、数年前に妻を亡くし、今は一人娘のお沙耶が張り切って父親の髷の良し悪しや足袋の生地にまでこだわって整えさせ、ピシッと威厳ある町奉行へと変貌させた。

 

 元々の野暮ったい中年男であった大岡を知っている吉宗は、会う度に茶化していた。いや、人は身なりをきちんと整えれば、それなりの人間に見えるものだと感心しているのであるが。

 

「ところで、何かあったのか? ここの通りを歩いていると、バタバタと何人もの男たちが騒ぎながら縄と刺股を持って走って行ったぞ」

「ああ……その事だが」

 

 大岡は深いため息をついて事の顛末を話し始めた。相手は吉宗、天下にはこれ以上の人物はいないという相手に、いよいよ何があったかを正直に説明しなければならない。

 

 旧知の仲の吉宗の事なので大目に見てくれるとは思っているが、今回の事は大岡には予想外で衝撃的な出来事だった。大岡越前の名を下げるような失態でもあった。

 

 馬場と冴島を見つけ次第、斬り捨てても良いと通達したばかりだが、なぜかそう命令してはいけなかったような気もしている。吉宗に意見を求めたが、吉宗は逃げ出した事には何も言わずに意外な事を口にした。

 

「……俺はちょうどその冴島という男の事で話があって来た」

「何だって……?」

「少し長くなるかも知れない。場所を変えたい」

 

 大岡は部屋に吉宗を招き入れ、今度は吉宗の話を聞く番となった。

 

 

 

 

 人払いをした部屋に二人きりで向かい合う。大岡越前と将軍吉宗は茶で体を温めながら冴島の話をしていた。

 

「どうやら、そいつはめ組の(カシラ)、辰吾朗の大坂時代の兄貴分だという事らしい」

「ふむ、その話が本当だとすると、俺の聞いている話とはずいぶん違ってくるな」

「その冴島は一体何をしたんだ?」

「花火による爆破だ。屋形船で花火見物をしていた博徒十八人を、花火の事故に見せかけて船ごと爆破した」

「花火だと……?」

「ああ。冴島は花火師だと聞いている。その殺された奴らは博徒と言っても、この辺では多少名の知れたやくざ者たちでな。何でも、その日は親分の襲名祝いに冴島に祝いの花火を打ち上げるよう頼んでいたようなんだ」

「打ち上げると見せかけて……という事か。なぜ冴島はそんな事を?」

「そのやくざ者たちに恨みがあったらしい。だが、どんな恨みかは口を割らねぇ」

 

 動機はあった。前代未聞の殺害方法なので、やり方が汚いと江戸っ子たちは散々な言い様だったが、中には厄介なやくざ者たちを一掃してくれて清々したと喜んだ者たちもいたようだ。

 

 仇討ちの理由があったとしても十八人も殺したのなら死罪は免れない。その処断はすぐにでも行えたが、大岡には腑に落ちない点もあって処分保留としていた。そして皮肉な事にここしばらくの間、冴島が獄中にいるお陰で牢内から出る死者の数が減ったという事実もあった。

 

 罪人が入る牢は主に庶民用の「大牢」と武士・僧侶用の「揚屋」があった。その中でも庶民用の大牢は特にひどいものであった。

 

 罪人たちは最上位の牢名主を筆頭に自治組織があり、それぞれ役割を担い、古参の者やより罪の重い者が牢名主に選ばれていた。そして牢内には言わずと知れた独特のしきたりがある。新入りにはもれなく厳しいしきたりが強要され、(つる)と呼ばれる金を牢名主に渡し、身の安全や待遇を買う(・・)という行為が行われていた。

 

 金の無い者は必然的に最下層となり、寝場所も与えられず厠の傍しか居場所が無かったり、何かあればすぐに不当な折檻の対象となったりと不遇な扱いを受ける事になる。ただでさえ寿司詰め状態の大部屋であるので、収監人数が増えてくると居心地がさらに悪くなる。そんな時に行われる「間引き」の犠牲になるのもこの最下層の人間だった。

 

 間引きとはその名の通り、人を殺して人数を減らす事である。日々喧嘩は絶えず、態度が悪い者や問題を起こす者、中にはいびきがうるさい者など、些細な事で間引きの対象となる者がいた。殺されても多くが「病死」として牢から出る事になる。殺人の実態が明らかでも、罪人たちは罪には問われなかった。

