ヘスティアの灯火   作:ダンブルドア同好会会長

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R.A.B 何もかも遅すぎた英雄

 

グリモールド・プレイス十二番地。

マグルの住宅街の真ん中に、その家はあった。

その家は一面暗い壁紙で覆われており、少々古びた調度品の数々はその家の歴史を感じさせる。一面蛇柄だらけで、ガラスに覆われた肖像画たちはその大半が陰険な顔をしていた。

その家の玄関に一人の男が入ってくる。

 

「パパ!」

 

夜までその帰りを待っていたらしい小さな黒髪の男の子がその男に駆け寄った。少しばかりおぼつかない足取りに男は破顔する。屈んで抱きとめた後、自身のコートについた雨に濡れないように彼は懐から取り出した棒切れをひと振りした。

コートの雨はたちまちに乾いてしまった。どうやらその男は普通の人間ではなく―――魔法使いであるらしかった。

 

「レギュラス、待っててくれたのか?」

 

レギュラスを自身の胸元まで抱き上げて男は言った。

 

「うん!僕、クリーチャーに紅茶を貰って待ってたんだ!ママも起きてるよ!」

「…シリウスは?」

「兄さん?兄さんは部屋だよ」

 

どこか妙に腑に落ちたような…呆れたような顔をして、その男は眉を下げた。それを見てレギュラスも悲しそうな顔をする。

レギュラスは幼心ながら少しばかり気がついていた。恐らく、兄と親が仲違いをしている事に。子供ながらの反抗心を持って親にツンケンとした態度をとっているのだろうと、五歳ばかりのレギュラスは解釈していた。早く自分の非を認めて、パパやママに謝って、元の暖かい家族に戻って欲しいと思った。兄は間違っている。レギュラスは疑いすらしなかった。

 

事実、間違いではなかった。

その家ではその兄こそが特異であり、悪であった。

 

しかしレギュラスはまだ深く物事を知らない。

 

「兄さん、眠いって言ってたんだ。今日はお勉強で疲れてたみたいだから」

 

にっこりと笑ってレギュラスは言った。父親の首に手を回して、ふわふわとした黒髪を揺らして。男は少しばかり硬直すると、そうか、と微笑んだ。

そのまま男は歩き出す。その足の先には、レギュラスの母親がいるのだろう。

 

よかった!よかった!

レギュラスは踊り出したい気分だ。父を微笑ませることが出来た。悲しみを追いやることが出来た。その事がどうにも誇らしくて、レギュラスは満ち足りた気分だ。

リビングに着くと、紅茶をゆったりと傾けている母親の姿があった。兄の前ではキイキイと怒るが、今は酷く穏やからしかった。レギュラスは母親に抱き着いた。

 

平和な絵だ。

赤いビロードの絨毯の上で、アンティーク調の椅子に優雅に座る身麗しい母親、ドレスの裾に抱きつく幼い男の子、それを微笑みながら見守る美丈夫。

完璧だった。完璧な家族だった。

 

その時、レギュラスは気が付いたのかもしれない。何処か心の隅で、ドロドロとした感情が、まだ純真なレギュラスに囁いた。

 

“もし従順でいられたら、パパとママを独り占めできるんじゃない?”

 

「パパ、今日は何があったの?」

 

レギュラスは笑顔で父親に聞いた。その笑みは酷く無邪気で、残酷だった。

 

◇◇◇◇

 

 

「スリザリン!!!」

 

ワアッと歓声が上がった。一番端のテーブルからだ。帽子を被る前、ほんの数瞬の間にレギュラスはスリザリンの寮に組み分けされたのであった。

スリザリンの生徒たち…特に純血なんかはこぞって手を叩いて歓迎し、この年一番の歓迎ぶりなのではないかという様相さえ思わせた。レギュラスは微笑みを浮かべながら辺りを見渡した。幼い頃からの仲の者や、新しく見知った者、コンパートメントで顔を合わせた者…。ホグワーツという大きな城は、レギュラスに学び舎と大きな世界を与えた。

いや……大きな世界でもあり―――

 

「俺はバーテミウス・クラウチ・ジュニアだ。名前は嫌いだからBTと呼んでくれ」

「BT?オーケー。僕はレギュラス・ブラック。普通にレギュラスでいいよ」

「よろしく」

 

レギュラスは早速隣の新入生と仲良くなった。軽く握手をする。その後彼と色々な話をしたが、どうやら話を聞く限りお父上は魔法省の官僚であるらしかった。なるほど身なりがいいはずだ。

レギュラスは周りに固まった純血貴族たちと話を深めていく。話の内容も酷く特別なもので、純血たちにしか分かりえない様なものばかりだった。所謂純血による格の違いを見せつけるためのジャブだ。パーキンソン家のパーティがどうたら、お抱えの家庭教師がどうたら。

