ヘスティアの灯火 作:ダンブルドア同好会会長
1981年8月7日。
イギリス、グラスゴーのバックダウンストリート。
ミセス・エイベルはいつものように夜の水やりを終わらせると、庭に置いた鉄製の椅子に座って、眠気を楽しむように微睡んでいた。六年前夫に先立たれ、最近の楽しみと言えば息子夫妻に連れられた孫が時たま遊びに来る事、土曜日にオグバーンの家で開催されるポーカー大会でいけ好かないメアリーばばあを打ち負かせる事ぐらいだった。
ポピー、ラベンダーやローズに囲まれたこぢんまりした小さな家で、和やかな余生である。
しかしその花にも、闇は近付いていた。
近頃イギリスでは妙な失踪や殺人が相次いでいるらしい。市警に勤める息子が、ミセス・エイベルに煩い程忠告していた。夜に家から出るな。怪しいものを見たらすぐ通報しろ。
ここ一ヶ月の犯罪件数は普段の三倍以上にも上る。しかも万引きのような小さな話ではなく、先述した失踪や殺人。穏やかな話ではなかった。
失踪と言っても痕跡はなく、まるでその場でふっと消えたような、神隠しのようなもの。死因も判別出来ぬ殺し方で、悪魔崇拝やら変なカルトやらに片足を突っ込んでいる馬鹿共が騒いでいるとニュースは報道していた。
このイギリスで、何かが起こっている。
ただの婆さんでもそんな事にはとっくに気が付いていた。
ニュースでコメンテーターが謎の病だと囃立てても、テロリストの仕業だと警鐘を鳴らしても、ミセス・エイベルには全く違うものが蠢いているように感じられた。
普通の人間とは違う―――魔法使いの仕業なのだと、見抜いたのである。
幼い頃に見た小さな魔法。
まだ足取りも覚束無い自分に、隣の家に住んでいた年上の女の子が、花を咲かせて見せてくれたことがあった。周りには誰もおらず、自分が仕切りにはしゃいでいたのを覚えている。まるで灰かぶり姫に出てくるフェアリーゴッドマザーだ。
結局その次の年に寮制の学校に行ってしまったようだが、その時も何か変な様子だった。行くはずだったマジャール校への進学を急に取り止めたのだ。
しかも家にローブを着た変な人が入っていったのを見たことがある。
ミセス・エイベルは慎重だった。慎重で頭が良く、きちんと口を閉じることが出来る人間だった。そして幸運にも、記憶を消されることがなかったのである。
魔法を見てからというもの、ミセス・エイベルの世界は色付き始めた。
まるで目が“慣れた”かのように、この世の不思議な事に気が付き始めたのである。
人が通れるはずのない家の隙間に入り消えていく人々。壁をすり抜けていくスーツ姿の男に、何やらからくりがあるらしい公衆電話ボックス。
田舎に旅行に行った時には、遠くの方で男の子が箒に乗って空を飛んでいた。……その数分後には、家から出てきた母親に物凄い剣幕で叱られていたが。
ミセス・エイベルは知っていた。
自分の知らない世界があることを。魔法が飛び交い、箒で空を飛ぶ人間たちがいることを。自分たちの世界では魔法使いと呼ばれる人々が生きていることを。
ミセス・エイベルは自分に不思議な力がないことを知っていた。
しかし、周りの人間には気が付くことの出来ないものを沢山知っている。
その力が、今晩、彼女を少しばかり生き長らえさせることとなるのだ。
バチンという音に、彼女は急激に眠気が覚めた。
あの音は、魔法使いが“姿を現す”魔法の音だ。一つや二つじゃない。
薔薇に囲まれた庭からそっと通りを覗くと、何やら怪しげな集団が、斜向かいのロックハート家の前に立っているのが見えた。
黒のコートを羽織った男が辺りを見回しているのに気付き、そっと薔薇の茂みに身を隠す。手に持った花柄のハンカチで口元を抑えていると、葉の隙間からは男の手に棒が収まっているのが見えて、ああやはり魔法使いなのだと、ミセス・エイベルは確信を深めた。
ロックハート家は五人家族だ。
