クソチャラお兄さま 作:おこめイーター
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ブルボンさんに負けてから少し経った、ある日のトレーニング終わり。
「次の未勝利戦、一週間後にしよっか」
いつもの自販機にお金を入れながら、トレーナーさんはそう言った。
「一週間後って言うと……二十五日?」
「そうそう。できれば六月中にはデビュー済ませときたいし」
「えっと……早いに越したことはない、から?」
「それもそうだけど……やっぱ、レースの感覚を忘れないうちに、ってのがデカいかな。期間が空いちゃうと感覚もどっか行っちゃうし。ま、こんなこと言うとアレだけど……ミホちゃんに負けたおかげで、こっちは二回もレースの経験が積める、って考えるとそこまで悪くないし」
ボタンを押すと、がこん、って乱暴な音を立てて、缶コーヒーが落ちてくる。
それを拾い上げながら、トレーナーさんはもう一度、自販機にお金を入れて。
「それに、おコメちゃんなら今の実力でも、普通に勝てると思うんだよね」
「……そう、かなあ?」
「だってラップタイムとか見ても、他の子とかより速かったもん。……あの時はミホちゃんがいたから、実感ないのは仕方ないけどさ。でも、少なくとも俺から見たら、今のおコメちゃんは他の子より仕上がってると思うけど……」
「…………」
「……やっぱり、自信ない感じ?」
笑いながら聞いてくるトレーナーさんに、頷く。
その言葉が励ましじゃなくて、ちゃんとした事実だっていうことは、分かるけど。
ただ、それでも、ブルボンさんと走った時のあの感覚は、忘れられなかった。
「ま、一回やってみようよ。勝ったらラッキー、負けたらそん時はそん時、って感じでさ」
なんて軽い言葉といっしょに、トレーナーさんが缶コーヒーを渡してくれる。
「ぶっちゃけ俺も、さっさとデビュー済ませたいんだよね」
「……ご、ごめんなさい」
「いや、責めてるわけじゃなくてさ。なんつーか……さっきも言ったけど、今のおコメちゃんなら未勝利戦は楽勝だと思うの。なのに、いつまでもデビューのためにチマチマ練習してんのってさ、なんかしょうもなくない? それだったら、未勝利戦なんてパッと終わらせて、GⅢとかGⅡのレースに向けたトレーニングした方が、効率いいっしょ」
「それは……そうかも、しれないけど」
「だからさー、一回やってみようよ。だいじょーぶ、負けても俺が何とかするから」
気楽にいこーよ、なんて、トレーナーさんがコーヒーに口をつける。
……そう、だよね。ここでライスがウジウジしても、何も変わらないもん。
ライスも、ブルボンさんとトレーナーさんも、ずっと今のままで終わっちゃう。
だからちゃんとデビューして、ブルボンさんと一緒のレースに出なくちゃ、いけないんだ。
それが、今のライスにできることだから。
「コースは?」
「中京の芝、左回り。んで、距離なんだけど……」
そこで一度、トレーナーさんは少しだけ考えてから、
「おコメちゃんさ、マイルって走れる?」
……え。
「もしかして……マイルなの?」
「うん。一六〇〇の根幹」
「……えっと」
どうしよう。どう答えればいいのか、分からない。
確かに何度かマイルのコースで走ったことはあるし、初めて、っていうわけじゃない。
ただ、やっぱり中・長距離と比べると、どうしても慣れないていうか。
……覚えてる限りで、ライスはマイルのレースで入着したこと、一度もなかった気がする。
「いや、俺もおコメちゃんのレース記録には一通り目ぇ通してるよ? だから、マイルの戦績も知ってんの。ただ、その上で……なんつーか、半分どころかほぼ十割、俺の贔屓目ってか単なる期待かもしんないけどさ」
「うん」
「……普段のトレーニング見た感じ、たぶんおコメちゃん、マイルでもイケるんだよね。それこそ、未勝利戦っていう他の子がまだまだこれからですよー、ってレースでなら、全然勝てると思う」
そう言ってくれるのは、嬉しかった。それだけ、ライスのことを買ってくれるんだから。