端に座っていたサエない者なんかは一塊になって、各々自分たちの話をしている様だった。そこには圧倒的な違いがある。貴族たちのマウントの取り合いと、一般人たちの普通の雑談。どちらがより羨ましいか―――しかし、確かに今日この時、スリザリン内でのカーストが決まった。

何よりも上下関係に厳しいスリザリンが、そのままに友好関係を築くわけが無かったのだ。

 

「そういえば、レギュラスの兄さんもホグワーツなんだろ?スリザリンじゃないのか?」

 

ざわざわと賑やかな席、先程の男子学生がそう口に出した所で、少しばかり空気が凍った。固まったのは主に純血の上級生で、彼は場が凍った意味が分からない、とでも言うように辺りを見回した。

シリウス・ブラックが大の純血主義嫌いだということは、この学校のスリザリン生なら誰もが知っている。恐らく、純血とスリザリンを最も尊ぶブラック家が地獄のような雰囲気になっているであろうことも、少し魔法族に詳しい者なら予想が着くだろう。

 

「何処にいるんだ?」

 

またレギュラスに向き直った彼がそう言う。まるで答えを急かしているようだ。数人にしか見えていなかったが、彼の口の端は少し上がっていて、故意であることは間違いなかった。レギュラスはその時、新しい友人が思っていたより遥かに意地悪な人間であるのだと確信した。

レギュラスは肩を竦める。少しヒリついた空気と自身の早鐘を打つ心臓に緩和を与えようと、レギュラスは自然な笑みを作った。

 

「シリウスはグリフィンドールでね。“よく出来た”兄だよ」

「ブラック家でグリフィンドールとは、なにかあるものかと思ったけどな」

「魔法に関しては僕も負けるさ」

「本当か?」

「そりゃ勿論。何故だか両親からは好かれていないけどね。君はどう?」

 

バーティ・クラウチ・ジュニア。父親と同じ名前。呼ばれて欲しくないということは、仲がよろしくないということ。

レギュラスは彼ににっこりと笑って聞いた。

周りの人間の空気は氷点下にまで下がった。氷河期、突入。

何が「どう?」だ。お前は頭がおかしいのか。もう嫌だ、このギスギス。

上級生達は逃げるように目を逸らした。

レギュラスとてこんな空気にしたい訳じゃない。喧嘩をふっかけられたら買うのみ。妙に兄に似た思考を持つ彼は、少しばかり血の気が多かった。

あんな兄でもブラック家であることには変わりないし、馬鹿にされるのは嫌なのだ。

 

「お前、いい奴だな」

 

イヤミ節のたっぷり篭った声で彼が言った。

 

「よく言われる」

 

レギュラスもにこりと笑って応えた。

 

 

レギュラスは瞬く間にスリザリンでの地位を確立していった。

まあそれもそうだろう。地獄のような雰囲気の家庭内で家族の間を長年取り持ってきたのだから世渡りも上手くなるはずだ。

ブラック家は死喰い人ではなかったが、誰が敵か味方か定かではない時代、少し腫れ物のように扱われていた節があった。目をつけられたくない者は極力身を小さくし、その間に死喰い人の子供やら純血思想を持つ子供たちがレギュラスの周りを固めた。地位も権力もある、そんな子供たちが一塊になった。

 

「レギュラスにはちょっかいかけてこないんだな、あの人」

 

ある日悪友がそう言うと、レギュラスは小さく頷いた。

あの兄はレギュラスが入学してから、一度も話しかけに来たことがない。この学校ではどうやらお得意であるらしい人を小馬鹿にした態度もレギュラスにはしてこないし、寧ろ神経質な程にレギュラスを避けているようだった。目を見もしない。廊下で見かけたら、顔を背ける。

まるで自分の世界に異物が入ってきて不愉快だとでも言うようだった。

 

今まで、ずっとレギュラスの兄は独りだった。

冷たい母親、呆れる父親、嫌味な屋敷しもべ、両親の愛を独り占めにするよく出来た弟。

純血を代々尊ぶその環境で意志を貫くことが出来たのは、彼の並々ならぬ反骨心と、頑固な精神からだろう。彼の頑固さは、既に死喰い人として闇の帝王に仕えていた従姉に酷く似ていた。

ホグワーツに入ってから、初めて友人が出来た。自由な空気を吸い、家を忘れ、好きな事がのびのびと出来る場所がやっと出来た。

そこにノコノコレギュラスがやって来たのだから、気に食わないだろう。

 

