雑踏がひしめく街中をヘクトールはスーツ姿で歩いていく。
その先には顔馴染みのこれまたスーツ姿の男が軽く会釈をしている。ヘクトールはそれに「待たせたね」と軽く手を振る。
「お待ちしておりました。本日もよろしくお願いします」
「今日は近場なんだな」
「そういう日もあります」
ヘクトールのマスターである彼が住まう国の様々な面が見れる。という意味では遠出も嫌いではない。しかしそのために絶対守護対象であるマスターから遠く離れてしまうのは全く好ましくない。のだが、そのマスター直々に「陛下や父の助けになってほしい」と赴くよう命じられているのだから仕方ない。なので今回のように日帰りの範囲であるのは大変ありがたい。担当の男も今は独り身で気遣う相手がいないとはいえ遠出ばかりではくたびれるだろう。少しばかりありがたいという顔を浮かべている。
この男、ヘクトールのマスターの父と部署を同じくする宮の人間である。だがその割りに身につけるスーツがいつも安価なのが気になるところ。
いくら宮仕えとはいえ年若くまだ給料が低めなのかも。とも思ったが、それでも指導のひとつくらい入るのでは。なんて考えもよぎらなくもないくらいの安物で。いくらか親しくなった頃に雑談がてらに「怒られない?」と訊ねてみたら「むしろこういう礼を必要とせず服が駄目になりやすい仕事の際はなるべく安い物にしろと教えられます」と返され納得する。ヘクトールだってそのあたりを想定して失礼に当たらない最低単価のスーツを用意しているのだから。
ならばスーツ自体をやめては?とも思うがそのあたりは立場上仕方のない事情というやつだ。変えようがない。
「それで詳しくは現場で話しますが、今回はこの裏にある取り壊しが決まったビルです。元は国の管理ではないのですが安全面で監査が必要ということにして」
「ああ、ちょっと待って」
「はい?」
今回の呼び出しについて馴れたように説明しながら件のビルに足を向けかけた時。ふと空を見上げたヘクトールに止められる。
その先にあるのは何の変哲もない空だ。雲が少々厚い灰をしていてこの場に届く風もわずかに冷えた湿り気がある。
これはほぼ間違いなく降るだろう。
ならば帰りに傘が欲しいのだろうか。いくら使い魔とはいえ人の形をして人の心があるのだ。濡れるのは億劫だろう。自分だって嫌だ。
ぼんやりとそんな思いで空を見上げるヘクトールを眺めること数秒。ゆるとポケットからスマホを取り出し口が開かれる。
「もしもしマスター?今、そう、仕事前。今日は多分日帰り。で、今どこ?もうすぐ雨降るだろうからさあ、近くで用事がないなら一旦戻って洗濯も、うん?もう全部取り込んだ?さっすがマスター愛してる!うん?夕飯?いいのかい?いや全然?そっかあマスターが作ってくれるんだあ。好き好き。楽しみにしてる。じゃ、」
にこやかに甘ったるい会話の終了と共に一呼吸置き、スマホをしまい、
「現場向かう前に傘買っとく?」
「……………………そうですね。一回買い物でもして仕切り直しましょう」
仕事仲間のそういうとこ見たくなかったなあ。
いつもと変わらぬゆるい笑顔に戻った相手に対し、なるべく引いた心を見せぬよう顔面を固く結びながら男は頷く。そして件の現場ではなく近くのコンビニへと足を向け歩を進めていった。
……まあ、家に待つ人がいるならば、なるべく早く終わるよう頑張ろう。