ただ……それでもやっぱり、不安っていうか、驚きの方が強くて。
沈んでいたライスの顔を、トレーナーさんは覗き込みながら、
「ま、一番はおコメちゃんが走る気あるかどうか、なんだけどね?」
……本当にズルい言い方、するなあ。
「一つだけ、聞きたいことがあるんだけど」
「んー?」
「もしも、やっぱり中距離で走りたいってライスが言ったら次のデビュー戦はいつ頃になるの?」
「あー……たぶん七月とか? もしかしたら八月に入るかも、って感じ」
「そうしたら皐月賞とか、ダービーには……」
「ま、出られなくなるかもね。単純に予定が一個ずつ押しちゃうから」
なんだ。
それならもう、選択肢なんてないみたいなものだよね。
「出るよ」
「……ホントに?」
「うん。ライス、マイルで走ってみる」
今のライスでどこまで出来るかは、分からないけど。
このまま何もせずに終わっちゃうのは、嫌だから。
「よーし、じゃあ明日からマイル、ガチるか!」
「……ガチる?」
「そ。具体的には、この一週間でおコメちゃんにマイルの基礎を叩きこむ! そんで、未勝利戦までには『え? マイルとか全然余裕ですけど?』ってレベルまで仕上げる! ま、それなりにキツいトレーニングになるとは思うけど、そこは覚悟しといてね、って感じで」
「か、覚悟って……というか、一週間でそんな風になれるのかな……」
「そりゃ、一週間でおコメちゃんをゴリゴリのマイラーにするのは無理だよ? でも、ちょっとした走り方とか、意識とかを変えるだけでも、結構違ってくるからさ」
「……うん」
「とにかく俺を信じて、一緒に頑張ってみよ?」
正直、トレーニングがキツくなるとか、そこは別にいいんだ。
レースに勝てるなら、ライスはどんなトレーニングでもするつもりだし。
それに、トレーナーさんのくれる指示なら、何でも従うつもりだもん。
ただ、ひとつだけ気になったのはね。
「トレーナーさん、なんだか楽しそう……?」
「そりゃもう! だって俺、コッチが本職だもん!」
「……本職って?」
「あれ? コレ、前にも言ってなかったっけ?」
するとトレーナーさんは、不思議そうに首を傾げてから、
「俺、専門はマイルの育成なんだよね」
■
長距離で求められるのは、視野の広さ。
二五〇〇メートルを超える長いコースの中で、自分はどの位置を取るべきか。マークする人は誰か。前方、後方はどんな展開になってるのか。それに加えて、自分のスタミナがどれだけ残っているか、一番いいレース運びはどういうものか。視野の広さっていうのは、きっとそういう意味も含まれてるんだ。
つまり、読み合いにどれだけ長けているか。それが、長距離を走るのに必要な力だと思う。
中距離で求められるのは、実力の高さ。
一八〇〇メートルから二四〇〇メートルは、走れる子が多い平均的なコース。だからこそ、いちばん実力の差が顕著に出るコースなんだ。必要なのは圧倒的な才能じゃなくて、地道な努力の積み重ね。毎日の反復練習や、積み上げてきた経験則が、全てを決める。ある意味では一番、残酷なレースなのかもしれない。
つまり、自分とどれだけ向き合えるか。それが、中距離を走るのに必要な力だと思う。
短距離で求められるのは、身体の強さ。
一五〇〇メートルに満たないコースでは、純粋なスピードがモノを言う。瞬発力や加速力も確かに必要だけど、それを活かせるだけのスピードが無ければ話にすらならない。加えて、短距離は競り合いが他のレースより激しいから、それに負けない身体づくりっていう点も重要になってくる。
つまり、どれだけ真正面から立ち向かえるか。それが、短距離を走るのに必要な力だと思う。
……それなら。
マイルっていう距離を走る上で、求められるのは。
「俺はねー、意志の堅さだと思うな」
トレーナーさんの言葉に、首を傾げる。
「意志の堅さ?」
「そうそう。他の三つに比べると、気持ちの話になっちゃうんだけどさ」
するとトレーナーさんは一度、コートをぐるっと見渡してから、