 

 狭い牢内では誰もが鬱憤を溜めているので日々いざこざが絶えず、殺人犯がまた獄中で殺人を犯すという悪循環が生まれ、まだ地獄の方がましなのではないかとさえ言われるような場所だった。

 

 そういう場所に入れられた冴島は、牢名主から要求される蔓も鼻で笑いながら「そんなもんあらへんわ」と両断したため、一気に冴島に対する風当たりが強くなった。

 

 本来ならば十八人殺しという箔の付いた罪人であれば、誰からも畏れられる存在になるはずであるが、牢名主である釘原と呼ばれる男に目を付けられ、事ある毎に嫌がらせを受けていた。

 

 この釘原という男、髪は一本も残さず剃り落とされ、脳天から左目の下にかけて大きな刀傷が残っていた。隻眼となっており、その白濁した左目と異様な傷跡のせいで、初めて見る者にはもれなく恐怖心を与えていた。

 

 それだけでなく、釘原は狡猾で残忍な男だった。人が苦しむ様子を見て笑い、長く愉しむ為にわざと死なない程度に痛めつけて悦に入るという狂気の男として恐れられていた。

 

 この釘原のかわいがり(・・・・・)を一身に受ける冴島がいる事で、喜ぶのはこれまで虐げられてきた者たちである。自分たちの代わりに冴島が折檻を受けてくれるので、多少は身分がマシになったのだ。また、冴島はいくら折檻を受けてもやり返さず、言い返さず、黙って受け入れているような男だったので、釘原は躍起になって冴島を痛めつけた。また、冴島は屈強な男である為か、他の者なら死んでしまうような暴行でも死ななかったので、釘原の執拗な暴力はより一層ひどくなるばかりだった。

 

 冴島が来る前までは、一週間に一人は残虐な殺され方で間引きが行われ、牢番にも呆れられていたが、冴島が来てからは間引きが行われる事はなかった。誰もが明日の我が身を心配する事がなくなり、釘原に気に入られようと一緒になって冴島に嫌がらせをした。それが結果的に牢内の組織の安定へと繋がっていたのだった。

 

「今回、裁きを受けた馬場を助けたのがあの冴島だった。あの冴島が人を助けるとは俺も驚いている」

「どういうことだ」

「奴は誰ともつるむ事はなかったと聞いている。それなのになぜ牢を突破して馬場を助けたかという事が気になる」

 

 二人は同じ牢にいたのは確かだった。しかし二人には何の接点もなかったはずだった。馬場は知り合いに蔓を多く届けさせて釘原に払っていたので、牢内の身分は悪くなかった。寝る場所の配置も遠く、土間の冴島とはかけ離れた場所だった。

 

「吉宗、あの二人は一緒に逃げた。これは元より計画的だったとしか思えん」

「ああ、どうやらそのようだな」

「お前が言う通り、冴島が無実というなら、奴が脱獄する理由は分かる。だが、なぜ馬場を逃がした? 逃がす事で何か冴島に得があるのか? それとも何かの礼か?」

「……分からん」

 

 大岡はああでもないこうでもないと言いながら、顎に手をやり唸っている。

 

「とにかく、見つけ次第殺せというのは取り消すとすぐに伝えておく。事実と違う処断を下すのは俺が最も嫌うところだ。何としても冴島を捕まえ、今一度正しく吟味しなければな」

 

 吉宗は大岡の元を去ると、御庭番である才三と茜に命じてすぐに冴島の行方を探らせた。

 

 

 

 

 小伝馬町の牢獄から抜け出した馬場と冴島は、二手に分かれて逃げる事にした。落ち合う場所は内藤新宿*2と決め、それぞれ逆の方向を向いて走り去る。追いかける方も二手に分かれたが、馬場はすばしっこく長屋の屋根に登ってその上を走り、冴島はその剛力で追っ手を蹴散らして姿を消した。

 

 日も暮れかけた頃、内藤新宿の「北方(きたかた)屋」という旅籠に辿り着いた冴島は、その赤い暖簾の前に立った。冴島は「赤暖簾に瓢箪が書いてある北方屋という旅籠」と聞いており、その辺の人間に尋ね聞いてやってきたが、果たしてここで合っているのかどうかと、宿の前で打ち水をしている若い娘に訊いた。

 

