クソチャラお兄さま   作:おこめイーター

13 / 13
13

 

 ブルボンさんに負けてから少し経った、ある日のトレーニング終わり。

 

「次の未勝利戦、一週間後にしよっか」

 

 いつもの自販機にお金を入れながら、トレーナーさんはそう言った。

 

「一週間後って言うと……二十五日?」

「そうそう。できれば六月中にはデビュー済ませときたいし」

「えっと……早いに越したことはない、から?」

「それもそうだけど……やっぱ、レースの感覚を忘れないうちに、ってのがデカいかな。期間が空いちゃうと感覚もどっか行っちゃうし。ま、こんなこと言うとアレだけど……ミホちゃんに負けたおかげで、こっちは二回もレースの経験が積める、って考えるとそこまで悪くないし」

 

 ボタンを押すと、がこん、って乱暴な音を立てて、缶コーヒーが落ちてくる。

 それを拾い上げながら、トレーナーさんはもう一度、自販機にお金を入れて。

 

「それに、おコメちゃんなら今の実力でも、普通に勝てると思うんだよね」

「……そう、かなあ?」

「だってラップタイムとか見ても、他の子とかより速かったもん。……あの時はミホちゃんがいたから、実感ないのは仕方ないけどさ。でも、少なくとも俺から見たら、今のおコメちゃんは他の子より仕上がってると思うけど……」

「…………」

「……やっぱり、自信ない感じ?」

 

 笑いながら聞いてくるトレーナーさんに、頷く。

 その言葉が励ましじゃなくて、ちゃんとした事実だっていうことは、分かるけど。

 ただ、それでも、ブルボンさんと走った時のあの感覚は、忘れられなかった。

 

「ま、一回やってみようよ。勝ったらラッキー、負けたらそん時はそん時、って感じでさ」

 

 なんて軽い言葉といっしょに、トレーナーさんが缶コーヒーを渡してくれる。

 

「ぶっちゃけ俺も、さっさとデビュー済ませたいんだよね」

「……ご、ごめんなさい」

「いや、責めてるわけじゃなくてさ。なんつーか……さっきも言ったけど、今のおコメちゃんなら未勝利戦は楽勝だと思うの。なのに、いつまでもデビューのためにチマチマ練習してんのってさ、なんかしょうもなくない? それだったら、未勝利戦なんてパッと終わらせて、GⅢとかGⅡのレースに向けたトレーニングした方が、効率いいっしょ」

「それは……そうかも、しれないけど」

「だからさー、一回やってみようよ。だいじょーぶ、負けても俺が何とかするから」

 

 気楽にいこーよ、なんて、トレーナーさんがコーヒーに口をつける。

 ……そう、だよね。ここでライスがウジウジしても、何も変わらないもん。

 ライスも、ブルボンさんとトレーナーさんも、ずっと今のままで終わっちゃう。

 だからちゃんとデビューして、ブルボンさんと一緒のレースに出なくちゃ、いけないんだ。

 それが、今のライスにできることだから。

 

「コースは?」

「中京の芝、左回り。んで、距離なんだけど……」

 

 そこで一度、トレーナーさんは少しだけ考えてから、

 

「おコメちゃんさ、マイルって走れる?」

 

 ……え。

 

「もしかして……マイルなの?」

「うん。一六〇〇の根幹」

「……えっと」

 

 どうしよう。どう答えればいいのか、分からない。

 確かに何度かマイルのコースで走ったことはあるし、初めて、っていうわけじゃない。

 ただ、やっぱり中・長距離と比べると、どうしても慣れないていうか。

 ……覚えてる限りで、ライスはマイルのレースで入着したこと、一度もなかった気がする。

 

「いや、俺もおコメちゃんのレース記録には一通り目ぇ通してるよ? だから、マイルの戦績も知ってんの。ただ、その上で……なんつーか、半分どころかほぼ十割、俺の贔屓目ってか単なる期待かもしんないけどさ」

「うん」

「……普段のトレーニング見た感じ、たぶんおコメちゃん、マイルでもイケるんだよね。それこそ、未勝利戦っていう他の子がまだまだこれからですよー、ってレースでなら、全然勝てると思う」

 

