図書館でマスターが眠っていた。
誰もいない読書コーナーの片隅で机に突っ伏して。
何でもないように辺りを見渡せば、司書のカウンターに座る紫式部に静かに一礼をされる。ちゃんと見ていますよ。という意味であろう。ヘクトールもまた無言で一礼をし、眠る彼に歩を進めてその向かいの席に腰を降ろす。……反応はない。ヘクトールの目に映るのは艶やかな黒髪ばかりだ。
おそらく手入れは身だしなみ程度にしか施されていない若さに任せた輝きであろうそれを、また抜き打ちでぴかぴかにしたい欲がふと湧いてくる。二度目の不意打ちは通用するだろうか。なんなら肌もつるつるのぷにぷににしてみたい。常に美の探求に邁進し同時におもちゃ、ではなく、道を同じくする戦友を求めている者たちに声をかければいくらでも。しかもその対象が己を召還したマスターであるなら尚更にはりきってくれるだろう。上に立つ者とは見目美しくてなんぼであるのだから。
まあその手の話は自分には考えもしなかったほど縁遠いと思っている彼には戸惑いと抵抗しかないであろうけど。それよりだったら少しでも訓練と勉学に励むべきと思っているような人であるけれど。そういう彼女らからしたら彼のそういう美を疎かにした状態に本当は物申したいところもあるのではないだろうか。彼を取り巻く状況を思えば更にそこまで気を配れと言うのはよろしくないと分かっているから言わないだけで。
今だってテーブルに突っ伏す彼の傍らにはいくつか本が積まれている。彼が背負う状況は常に変わらず緊迫したままなのだ。前回通用した手が次回も通じるなんてありえないと言い切っていいほどの事態が続き続けている日々は一向に抜けないままなのだ。知識の量と幅はいくらあっても足りないだろう。分かっていて勤勉なのは結構だ。
だが、それでも、
「んん…………んぅぅ、……ヘクトール?」
「おはようマスター。お勉強の時間でした?」
「……んぅ。そんなとこ」
何かに反応したわけでもなくゆるりと彼は起き上がる。伸びをしつつも寝ている間に現れていたヘクトールに驚くこともなく、のんびりと脳と身体を覚醒に向けている。
「疲れてるなら部屋で休んだらどうです?」
何もそこまで根を詰めて大して休まらない姿勢で休まなくても。
棘なくそう告げてみても、あまり届いていないようだ。未だぼんやりとしたままの彼はあまり色のいい反応をしていない。
「いや、これから講義だからちゃんと休むと逆に良くない。動けなくなる。寝たって意識はないけど身体の力が抜けたって感覚だけで十分」
「お真面目なことで」
必要であったとはいえよくそんな応急処置を勝手に身に付けたものだ。
やれやれと息をつくヘクトールをよそに彼は手早く荷物をまとめて席を立つ。予定よりも休んでしまったようだ。時計を確認して目を見開いてからの慌てようが加速した。
「それじゃあ失礼しましたありがとうございます!また来ます!ヘクトールも心配してくれてありがとね!でもそんな顔しなくても大丈夫だから安心して!」
「え」
静寂極まる図書館にわずかに生まれた突風はすぐに収まりまた静寂が横たわる。
その余韻に煽られ残された男は呆とわずかに口元を引きつらせて
「オジサンそんなに分かりやすかったかなあ……」
そんな風に見せていたつもりはもちろんなかったのだけど。
指で頬をなぞり静寂と共に沈みゆくヘクトールの姿に、全てを眺めていた紫式部は曖昧に目を伏せるしかなかった。