「ネエちゃん、ここは北方屋で合っとるか?」

「ええ。あなた……冴島猛虎様……でしょ?」

「…………」

 

 歳は十代後半か。まだ幼さが残る声だが、冴島を見る目は誘うように妖しげであった。冴島はしばらく女に触れていない。真白く細い首元に目をやった途端、すぐにでも組み伏せて貪りたい情欲に駆られている。

 

 なぜ女が自分の名を知っているかという疑問は、待たずともすぐに答えが出た。

 

「茂吉さんからお聞きしています。どうぞお上がりなさって。ゆっくり湯に浸かって垢を落としてくださいまし」

 

 娘は小首を傾げて軽く会釈すると、クルリと踵を返して廊下を先に行く。わざとなのかそういう癖なのか、歩く度に小尻を左右に揺らすように歩く後ろ姿を見て、冴島はゴクリと生唾を飲み込んだ。

 

「ちょ、待てや。馬場ちゃん……馬場茂吉はもう来とるんか?」

「はい。一刻程前にいらして、ちょっと用事があるとの事で先程出掛けて行かれました。冴島さんが来られたら、風呂に入って休んでいただくよう仰せつかっております」

「用事……? どこへ行ったんや」

「さて、そこまでは……。風呂は奥です。さあどうぞ」

 

 履物はない。垢に塗れた汚い姿の冴島は、土埃で茶色く汚れたそのままの足で框に踏み入れ、娘の後に付いて行く。床が汚れようが何だろうが気にしない。娘もまた、そんな事など気にしていないかのようだった。

 

 着物とも言えない筵の着物を脱ぎ捨てた冴島は、湯を一杯手桶に汲み、ザブンと頭から被った。そして(シラミ)で痒い頭を、指先でごしごしと擦る。すると肩には黒い汁がダラダラと流れてきた。長い間溜まりに溜まった地獄の汚れである。

 

 何度も繰り返して、ようやく濁りが取れた時、冴島は湯にゆっくりと足を沈めた。ジンと染み入るような温もりに、思わずホッとため息が出る。こうして湯に浸かるのはいつ振りか。熱い夏の日も、寒い冬の日も、着の身着のまま過ごして来た。顎を触れば伸び切った髭が、体には無数の傷跡が、今やあの地獄で生き延びて来た証となっている。

 

 裁きを待ち、死罪を言い渡されるのを待つ日々だった。冴島は遠く大坂にいる妹のお(やす)の事を思い浮かべる。二十も歳が離れた妹は、冴島が江戸に発つ頃はまだ小さかった。出立の日、一緒に連れて行けと泣きながら追いかけて来たお靖が石に躓いて転んでも、冴島は助けの手を差し伸べずにそのままお靖を置いて行った。

 

 あの時の「お兄ちゃん」と呼ぶ幼い声が今でも耳に残っている。あれから十年、お靖は今どうしているか。獄中でお靖を思わない日はなかった。今すぐにでも大坂へ戻りたいが、一文無しの冴島の持ち物は命一つしかない。売る事も買う事もできない、天から授かった大事な命一つだけである。

 

「湯加減はいかがですか?」

 

 さっきの娘が木戸を少しだけ開けて訊く。

 

「最高や」

 

 冴島はすぐに答えた。湯に浸かった事で多少は緊張が和らいだ。ここまで辿り着くまで、いつどこから追手が迫ってくるだろうと気を張っていたからだ。数寄屋橋からずいぶん遠くまで来た。まさかここまで追手が来る事はないだろうとも思い、うっかり饒舌になる。

 

「お前は何者や」

「ただの飯炊き女でございます」

「ほう。なら今夜は飯を食わせてくれるんか?」

「ええ。御用意させていただいております。……もちろんお酒も」

 

 忘れかけていた酒の味。冴島はそれを思い浮かべると、まだ飲んでもいないのに口の中に甘い酒の味がするような気がした。

 

「お背中を流しましょう」

 

 娘は伏し目がちに洗い場へと入って来た。

 

「……ああ、頼むで」

 

 薄い肌襦袢一枚にタスキを掛けた娘は、湯から上がった冴島の背後で手拭いを濡らすと固く絞る。背中一面に彫られた虎と笹の入れ墨を見ても、娘は顔色一つ変えない。

 

「お前、名は何や」

「……えっ?」

「名前は何やと訊いとるんや」

 

 聞き慣れない大坂の言葉に、娘は戸惑っていた。

 

