資材不足でありながらスタッフたちの士気のために。そう大浴場の一区画だけでも解放してくれたドクターには感謝しかない。もちろん手の空いていないスタッフに代わって修理を手掛けてくれたヘクトールにもだが。
「ああ~~~~文明に生かされている~~~~~~」
その恩恵に預かるひとりである少年が湯船の中でゆっくりと身体を伸ばす。
森の奥深くでの一週間の行軍。風呂のようなものは一切なく、運よく川で身体を拭く程度のことは出来ていた。だからその時は特別思うことはなかったのだが、こうしてゆっくり湯の中でくつろいで温まっているとやはり気分が違う。
自分ですらこうなのだから女性たちは更にそうなのではないのだろうか。指先に痺れるほどの温度の上昇を感じながら切に思う。
連日の緊張を解すように伸びをすることによって見える傷にふと別の思考がよぎる。
「……もう少し見えなくなればいいんだがな」
自分自体としては痛みがないなら傷がいくらあろうが構わないのだが。これから元の生活に戻り、親などの近しい存在や医師などが身体を見た時にぎょっとするのは申し訳ない。
自分ではどうしようもないことを悩んでいても仕方がない。そのあたりは秘密主義らしい魔術師たちの技量に期待するとしよう。ゆっくりと身体を伸ばして気分を戻す。今はただ大浴場の快適さに心身を委ねていたかった。
「背中痒いからって自分で掻いちゃいけないぜマスター」
「おっふぉっふぁ!?」
そしてその堪能時間も終えて脱衣場に戻ったところで背中に何者かの指が這う。
その死角からの突然の感触に飛び上がる勢いで振り返れば、一週間の行軍を共にした馴染みの守護者がそこにいた。
「いきなり何!?」
「無意識だろうけど頓着しちゃいけないぜ。クリーム塗ったげるからほらそこ座りな」
「んぐぅ……」
どうやらこちらの話を聞く気はないらしい。問答無用で椅子へと促され諦めるようにそれに従う。まあ注意は最もだし、善意なのだからありがたく受け入れるとしよう。
「それにしても、自分がつけた傷と他人がつけた傷というのは一目で分かるものなのか?」
「分かる分かる。位置とか角度とかですぐ分かる。だからマスターも年頃に遊びたいなら気ぃつけなよ?」
「ああ、気をつけ……よう?」
「……………………じゃあ塗るねー」
背中に引っ掻き傷なんて出来る遊びなんてあっただろうか。頷きつつも疑問がよぎって言葉が淀む。そのあからさまに分かってない顔になってしまっていることに鏡越しに気付いたヘクトールが何とも言えない顔をしている。
大人の会話とは難しいものだ。
「ひわっ」
冷たいクリームが背に当たる感覚にわずかに背が反り伸びる。
ドクターに検診で触られる時くらいしか記憶がないくらいの背中が撫でられているというのも慣れなくてくすぐったくてざわつく。しかし善意でやってくれているわけだし、塗りかた自体は労りに満ちているので嫌がらずに耐えるしかない。
いつも武器を握り戦場に立つ人の手がこんなに優しい。それは平常時には面倒見がよくあたたかで優しいヘクトールであると考えればそれで当然なのかもしれない。むしろ戦場でのヘクトールの方がちょっと違うのかもしれない。かといってそんなヘクトールがおかしいというのも違う話なのだけど。
ぼんやりと背中を丁寧に滑る武骨な手に身を委ねる。その心地よさに思考も全て溶け落ちそうになった時、
「フッ」
「ほぉばぁわああああああ!?」
「そおらこしょこしょこしょこしょ~~~~」
「ちょぉまっ!まってまってまって!」
首筋に短く息を吹きかけられると同時に脇腹をくすぐられて疲れも眠気も全て吹き飛び跳ね上がる。しかしそれで逃がしてくれる相手ではない。
ひとしきりされるがままにくすぐられるだけくすぐられ
「油断禁物だぜマスター」
「き、肝に銘じる……」
心行くまでいたずらを堪能したヘクトールに解放され、しゃあしゃあと下ろされる忠告にぐったりとしながら浴衣を羽織る。
ほんの、ほんの少し前まで温かで心地よい時間であったはずなのに……。
「ドクターはカルデアを家だと思っていいって言ってたのに……」
「そりゃまあそうなんですがねえ」
それについては反論する気はないけれど。そう言わんばかりの苦笑いを浮かべつつヘクトールは言う。
「マスターはもうちょっと警戒心を育てたほうがいい」
「ぅぇぇ……?」
まあ分かっていないだろうなあ。
ありありとそんな顔で首を傾げている彼に、ヘクトールもまたただ苦笑いを浮かべ続けるしかなかった。