雨の上がらない夜に幸せがないなんて誰が決めたのだろうか。
その特異点と呼ぶには微弱な空間が出現したのはついさっきのことだった。
時代も場所も特定出来ない孤立したひとつの世界。
そこにあるのはテーブルと椅子のみ。
窓はあるが全てが暗闇で先は何も観測出来ない。音も雨音のようなものが聞こえるのみ。
ただそれだけの隔絶された小さな小さな空間であった。
放っておいていいだろう。
カルデア首脳陣は口を揃えてそう言った。
あの場所は特異点であるがすぐに瓦解するだろう。と。
聖杯の気配もわずかに感知出来るが今だけのこと。
間もなく聖杯も形成不可能となり、ただの魔力として霧散していくだろう。と
それにあの空間へのレイシフト可能者はマスターひとりのみ。サーヴァント同行は不可能である。万が一を思えば行かないほうがいい。その結論に異を唱える者はいなかった。
ひとりを除いては。
「構わない。ひとりでいい。……いや、ひとりだからいい。行こう」
静かに、毅然と申告に全員が眉を寄せる。しかし作戦の方向性には極力口を挟まないことにしている彼の言葉である故に安易に切り捨てることは出来なかった。
真っ直ぐとモニターに映された一部屋分の世界を見据えながら彼は言う。
「大丈夫。あれは危険な場所じゃない。ただひとりを呼びたいだけの場所だから。オレが行けばいいだけ。それだけで聖杯は手に入る。どこよりも安全な特異点だよ」
「根拠は?」
「勘」
「勘って」
恋する乙女じゃないんですから。と苦笑うシオンに彼はただ微笑みを返す。恋する青少年ですが何か。とでも言いたげに。苦笑いのまま閉口するしかなかった。
「マスター」
そこに後方から声がかけられる。
管制室隣に部屋を持ち常に様子を伺ってはいるが、呼ばれない限り顔を出さない男。ヘクトール。今回はいつにもなく拗れた空気を漂わせていたおかげで自主的に顔を出したようだ。非常に珍しい。
まさかまた泡沫の中にいつかの孤独な自分を探しているのではないか。
そう問いたげな厳しい光を放つ瞳に彼は笑う。
「誓っていい。今回オレが連れ帰るのは聖杯だけだよ」
「何に向けた誓い?」
「貴方が私に用意してくれた、トロイアの椅子にかけて」
「…………」
そんなものまで持ち出された覚悟であるのなら、もう誰にも反対出来ないではないか。
ヘクトール含めた全員が沈痛な息を吐き、たったひとりのレイシフトは敢行された。
静かに穏やかに、その部屋にやってきた彼はまず微笑んで一礼した。
室内の空気も温度も良好。カルデアと同じく人間には過ごしやすい空調が整えられている。
その中を臆することなく悠然と彼は進み、中央に据えられた椅子に腰をかける。……仕掛けも何もない、ただ来客をもてなすために作られた座り心地のいい椅子だった。
そんな椅子に彼の腰が落ち着いたと同時にその前のテーブルに音もなく皿に乗せられたティーカップが置かれる。気配は相変わらずふわとも漂いもしない。それでも彼は微笑んだまま、警戒心の欠片もなく手に取り口をつける。
『待って藤丸君!せめてまず成分調査をああああ!?』『うーん。彼ちょっと自分の耐毒を過信しすぎじゃありません?』などという管制室の声は聞こえていないのか無視しているのか。まるでとても親密であったが久しく会っていなかった友人とのお茶会であるかのようなまなざしのまま、カップの中身は減らされていく。
そしてその減り具合に応じて今度はケーキが差し出される。ふわふわのスポンジとクリームと果物が輝く非常に美味しそうなロールケーキだった。もちろんそれも彼はフォークで静かに切り分け穏やかに一口ずつ口に運んでいく。管制室からは口を挟む気力も失い、ただ脱力しながら観測するのみだった。
「ありがとう。姿の見えない心優しき貴方。貴方と世界の最期に立ち会えたのが私であったことを、心から光栄に思います」
お茶もケーキも綺麗に平らげ彼は告げる。
すると静かに皿もカップも消え、今度は聖杯が差し出される。正真正銘この世界を支える聖杯であると管制室も解析し、彼も丁重に手にとった。
「ありがとう。ごちそうさま。大切に扱わせていただきます」
聖杯の所有者が変わったことにより、一部屋だけの世界が消えていく。それにあわせて彼も帰還処理が施されて姿が失われていく。
完全退去する前に再度彼は感謝をこめて一礼する。自分の姿を形成するよりも誰かをもてなしたかったと願い続けた誰かが、嬉しそうに笑った気がした。
「お疲れ様藤丸君。いやあ、不思議な特異点もあったものだね」
「でも危険なものは何もなかったろう?」
未だにどう受け止めたらいいか分からない。そんな苦笑いの管制室に彼は得意気に笑って対抗する。それがまた全員を何とも言えなくさせている。
「しかしまあマスター。よくあの部屋だけで招かれているだけと分かりましたね。何か覚えが?」
「そりゃあもちろん」
誇らしげに胸を張る。
「誰かのための椅子に座り続けてきたからこその自分だからな」
「………………はい」
最終的にはやはりお前か。
マスター除く全員からのじとりとしたまなざしに、ここに顔を出したことからまずやぶ蛇だったとヘクトールは深く肩を落とした。