 そう言ってくれるのは、嬉しかった。それだけ、ライスのことを買ってくれるんだから。

 ただ……それでもやっぱり、不安っていうか、驚きの方が強くて。

 沈んでいたライスの顔を、トレーナーさんは覗き込みながら、

 

「ま、一番はおコメちゃんが走る気あるかどうか、なんだけどね?」

 

 ……本当にズルい言い方、するなあ。

 

「一つだけ、聞きたいことがあるんだけど」

「んー?」

「もしも、やっぱり中距離で走りたいってライスが言ったら次のデビュー戦はいつ頃になるの?」

「あー……たぶん七月とか? もしかしたら八月に入るかも、って感じ」

「そうしたら皐月賞とか、ダービーには……」

「ま、出られなくなるかもね。単純に予定が一個ずつ押しちゃうから」

 

 なんだ。

 それならもう、選択肢なんてないみたいなものだよね。

 

「出るよ」

「……ホントに?」

「うん。ライス、マイルで走ってみる」

 

 今のライスでどこまで出来るかは、分からないけど。

 このまま何もせずに終わっちゃうのは、嫌だから。

 

「よーし、じゃあ明日からマイル、ガチるか!」

「……ガチる?」

「そ。具体的には、この一週間でおコメちゃんにマイルの基礎を叩きこむ! そんで、未勝利戦までには『え? マイルとか全然余裕ですけど?』ってレベルまで仕上げる! ま、それなりにキツいトレーニングになるとは思うけど、そこは覚悟しといてね、って感じで」

「か、覚悟って……というか、一週間でそんな風になれるのかな……」

「そりゃ、一週間でおコメちゃんをゴリゴリのマイラーにするのは無理だよ? でも、ちょっとした走り方とか、意識とかを変えるだけでも、結構違ってくるからさ」

「……うん」

「とにかく俺を信じて、一緒に頑張ってみよ?」

 

 正直、トレーニングがキツくなるとか、そこは別にいいんだ。

 レースに勝てるなら、ライスはどんなトレーニングでもするつもりだし。

 それに、トレーナーさんのくれる指示なら、何でも従うつもりだもん。

 ただ、ひとつだけ気になったのはね。

 

「トレーナーさん、なんだか楽しそう……?」

「そりゃもう! だって俺、コッチが本職だもん!」

「……本職って?」

「あれ? コレ、前にも言ってなかったっけ?」

 

 するとトレーナーさんは、不思議そうに首を傾げてから、

 

「俺、専門はマイルの育成なんだよね」

 

 

 長距離で求められるのは、視野の広さ。

 二五〇〇メートルを超える長いコースの中で、自分はどの位置を取るべきか。マークする人は誰か。前方、後方はどんな展開になってるのか。それに加えて、自分のスタミナがどれだけ残っているか、一番いいレース運びはどういうものか。視野の広さっていうのは、きっとそういう意味も含まれてるんだ。

 つまり、読み合いにどれだけ長けているか。それが、長距離を走るのに必要な力だと思う。

 

 中距離で求められるのは、実力の高さ。

 一八〇〇メートルから二四〇〇メートルは、走れる子が多い平均的なコース。だからこそ、いちばん実力の差が顕著に出るコースなんだ。必要なのは圧倒的な才能じゃなくて、地道な努力の積み重ね。毎日の反復練習や、積み上げてきた経験則が、全てを決める。ある意味では一番、残酷なレースなのかもしれない。

 つまり、自分とどれだけ向き合えるか。それが、中距離を走るのに必要な力だと思う。

 

 短距離で求められるのは、身体の強さ。

 一五〇〇メートルに満たないコースでは、純粋なスピードがモノを言う。瞬発力や加速力も確かに必要だけど、それを活かせるだけのスピードが無ければ話にすらならない。加えて、短距離は競り合いが他のレースより激しいから、それに負けない身体づくりっていう点も重要になってくる。

 つまり、どれだけ真正面から立ち向かえるか。それが、短距離を走るのに必要な力だと思う。

 

 ……それなら。

 マイルっていう距離を走る上で、求められるのは。

 

「俺はねー、意志の堅さだと思うな」

 

 トレーナーさんの言葉に、首を傾げる。

 

「意志の堅さ?」

「そうそう。他の三つに比べると、気持ちの話になっちゃうんだけどさ」

 