別にレギュラスだって気持ちがいいものではなかった。

家ではあんな扱いをされているのだし、同情までしていた。廊下ですれ違う時だって、話しかけようとは微塵も思わないが、その微妙に張り詰めた空気にレギュラス自身が参ってしまいそうだった。

 

「可哀想だ」

 

レギュラスはぽつりと言った。その言葉は空っぽだった。

 

◇◇◇◇

 

兄やその悪友と、とある下級生二人がよくドンパチやっている、という噂がレギュラスの耳に届いたのは、そう遅くない頃だった。

何をやってるんだ兄さんは、とレギュラスはそれを聞いた時頭を抱えた。かたや六年生、かたや二年生。大人気ないにも程があるだろう。手加減しているとはいえ割と白熱しているようで、レギュラスが一度通りがかった時には割と爽やかな汗を流しながら杖を振っていた気がする。どうしてそう思想が幼稚なのか。

下級生も下級生で、気持ち悪い動きで攻撃を避ける顔のいい男子が一人、初歩的だが馬鹿にできない魔法の腕の…しかし煽りには滅法弱そうな女子が一人。その場にいた四人は皆キャラが濃かった。ホグワーツ中のカオスを一纏めにしたみたいな人達だった。

 

悪戯仕掛け人どもが新星にちょっかいをかけ始めた、と言われているが、恐らく兄は私怨だろう。特に女子の方。レギュラスはそこはかとない確信があった。

悪戯仕掛け人には数多のスリザリン生が犠牲になってきた。年上で彼らと同級生の陰キャ、セブルス・スネイプなんて酷いもので、目も当てられない悪戯もあった。陰湿でないところが彼らの…周りに憎めないと思わせるところなのだろうが、当人からしたら溜まったもんじゃない。快活な虐めこそ精神が抉られるものである。レギュラスは生憎セブルス・スネイプとは魔法薬学関係で少し話をするばかりであまり関わりはなかったが、絶対彼の立ち位置になりたくないものだ、と常々同情していた。なんなら菓子折り持って謝りに行ったこともあるし。兄のせいでスリザリンで肩身が狭くならないようにレギュラスは日々気を働かせているのである。

 

話は戻ってなぜレギュラスの兄がかの少女、ヘスティア・フォーリーを気にしていたのかと言うと、彼女の入学前に流れていた噂に起因するだろう。

フォーリー家が純血主義を掲げているというのは、割と昔から家がある魔法族なら知っている事だ。清廉潔白品行方正を人にしたようなアルフレッド・フォーリーでさえ、彼の人に分け隔てなく接する性格から寧ろ崇められてさえいるが、純血主義者であることを完全に否定したことは無い。その為周りからは闇の帝王対策なんて言われていたりするが、どうだか。

その妹、ヘスティア・フォーリーもまた純血主義者であるというのは予想されていた話だ。

 

彼女は少しレギュラスに似ている。

勿論彼女のような野蛮な…いや、元気な性格はレギュラスもしていなかったが、兄の中では大いにリンクするところがあっただろう。

レギュラスたちとは違い、仲睦まじい兄妹の姿を見てしまえば、気に食わなかったに違いない。

 

と、いうわけで。

 

「あ、君。そう……ヘスティアだね?突然ごめんね」

 

丁度図書室から出てきた少女を、レギュラスは呼び止めた。少女は怪訝な顔をしながらレギュラスの方を振り向く。彼女の肩まで伸びた闇のような黒い髪は、レギュラスの髪色にそっくりだった。

 

「なんでしょう」

「いつも兄が迷惑をかけてるから、お詫びでもしようかと思って」

 

レギュラスが細いリボンのついた薄黄色の箱を差し出すと、少女は少し逡巡し、その箱を受け取る。有名なチョコレートの店で、少女は素直にお礼を述べた。

 

「あなた、シリウスの弟さんでしょう」

「分かる?」

「ジェームズ・ポッターに落ち着いた弟がいるとは思えないもの。ブラック家ならまだ納得出来るわ」

「そう」

 

淡白に会話が終わった。少女は怪訝な顔を隠さない。何しに来たんだ、と言われる前に少しばかり会話を伸ばそうとレギュラスが口を開きかけた時、邪魔者が入った。

 

「おい、何やってんだ」

「シリウス」

 

ズボンのポケットに手を突っ込みながらさして興味もなさそうな顔をしてレギュラスの兄が近づいてきた。しかししっかりレギュラスの顔を観察しているあたり、会話の内容が気になったらしい。久しぶりの兄との会話で、しかも兄からなんて何年ぶりかしれなかったので、レギュラスは少し身体を硬直させた。

 

「あなたの―――名前は―――「レギュラス」レギュラスに…」

 