「……お靖(・・)

 

 小さく響く名前を聞いた途端、冴島はくるりと振り返った。

 

「お靖やと……⁉」

 

 もちろん冴島が知る「お靖」ではない。だが歳の頃は同じほどだ。ひょっとしたら妹も、この娘のように色香漂う()い女に成長しているかもしれないと頭を過る。

 

「……何か?」

「いっ、いや。何もあらへん」

 

 動揺を見せる冴島を見て、お靖はクスっと笑った。初めて見せる笑顔である。

 

「もしかして初恋の女性(ひと)と同じ名前でしたの?」

「ちっ、ちゃうわ! 何言うとんねん!」

「では、なぜそんなに赤く?」

 

 お靖の小さな手が火照る冴島の鍛え上げられた躰をなぞり、ツーっと肩から胸へと下りてくる。そして背中の虎に押し当てられた柔らかな乳房の感覚が、とうとう冴島の理性を奪ってしまった。

 

「あっ……」

 

 冴島も男だ。お靖という名前以外、素性の分からない娘に求めるのも危険だと思いつつ、とうとう我慢ならなかった。

 

 

 

 

 座敷に通された冴島は、もうすでに飯が用意されているのを見て驚いた。馬場と自分の分か、箱膳に盛られた鯛の塩焼きや刺身などのご馳走が向かい合って並んでいる。

 

「お靖、これは何や」

 

 お靖は炊き立ての飯が詰められた御櫃を台所から運び入れて畳に置くと、今度は火鉢にかけた鍋の中に徳利を入れて温める。飯炊き女として手早く慣れた様子だが、お靖はなぜか素っ気ない態度である。

 

 風呂場では何かがあったが、何もなかった。どうやらそれが原因であるらしい。

 

「どうぞ、召し上がって」

「馬場ちゃんは待たんでええんか?」

「お先にどうぞとの事でしたので」

 

 お靖は袖に手を引っ込めながら徳利に触れ、熱燗の温度を確かめる。

 

 さっきまで熱っぽい目で冴島を見ていたと言うのに、今は見ようともしない。お靖は不機嫌そのものである。冴島はきれいさっぱり毛を剃り落とした自身の坊主頭を撫でた。

 

 風呂場では、体に纏わりついて来たお靖の腕を反射的に掴むと、冴島は力一杯抱き寄せて細首にかぶりついた。そして肌襦袢の襟を両手で広げ、躊躇う事なくお靖を半裸にしてしまった。

 

 お靖は艶のある声で応じたが、冴島はすぐに手を止めた。

 

『何をしとるんや、俺は……』

 

 冴島は湯を汲むと、頭からそれをザバっと被った。

 

『悪いんやが、剃刀を貸してくれへんか。毛も髭も全部剃ってしまいたいんや』

 

 お靖は剥かれた肌着を元に戻すと、ムスッとした顔でそれに応じたのだった。

 

 きれいさっぱり清潔になった冴島は、ドカリと膳の前で胡坐を掻く。そこへ徳利を持ったお靖が横に座った。

 

「お前と馬場ちゃんの関係は?」

 

 お靖は猪口に酒を注ぎながら答える。

 

「馬場さんはこの宿を定宿にしておりました。それだけの事です」

「ならお前は馬場ちゃんの女というわけやないんやな?」

「私は────」

 

 そこへ廊下を歩く足音が近づいて来た。そして無遠慮に襖を開け放つ。

 

「おっ、ずいぶんさっぱりしましたねー、兄貴!」

 

 追われている身だというのに、派手な若草色の羽織を着て馬場は現れた。

 

「似合ってますよ、坊主頭。一瞬、坊さんかと思いましたよ!」

 

 ケラケラと笑う馬場。牢屋にいた時とは違う、明るい笑顔だ。

 

「お前も飲め、馬場ちゃん」

「ええ、もちろんいただきます。お靖ちゃん、もっとつけて。冴島の兄貴は大酒飲みだからなぁ、多分」

 

 お靖は黙って馬場に従った。冴島は馬場の手にある猪口に酒を注いでやる。

 

「ではでは。牢破りが大成功したという事で、乾杯!」

 

 馬場の音頭で猪口を掲げると、二人同時に一気に酒を仰ぐ。

 