 するとトレーナーさんは一度、コートをぐるっと見渡してから、

 

「マイルの距離ってめっちゃ絶妙なんだよね。短距離よりも少し長くて、中距離よりも少し短い……逆に言えば、それぞれの特徴が入り混じってんの。だから、短距離走るときみたいなフィジカルでのゴリ押しも通用するし、中距離走る時みたいな小手先の一手も通用する。つまり、マイルって他の距離に比べて戦術の幅が広いんだよね」

「……その上で必要なのが、意志の堅さ?」

「うん。ま、俺の持論ではあるんだけど」

 

 少しだけ自信の無さそうな、恥ずかしそうな笑みを浮かべてから、またトレーナーさんが。

 

「戦術の幅が広いってことはさ、それだけ自分の取れる選択肢が多いってことじゃん? どんな作戦で走るのか、当日は誰をマークするか……もっと言うと、レース中のコース取り一つ一つとかも、無限にあるわけ。そんでもって、取れる選択肢がそんだけ多いと、なんだろ……その、迷うと思うんだよね」

「迷う……」

「つまり、()()()()()のよ。んで、そのブレってやっぱりレースの結果に出ちゃうのね。極端な話、コース取りの一瞬の迷いが、一着と二着の差に繋がる可能性もある。マイルのコースってのは、そういう場なの」

「……だから、意志の堅さ?」

「そーゆーこと」

 

 にへ、って笑いながら、トレーナーさんは言葉を返してくれた。

 それからトレーナーさんは、ライスと目線の高さを合わせるように、膝を折ってから。

 

「おコメちゃん」

「う、うん……?」

「曖昧だし難しい話ではあるんだけど……でも一応、聞いておきたいから、聞くね?」

 

 そこで浮かべた、トレーナーさんの表情は。

 今までに見たどれよりも真剣で、真面目なもので。

 

「おコメちゃんってさ、なんでレースで勝ちたいの?」

 

 …………え?

 

「それって……どういう意味?」

「言葉通りの意味。おコメちゃんは、レースに勝って何がしたいの?」

「……えっと」

 

 答えは、すぐに出てこなかった。

 迷ってるわけじゃないんだと、思う。言いにくいわけでもない。

 レースに勝ちたいって気持ちも、確かにあるもん。

 ただ……改めて、そうやって問いかけられると。

 どうやって答えればいいのか、分からなくて。

 

「そこだね」

 

 言い淀むライスを置いて、トレーナーさんが立ち上がる。

 

「いやまあ、実際なくてもいいんだよ。ってかむしろ、この時期にある方が珍しいっていうか……何なら、トレセン入ったから流れでやってます、でも別に俺はいいと思うんだよね。そういう子も少なくないだろうし」

「それは……うん。分かるよ。ライスの周りにもそういう子、いるもん」

「なら、おコメちゃんも分かってるよね?」

 

 トレーナーさんの言葉に、頷く。

 勝利への執念、って言えばいいのかな。

 やっぱり勝たなきゃいけない理由のある子と、そうじゃない子の走りは、違う。

 そうした理由のある子は、常に自分の走りに自信を持っているっていうか。

 それこそ、さっきトレーナーさんが言ってた、「迷い」がないんだ。

 勝たなきゃいけない。どんな手段を使ってでも、一着を獲らなきゃいけない。

 それだけの理由が、その子にはあるから。

 

「だから、しつこいかもしれないけど、もう一度聞いとくね」

 

 それから改めて、トレーナーさんはライスの眼をまっすぐと見つめてから、

 

「おコメちゃんって、レースに勝って何がしたいの?」

 

 ライスが、レースに勝ちたい理由。

 それは……。

 

 

「……あれ?」

 

 次の未勝利戦まで、あと二日を切ったころ。

 いつも通りミーティングルームに入るけど、そこにトレーナーさんの姿はなくて。

 

「トレーナーさん?」

 

 思わずそうやって呼びかけてみるけど、返事はない。

 たまにソファーで寝てるときがあるから、今日もそうなのかな、って思ったけど。

 ……もしかして、いつもみたくサボりなのかな。 

 ここ最近、ずっとライスにつきっきりだったから、疲れちゃったのかも。

 それにしたって、未勝利戦まであと二日しかないのに、そんなことするかなあ……。

 確かに、トレーナーさんのサボリ癖は、正直どうしようもないけど。

 でも……何ていうか、その。

 たぶんサボるなら、ライスの未勝利戦が終わってからだと思うんだ。

 

「どうしちゃたのかな……?」

 

 携帯を確認するけど、連絡は来てない。

 試しにこっちから連絡も入れてみたけど、反応もない。

 ……本当に、サボり?