父親、母親、娘が二人に息子が一人。二人の娘は既に家を出ており、残っているのは見目麗しい息子一人。その子も寮制の学校に入っているのだと聞いて、もしかすると魔法使いなのでは、とミセス・エイベルは考えていた。魔法使いが持っている例の棒も、ちらと見たことがある。数年前の夏には、まるで貴族のような気品のある女の子が、あの家に入っていくのを見掛けた。この現代ではあまり見ない、まるで一世紀ほど前の立ち振る舞いをしていた子供だった。
……しかし、黒の魔法使いは非魔法使いばかりを狙うものだと思っていたけれど。
自分たちを襲う、悪い魔法使いを“黒の魔法使い”と呼んでいたミセス・エイベルは、気性の荒そうな女がその家に押し入っていくのを隠れて見ながらそう思った。どうやら魔法使い同士でも対立が起こっているらしい。とするならば、ロックハート家のギルデロイは、私たちの味方だ。
少し嬉しくなりながら、ミセス・エイベルはそう呑気に微笑んだ。
すこしばかり経って、あの家で緑の光線が光った。何回も瞬く。
ざまあみやがれ、とミセス・エイベルは思った。メアリーばばあに対するのと同じような悪態をついた。
ロックハート家は、この夏田舎に旅行に行っているのだ。
望む結果は得られまい。
奴らが全員ロックハート家の中に入ったのを確認すると、ミセス・エイベルは音も立てずに家の中に入った。そして鍵を掛け、しかし魔法使いには鍵なんて意味の無いことを知っているので、えいこらとタンスで扉を塞ぎ、寝室のベッドにクッションを隠してあたかも寝ているように見せかけた後、貴重品だけニットのバッグに入れて、裏口から逃げた。
翌日、バックダウンストリートの1区画で、大量殺人があったらしいとニュースが報じていた。何やら夜のうちに、また例のように死因も分からないような殺し方で襲われたらしい。
ミセス・エイベルは、少し背伸びした高級なホテルでローズティーを傾けながら、テレビを見ていた。
手元の震える電話を取って、耳に当てる。
久々に息子の焦る声を聞きながら、ミセス・エイベルはゆっくりと口を開いた。
◇◇◇◇
「アントンに息子さんが?奥さんいたの?」
「ああ、プルウェット家の遠縁のご令嬢さ。ほら、可愛いだろう?」
「確かにお綺麗だね。息子さんの名前は?」
「ベンジー。一歳と少しだ……祖父の名前から貰ってね」
「私の友人の、貴族の出でハンサムな癖に決まった相手が見つからない奴がこれを聞いたら発狂するだろうね」
「当たり前だ」
鼻高々になりながら、アントン・フィルポッツは胸元に写真をしまった。妻から贈られたものなのか、首には金色のネックレスが輝いている。そういえばリリーとジェームズの子供も、何も無ければ一歳ぐらいだろうか。ヘスティアはそう考えながら手でパンをちぎった。汚れた爪につかないようにそっとちぎるのがポイントである。
姿は酷い有様だけれど、今の彼女はしっかりとした意志を取り戻しつつあったし、胡座をかきながら食事を食べる姿は初日と比べれば随分と改善されていた。
何よりアントンが味方についてくれたというのが大きい。虫が湧きそうだった身体も、ベラトリックスにバレない程度に魔法をかけて清潔にしてくれたし、話し相手になって貰えるのは、ヘスティアの心が壊れるのを防いだ。
ガランガラン、と館中に寂れたベルの音が響いた。
アントンが先程までの誇らしげな顔が嘘のように怯えたような表情になる。地下牢の入口をちらりと見たあと、魔法でヘスティアの前に置かれていた食事を消した。
「鎖を付けて!早く!」
ヘスティアは急いで鎖を手足にはめると、アントンが手に持っていた鍵でロックした。
汗を垂らした顔で、アントンはヘスティアと地下牢の入口を交互に見つめる。
「ベラトリックスはいつも昼頃に来るはず―――今は深夜だ」
