ネイチャさん誕生日おめでとう物語です。立派な大人になって、笑ってね。

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もう走らないアタシの春よ

 さらさら髪がなでられた。迷い込んだピンク色。流れて、アタシの手に乗る。やわらかくなった風によるものだ。窓の方を見てみると、カーテンがゆらゆら揺れている。優しく透ける光が眩しい。

 手に乗ったピンクは、桜の花びらだった。

 春ですなあ。風は花の匂いも運んでいる。ふと時計をみると、針はお昼前を指していた。あれ、もうそんな時間?何してたんだっけ。少し痛い頭で考える。

 えーっ、と。そうだ。片付けをしたんだった。昨日は、楽しい楽しいたこ焼きパーティーだった。それで、後回しにしたホットプレートの片付けを今日の朝にやって、少し疲れたからカウンター席で寝ていたんだ。隣を見てみると、背もたれのない座席に「本日の主役!」という派手な文字を書かれたたすきが掛けられている。

 吹き込んだ風に尻尾が揺れた。室内には、新鮮な春風が満ちている。その中には、微かに油の匂いが混じっていた。

「友達以上、仲間でライバル」だっけか。まさしくその通りの関係だった。そんな子たちがうちに来て、一緒にたこ焼きを回した。変な具材を入れたり、逆に何も入れなかったり。楽しかった。昨日は、アタシの誕生日だったのだ。

 準備はみんな手伝ってくれたし、終わるのがすっかり遅くなっちゃったのもあって、片付けはアタシが責任をもってやることにした。泊まりたがってた子もいたが、生憎、お互い用意が不十分すぎた。いや、まあ、おふくろはちょっと乗り気だったけどね。いくら学生じゃない とはいえ、あんまり帰りが遅くなるのは忍びない。

 そう、みんなもう学生じゃない。つい先日、アタシたちは、トレセン学園を卒業した。

 

 特に何かしたいこともなかったアタシは、実家のスナックに帰り、そのまま一ヶ月を過ごしていたのだ。店内が小さく見えるのは、アタシが成長してしまったせいだ。これから、何をして生きよう。そんな具合で、卒業からずっと、軽いような、重いような気持ちが続いている。

 しかし、このまま何もしないという訳にも行かない。そう思って伸びをすると、背骨がぱきぱきと音をたてた。なんだかオバサンくさい。変なところで寝たおかげで、体がかたくてだるかった。若さとは急激になくなってしまうものなのだろうか、と不安に思う。

 ばさり。カーテンが鳴った。翻す動きに合わせて、床に映る太陽の線が、その太さを変えている。薄ピンクが掌から逃げ出して、ほこりが見える光の中を、くるくると舞い上がっていた。

 

 

 

 △▲△

 

 

 

「とー、ふー」

 聞こえるラッパに合わせて口ずさんでみた。どこかで豆腐屋さんの車が走っているのだろう。

 冬は終わり、春が来た。風もかつては冷たくて、鋭く肌を刺していたのに、今じゃ少し水気を含んで、やわらかくなった。優しくなったんだね。日差しも、触れるだけでじんわりあたためてくれる。こうして外に出て、散歩をしてみると、その違いを実感する。

 視界全体が明るくて、目に映る全てのものがちょっと淡い色になっていた。まるで加工した写真みたい。昼下がりを切り取ったなんでもない景色でさえ、なんだか愛おしく思える季節だ。……なんて、すこしばかり気取った気分になる。

 今度は、目を閉じて歩いてみた。ちょっと危ないけど、もちろん周囲を見渡してからね。嗅覚やら聴覚やら、視覚以外の感覚に集中できるかもと思ったのだが、その予想は、見事当たったみたいだ。

 芽を出したばかりの草や、咲いたばかりのお花。そんな植物の匂いがよく感じられた。すぐ下から、自分の足音も聞こえてくる。足の裏にあるのは、ターフとは違うアスファルトの感触。スニーカーの音が小気味よくて、それが面白い。

