「ふぃぃぃぃぃぃぃひゃはーーーーー!!」
やけにはしゃいだ声がノウム・カルデアの廊下に響き渡る。遠くからそのこだまだけを耳にする者たちは一度即座に顔を上げる。しかしそれが誰の声かと判別出来たら珍しいこともあるものだとぼんやり目を丸める。
声の主はカルデア内では物静かで品行方正の部類に入るマスターの少年。数多の英霊たちのマスターとして礼を失うことはしてはならないと常に気を張っているような子だ。緊急でもない限り廊下を走ることもない彼がこんなに騒いでいるなら何らかに巻き込まれた可能性もある。が、声の調子が特段に浮かれているので悪いものではないだろう。洗脳系の心配もあるけれど。誰もがそう結論付けて再び各々の日常へと戻っていった。
「マスター随分ご機嫌だねえ。いいことあった?」
「くふぇえへへー。実はねー、じゃーん!」
たまたま近場にいたため声をかけたヘクトールを前にしても溶解した笑い声を正すことなく浮かれ調子のまま手に持つ袋を自慢気に突き出す。
「ゴッフ印の限定クロワッサンがやっと貰えたー!」
「おーついにかー」
事の始まりはいつだろうか。
空き時間を利用してゴルドルフが自分用にクロワッサンを焼き、そのつまみ食いが現れ、評価が瞬く間にカルデア内を駆け巡り、我も我もとサーヴァントたちが群がっていく。
最初はちゃんと煙たがって追い払っていたのだ。だがそれで引き下がる面々ではない。噂のクロワッサンが食べたいと総力をあげて全力で食い下がり、どれだけ追い払ってもキリがないと悟らさられるまで時間はかからなかった。次第にしぶしぶとリクエスト分も作りはじめる羽目になる。
しかしゴルドルフとて活動時間に限りのある人間であり役割がありそれなりに忙しい身の上だ。増え続ける希望者の数に追い付かなくなりある日プツリとキレて新ルールが制定されることとなる。
クロワッサンは週に一回お一人様3個まで。先着50人限定。と。
もちろんそれに対する揉め事は禁止。お行儀よく並べたいい子だけにのみ手に入れる権利があるというのも絶対ルールだ。そしてそれに反発する者もなく、しずしずと週一のバトルが繰り広げられていたのだ。
そしてその争いに例外など存在しない。
たとえ特異点やサーヴァントたちのあれこれに駆け回っているのが日常であるマスターであってもだ。
不公平はいらぬ軋轢を生むというのは重々承知しておりますが、なんとかこっそりお取り置きなどの救済措置をいただけませぬでしょうか。と土下座も辞さぬ勢いで頼めばふふんと鼻で笑われる。
「その程度のスケジュール管理も出来ないなど片腹痛い」と。
かくしてその一蹴により彼の多忙スケジュールとクロワッサンの争いの火蓋は切って落とされ、週に一度食堂の前で崩れ落ちるのが風物詩となること数ヶ月。ようやく迎えた念願というわけだ。奇声と共に跳ね踊りたくなるのも納得だ。
これでようやく同時に交付されていた抜け駆け禁止の山分け禁止令も解除されて水面下でのひりつきも解消されるわけか。
うむうむと内心安堵で胸を撫で下ろすヘクトールの前で彼は袋を広げる。焼きたてのクロワッサンの香りが非常に芳ばしく食欲がそそられた。
「はい。ヘクトールもおひとつどうぞ」
「はい??」
新たな火種が満面の笑みで差し出された。
これを受け取ってしまえば最後、どれほどの厄介ごとが己に集中砲火されることか。ざっと出てくるだけでも50を越える。
マスターに与えるのは禁止だったというのにマスターには与えられるなど。しかもあれだけ苦労を重ねて。彼に特殊な感情を抱いているわけでもないサーヴァントだって流石に黙っていないのだろう。
「マスター。苦労して手に入れたものを簡単に手放したらいけないよ……。オジサンに気なんて遣わずにさ。全部自分で食べな?」
「気なんて遣ってない」
口元をわずかに引きつらせて丁重にお断りするも、何一つ伝わっていない輝きではね除けられる。
「ヘクトールがクロワッサン食べたらどんな顔をするか自分が見たいだけ」
「…………」
毎度毎度あんたはどこでそんな殺し文句を覚えてくるのか……。
曇りのない瞳に断る言葉を見つけられない。無下にする気持ちを奮い立たせられない。
困ったように固まるヘクトールに「もしかして昼はもう食べたのか?ひとつは多かったか」と彼はきょときょとと目を丸めてから手早くクロワッサンをちぎり
「はい、一口だけ。あーん」
「……………………」
まあ、今日はもう吊られてもいいか。
どうせ誰に言われても譲る気はない特等席なのだ。たまには謀反を起こされない程度に活用しなくては損だろう。
ゆるやかに覚悟を決めて望まれるままに口を開き「美味しい」と笑みを浮かべて見せれば、その万倍以上に瞳を輝かせて喜ぶ顔が見れた。それだけでもういくらでも誰に焼かれようともおつりがくる光景だ。そしてまた跳ねるように彼は自室に舞い戻り、見送った後にヘクトールもまた何事もなかったかのように踵を返した。