作者:ちゃん丸
朝焼けに嫉妬した幽霊たちは、自身の存在価値を増幅させる闇を恋しく待つばかりである。
美しい夏の朝。からりからりと空気が鳴く。風に痺れて揺れる。
瞼を閉じてからいくらか時間が経っていたらしいと、少女は自身に呆れた。光り輝く太陽が
誰も居ない。この世界には私しかない。中庭の木々たちが笑っているように靡いて、全てを忘れさせてくれる静寂みたいで、それが今はとても心地良くて――。
「あら?」
背後からひどく上品な声がした。夏の朝には仰々しすぎるぐらいには。胃もたれするような感覚に、思い切り息を吸った。
「随分お早いこと」
メジロマックイーンはそう声を掛けた。目の前の少女は、向けていた背中を少し震わせる。そして、ゆっくりと振り返った。
「そっちこそ。珍しい」
吹き付ける風の音とともに、メジロドーベルはそう言い返した。目の前の少女は、向けていた口元を緩ませる。そして一歩一歩、ドーベルの元へ足を進めた。
マックイーンの奥には、家と呼ぶには立派すぎる屋敷が映る。ひらりと舞う艶やかな髪から綺麗な香りがやって来る。ドーベルは何も言わず、ただ彼女が隣に腰掛けるのを待った。
夏の朝。普段なら誰も居ないこの中庭に、名門メジロ家のふたりが並ぶ。ここが学園であれば通りがかったウマ娘たちが視線を向けるであろう。
互いに部屋着のまま、優しい光を浴びて、夏の香りを吸い込んだ風を纏っている。
「紅茶を持ってくればよかったですわ」
「……何か良いことでもあった?」
揚々と話すマックイーンに問いかける。普段から紅茶をよく飲んでいるが、モーニングティーにしては随分と早すぎる。踊っているような声の色も分かりやすい。
つまり、彼女は今機嫌が良いと判断した。中庭に置くには高級すぎる椅子にもたれながら、ドーベルは問いかける。
「なんです急に。そういうドーベルこそ」
だがそれはマックイーンも同じであった。
一緒の屋敷で暮らしているとはいえ、ずっと一緒に居るわけではない。互いに、心を深いところまで知っているかと問われれば、素直に頷くことは出来ない。
ドーベルは問いかけに答えようとしなかった。いつもなら追撃の一つや二つぶつける彼女も、まだ頭が覚醒していないせいで妙な静寂を生むことになる。そしてそれは、妙な気まずさとなって二人を包み込む。執事に紅茶を持って来させようかと真剣に考え出す始末だ。
「アタシは……全然そんなんじゃないし」
ぶっきらぼうに言い切る。目線を合わせようとしない彼女の姿勢が、マックイーンは少し寂しくもあった。
現に、ドーベルの言うことは本当である。機嫌のいいマックイーンとは違って、浅い眠りから目覚めてしまった。要は、眠り直す気にもなれなかっただけなのだ。
「そう……」
つまらない相槌は、小鳥の
「何かありましたの?」
場を繋げるとか、そんな気遣いはいらないと分かっていた。けれど、自身の問いかけがまるでそう聞こえる言葉になってしまって。マックイーンは若干の申し訳なさを抱いた。
そしてそれは、ドーベルの心にもしっかり届く。「あぁ気を遣ってくれたんだなぁ」と心配ばかりかけてしまう自分が情けなく、嫌気が差す。それが彼女なのである。
「別に。なんでもない」
マックイーンはため息をついた。
「とてもそうは見えませんわ。遠慮しないでください」
「……やっぱしっかりしてるよね。マックイーンって」
ドーベルが苦笑いしながら言う。ひゅるりと夏風が舞って、本心を奪い去っていく。
「まあ……色々上手くいかなくって」
ぽつりと雫が落ちるように。彼女は地面に向けて言の葉を紡いだ。ぶつかって、跳ね返って、宙に舞って。やがて、力無く消えていく。それでも確かに、マックイーンの心中にはしっかりと届いたのである。
「トレーナーの件、ですか」
彼女がまずそう言ったのには、理由があった。
メジロドーベルには優秀なチーフトレーナーが付いていた。定年退職後も再雇用で勤務を続けていたが、自身の体調がそれを許さなかった。
トレーナー室で倒れているところをドーベルが発見し、救急搬送。命に別状はなかったとは言え、仕事を続けることが困難だと結論付けるのは簡単だった。
「彼とは上手くやってるように見えますけど」
沈黙は肯定であると判断したマックイーンは、そう続ける。