何を言えばいいんだ、と少女はレギュラスを見た。どうもこの空気感から瞬時に兄弟仲を悟ったらしい。レギュラスは申し訳程度に口角を上げて、ヘスティアの言葉を引き継ぐ。

 

「いや、偶然会ったから話してただけさ」

「その割にはプレゼントまでしてるみてーだけど?」

 

彼は少女の手から少々荒っぽくチョコレートの箱を取り上げた。ちょっと、と少女の不満の声が漏れる。どうにも気に食わなそうな顔で兄は少女の手にまたその箱を戻した。

 

「偶然手元にあったからね」

「今日のお前は偶然に見舞われ過ぎてるな」

「…ねえ、そこまで突っかからなくていいでしょ。私このプレゼント、嬉しかったわ。…ありがとね、レギュラス」

 

少しばかり呆れたような顔で少女は言った。全く、幼稚なんだから、と言わんように。実際彼ら兄弟の睨み合いに巻き込まれた少女は溜まったものでは無かったのだが、レギュラスの兄は不意を突かれたような顔をした。

 

「…行くぞ。時間の無駄だ」

 

彼は少し押し黙ったあと、少女の背中をグイグイと押し始めた。少女も彼の並々ならぬ様子に気が付いたようで、レギュラスにごめんなさいね、と軽く会釈した後、兄に導かれるまま背を向けて歩き出した。

 

「ねえ」

 

しかしここで粘るのがレギュラスである。どうにも負けた気がして、レギュラスはなんとなしに二つの背中に声をかけた。同時に振り向く二人に、レギュラスの奥深くに眠る悪戯心が沸き上がる。

 

「ヘスティアって、兄さんのガールフレンド?」

 

少しばかり意地悪な顔をしてレギュラスは言った。六年生と二年生。暗にロリコンと言っているのだ。まあ兄の友人にはそのロリコンがいるのだが。少女が成長してからなので…まあ…うん…セーフ…?

兄はレギュラスを射殺さんばかりの鋭い目で睨んだ。

 

「ちげーよ」

 

兄の手が少女のローブを滑り、肩に置かれる。

 

「兄妹みたいなもん」

 

酷く冷たい声で、彼は言った。地獄みたいな会話に少女が頭を抱える。行くぞ、と兄が言った。少女は歩いている間途中途中足を踏もうとちょこまかと動いていたが、兄は軽やかにそれを全て避けていた。

レギュラスは動くことが出来ない。棒立ちになって、その光景を見つめていた。

悔しい訳でも、悲しい訳でもなかった。

ただ、あの兄と―――シリウスと、自分がああなる未来もあったのかもしれないと考えると、酷く虚しくなった。

 

◇◇◇◇

 

「子供は親の言うことを聞いた方が利口だと思いますがね」

 

毎度おなじみ地獄のような夕食、inブラック家。

レギュラスの母は、目の前で睨む不出来な息子の顔を見もしないでステーキをナイフで切っていた。レギュラスは兄と母の顔を見つつ口を動かす。布ずれさえも響きそうな最悪の晩餐会では兄と母はよくバトルする。凍りついた冷たい言葉を突き刺すような母の態度は、当事者でないレギュラスでさえも心にくるものがあった。

 

「そうやってグチグチ言ってて、メシが不味くならないわけ?」

「汚いお言葉遣いはおやめなさい。ホグワーツで身分も分からないような子供に感化されたのかは知りませんが」

「ここの連中よりかは余っ程イケてる奴らだけどね」

 

最早一々激昂しなくなった会話は地雷に満ちている。レギュラスは不用意に会話に入ることなく、ひたすらもそもそと高級なステーキ肉を口に運び込んでいた。喉につかえてなかなか呑み込めない。せっかくのいい肉が台無しだ。

 

「連中だなんて―――家族になんて口を聞くのです!」

「うるせえクソババア!お前らを家族だなんて思ったこと、1ミリもねえよ!」

 

あ、超えた。一線超えた。

レギュラスは急に冷静になった脳で、そんなことを考えた。

母の顔が般若のように変化していく。顔が真っ赤になって…これはキイキイ声が出る予兆だ。

面倒くさいことにならないうちにと兄はテーブルを押しのけるように立ち上がった。

 

「シリウス―――貴方には―――もう、ウンザリです―――!!!!出て行きなさい!!!出て行け―――私たちの家族でないのなら!!!!」

 

追い立てるように母が立ち上がった。投げつけた皿たちが悲鳴を上げる。兄も逃げるように部屋を出ていった。ただ一人残されたレギュラスは口に残った肉を何とかして飲み込むと、キッチンの入口で困惑したように佇むクリーチャーと目を合わせた。とんでもない事になったぞ。ついに家出だ。多分あの調子じゃ、帰ってこないつもりだ。

