目の前に広がる世界には何もなかった。
天と呼べるものもなく地と呼べるものも見当たらない。完全な無の世界に乳白色のもやだけがきらきらと充満している世界だった。
『全長としては3kmくらいの世界とも呼べない吹き溜まりだよ。世界から漏れた魔力で出来た泡みたいな空間。魔力の量やものによっては木が生えたり湖が涌いたり生物が生成されたりしてるんだけど、今回は微量な魔力で出来たから何もないみたいだね。藤丸君は過去にこういう場所には縁はあった?』
「うーーーーーーん、ないんじゃないかなあ」
『そう?……まあこういう場所は抜け出してしまうと記憶にも残らなくなるからね。以前に踏み込んでたとしても覚えてないだけかもね』
「そういうものかあ」
軽い調子で解説を入れつつも探るような声音も混ざっている。そんな通信の様子に彼は気に止めない素振りでもやがかった穴の様子を覗いている。
何度も何度も身を乗りだし、角度を変え高さを角度を変えてしげしげと。しかし世界との境界は越えていない。それを越えたらどうなるのか。分からないまま越えてはならないくらいの判断はあったから。
それでも興味はあるものはあると、うずく心を抑えきれずに身体を揺らしているのであるが。
「ねえ、本当に何もないの?誰もいないの?」
『……うん。一応5回くらい索敵はいれてるけど反応はないなあ。本当に魔力の溜まり場って感じだね。もや以外は空っぽだよ』
「本当かなあ。たまに敵がいきなり湧いてくる時あるじゃん」
『それはごめんね!』
現場の彼らの生存率を少しでも上げたいと管制室としても常に全力をあげてはいるのだけど。どうしても専門ではない生き残っただけのかき集めスタッフでの前列のない作戦だ。機材も運用も万全とは決して言えず、いらぬ苦労はかけていると何をしても足りないくらい申し訳なく思っているが……。
管制室側のそんな想いも知らぬ素振りで彼は「けけけ」と笑う。「オレももっと敏感肌だったらいいんだけどねえ」と。彼とて自分の力不足によって本来ならばする必要のない気遣いと労力を割かせてしまっている申し訳なさは多大に感じているのだ。ちょいと悪趣味に笑い飛ばすくらいでいいだろう。
「…………………………………………」
そうしてよくある旅の途中の雑談として片付けてまた何事もなかったように旅に出る。
よくあるものらしいけど少し珍しいものを見た。
それで終わらせる話だ。終わらせるべき話だ。理解している。
「…………………………………………」
理解しているのに、上手く動けない。空間に向けて背を見せられない。視界が奥を探してしまう。ただの魔力の溜まりだから魅せられているわけでもないのに。
誰か。誰か。
誰かが、迷って残されたりでもしたら━━━━。
「やっぱりちょっと見てくる!」
『ヘクトール』
「あいよ」
「んぎぇ!?」
誰もが焦燥に弾けて駆け出す彼を読んでいたのか。一歩も踏み出すことなくたった一声で彼の襟首は摘ままれ勢いよく首がしまる。そのうめき声にすら視線は冷ややかだ。
『いつ消えるか保証がない場所に意味もなく君は飛び込んじゃいけないの。分かるでしょ?』
「分かってるけどちょっとだけ!すぐ行って帰ってくるから!」
『だーめ』
「ヘクトール!」
「あのねえマスター」
一体何に必死になっているのやら。見当が全くつかないわけでもないが、努めて心底呆れた声とまなざしで泣きそうなほどすがるような彼にヘクトールは言う。
「オジサンたちはマスターの命令ならどんな荒事でも代わりにいくらでもやりますがね、それでもする必要や意味がない危険なんて被るのはごめんなんですよ」
「……………………ッ!」
放たれた言葉を理解出来ないほど頭に血が上りきってはいなかったらしい。
大きく開かれた瞳に強く口を結び、荒れ狂いかけた感情そのままの言葉を出すまいとこらえ
「……少しだけ、待ってくれ」
静かな言葉と共に両手で顔を覆い、あわせてヘクトールも指を離した。
あの場所には何もない。
それはこの場における揺るぎない事実で決定事項だ。
それを信じなければ忙しい中わざわざ必要のない索敵を繰り返し行ってくれた管制室に信用も信頼も置いていないことになってしまう。それだけは絶対にあってはならない。
世界を救う一員として末席として最後に残ってしまった1ピースとして。全力を尽くしてくれている者たちには最大限誠実でなければならない。
わきまえろ。身の程を自覚せよマスター藤丸立香。総力を上げてもらえてようやく生き延びさせてもらえている者よ。
でなければ、自分などに世界が救えるはずもないのだから。この世界のどこにも自分の居場所など存在するはずもないのだから。
だから、あの場所には何もない。誰もいない。もやがたちこめるだけのがらんどうだ。
救いたかった、救われたかった自分など、残されてはいないのだ━━━━━━。
大きな音を立てて自身の両手で両頬を打ち鳴らす。ベタでわざとらしかったがやはりこれが一番自身の気が晴れて周囲へのパフォーマンスとなるだろうから。
「手間をかけさせてすまなかった。行こう」
言葉と共に彼はその空間に背を向け歩きだす。振り返ることはない。
その余分な浮わつきの一切が削がれたような空気に彼が完全にマスターとしてのスイッチが入ったと全員がそれにつく。そんな冷淡な姿に、後ろめたさが全くないわけではないけれど。
そして間もなく残された泡沫の世界は、誰も巻き込まず誰に気付かれることもなく音もたてずに消失した。