ドーベルの担当になったのは、一人の若い青年であった。チーフトレーナーの元で経験を積んでいたとは言え、それはあくまでもサブトレーナーとしての話。ひとりのウマ娘を育成するという意味では、力不足であるのは否めない。
それでも、青年は信じたのだ。彼女の可能性を。強さを。誰よりも。
「……そういうことじゃなくて」
「なんですの? ハッキリ言ってください」
「別にマックイーンには関係ないじゃない」
「大ありですわ」
ウマ娘界の中で、メジロ家というのは超が付くほどの名門である。競走ウマ娘として生きることを決めたからには、相応の結果を求められる。
メジロドーベルというウマ娘は、どこか後ろめたさを抱いて走り続けてきた。理由は至極簡単で、メジロマックイーンやメジロライアンと比較しても力不足が否めなかったからである。
自分は弱い。強くない。勝てない。走っても走っても中途半端な結果に終わり、時には「最後まで頑張れー!」と望んでない歓声を浴びることもあった。
強くあり続けなければいけない。それがメジロ家に生まれた宿命。幼かった彼女がその事実に打ちひしがれるのに、時間は掛からなかった。
でも青年は、それを真っ向から否定した。
ドーベルにとってサブトレーナーでしかなかった男がだ。急にそんなことを言い出すのだから、彼女は怒った。
『アンタが居るから強くなれる? 急にそんなことを思えるわけ――』
無いに決まっている、とは言い切れなかった。こうして思い出してみても、不快さよりも優しさの方が胸を覆う。ドーベルはただ、奥底に沈んだ感情のままに夏風を一身に受けた。
「アタシは、ホント弱い」
自己肯定感の低さ。広大なメジロ家で育ったが故の感情。自身よりも速い彼女たちを見てきたからこその想い。自分はその領域にまで辿り着けないと子どもながらに思ったまま。
それでも、日本最高峰の日本ウマ娘トレーニングセンターに入学出来たのだから、決して弱い訳ではないのだが。
「トレーナーの前でも言えますの? 同じことを」
「………っ」
メジロ家の顔とも言うべきウマ娘であるが故に、つい言い方がキツくなった。けれど、それは本心以外の何物でもない。
マックイーンは知っている。彼女は人前に出ることが苦手で、特に男の人に強い距離感を置く。
低い声。尖った雰囲気。重圧となってドーベルの体に鎖を巻き付ける。
だからマックイーンは驚いているのだ。女性トレーナーじゃなく、あの青年と契約したことに。それはつまり、彼女も変わろうとしていることの証明でもあった。
『メジロドーベルは強いウマ娘だ』
あの夜に言われた言葉が頭をよぎった。
初めてだった。自分の何を見てあんなことを言われたのかも分からない。
それでも。ただ。自身に眠る可能性を信じてくれたのは事実としてあるわけで。彼の前でいま呟いたことを言ってしまえば、それはただの裏切り行為になる。
「応えなきゃいけないのよ。アタシは……」
自己肯定感の低さは、責任感となって心を
それは今も変わらない。青年が期待し続ける限り、彼女は応える。応えようと努力する。
「それがトレーナーの仕事じゃなくて?」
「そう、だけど。応えるのがアタシたちの仕事でしょ」
「そうでしょうか」
「違う?」
マックイーンは首を傾げて考えた。
彼女の言うことも分かるが、どうも腑に落ちない。自分が追い求める理想に向けて、サポートしてくれるのがトレーナーという存在。ドーベルの考え方とは少し違う。
「確かに、そういう考え方も出来ますわね」
結果、言い方を濁した。ドーベルの考えを否定する気にはなれず、かと言って自身の思考をぶつけるのも違う気がしたから。
けれど、マックイーンには分からなかった。彼女が何を言いたくて、何を思っているかが。どうしてそこまでして自分のことを責めてしまうのか。
「アタシは――」
言いかけて、慌てて飲み込んだ。
マックイーンの言葉がよぎり、そして青年の顔が浮かんだ。優しく笑ってくれる彼の表情が。
自身のマイナス思考を噛み砕くように、視線を少し上げる。先ほどよりも太陽は少し高くなっていた。
「もう少し甘えてみては? 彼に」
彼女がそう言うと、ドーベルは露骨に狼狽えた。
「は、はあ!? きゅ、急に変なこと言わないでよ……」
ガタリと椅子がズレる音は、この美しい朝には似合わない。それが可笑しくて、マックイーンはクスクス笑ってみせた。
「いいではありませんか。トレーナーを頼るのも契約の
至極当たり前のことを言っているのだが、メジロドーベルにとってはそうではない。