「マイルの距離ってめっちゃ絶妙なんだよね。短距離よりも少し長くて、中距離よりも少し短い……逆に言えば、それぞれの特徴が入り混じってんの。だから、短距離走るときみたいなフィジカルでのゴリ押しも通用するし、中距離走る時みたいな小手先の一手も通用する。つまり、マイルって他の距離に比べて戦術の幅が広いんだよね」
「……その上で必要なのが、意志の堅さ?」
「うん。ま、俺の持論ではあるんだけど」
少しだけ自信の無さそうな、恥ずかしそうな笑みを浮かべてから、またトレーナーさんが。
「戦術の幅が広いってことはさ、それだけ自分の取れる選択肢が多いってことじゃん? どんな作戦で走るのか、当日は誰をマークするか……もっと言うと、レース中のコース取り一つ一つとかも、無限にあるわけ。そんでもって、取れる選択肢がそんだけ多いと、なんだろ……その、迷うと思うんだよね」
「迷う……」
「つまり、
「……だから、意志の堅さ?」
「そーゆーこと」
にへ、って笑いながら、トレーナーさんは言葉を返してくれた。
それからトレーナーさんは、ライスと目線の高さを合わせるように、膝を折ってから。
「おコメちゃん」
「う、うん……?」
「曖昧だし難しい話ではあるんだけど……でも一応、聞いておきたいから、聞くね?」
そこで浮かべた、トレーナーさんの表情は。
今までに見たどれよりも真剣で、真面目なもので。
「おコメちゃんってさ、なんでレースで勝ちたいの?」
…………え?
「それって……どういう意味?」
「言葉通りの意味。おコメちゃんは、レースに勝って何がしたいの?」
「……えっと」
答えは、すぐに出てこなかった。
迷ってるわけじゃないんだと、思う。言いにくいわけでもない。
レースに勝ちたいって気持ちも、確かにあるもん。
ただ……改めて、そうやって問いかけられると。
どうやって答えればいいのか、分からなくて。
「そこだね」
言い淀むライスを置いて、トレーナーさんが立ち上がる。
「いやまあ、実際なくてもいいんだよ。ってかむしろ、この時期にある方が珍しいっていうか……何なら、トレセン入ったから流れでやってます、でも別に俺はいいと思うんだよね。そういう子も少なくないだろうし」
「それは……うん。分かるよ。ライスの周りにもそういう子、いるもん」
「なら、おコメちゃんも分かってるよね?」
トレーナーさんの言葉に、頷く。
勝利への執念、って言えばいいのかな。
やっぱり勝たなきゃいけない理由のある子と、そうじゃない子の走りは、違う。
そうした理由のある子は、常に自分の走りに自信を持っているっていうか。
それこそ、さっきトレーナーさんが言ってた、「迷い」がないんだ。
勝たなきゃいけない。どんな手段を使ってでも、一着を獲らなきゃいけない。
それだけの理由が、その子にはあるから。
「だから、しつこいかもしれないけど、もう一度聞いとくね」
それから改めて、トレーナーさんはライスの眼をまっすぐと見つめてから、
「おコメちゃんって、レースに勝って何がしたいの?」
ライスが、レースに勝ちたい理由。
それは……。
■
「……あれ?」
次の未勝利戦まで、あと二日を切ったころ。
いつも通りミーティングルームに入るけど、そこにトレーナーさんの姿はなくて。
「トレーナーさん?」
思わずそうやって呼びかけてみるけど、返事はない。
たまにソファーで寝てるときがあるから、今日もそうなのかな、って思ったけど。
……もしかして、いつもみたくサボりなのかな。
ここ最近、ずっとライスにつきっきりだったから、疲れちゃったのかも。
それにしたって、未勝利戦まであと二日しかないのに、そんなことするかなあ……。
確かに、トレーナーさんのサボリ癖は、正直どうしようもないけど。
でも……何ていうか、その。
たぶんサボるなら、ライスの未勝利戦が終わってからだと思うんだ。
「どうしちゃたのかな……?」
携帯を確認するけど、連絡は来てない。
試しにこっちから連絡も入れてみたけど、反応もない。
……本当に、サボり?