 

レギュラスは杖を持って急いで廊下に出た。あの勢いじゃドンパチしててもおかしくない。レギュラスが階段を上がりかけた時、丁度兄が部屋から転がるように出てきた。手にはホグワーツに持っていく用の大きなトランクが握られている。恐らく急いで支度したのだろう。兄の髪は乱れていた。

母は杖を振ることはしなかったが、ドレスの裾を引っ張って大股で兄を追い立てた。レギュラスは終始何もすることが出来ず、黙って追いかけるのみだった。

 

「出ていってやるよ!その方がお前らも清々すんだろ!ふざけんじゃねえ!」

 

そう吐き捨てて、レギュラスの兄はグリモールド・プレイスの夜道に出ていった。母もそこまでは追いかけないようで、魂の抜けたように棒立ちになっている。先程の般若のような顔とは打って変わって、能面のように表情の無くなったその顔は酷く恐ろしかった。レギュラスも逃げるように兄を追う。杖をしまって、マグルの住宅街に出た。

 

「兄さん、待ちなよ、落ち着けって―――」

「うるせえなどいつもこいつも!」

 

兄は振り向くと、レギュラスの胸を思い切り押した。ぐらりと身体が傾いて、レギュラスは無様に尻もちをつく。丁度雨が降った後だったからか、レギュラスのズボンは冷たく湿った。

 

「お前だってあの腐った思想に染ってんだろ。おかしいよ、お前。気味が悪い」

 

嫌悪した顔で、男は言った。レギュラスの知らない人になったようで、急に身体に寒気が走った。

 

「俺がいなくなっても良いじゃねえか。完璧な家族になるんだろ?純血主義万歳、ブラック家万歳。それが望みなんだろ?俺なんて所詮邪魔者なんだよ」

 

自分で吐き出している癖に、男は酷く傷ついているようだった。

 

「…俺の世界に、もう入ってこないでくれ。頼む」

 

気が付けばレギュラスの目からは涙が溢れていた。男の目からも流れている。

 

「もうウンザリなんだよ」

 

レギュラスは凍り付いたように動けなかった。杖腕を高く上げる兄を止めることも出来ず、ただただ馬鹿のように黙っているだけだった。

夜の騎士バスが、バーン!という音を立てながら止まった。出てきた車掌は困惑している様子だったが、男が差し出したトランクを何も言わず運び込んだ。男はレギュラスを見ない。振り向きもしなかった。バスの中に男が入り、一言行き先を告げた後、そのバスは物凄い勢いで去っていった。レギュラスはただ、地面に尻餅をついたまま、呆然と涙を流しているだけだった。

 

数分経っただろうか、遠くの方で人の喋り声がしているのに気が付き、レギュラスはやっとのことで立ち上がった。ズボンについた僅かばかりの砂利を払い、涙を拭った。

グリモールド・プレイス十二番地。

我が家に帰ると、母が玄関で泣き崩れていた。「シリウス、シリウス…」と呟きながら咽び泣いていた。顔は手で覆われていて、レギュラスを見ることは無い。

いつもの我が家が、がらんとして見えた。

 

この日、シリウス・ブラックの名は、家系図から消されることとなった。

 

◇◇◇◇

 

「あなた、スラグクラブに入ってたのね」

 

魔法薬学教授、ホラス・スラグホーンの部屋。スリザリンカラーのくすんだ緑色のカーペットが敷かれたその部屋で、レギュラスは後ろから声をかけられた。振り返ってみるといつかの少女。レギュラスは目を見開いた。

 

「君は、今年から?」

「いいえ、去年からよ。でもあまりパーティーには出ていなかったし、たまたま出席した時期が重ならなかったんでしょうね。私クリスマスパーティーはギルデロイと過ごすことを決めてるし」

「そう」

 

乾杯、と少女はサワーの入ったグラスを傾けた。レギュラスもそれに習う。流石貴族の出と言うべきか、パーティーという場には慣れているらしかった。

 

「君とはブライベートのパーティーではあったこと無かったけど、何処かに出席したことはあるの?」

「魔法省関係で少しね。ただ連れ回されただけだから、子供向けのものじゃなかったわ。全く気乗りしなかったけど、人を覚えろってね。あなたのお父様にも一度会ったわ。小さい頃だけど」

「そう」

 

レギュラスは暫し、考え事をし始めた。返事が疎かになっている彼に少女は怪訝な顔をする。それでも彼の言葉を待っているあたり、少しはレギュラスのことを慮っているらしかった。

 

「…僕の家がどうなってるか、君は知ってる?」

 

本質には一切触れず、レギュラスは上澄みを掬いとるように聞いた。少女は少しばかり固まったあと、小さく頷く。

 