 

「トレーナーさん……」

 

 時計を見る。

 トレーニングが始まるまで、あと少し。

 いつもならもう、着替えとかの準備をしてコートにいる時間だった。

 

「…………」

 

 窓の外では、朝から降り続いている雨が次第に勢いを増している。

 トレーナーさんならきっと、体育館を借りて練習するんだろうけど。

 肝心のトレーナーさんがいないから、利用申請もできないし。

 ……今日のトレーニングは、確か未勝利戦に向けた最後の調整だったはず。

 多分、やることはいつもの基礎練と、タイム測定。

 基礎練のメニューは頭の中に入ってる。トレーナーさんがいなくても、大丈夫。

 だから、いるのはストップウォッチと……記録用紙、は携帯でいいかな。

 

「あと、必要なのは……」

 

 ……ああ、そうだ。

 レインコートも、持って行かなくちゃ。

 

 

 雨のコースを走ることは、そこまで苦手じゃなかった。 

 だってライスが練習するときは、いつも雨が降ってたから。

 陳腐にはなるけど、不幸、っていうのがいちばん分かりやすい言葉なんだと思う。

 昔から、そうだった。

 渡ろうとした信号が急に赤になったり、買おうとしていた本がその日に売り切れたり。

 福引とかビンゴゲームとか、そういうのに当たったことも、ない。

 考えすぎ、って思うかもしれないけど……でも、それは事実だから。

 ライスは不幸なんだ、って。幸せにはなれないんだ、って。

 一人でのトレーニングも、慣れっこだった。

 他の子を、ライスの不幸に巻き込みたくなかったから。

 寂しいとか、羨ましいとかは、そういうのはもう思わなくなった。

 だって他の子をがっかりさせちゃうよりは、ずっとマシだもん。

 だから、これでいいの。ライスだけが不幸になれば、大丈夫。

 ……なんて。

 

「あはは……」

 

 自分に言い訳するような考えをしていることに気が付いて、思わず笑っちゃう。

 集中しなきゃダメなことは、分かってる。一人でも練習しなきゃいけないことも。

 ……でもね。

 もしかしたら、トレーナーさんが遅れて来てくれるかな、って。

 何度もコースの外を見て、探しちゃうんだ。

 

「…………」

 

 息を整えてから、ストップウォッチへと目を向ける。

 タイム自体は目標に届いてる。走り方も、なんとか形にはなってる。

 これなら、次の未勝利戦は何とかなると思う。

 思う、けど。

 ……ブルボンさんと走ったあのレースのタイムには、届いてない。

 

「ダメ、だなあ」

 

 また、ライスの不幸に巻き込んじゃうかもしれないのに。

 がっかりさせちゃって、悲しい気持ちにさせちゃうかもしれないのに。

 トレーナーさんと一緒に練習したい、って。

 ブルボンさんとまた一緒に、走ってみたい、って。

 そう、思っちゃうんだ。

 

「……もう一回、走ろう」

 

 今日はまだ時間もあるし、まだ詰められるところはある。

 そう思って口にしたところで、ふと。

 

『おコメちゃんって、レースに勝って何がしたいの?』

 

 そんな、この前のトレーナーさんの言葉が頭を過ぎった。

 ……ライスが、レースに勝ちたい理由。

 こうやって一人でも、トレーニングを続けられる理由。

 思考が循環して、もやもやとした気持ちがだんだんと晴れていく。

 まるでパズルのピースを埋めていくような、そんな。

 ああ、そうだ。

 ライスがレースに勝ちたいのは、きっと――

 

「うわ、マジでいるじゃん! おーい、おコメちゃーん!」

 

 そんな驚いたような声が聞こえてきたのは、それからすぐのことだった。

 振り返るとそこには、傘を差してこっちに走ってくる、トレーナーさんが見えて。

 