男性と接することに慣れていない彼女にとって、彼と距離感を縮めることは広大な砂漠を素足で歩き続けることと同義。
――とは言うが、なんだかんだで着実に心を許しつつある。だからこその悩み。彼の期待に、思いに応えなきゃいけないという、強い祈りのようなモノ。
「そんな……甘えるとか……その……」
彼女は非常に分かりやすかった。
マックイーンは笑いたくなる感情を抑える。男性への恐怖心は拭いきれていないが、青年に対しては随分と心を許している。
ただ、素直になれないのは誰に対しても同じである。頬を少し紅潮させて、もじもじと指を絡ませている。無意識の行動だろうが、それがマックイーンには可笑しく映った。
「今日はオフなのですから、ゆっくりしましょう。お互いに」
立ち上がって、ドーベルに背を向ける。微かに香るシャンプーの匂い。でもそれは自身のではない。彼女が振り返ったことの証明である。
「戻るの?」
「ええ。少し早起きしすぎましたから」
ランニングにでも、と続けようとしたマックイーンだったが、咄嗟に飲み込んだ。
自身の発言が矛盾するからではない。このまま言ってしまえば、ドーベルを誘うことになる。それでも問題はないのだが、今の彼女を見るとそれは違う気がした。
マックイーンが屋敷に戻っていくのを確認して、ドーベルは一つ息を吐いた。ため息に近い感情。ネガティブさを増長させるソレは、また夏風が吹き飛ばした。
「……何してんだろ」
部屋着のズボンに滑り込ませたスマートフォンを取って、画面には青年の名前が浮かぶ。
当の本人が一番、自身の行動を理解できていない。そして、彼に対して何を言いたいのかも。
世間一般が言う「恋」とは違う。故に、心の
指が動く。すらすら、自分が意図していないのに。まるでこの瞬間だけは、別の誰かになってしまったかのよう。
――もう少し甘えてみては?
巡るマックイーンの言葉。チクリと痛む心の中。けれど、まるで隙を見つけたみたいに全身に広がっていく熱。でもそれは、確かにひとりの少女の背中を押したのである。
手元が熱い。まるでレース中に近い感覚。ドーベルの耳にはただただ無機質な機械音だけが響いていた。
「あっ、も、もしもし……アタシだけど」
電話口の青年は、明らかに意識が覚醒したばかりであった。いや、覚醒すらしていないぐらいの声色。
それもそうだ。今日はトレーナー業もオフ。目覚まし時計をセットせずに眠っていた彼にとって、それは予期せぬ展開。
「な、なに。そんな警戒しないでよ……」
だがそれは無理な注文である。これまでの経験で、ドーベルからトレーナーに電話を掛けたことは片手で数える程度しかない。
加えて、あまりにも朝が早い。何か事故にでも巻き込まれたのではないかと、青年の体からは一気に眠気という眠気が引いていった。
「あぁいや、何してたのかなって……え、ね、寝てた? そ、そりゃそうだよね」
ここでようやく、ドーベルは自分の行動がいかに愚かだったか気づいた。
朝焼けに嫉妬した幽霊たちが、彼女の周りを取り囲んでいるみたいに空気が重い。言いたい言葉は頭の中をぐるぐる巡っているのに、喉が渇いて仕方がない。
砂漠を歩いている。遠くにいる彼を目掛けて、必死に脚を前に進めようとする。
「い、いや特に用は……」
こんな朝早くに電話をしておいて、それはないだろうと、青年は苦笑いするしかなかった。
けれど、ドーベルはドーベルで戸惑っている。そう言わざるを得ないぐらいには。
「その……い、い、いつも……あ、あ――」
火照った体は言うことを聞かない。迫り上がってくる言葉。でもそれを
込み上げる。感謝の気持ち。こんな私の側に居てくれて、こんな私のことを強いと言ってくれたあなただけには――。
「――う、うっさい! バカ! やっぱりなんでもないっ!」
ブツリと繋がりを遮断する。
無理であった。太陽をも飲み込もうとしている体は、理性を溶かし切ってしまった。結果、心の奥底に眠っていた羞恥心が前面に登場してしまったのである。
ガタリと背もたれに体が吸い付く。一気に力が抜けていく感覚とともに、先ほどよりも熱くなった日差しが体に当たっている。
さっきまで冷たかった夏風はピタリと止んでしまった。朝焼けに嫉妬した幽霊たちの仕業だろうか。いいや、彼らは宵闇へ消えるために眠りについたところ。
「はー……あっつい……」
メジロドーベルの、そんな朝。