「まあね」

 

しかし、少しの情報も与えないと言わんように、少女は短く答えた。レギュラスは少女の顔をちらりと見る。完全にレギュラスの言葉を促しているようで、彼はバツが悪くなった。

 

「…シリウスは、どんな感じかな」

「どんなって?」

「分かるだろ?」

「あなた、シリウスじゃなくて兄さんって呼んでなかった?」

「一々突っ込むと嫌われるよ」

「シリウスを傷付ける人になら、嫌われてもいいかもね」

 

レギュラスは閉口した。絶句と言った方が正しいかもしれない。

少女は薄く微笑む。

 

「あなたの家がどんな修羅場になっているのか…大体予想はつくわ。あなたがシリウスをそこまで嫌っていないのも知ってる」

 

少女はサワーをひとくち飲んだあと、また口を開いた。

 

「シリウス、家を出た時はだいぶ混乱していたけど、今は元気よ。寧ろ家を嫌う余裕まで出てきたわ」

 

少女はニヤリと笑った。

 

「ま、私はもう少しあなた達兄弟が歩み合うべきだと思うけど。外野は黙るべきね」

 

じゃ、と手をひらひらとしながら少女は去っていく。

レギュラスはその背中を、複雑な気持ちで見つめていた。

 

◇◇◇◇

 

分厚いカーテンで仕切られた、冷たい室内。天井には大きなシャンデリアがぶら下がり、レギュラスの隣にはプラチナブロンドを肩まで靡かせた美丈夫が立っていた。

目の前には、病的なまでに肌が青白い蛇面の男。闇の帝王こと、ヴォルデモート卿だ。

 

「我が君、この男がレギュラス・ブラックでございます」

「そうかそうか…あのブラック家の」

 

変ににこやかな声で、蛇面の男は言った。レギュラスが魔法族の王族とも言われるブラック家の直系だからか、蛇面の男は少しばかり恍惚とした表情だった。

レギュラスは緊張を隠せない。目の前の男の震えるような強大な、背筋を凍らせるオーラに震えを抑えるのに必死だったからだ。レギュラスは心底喜んだような顔をしていた。幼い頃から憧れていた魔法使いがここにいる。魔法界を改革せんと、魔法省を手中に収めんと力を振るう、暴力的な存在。ビリビリと肌が震えていた。

 

「死喰い人に」

「そうでございます…我が君」

 

レギュラスはやっと口を開いた。蛇面の男は満足そうに凶悪な笑みで笑う。レギュラスは隣にいた長髪の男に促されて、蛇面の男の前に立った。

 

「杖腕でない方を差し出せ」

 

レギュラスは左手を差し出した。蛇面の男は骨のような白い杖を白い肌にあてる。何も呪文を唱えることなく、黒黒しい模様のようなものが蛇用に杖から滑り出し、レギュラスの傷一つない肌を蹂躙し始めた。

レギュラスはあまりの痛さにもがき苦しみ出した。痛い、痛い、痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!!!!!!!レギュラスは膝から崩れ落ちた。蛇面の男は強い力でレギュラスの腕を掴んでいる。酷く楽しそうにその顔は嗤っていた。

 

レギュラスの腕に、蛇がとぐろを巻いていく。

母親のドレスの裾を握った手―――初めて箒に乗った時、力んだ手―――悪友とふざけて叩きあった手―――どんどん思い出が穢れていく気がした。

 

兄さんが去る時、差し出せなかったあの手。

 

「もうウンザリなんだよ」

 

兄さんが、まるで醜いものを見るように自分を一瞥する。

あの夜のことが、酷く鮮やかにレギュラスの脳裏に渦巻いた。

 

数分経っただろうか、蛇面の男はまるで飽きたものを捨てるように、レギュラスの腕を離した。レギュラスは重力に沿うように崩れ落ちる。彼の腕には、赤赤しく、闇の印が張り付いていた。

一生消えぬ印だ。一生消えぬ印だ。

 

レギュラスは嬉しいはずだった。憧れの魔法使いの仲間になることこそが、闇の帝王の下で働くことこそが、彼の真意であり、望みであったはずだ。

レギュラスの心の奥底の、空っぽの部分に、冷たい風が吹いた。

 

「ヘスティア・フォーリーを仲間に引き入れろ」

 

蛇面の男が、レギュラスを見下ろしながら言った。

 

「既に父親とは話を進めている。味方になるのも時間の問題だろう。娘のことで騒がれては面倒臭いからな」

 

レギュラスは薄く喘ぎながら、自身の主人の話をしかと聞いていた。

 

「仰せのままに、我が君」

 

嗄れた声が出る。

レギュラスの脳裏には、ゆっくりとレギュラスに背を向ける少女の姿があった。

 