 風がメンコをすり抜けて耳に当たり、ふー、という音を出した。風というものの存在は、肌だけじゃなく耳でも感じることができるらしい。

 せっかくの春なんだから、ちゃんと色んなとこまで味わい尽くさないと~って、ケチくさいかな、アタシ。

 前方から忙しない足音が聞こえたので、目を開けた。久しぶりに飛び込む光に、目がじんわり慣れていく。空の青と、桜並木のピンクが最初に見えた。その次に見えたのは、両手でボールを抱えて走っている小さな男の子。アタシの横を、とたとた通り過ぎていく。

 今から、友達とでも遊ぶのかな。その様子を想像して、可愛らしいと思うのと同時に、若いなぁとも感じた。アタシにも、ああやって無邪気に遊ぶ時期がきっとあったんだろう。あ、でも、簡単に若いなんて言っちゃったら、本当におばさんになったアタシから怒られそうだ。というか、あの子は若いじゃなくて、幼い? いやはや、年下の子が増えるなんて怖いねぇ。とか、そんな意味の無いことを考えた。

 

 まぁでも、アタシの人生、きっと半分くらいは終わっちゃったんだろうなー。そう悟って、少し自嘲気味に笑う。

 あぁ、輝かしき数年間の春よ。無限のように長くて、あっという間の日々。けれどあんなに濃密な時間は、この先あるだろうか。

 間違いなく、アタシの全てだった。ぬかるむ重バ場だって、がむしゃらに走ってきた。いばらだって、全部食べてきた。やれそうなことなら、なんだってやってきた。「三着」なんかに、アタシは収まらないんだって、証明するために。表では「アタシなんか~」とほざいているくせに、勝利への思いは誰より強い自信があった。

 そんな、自分でもめんどくさいと思うナイスネイチャさんを、ずっと、ずっと隣で支えてくれた人がいた。それがトレーナーさん。一緒に歯を食いしばって、悔しがり、泣きあって、笑いあってくれた。まさしく、二人三脚で。その果てに、GIという最大の夢を掴ませてくれた。それも一回ではない。

 アタシは、そんな彼に恋をした。それは仕方ないことだと思う。だってまぁ、あのトレーナーさんだし。誰でも好きになっちゃうよ。女の敵だね。まったく。

 ま、そんな純情少女のいたいけな恋なんて、ついには叶わなかったのだけれど。やれやれ、と言わんばかりにため息をつく。

 別に、トレーナーさんに拒絶されたとか、そういうことではない。ただアタシの勇気が足りなかったのだ。

 お別れの日。泣くでもなく、ただずっと笑って、手を振ってくれたトレーナーさん。あの瞬間を覚えてる。

 どんなに離れても、振り返ればすぐそこにいるようで。

 アタシだけに向けてくれる笑顔を見て、もしこの関係が壊れたら、と思ってしまった。今日こそ絶対、という卒業式当日の決意虚しく、残ったのは、弱い自分と少しの安堵だった。本当、自分でも情けなくて笑ってしまう。

 たった一言、思いを告げることさえできなかった。天下のGIウマ娘のくせに。それは反省してるし、後悔してる。後悔している。ううううう……。

 だから、昨日のパーティーは、「ネイチャさんの誕生日を祝おうの会」という皮を被った、「最後の最後に勇気も出せない超ヘタレのネイチャさんを仕方ないから慰めてあげようの会」だったのだ。お恥ずかしい。

 ずうっと前から、アタシを応援してくれていたお友達の皆様方には、それはもう怒られたものだ。ついでに、おふくろからも。……いや、アンタはなんで知ってんのさ!