「トレーナーさん……」
時計を見る。
トレーニングが始まるまで、あと少し。
いつもならもう、着替えとかの準備をしてコートにいる時間だった。
「…………」
窓の外では、朝から降り続いている雨が次第に勢いを増している。
トレーナーさんならきっと、体育館を借りて練習するんだろうけど。
肝心のトレーナーさんがいないから、利用申請もできないし。
……今日のトレーニングは、確か未勝利戦に向けた最後の調整だったはず。
多分、やることはいつもの基礎練と、タイム測定。
基礎練のメニューは頭の中に入ってる。トレーナーさんがいなくても、大丈夫。
だから、いるのはストップウォッチと……記録用紙、は携帯でいいかな。
「あと、必要なのは……」
……ああ、そうだ。
レインコートも、持って行かなくちゃ。
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雨のコースを走ることは、そこまで苦手じゃなかった。
だってライスが練習するときは、いつも雨が降ってたから。
陳腐にはなるけど、不幸、っていうのがいちばん分かりやすい言葉なんだと思う。
昔から、そうだった。
渡ろうとした信号が急に赤になったり、買おうとしていた本がその日に売り切れたり。
福引とかビンゴゲームとか、そういうのに当たったことも、ない。
考えすぎ、って思うかもしれないけど……でも、それは事実だから。
ライスは不幸なんだ、って。幸せにはなれないんだ、って。
一人でのトレーニングも、慣れっこだった。
他の子を、ライスの不幸に巻き込みたくなかったから。
寂しいとか、羨ましいとかは、そういうのはもう思わなくなった。
だって他の子をがっかりさせちゃうよりは、ずっとマシだもん。
だから、これでいいの。ライスだけが不幸になれば、大丈夫。
……なんて。
「あはは……」
自分に言い訳するような考えをしていることに気が付いて、思わず笑っちゃう。
集中しなきゃダメなことは、分かってる。一人でも練習しなきゃいけないことも。
……でもね。
もしかしたら、トレーナーさんが遅れて来てくれるかな、って。
何度もコースの外を見て、探しちゃうんだ。
「…………」
息を整えてから、ストップウォッチへと目を向ける。
タイム自体は目標に届いてる。走り方も、なんとか形にはなってる。
これなら、次の未勝利戦は何とかなると思う。
思う、けど。
……ブルボンさんと走ったあのレースのタイムには、届いてない。
「ダメ、だなあ」
また、ライスの不幸に巻き込んじゃうかもしれないのに。
がっかりさせちゃって、悲しい気持ちにさせちゃうかもしれないのに。
トレーナーさんと一緒に練習したい、って。
ブルボンさんとまた一緒に、走ってみたい、って。
そう、思っちゃうんだ。
「……もう一回、走ろう」
今日はまだ時間もあるし、まだ詰められるところはある。
そう思って口にしたところで、ふと。
『おコメちゃんって、レースに勝って何がしたいの?』
そんな、この前のトレーナーさんの言葉が頭を過ぎった。
……ライスが、レースに勝ちたい理由。
こうやって一人でも、トレーニングを続けられる理由。
思考が循環して、もやもやとした気持ちがだんだんと晴れていく。
まるでパズルのピースを埋めていくような、そんな。
ああ、そうだ。
ライスがレースに勝ちたいのは、きっと――
「うわ、マジでいるじゃん! おーい、おコメちゃーん!」
そんな驚いたような声が聞こえてきたのは、それからすぐのことだった。
振り返るとそこには、傘を差してこっちに走ってくる、トレーナーさんが見えて。
「あ……トレーナー、さん?」
「ごめんごめん! 今日、急に午後から外出する用事が出来ちゃってさ! いきなりのことだったから、おコメちゃんに連絡するのマジで忘れてた! ほんっとゴメン!」