「ま、私はもう少しあなた達兄弟が歩み合うべきだと思うけど。外野は黙るべきね」

 

その顔はニヤリと笑っている。

そうだ、外野は黙ってくれ。黙ってくれ…黙ってくれ…

 

レギュラスはもう、戻れない場所まで来てしまっていた。

左手の蛇がゆっくりと動いていた。

 

◇◇◇◇

 

「触ってみてもいい?」

 

ボールルームのようになった、必要の部屋。腕捲りをしたレギュラスがぼーっと左手の闇の印を見ていると、後ろから少女が声をかけた。振り返ってみると、あれからすっかり成長した少女の姿があった。胸元まで黒髪をゆらりと伸ばし、目についた長いまつ毛と赤く彩られた唇。聡明さを思わせる緑の瞳が、レギュラスを見ていた。カラーリング的には間違いなくスリザリンなのに。性格も、何もかもがスリザリンにそぐわしい。

ただ、彼女の家柄が、彼女をレイブンクローだと言っていた。

 

「嫌だ」

 

レギュラスは短く答えた。少女は少しばかり不満そうに膨れる。大股でレギュラスに近付いてきて、まじまじと彼の腕を眺め始めた。ここまで来たら言っても聞かないことを分かってきたのか、レギュラスは好きにさせていた。

 

「入れた時、痛かった?」

「まあまあかな」

「これ、どうにかしたらアイツとコンタクトが取れる訳?」

「黙秘。あと、我が君をアイツとか言わないでくれるかな」

「ハイハイ我が君我が君」

「擽ったいんだけど」

「指で触ってもどうにもならないのね。じゃあ杖かしら」

「ほんとにやめて」

 

レギュラスはバッと腕を引っ込めると、少女を睨んだ。この対応がもうそれと言っていて、少女は勝ったように眉を上げた。レギュラスはため息を吐く。ホグワーツに闇の帝王が来れないことなんて織り込み済みなんだろう。後で絞められるのは自分だ。本当にシャレにならない。

 

この印を入れてから、半年ほど経っただろうか。あの日からレギュラスは何もかもを失った。兄も、少しばかり交友のあった死喰い人とはなんの関係もなさそうな友人も…スラグクラブにも呼ばれなくなった。益々レギュラスは純血主義、そして闇の帝王に心酔するようになって行った。自分の拠り所を求めるようだった。

純血主義こそ正しい。闇の帝王こそ正義だ。

そう考えないと、心が壊れてしまいそうだった。

もし、自分が間違っていると判を押されたとき、今までの生きてきた道が、崩れ落ちてしまう。

これを盲目と言うんだろう。レギュラスは気が付かないふりをしながら、腕を摩った。

 

ブラック家でも、レギュラスの居場所はあるようでないに等しかった。

あの日から母は壊れてしまったのか、精神が不安定になっている。酷く弱った時なんかは、クリーチャーがボソボソと純血としての誇りを讃えながら、ひたすら母を励ましている。

父親もだんだん体調が芳しくなくなってきた。咳をすることが増え、お抱えの癒者からは、もう長くないと言われた。

レギュラスは独りになった。誰も彼も、自分のことに精一杯で。

兄の絶縁に嘆き、レギュラスに縋り付く母に、彼は初めて失望を覚えた。

 

去年、レギュラスの兄が闇払いに就いたらしい。父が呟くようにレギュラスに言っていた。

どうやらマッドアイという上司に扱かれているらしいということも。父は懐かしそうに話していた。

レギュラスは殴られたような気がした。

兄は、仲のいい親友が沢山いて、魔法が上手くて、頼れる大人がいて―――違う、僕にもいる。純血主義に賛同する友人、強大な力を持つ闇の帝王…偉大なるブラック家。

 

レギュラスは誰よりもブラック家に縋り付くようになっていった。

 

いつの日かに言った、「可哀想」とは。一体誰の事だったのか。

 

◇◇◇◇

 

ホグワーツでの卒業式が終わったあと、レギュラス含めるスリザリンの生徒数人は、黒い湖への廊下を歩いていた。

やっと卒業できる、だとか、死喰い人としての任務がどうだ、とか。皆闇の帝王への忠誠を誓った人間だった。レギュラスはその一番後ろを、誰に喋りかけるでもなく歩いている。手に持った卒業証書と帽子が、重く感じられた。

 

そんな彼らの前の方から、ある少女が、俯いて地面を見ながら歩いてきた。傍らにはいつも一緒にいる男子生徒の影はない。

スリザリン一行は、面白がるように彼女にわざとらしくぶつかって走り抜けた。特に気絶させられたパーキンソンや以前天狗鼻にされたヤツなんかは強く当たっていく。それでも少女は尻餅をつくことがなくて、面白くないものを見るように彼らは舌打ちをした。