 アタシが告白できなかったのは、あの日々が永遠に続くという、根拠の無い自信のせいでもあった。それを、世間一般では盲信と言い、甘えと言う。アタシも、一月前のアタシをしこたま叱ってやりたい。あの人は、また新しい女の子をスカウトしちゃうんだぞ!って。

 

 ――そんなんだから、またこうしてアンタに会えるなんて、思いもしなかったんだ。

 

 

 

 △▲△

 

 

 

 春が吹いた。

 あの汗と泥に塗れた輝かしき春を青とするならば、こちらの春は桜のような淡いピンクだと、そう思った。

 

 遠くで、少し恥ずかしげに手を振るトレーナーさんを見た。アタシの尻尾が、針金が通ったようにピンと伸びたのを感じた。

「よー、ネイチャ!久しぶりーー!!」

「え、あ、とれっ、トレーナーさん!?」

 彼が駆け寄ってくる。嗅ぎ慣れた匂いを連れて。目の前まで来た時、アタシは体が暑くてたまらなくなった。顔が赤くなっていないか不安になって、少し俯いた。その先に見えたのは、トレーナーさんの靴。ずっと変わっていないもの。学校の中は上履きだったから、お出かけの時にしか見れなくて、アタシの中では貴重だった。先のほつれた靴紐を見て、また色んなものが込み上げてくる。

「久しぶりだけど、よかった。覚えててくれたか」

 そんな、忘れるわけ!という言葉は、すんでのところで飲み込んだ。

 心が浮いてしまう。だめだ、やっぱりアタシは、この人が好きなんだ。

 ああ、これだ。この空間が心地いい。本能でさえ、この人が良いと叫ぶ。今だネイチャ!言っちゃえ!!えっ、今!?早くない!??

「……てたの?」

「えっ?」聞こえなかったじゃんか!!

「あぁいや、ネイチャは何してたのかなって」

「外がほら、すごく綺麗だったから、春を感じにちょっくら散歩へ~みたいな?」

「お、同じだ。俺も散歩。」

「……それじゃあ、一緒に行ってみます?」

「ああいいよ。そのつもりだし」トレーナーさんは歩き出す。

 ……そのつもり、ですか。アタシからちょっと踏み出してみたくせに、思わぬ反撃を食らってしまった。並んで歩くのが当たり前のような口ぶりで、それがたまらなく嬉しい。

 ちょっとした近況報告、というような会話内容。学園名物の野良猫ちゃんが、なんと子どもを連れていたとか。近所に住んでる年下の子が、生意気にも彼女を作っていたとか。そんな何でもないお話をしているうちに、ふと疑問が浮かんだ。

「ってかトレーナーさん、お仕事は?今日お休み?」

「あぁ俺、トレーナー辞めたんだ」

「え、えええええ!?」

 青天の霹靂。春一番。あのトレーナーさんはもう、トレーナーさんじゃないなんて。それはそれは、もはや驚きなんてもんじゃない。アタシが言葉を失っていると、トレーナーさんは苦笑して続けた。

「いやまぁ、専属トレーナーは、って意味だけど」

「……と、いいますと?」

「数年は裏方というか、全体のサポート役に回ろうと思ってさ」

 ほうほう、なるほど?別に何かあったわけではないのね。それはよかった。

 ……ということは、他のウマ娘の子を一対一で指導することはないのか。それに嬉しくなってしまって、ちょっと自己嫌悪。

「それはまた、どうしてです」

「最初はまたスカウトし直そうとしてたんだけど、あの三年間が、思ったより俺の中で大きかったらしくてね。……出し尽くしちゃったじゃないけど、ネイチャのトレーナーじゃない自分が想像できないっていうか、まぁつまるところ、ネイチャのいない学園が、なんだか寂しくてさ」

「っ、そーですか」

 ……そういうとこですよ。ほんと。

「ほら、ネイチャは俺の一着らしいですし?」

「だー!!うるさいうるさい!」

 赤面するアタシを見て、トレーナーさんは笑った。懐かしいなぁ、この感じも。あの時に戻ったような錯覚を覚える。「あの永遠」が終わってから、まだ一月程しか経っていないというのに、今のアタシにはとんでもなく遠いものに思えるのだ。