「ううん、大丈夫だよ。今日の練習メニューは、分かってたし……」
「……え? いや、おコメちゃん……もしかしてだけど、今までずっと練習してた感じ?」
「うん。そうだけど……?」
正直に答えると、トレーナーさんは顔をさあ、って青くしてから。
「ちょ、あの、今日はもう終わりで! トレーニング終了!」
「え……? でも、まだ一本くらいタイム測れるくらいの時間は……」
「これ以上やって体調崩しちゃう方がダメだって!」
「…………あっ」
気づいて声を上げた時には、もうトレーナーさんはライスの手を握ってて。
「ほら。とにかく一度、いつもの部屋行こっか」
「う、うん……」
雨に打たれたからなのかは、分からないけど。
トレーナーさんの手は、とても暖かかった。
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「いや、なんか急に、午後から外出する用事が入っちゃってさー」
バスタオルでライスの髪を拭きながら、トレーナーさんはそうやって話してくれた。
「あの……ほら。この前、俺が出張した話って覚えてる?」
「うん。確か、お世話になった先生のところに行ったんだよね?」
「そうそう。実は今日の用事もそれ系でね? 雑用っつーか、先生に頼まれて車でモノ取りに行ってたのよ。なんか明日必要な書類がどうとか言われてさー。……あのクソババア、絶対俺のこと暇人だと思ってるだろ」
「た、大変だったね……」
「でも、連絡忘れたのは俺のミスだからさ。ほんとゴメンね」
言ってから、トレーナーさんは大きなため息をついた。
……トレーナーさん、ずいぶん落ち込んでるみたい。
でも、トレーナーさんがこういうミスをするのは、ちょっと珍しいかも。
確かにサボり癖はどうしようもないし、だらしないところも少しだけあるけど。
お仕事っていうか、ライスのことに関しては、しっかりしてくれてるもん。
なんて考えを巡らせていると、トレーナーさんがライスの頭をぽん、って撫でて。
「ま、とりあえずはこれでいいかな。あと気になるところとか、ある?」
「ううん、大丈夫だよ」
「ならよかった」
首を横に振ると、トレーナーさんはほっとしたように息を吐いて。
「それにしてもさー」
「……うん?」
「まさか、マジでおコメちゃんが自主練してるとは思わなかったわ、俺」
安心したのか、いつもの調子に戻りながら、そんなことをライスに言ってきた。
「……どういう意味?」
「え? あー、いや、別に悪い意味で言ってるワケじゃなくてさ。おコメちゃんが真面目なのは誰よりも知ってるよ? でも、なんつーか……その、えっと、何だ。ぶっちゃけた話には、なるんだけどさ」
「うん」
「俺がいないときくらい、サボっててもよかったんだよ?」
そんなこと。
「するわけないよ」
「……あ、や、よく考えたらこれ、めっちゃ失礼だね。忘れていいよ、ごめん……」
「そういうことじゃ、なくて」
なんだろう。
ライスも、うまく伝えられるかどうか分からないけど。
「ねえ、トレーナーさん」
「んー?」
「ライス、この前トレーナーさんが聞いてきた質問の答え、見つけたんだ」
トレーナーさんからの声が返ってくるのに、ちょっとだけ間があった。
「……ああ、あれ? なんでレースに勝ちたいのか、ってやつ?」
「そう。ライス、やっと分かったの。どうしてレースに勝ちたいのか」
静かにお話を聞いてくれるトレーナーさんに、ライスは一度、呼吸を置いてから。
「ライスはきっと、みんなと一緒にいたいんだ」
はっきり、その言葉を口にした。
「みんなと?」
「うん。あのね、ライスは今まで、一人でいる方がいい、って思ってたんだ。学校で過ごしてるときとか、トレーニングのときとか、いっつも。ライスがいると、みんなをライスの不幸に巻き込んじゃうから……そうやってがっかりさせちゃうくらいなら、ライスだけが寂しい思いをする方がマシだ、って思ってた」