「クーッ‼ 旨ぇ! ささっ兄貴、もう一献いきましょう!」

「そうやな。やけど、久しぶりやとやっぱりクラクラするわ。悪酔いしそうやで」

「いいじゃないですか。今夜は酔い潰れるまで飲みましょう! お靖ちゃん、どんどん持って来て!」

 

 一刻、二刻……。酒が入ればあっという間に時は過ぎていく。二人の周りには空になった徳利が山のように転がり、それをお靖は小言を言いながら拾い集め、台所に持って行く為に座敷を出て行った。それを横目で見ながら、馬場はニヤリと笑う。

 

「で……どうでしたか? お靖ちゃん、いい女だったでしょ? 俺から兄貴へのお礼ですよ」

「…………」

「どんだけぶりの女だったんですか? ヘヘヘヘ、燃えたでしょ」

「……下衆な話すんなや。酒がまずくなる」

「またまたァ。お靖ちゃんを見てそそらない男はいないでしょ。あれ? 冴島の兄貴、ひょっとしてアッチ(・・・)の人でしたか?」

「あほんだら。そんなわけあるかい。それよりお前、どこに行っとったんや」

「ああ……その事ですか」

 

 馬場の顔からは笑みが消え、すーっと目を逸らす。そして言い難そうにしながら、首の後ろをポリポリと掻いた。

 

「何や、言えんのか」

「うーん……まぁ何て言うか……今はまだやめとこうかな」

「……気になる言い方やな。誰かと揉めとるんか」

「……いやいや、そういうわけじゃないんですけどね」

 

 馬場は笑ってごまかすと酒を(あお)った。さんざん勿体ぶったかと思うと、口に含んだ酒を飲み込んでから意を決したように馬場は話し出した。

 

「兄貴、いい話があるんですけど一枚噛みませんか?」

「いい話……やと?」

「娑婆に出たからには、金が必要でしょ? 俺も稼ぎのあてがないか、さっき知り合いの所で何かないか訊いて来たんですよ」

 

 確かに金は一文もない。投獄される前までは、定期的にお靖に仕送りをしていたが、貯めた金も今はどこへやら。今は飯炊き女のお靖が出してくれた着物に身を包んでいるが、返せと言われれば返さなければならず、かといって着物を買う金もない。褌一丁で過ごすか、元の見窄らしいゴザ男になるだけだ。

 

「金は今すぐにでも必要やな。何ならここの宿代も払えんわ」

「でしょ? だったら──」

「そやけど、大っぴらにはできへんやろ。俺らは追われとる身や。日傭(ひよう)の人足か、裏仕事か、そういうもんを転々とせなあかん」

「まぁそういうのもいいですけどね。冴島さん、元は花火作ってたって言ってましたよね?」

「せや。俺は花火修行の名目で藩に許しを得て江戸へ出て来て、師匠に弟子入りしたんや」

 

 冴島の父親も大坂で名の知れた花火職人であり、冴島自身も幼い頃から後を継ぐべく父親に付いて教えてもらっていた。ようやく一人前に仕事ができるようになり、軌道に乗り始めた二十代の半ば、飲みに行った父親が帰り道で辻斬りに遭って死んでしまった。

 

「でもそれが何の関係があんねん。俺はもう花火には関わらんで」

「もう作るつもりはないって事ですよね?」

「ああ。二度とやらん。俺は花火を作る資格なんかあらへん。あんな事になってしもたんやからな」

 

 馬場はその言葉を待っていたと言わんばかりに嬉しそうに笑みを浮かべた。

 

「そういう事ならこの話──、別に構いませんよね?」

 

 馬場は、向かい合って座る冴島の耳元まで身を乗り出してコソコソと何事かを囁いた。

 

「…………⁉」

「……いかがですか? 兄貴にしか頼めない事だと思いましてね」

 

 冴島は、その(よこしま)な話を聞いて一気に酔いが醒めてしまった。

 

「どうします? 兄貴、これからの事をよく考えてみてくださいよ。大坂の妹さんの事も心配でしょ?」

 

 馬場は冴島の驚く顔を見て不敵な笑みを浮かべている。その顔は、馬場がこれまで一度も見せた事がない顔つきだった。

 

「馬場ちゃん……お前……」

 

 飄々とした男・馬場茂吉。同じ牢で過ごし、一緒に逃げ出した仲だが、よくよく考えれば冴島はこの男の事をほとんど何も知らない事に気がついた。

*1
処刑人

*2
現在の新宿区内

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