「GIウマ娘を育て上げた人材として、いろいろ期待はされてたんだけどさ、理事長に無理言って、通してもらったんだ」

 そしてなにより、アタシという存在がトレーナーさんに残っているということ。その事実が尻尾を跳ねさせるのだ。

 慌てて付け根を抑えていると、トレーナーさんは「あ、そうだ」と何かを思い出した顔をした。

「どうかした?」

「ああいや、改めて、お誕生日おめでとうって」

「そ、それはどーも。ありがとね」

 面と向かって言われると、どうしても照れてしまう。もっと素直に可愛らしくリアクションしたいのにな。

「昨日会えなくて申し訳ないよ」

「いやいや、電話してくれたじゃん。しかも長いこと」

 それに、トレーナーさんの方から電話をくれたのだ。嬉しくてつい長電話をしてしまった。ちょっと申し訳ない。でも誕生日なんだから、これくらいね。

「あ、そうそう。プレゼントがあるんだよ」

「えっ?」

「ただ、今トレセン学園にあるんだ。どうだ、一緒に取りに行かないか?」

「ほんとに!?行く!行きたい!」

 またあの学園に戻れるだなんて、それだけで嬉しい。久しぶりの学校探検は、卒業したアタシにはいったいどう映るのだろう。

 しかしまあ、外に出てからいい事しか起きていない。アタシを連れ出してくれた花びらに感謝した。涼しい風に、桜が揺れる。花びらたちが舞っていて、それがまるで返事みたいだった。

 豆腐屋さんのラッパが、また聞こえてくる。お味噌汁飲みたいなあ、とトレーナーさんはこぼした。

 

 

 

 △▲△

 

 

 

 電車に揺られ、数十分。アタシたちは府中に到着した。降りた先は、アタシの下町より少しだけ気温が高くて、都会だからかなと考えた。ヒートアイランド?とか言うんだっけ。そのことをトレーナーさんに伝えてみる。

「ネイチャの地元だって十分発達してるだろ。少なくとも、あんな良い商店街俺の地元にはなかったな」

「じゃあ、準都会っ子のアタシがそんなこというのもおこがましいわけだ。ま、あそこは街のせいというより、おじちゃんおばちゃんたちの熱気のせいかもね」

「はは、そうかもな」

 二人話しながら門をくぐる。どこからともなく聞こえてくるウマ娘たちのかけ声とか、少し欠けた石タイルとか。そういうピースがはまって、あの頃の記憶が明瞭になっていく感覚。ああ、懐かしいなあ。なんて感慨にふけるまえに、アタシのお腹は「きゅるるるる」と鳴き声をあげてしまわれた。

「もしかして、お昼まだだった?」

「……、ハイ」

「じゃあ、先に食堂にでもいこうか」ほんと、お恥ずかしい。

 校舎の方へ向かい、正面玄関に到着した。トレーナーさんは「ちょっとまってて」と言い残し、職員室の方へ走っていった。しばらくすると戻ってきて、あたしに何かを手渡す。

 確認してみると、それは「来賓者」と書かれた、首から提げるタイプの名札だった。なるほど。

「ネイチャぐらい有名なら別になくても大丈夫だろうけど、一応ね」

 そうして、アタシたちは食堂へ向かった。いつ見ても広い食堂だ。ウマ娘みな健啖と言うように、大食らいがとても多いので、食に関する設備は凄いことなっている。言うまでもなく、味は最高だし、寮生活でお弁当が用意できないのもあって、お昼時の食堂はそれはもう混み合うのだ。けれど今日は、午前中の授業も終わり、大半の子たちはトレーニングに向かったため、座る場所には困らなかった。ラッキーだったな。