 

残りはレギュラスのみとなった。向こうの方で悪友たちが手招きをしている。笑いながら、アイツにぶつかれ、と指をさして。

レギュラスは足早に少女の横を通り過ぎようとした。不満は言われるだろうが、生憎ぶつかろうという気にもなれなかった。寧ろ、ぶつかった彼らに怒りさえ湧いてきた。

 

「待って」

 

少女は通り過ぎようとしたレギュラスの腕を掴んだ。レギュラスは困惑したように立ち止まる。遠くの方で手招きしている同胞を顎でやって先に行けと言ったあと、レギュラスは隣で黙る友人に目を向けた。

 

「前、“仲が良かった”って過去形にしたこと、後悔してるわ。今になってね」

 

少女は顔を上げた。

 

「死なないでね」

 

少女はレギュラスの腕を強く掴んでいた。しかし、親愛なる主人と違って―――その強さは、酷く心地よかった。

 

「死んでくれた方が、君的にはラッキーなんじゃないの?」

「…もし、陣営的に言ったらそうかもしれないわね」

 

「でも、あなたは敵である前に、私の友達よ」

 

少女は、強い視線でレギュラスに言った。

複雑そうな表情をしたレギュラスは、彼女の手をゆっくりと外す。少女は抗わなかった。

 

「必ず、生き残るよ」

 

レギュラスが、少女の手を両手で包んだ。

 

「約束だ」

 

少女は少し泣きそうな顔で笑った。レギュラスも微笑んだ。

まるで、昔、初めて会った時のようだった。

 

…あの後、レギュラスはニヤニヤと笑った友人に迎えられた。

 

「お前、ホント優しーよな」

 

子守りは昔から得意だったよな、と彼は続けた。

レギュラスは黒い湖を滑る小舟の上で、愛しき学び舎を振り返る。満天の星空に聳え立つその城は、とても綺麗だった。

 

「別に、優しくなんかない」

 

レギュラスはあえて素っ気なく言った。心の中で、自分を自分として扱ってくれた友達に感謝をしながら。段々と遠くなっていく城を、レギュラスは終わりまで見ていた。

 

◇◇◇◇

 

場面が変わり、レギュラスの自室。

酷くやつれた顔をした彼は、大きな姿見の前に座っていた。

その鏡には、彼以外の誰も映っていない。

 

「ごめん」

 

一人きりの部屋で、レギュラスは言った。

 

「生きられなくなった」

 

出てきた言葉は淡白だ。昔から、言葉に詰まった時はこうだった。そのせいで、失ったものもあった。

 

「ただ…自分を、誰かに知って欲しくなったんだ。このまま死ぬなんて、耐えきれなかったから」

 

独白のようで、懺悔のようで。

レギュラスは、肩を摩った。まるで見えない人間が彼の肩に手を置いているのに、重ね合わせるようだった。

 

「頼む、ヘスティア。アイツを…ヴォルデモートを、殺してくれ」

 

レギュラスは何かに確信しているようだったが、ついぞその話はしなかった。

 

「最後に眠る時に、俺を思い出してくれないか」

 

忘れられるのは嫌だ、とレギュラスは言った。

がらんとした自室で、狂ったように独り言を呟く男。

 

その数日後、彼は姿を消した。

 




P.S. 暗い陰鬱な洞窟にて

男は、一人で、悪夢に喘いでいた。足が亡者に引っぱられる感覚がする。何とか石台にしがみついていたが、周りを覆う水に引き摺り込まれるのも時間の問題だった。
あの忌々しいロケットも、自身の杖も、屋敷しもべ妖精に渡してしまった。杖は最後の形見だ、屋敷しもべ妖精は酷く感激したような顔をしていた。

私は、決して素晴らしい人間ではなかった。
幻覚が私を睨みつける。
兄さんが、母が、父が、そして、友人が。醜いものを見るように一瞥して、去っていく。
殺してくれ、殺してくれ。そう思うはずなのに、彼の手はいつまでも生を渇望せんと、石台にへばりついていた。
思い出すは、一人の友達との最後の約束。
死にたかった。苦しくて、自分の醜悪な部分に耐えられなかった。
しかし、その友達との約束は、絶対に守らなければならない気がした。
彼の手が震えて、力を無くしていく。限界まで耐えていた彼の腕は真っ赤になっていた。
一気に水に引き摺り込まれる。嫌だ、嫌だ。殺さないでくれ。友達が、消えてしまう――――――

薄くなる意識の向こうで、真っ赤に燃えた火が、遠くで輝いているのが見えた気がした。
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