ただひとりの傷を癒すためだけに作られた特異点。パッチワークロンドン。
その主が倒され消え行く都市の夜闇を招かれざる列車が駆けていく。
乗客はふたり。
切り離されてはぐれてしまった残滓とそれを護るために喚ばれた偽りを羽織る者。
ふたりの間に会話はない。けれどそこに張り詰めたものはない。乗り越えられるものは全て乗り越えてきたふたりにはもう改めて語らうものがないだけだ。規則正しく穏やかに響く列車の音をふたりで黙と聞いていた。
「ねえ、フェイカー」
「どうした」
そんな中で小さく声が発せられる。
寝起きのようなやや掠れている、弱々しくどこか浮わついた声。そんな声にフェイカーと呼ばれた者は微笑みかける。声の主である残滓は少しばかりノイズが走る風前の灯のような微弱さであった。だが目的地までは持つだろう。そんな見立てでいられるような安定感もあった。
「少しばかり思い出したことがある。聞いてくれるか?きっと本体の自分も覚えていないくらい、小さな話」
「ああ。構わないぞ」
それがお前の維持に繋がるのなら。
柔らかな頷きと共に傾けられる耳に「ありがとう」と前置きそれは綴られる。
「小さい頃……、とはいえ10年も前ではないのだけど、森の中を歩いていたんだ。自分がいる世界でも平行世界でも特異点でもない小さな世界。狭間に出来た魔力溜まりが場になっただけの、すぐに弾けてなくなってしまう小さな世界の小さな森に。……まあ、かなりぼやけてて子細には覚えていないのだがな」
「ああ、そういう世界は記憶を持ち越しづらいからな。覚えていないのも無理はない」
むしろおぼろにでも、残滓の中にだけでも残っているのが珍しい。ろくに魔術も知らない者ならば尚更に。
余程何か鮮烈な体験でもしたのだろうか。
くすくすと笑いをこぼしてからまた話は続けられた。
「おじさんと歩いて、出口まで連れてってもらったんだ」
「おじさん?」
「うん。知らないおじさんについていってしまった」
それがどういう人なのかは覚えていないらしい。
どこから来たのかどこへ行くのか。説明されたかもしれないしされていないかもしれない。名前どころか顔も声も。ほとんど覚えていない。ただ楽しかったと温かかっただけが残っている、人に話すには何もかもが足りていない話だ。
それでも話しておきたかったと記憶わずかな情景を追って言葉を探す。誰かに知っていてほしかった。自分すら覚えていられないのに何よりも大切と思えるきらめきを。二度と泡と消えてほしくなかった。
そんな霧の中を彷徨うような話を聞き手はただ微笑ましく耳を傾けていた。
「…………約束、した気がするんだ。会いにきてくれるって、歩いていたら、いつか……。会いにきてくれていたんだろうか。わたし、おぼえてなくて……分からない。……がっかりされただろうか…………だけどわたし、わたしは、ずっと、でも、おぼえて、なくて、」
「そう悲観的になるな。初恋なんだろ?」
「……初恋?」
「なんだ自覚なかったのか?」
「……………………」
朧気ながらもあんなにきらきら語っておきながら。根拠のない不安に泣きそうになりながら。
それを恋と気付かないまま
からかうように笑う瞳に目を丸め、しばし考え、
「……そっかあ」
気が抜けたように笑みを浮かべる。
「私の初恋、ヘクトールじゃなかったのかあ……。へへっ、ヘクトール知ったらどんな顔するかな」
「ヘクトール?それが今の……ヘクトール?」
「そう。イリアスのヘクトール。アキレウスもいるぞ。イスカンダルに誘われて武闘大会に出ていた時もあったな」
「なんと、なんという……」
今度は自分が目を丸める番となるフェイカーにくすくすとカルデアの話を始めることにする。
森の思い出とは違って明朗に語れる日々。
あるはずのない英霊たちとの邂逅に一歩間違えば大惨事になっていた賑やかな騒動。楽しげに語れば語るほど言葉に困るような顔をしてくれるのが楽しくて仕方がなかった。
そして、だからこそ
「フェイカーもカルデアの皆と楽しくしてくれてるとこ、見たいな」
「縁があったら、そのうちな。初恋忘れて浮かれているお前の面倒も見てやろう」
「…………間抜けな私をよろしく」
こんな欠片で残滓でしかない自分を覚えていてくれる。こちらが忘れてしまってもなお笑って側にいてくれる。それもまた自分であると繋いで続いていてくれる。
それはなんと幸せなことだろう。
身に余る喜びを噛み締めながらも、やはり、覚えていられない自分に強い憤りを感じていた。