 注文のとき、おばちゃんに挨拶すると驚かれて少しむずかゆい。頼んだ天ぷらそばはすぐに渡された。厨房を覗いてみても、やはりピークの時より働いている人は少ない。きっと裏でご飯でも食べているのだろう。ちなみに、トレーナーさんはカツ丼を受け取っていた。

 テーブル席に向かい合って座り、談笑を交えながら少し遅いお昼ご飯を食べている。カツをひときれ貰ったので、お返しに天ぷらをひとつあげたり、そんなの釣り合わないと、もうひときれカツが渡されたり。学食なんて友だちと食べるのがほとんどだったから、昨日のたこ焼きとかとは違う楽しさがあった。いや、それは相手が相手だからだ。アタシはこの瞬間、色々なものを噛み締めていた。

 返却口に食器を返しに行く途中、在学生らしき子に話しかけられた。いわく、ファンだったのだと。

「あ、あの!ファンでした!ネイチャさんは本当すごくて、ずっと目標で。お、お疲れ様でした!!」

「はは、ありがとね~。君も、がんばって」

 こう返して、ちょっと後悔した。この学園には、がんばっていない子などいない。そんな人達に、「がんばって」なんて言葉をかけるのは、かえって失礼なのだと。いやまぁあの子は喜んでたし、気にしすぎかな。

 そのあとも、彼女は興奮気味に言葉を続けた。トレーニングは大丈夫なのかと問うと、慌てた顔をして去っていった。眩しいなぁと思う。

 なんだろうか。かなり美化されたアタシへの言葉を聞いていると、自分の中に、嬉しさの他、ほんの少し違和感があることに気付いたんだ。ファンの子が去った後、そのことを考えようとするも、トレーナーさんに声をかけられて思考は放棄された。

「せっかくだし、教室とかいってみる?」

「えっ、いいの?行ってみたいかも」

 

 静かな廊下を歩き、階段をのぼる。いくつものドアを通り過ぎた後に、アタシの教室に到着した。火元責任者のプレートは、担任だった先生から知らない名前に変わっていた。

 隣を見ると、トレーナーさんは指の先で、鍵をくるくる回している。その凸凹は不安定に、鈍く銀を光らせていた。そうして、にびいろは鍵穴に吸い込まれ、がちゃりという音がなる。アタシは、中へと入った。

 整然とはならず、少しのずれを許して並べられた机。綺麗な黒板の下、白い灰を被った銀の粉受け。ぜんぶ、ぜんぶ懐かしくて蘇る。

 戸締りを忘れたのか、教室の後方、一つだけ窓が空いていた。カーテンが揺れた隙間から差し込む光に、一つ座席が照らされる。アタシの席だった。

 吸い込まれるように歩いていき、座る。窓際で一番後ろの席からは、教室全体がよく見えた。ただ、その空間自体が、なんだか圧迫を伴っているように見えて、すこし肩がこわばる。机に少し残った知らない誰かの消しかすとか、こころなしか冷たい椅子とか。そんなものがアタシを優しく否定しているようだった。「おまえの居場所は、もうここじゃないよ」って。

 ああそうだ。さっきの子の言葉、その違和感。アタシはこれまで、現役選手としてのエールしか受け取ってこなかったから。「引退バ」への言葉が、なんだか他人事のように聞こえてしまったんだ。「お疲れ様でした」なんて、言われたことなかったもんね。ああ、アタシはもう、眩しい彼女たちとは違うんだ。

 

 太陽は雲に隠れ、少し冷たい風が残った。目を閉じる。当たり前だと思っていた、友人たちの喧騒はとうに消えていて、教室というにはちぐはぐな静寂と、風の音だけがあった。

 アタシは、ただ、悲しくなった。

 トレーナーさんだけが、出入り口の柱にもたれかかって、アタシをずっと優しく見守っていた。

 

 

 

 △▲△

 

 

 