「……おコメちゃん、いつもそんなこと考えてたの?」
「うん。でもね、最近はそう思えなくなっちゃったの。トレーナーさんや、ブルボンさん……ほかにも、色んな人がライスと一緒にいてくれるようになったから。一人でいいんだ、なんて……考えられなく、なっちゃった」
選抜レースを走ったら、トレーナーさんと一緒にいられるようになった。
デビュー戦を走ったら、ブルボンさんと一緒にいられるようになった。
バクシンオーさんや、ブライアンさん、バンブーさんも同じ。
みんなが、ライスと一緒にいてくれるんだ。
「だから、ライスはレースに勝ちたい。勝てば、また次のレースに出て、みんなと一緒にいられるし……こうした繋がりを、この先も作っていきたい、って思う。それが、ライスがレースに勝ちたい理由」
それが正解なのかどうか、そもそもこの質問に正解があるのかすら、分からない。
もしかしたら、本当に見当違いなことを言ってる可能性だって、ある。
……でもね。
雨の中、一人でトレーニングをしていた時に感じた寂しさは、確かに本物だったから。
「なるほど、ね」
しばらくの時間があってから、トレーナーさんが小さく呟く。
「いいんじゃない?」
「……ほんとに?」
「うん。だって、おコメちゃんがちゃんと自分で考えて出した答えなんでしょ? それなら文句ないよ。そうやって自分の中で咀嚼して―、しっかり言葉にできたなら大丈夫!」
「そ、そっか……それなら、よかった……」
「あーでも、一個だけ気にはなるかな」
そうやって思い出したように、トレーナーさんが言って。
「ミホちゃんには勝ちたいの?」
「え?」
そんなこと。
「勝ちたいよ」
「……あ、そうなの?」
「だってライスは、ブルボンさんの『ライバル』なんだから。負けっぱなしだなんて、そんなの『ライバル』じゃないもん。ちゃんと正面から立ち向かって、勝たなくちゃいけないんだ」
確かに今のライスじゃ、ブルボンさんの足元にも及ばないと思う。
でも、それで終わりじゃない。……ううん。終わりたく、ないんだ。
皐月賞と日本ダービー、菊花賞が終わってからも、ずっと。
ライスは、ブルボンさんと一緒に走れたらな、って思うから。
「なんつーか、おコメちゃんって律儀だよね。ライバルがどうとかって、ミホちゃんが勝手に言ってるだけだよ? それにおコメちゃんが付き合う必要なんて、全くないのに」
「……それでも、ライスはそうしたいって思ったから」
「そっか」
それに。
ブルボンさんと一緒に走れば、きっと。
トレーナーさんとブルボンさんが仲直りしてくれるはずだから。
……それは、他の子と比べたら健全な理由じゃないかも、しれないけど。
でも、そのためならライスは、どこまでも走り続けられるよ。
「正直、ミホちゃんとまた一緒に走るのが目標って言ったら、困っちゃったけど」
「……大丈夫だよ。それで終われるほど、ライスはいい子じゃなくなったから」
「え、なに? まさかおコメちゃん、悪い子になっちゃった?」
「うん。だってライスはもう、トレーナーさんのサボり仲間だもん」
「あー……あはは……」
「冗談だよ」
なんだかばつの悪そうに眼を逸らすトレーナーさんが、おかしくて。
思わず笑うと、トレーナーさんもしょうがないみたいな、情けない笑みを浮かべていた。
……でも、きっと本当にライスが悪い子になったとしても、後悔しないよ。
トレーナーさんが一緒にいてくれれば、ライスはそれでいいもん。
「……その、アレ。いつもの自販機、行く?」
「うん」
そうやって、不器用に誤魔化そうとするところは。
ブルボンさんの言った通り、どこか子供っぽく見えた。
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