「あ……トレーナー、さん?」

「ごめんごめん! 今日、急に午後から外出する用事が出来ちゃってさ! いきなりのことだったから、おコメちゃんに連絡するのマジで忘れてた! ほんっとゴメン!」

「ううん、大丈夫だよ。今日の練習メニューは、分かってたし……」

「……え? いや、おコメちゃん……もしかしてだけど、今までずっと練習してた感じ?」

「うん。そうだけど……?」

 

 正直に答えると、トレーナーさんは顔をさあ、って青くしてから。

 

「ちょ、あの、今日はもう終わりで! トレーニング終了!」

「え……? でも、まだ一本くらいタイム測れるくらいの時間は……」

「これ以上やって体調崩しちゃう方がダメだって!」

「…………あっ」

 

 気づいて声を上げた時には、もうトレーナーさんはライスの手を握ってて。

 

「ほら。とにかく一度、いつもの部屋行こっか」

「う、うん……」

 

 雨に打たれたからなのかは、分からないけど。

 トレーナーさんの手は、とても暖かかった。

 

 

「いや、なんか急に、午後から外出する用事が入っちゃってさー」

 

 バスタオルでライスの髪を拭きながら、トレーナーさんはそうやって話してくれた。

 

「あの……ほら。この前、俺が出張した話って覚えてる?」

「うん。確か、お世話になった先生のところに行ったんだよね?」

「そうそう。実は今日の用事もそれ系でね? 雑用っつーか、先生に頼まれて車でモノ取りに行ってたのよ。なんか明日必要な書類がどうとか言われてさー。……あのクソババア、絶対俺のこと暇人だと思ってるだろ」

「た、大変だったね……」

「でも、連絡忘れたのは俺のミスだからさ。ほんとゴメンね」

 

 言ってから、トレーナーさんは大きなため息をついた。

 ……トレーナーさん、ずいぶん落ち込んでるみたい。

 でも、トレーナーさんがこういうミスをするのは、ちょっと珍しいかも。

 確かにサボり癖はどうしようもないし、だらしないところも少しだけあるけど。

 お仕事っていうか、ライスのことに関しては、しっかりしてくれてるもん。

 なんて考えを巡らせていると、トレーナーさんがライスの頭をぽん、って撫でて。

 

「ま、とりあえずはこれでいいかな。あと気になるところとか、ある?」

「ううん、大丈夫だよ」

「ならよかった」

 

 首を横に振ると、トレーナーさんはほっとしたように息を吐いて。

 

「それにしてもさー」

「……うん?」

「まさか、マジでおコメちゃんが自主練してるとは思わなかったわ、俺」

 

 安心したのか、いつもの調子に戻りながら、そんなことをライスに言ってきた。

 

「……どういう意味?」

「え? あー、いや、別に悪い意味で言ってるワケじゃなくてさ。おコメちゃんが真面目なのは誰よりも知ってるよ? でも、なんつーか……その、えっと、何だ。ぶっちゃけた話には、なるんだけどさ」

「うん」

「俺がいないときくらい、サボっててもよかったんだよ?」

 

 そんなこと。

 

「するわけないよ」

「……あ、や、よく考えたらこれ、めっちゃ失礼だね。忘れていいよ、ごめん……」

「そういうことじゃ、なくて」

 

 なんだろう。

 ライスも、うまく伝えられるかどうか分からないけど。

 

「ねえ、トレーナーさん」

「んー?」

「ライス、この前トレーナーさんが聞いてきた質問の答え、見つけたんだ」

 

 トレーナーさんからの声が返ってくるのに、ちょっとだけ間があった。

 

「……ああ、あれ? なんでレースに勝ちたいのか、ってやつ?」

「そう。ライス、やっと分かったの。どうしてレースに勝ちたいのか」

 

 静かにお話を聞いてくれるトレーナーさんに、ライスは一度、呼吸を置いてから。

 

「ライスはきっと、みんなと一緒にいたいんだ」

 

 はっきり、その言葉を口にした。

 