「どうだった?」

 ぼうっとしながら歩いていると、隣のトレーナーさんから声がかけられた。すぐに答えを返せないアタシに、自分でも驚く。なんとか言葉を練って、口にだした。

「なんというか……あそこにアタシはもう居るべきじゃないんだなぁ。って」

「なるほどな。そうか、もうネイチャは卒業しちゃったんだもんな」

 首にかけた「来賓者」の名札を見る。君までアタシを否定するんだね。

「うん。アタシのものだった机の引き出しに、知らないものが入ってたりとか、でも教室の匂いは変わってなかったりとか、ほんと細かいんだけど、そういうのが、ね」

「分かるよ。俺だって、学生のときがあったんだから」

 思えば当たり前だ。だけど、そんなこと考えたこともなかった。誰にでも子供の時はあるのだと。なんだか、不思議な感覚だった。何より、アタシがそっち側になった事。卒業の瞬間はただなんとなく過ごしているだけだったけど、ようやく、ようやく実感した。

「確かに、教室にはもういられないかもだけど、ネイチャの居場所は、いつでもここにあるからさ」

 そう言って、トレーナーさんは立ち止まった。正面には、トレーナー室の扉。いつの間に、ここまで歩いてきたんだろうか。

「ありがたいことにさ、俺専用の部屋として理事長が残してくれたんだ。これもネイチャが活躍してくれたおかげだよ」

 そう言って、トレーナーさんが鍵を差し込む。ドアが開かれると同時に、懐かしい匂いが鼻をかすめた。

 いてもたってもいられなくなって、アタシは部屋に飛び込んだ。ああ、優しいなぁ。ソファに寝転がり、変わらずそこにあるクッションを引き寄せて抱きしめる。肺いっぱいに、こちらも変わらない匂いが満たされた。ここで過ごした時間を思い出す。仰向けになると、窓から綺麗な青空が見えた。少しの間、アタシはただ何も考えず、流れる雲を眺める。そうして、気付いた。

 そうだ。違うんだ。子どもとか、大人とか。卒業したから、アタシは学園にいちゃダメだとか。そんなんじゃなくて。この空間は、ありのままのアタシを肯定して、包み込んでくれるんだ。ここは、競走バとしてのアタシが、走るためにある場所じゃなかったんだ。もう走らなくても、アタシはここにいてもいいんだ。窓からトレーナーさんへ視線を動かすと、相変わらずアタシを見守る優しい瞳が見えた。

 

 トレーナーさんがコーヒーをいれてくれたので、二人でのんびり飲みながら、たくさんお話をした。無邪気なネイチャさんが、そこにはいたと思う。

 ふと、トレーナーさんが立ち上がり、彼のデスクからなにやら紙袋を取り出した。

「改めて、卒業引退誕生日、おめでとう。ナイスネイチャ」

「どーも、ありがとね……って、これ」

 受け取って、中身を見てみる。どうやら、とても高級そうな箱が。

「ちょ、ちょっとまって!手、洗ってくる」

「おう」トレーナーさんはにこにこ返す。

 というわけで、大慌てで洗面所へ。普段は一度だけ押す石鹸のボトルを、今日は三回プッシュする。大量の泡で念入りに、それはもう念入りに手を洗った。

 緊張で胸がバクバクする。プレゼントは逃げないが、急いで戻った。差し切った、はず。レースの後は、少し息を整えてから。

「あ……あけていい?」

「もちろん」

 おそるおそる。といったかんじで。

 手に取り、箱を開くと。

「これ……!ネックレスじゃん!」

 銀に光るチェーンに、ちいさな金のバ蹄がそびえていた。U字型のそれに、ダイヤモンドが散りばめられている。そのあまりのきらきらに、思わずおののいてしまう。

 真っ先に浮かんだのは、お値段のこと。実家が飲食店なのもあって、アタシにはついお金の計算をしてしまう悪癖がある……のだが。

 おふくろの棚から、年季の入ったネックレスを羨ましく見つめるだけだったアタシには、その動作はあまりにも不慣れで。とんでもない輝かしさの前では、計算もへったくれもありゃしないのでした。

「ひ、ひえ……」

「どうかな。つけてみる?」

「は、ハイ!」

 後ろをむく。左右両方の肩越しに、トレーナーさんへネックレスのはじっこをわたした。上から不慣れなバ蹄はゆっくり降りてきて、そのまま首の下へ。

 ちらちら触れる、金属と指。こそばゆさを伴って、「できたよ」という声がうなじを撫でた。

 レース前、いや、そんな時以上に緊張していたかもしれない。そのきらきらは、とても重かった。でも、なんだかアタシにすっぽり収まって、不思議としっくりくる……という感じ。

「うん、似合う。やっぱ俺の見た通りだ」

「そりゃどーも……ってか!これ、すっごく高かったでしょ」

「それは……否定しないけど、節目だからな。これぐらいカッコつけさせてくれ。それに、こう見えて結構高給取りなんだぞ?」

「そうかもしれないけど、こんな!お高いもの……」

「ふーん、じゃ返してよ」

「いじわる!」

 トレーナーさんは笑う。アタシも笑う。指先でバ蹄の縁をなぞる。触れた先から心がぽかぽか温まる。

「いやーしかし、ほんと、ありがとね。すっごく気に入ったからさ」

「嬉しそうで、なにより」

 毎年恒例の誕生日プレゼントだったシューズは、もうアタシには贈られない。悲しいかな?ううん。この空間は、この人は、アタシの成長を認めてくれている。いいじゃないか!子どもみたいな大人だって!アタシは、ゆっくり立派になってやる。

 首元できらきら輝く金属は、同じくきらきらしてた過去への執着を、未来への決意へと変えてくれたのだ。

 

「あー……、そうだネイチャ。一個謝らないといけないことが」

「えっ?なになに?」

「今日のお昼さ、あたかも偶然みたいに、ネイチャと会っただろ?」

「うん」

「あれ実はさ、俺から会いに行ってたんだ。だってほら、用もないのにネイチャの地元へ行くだなんておかしいし」

「そうだったの!? ……え、それじゃあ、用って?」

「それなんだが……」

 トレーナーさんは、一瞬間を貯めて。

「ネイチャ、トレセンで一緒に働いてみないか?」

「え、ええ!??」

「レースの賞金もたんまりあるだろうし、必要ないかもしれないけどさ、どうかな。サポート役に回る俺の、更にサポートみたいな、要はふたりでいろんなことをしよう!っていう……」

「や、やります、やってみる!!」

 驚きこそしたものの、アタシは食い気味に答えた。だって、そんなの嬉しくないはずがない。もちろん、またトレーナーさんと一緒にいれるというのもある。ただ。

 この学園で、きらきらな子たちを見ていくことが、アタシを立派にさせる成長をくれると思ったのだ。

「よかった、嬉しいよ」

「あ、じゃあトレーナーさん。アタシの分からないとこは、教えてくださいね?」

「はは。じゃあ俺は、ネイチャの専属トレーナー続投ってわけだ」

 

 

 

 △▲△

 

 

 

 窓を覗けば、青の空はバ蹄と同じ金色へと姿を変えていた。トレーニング終了間際、あのターフの匂いが思い起こされるようだ。アタシは、心の中でそんな夕陽と芝に決意を叫ぶ。

 やってやろうじゃないか。かわいい後輩たちも、アタシも、総じて大人にさせてやる!

 

 

 ──そのためには、まず、アタシが変わらなきゃだ。

 

 

「ねぇ、トレーナーさん」

「アタシね──」

 

 

 これからは、あなたの隣で。

 並んで一緒に歩いていくのだ。

 だから。

 アタシは、もう、走らない。

 

 

 

                ─了─


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