「みんなと?」

「うん。あのね、ライスは今まで、一人でいる方がいい、って思ってたんだ。学校で過ごしてるときとか、トレーニングのときとか、いっつも。ライスがいると、みんなをライスの不幸に巻き込んじゃうから……そうやってがっかりさせちゃうくらいなら、ライスだけが寂しい思いをする方がマシだ、って思ってた」

「……おコメちゃん、いつもそんなこと考えてたの?」

「うん。でもね、最近はそう思えなくなっちゃったの。トレーナーさんや、ブルボンさん……ほかにも、色んな人がライスと一緒にいてくれるようになったから。一人でいいんだ、なんて……考えられなく、なっちゃった」

 

 選抜レースを走ったら、トレーナーさんと一緒にいられるようになった。

 デビュー戦を走ったら、ブルボンさんと一緒にいられるようになった。

 バクシンオーさんや、ブライアンさん、バンブーさんも同じ。

 みんなが、ライスと一緒にいてくれるんだ。

 

「だから、ライスはレースに勝ちたい。勝てば、また次のレースに出て、みんなと一緒にいられるし……こうした繋がりを、この先も作っていきたい、って思う。それが、ライスがレースに勝ちたい理由」

 

 それが正解なのかどうか、そもそもこの質問に正解があるのかすら、分からない。

 もしかしたら、本当に見当違いなことを言ってる可能性だって、ある。

 ……でもね。

 雨の中、一人でトレーニングをしていた時に感じた寂しさは、確かに本物だったから。

 

「なるほど、ね」

 

 しばらくの時間があってから、トレーナーさんが小さく呟く。

 

「いいんじゃない?」

「……ほんとに?」

「うん。だって、おコメちゃんがちゃんと自分で考えて出した答えなんでしょ? それなら文句ないよ。そうやって自分の中で咀嚼して―、しっかり言葉にできたなら大丈夫!」

「そ、そっか……それなら、よかった……」

「あーでも、一個だけ気にはなるかな」

 

 そうやって思い出したように、トレーナーさんが言って。

 

「ミホちゃんには勝ちたいの?」

「え?」

 

 そんなこと。

 

「勝ちたいよ」

「……あ、そうなの?」

「だってライスは、ブルボンさんの『ライバル』なんだから。負けっぱなしだなんて、そんなの『ライバル』じゃないもん。ちゃんと正面から立ち向かって、勝たなくちゃいけないんだ」

 

 確かに今のライスじゃ、ブルボンさんの足元にも及ばないと思う。

 でも、それで終わりじゃない。……ううん。終わりたく、ないんだ。

 皐月賞と日本ダービー、菊花賞が終わってからも、ずっと。

 ライスは、ブルボンさんと一緒に走れたらな、って思うから。

 

「なんつーか、おコメちゃんって律儀だよね。ライバルがどうとかって、ミホちゃんが勝手に言ってるだけだよ? それにおコメちゃんが付き合う必要なんて、全くないのに」

「……それでも、ライスはそうしたいって思ったから」

「そっか」

 

 それに。

 ブルボンさんと一緒に走れば、きっと。

 トレーナーさんとブルボンさんが仲直りしてくれるはずだから。

 ……それは、他の子と比べたら健全な理由じゃないかも、しれないけど。

 でも、そのためならライスは、どこまでも走り続けられるよ。

 

「正直、ミホちゃんとまた一緒に走るのが目標って言ったら、困っちゃったけど」

「……大丈夫だよ。それで終われるほど、ライスはいい子じゃなくなったから」

「え、なに? まさかおコメちゃん、悪い子になっちゃった?」

「うん。だってライスはもう、トレーナーさんのサボり仲間だもん」

「あー……あはは……」

「冗談だよ」

 

 なんだかばつの悪そうに眼を逸らすトレーナーさんが、おかしくて。

 思わず笑うと、トレーナーさんもしょうがないみたいな、情けない笑みを浮かべていた。

 ……でも、きっと本当にライスが悪い子になったとしても、後悔しないよ。

 トレーナーさんが一緒にいてくれれば、ライスはそれでいいもん。

 

「……その、アレ。いつもの自販機、行く?」

「うん」

 

 そうやって、不器用に誤魔化そうとするところは。

 ブルボンさんの言った通り、どこか子供っぽく見えた。

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
一言
0文字 一言(任意:500文字まで)
※評価値0,10は一言の入力が必須です。参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。