囁くようにそう言った後、アントンは腰に着けた鍵をジャラジャラと鳴らしながら、足音を立てて地下牢を急いで出て行った。茶色のコートがはためく。ヘスティアの心臓は激しく血を打っていた。
深く深呼吸をする。ヘスティアは身動ぎして頭を垂れると、またいつものように心を塞いだ。感情に壁を作るように、ダンブルドアやギルデロイのことを思い出していた。
どれ程の時が経っただろうか。
ランプの灯火が瞬き、蝋が流れていく。僅かな焔の揺らぎでさえも、この静まった牢の中では響いた。
気が付けば、布擦れの音がする。まるで死のように、影を引き摺る音がする。
ヘスティアの背筋の産毛が逆立ち、悪寒が走った。風も起こらぬ地下牢の中で、凍えるような冷たさが顔を刺す。心の臓さえも止まってしまうような恐ろしさ。
地下牢の階段を、何者かががローブをしりびいて歩いている。
ヘスティアは震えながら、蒼の瞳を薄く開けて、面を上げた。
鉄の檻の向こう側で、一人の死神が嗤っていた。
◇◇◇◇
「ヘスティア・フォーリー」
蛇面の男が囁いた。この魔法界を恐怖と闇に陥れた男、ヴォルデモート卿。ヘスティアは頬を震わせた。俯いたまま、返事も出来ずにいる。顔の筋肉が一瞬にして衰えてしまったかのように、口周りが痙攣を繰り返していた。ガチガチと歯が震えている。
「かの歴史あるフォーリー家では挨拶の仕方も教えていないらしい」
俯いた視線の端に、青白い肌が映った。
どうやら奴は裸足らしく、妙に人間離れした肌を晒している。緑がかった黒のローブが踝を覆っていた。
「ご機嫌よう……ヴォルデモート卿」
やっとの思いでヘスティアは声を漏らした。
名前を呼ぶ無礼に噛みつこうとしたベラトリックスをヴォルデモートが制したような声が聞こえた。……ベラトリックスもいるのか。闇の陣営のナンバーワンツー揃い踏みである。
ヘスティアは唇を噛んだ。
「下がれ」
酷く冷酷な声でヴォルデモートは言った。
「し、しかし、我が君……」
「俺様の声が聞こえないか?」
この十数日、ヘスティアを苦しめ続けていたベラトリックスが、いとも簡単に地下牢の外に追いやられた。ヘスティアは目を瞑る。
檻が閉まる音がして、牢から音は消えた。
この場にいるのは自身とヴォルデモートだけなのだとヘスティアは悟った。
心を読まれぬ為には、他のことを考えねばならない。ヘスティアは口を開いた。
「……ジェームズ・ポッターとリリー・ポッターに、なんの怨みが?」
「白状する気になってから口を開け」
「ベラトリックスも訳を知らなかった。部下も信用出来ないとはね」
「黙れ」
ヴォルデモートの長い爪がヘスティアの喉を掴み、骨のような杖が鎖骨を滑った。
赤い光線が走った。ヘスティアは絶叫する。身体を両断するような痛みが、足先まで届いた。まるで感電したような衝撃だった。
薄く喘ぐヘスティアを見下ろして、ヴォルデモートは更に首を締める。
「愚かな……身の程も弁えぬ小娘よ……」
「元より潰えた命、惜しくなどない!」
血を吐きながらヘスティアが叫ぶ。狂気に塗れたようなその声か、はたまた希望を捨てぬその瞳か、ヴォルデモートは気に入らないとでも言うようにまた赤色の光線を撃った。
首が燃えるような熱さだ。皮が焼かれ、肉が覗いている。
しかしヴォルデモートの声が怒りを孕んでいると分かって、ヘスティアは少し満足した。
ヴォルデモートがヘスティアの顎を上げた。鎖で手を繋がれたヘスティアは抵抗が出来ない。
燃えるような赤の瞳と、快晴を切りとったような蒼の瞳が交わってしまった。
その時、ヘスティアの心に、一陣の風が吹いた。
心臓がどくりと波打つ。
そう、彼女には一つの、世界一の名癒でもどうにもならない病があった―――
(……………………好きかもしれん)
そう、強者を好きになるという悪病である。
一方その頃。
ヘスティアの心が無防備になり、
ヴォルデモートは彼女の心を見破った。
「……秘密の守り人か。姑息な……」
今まで何一つ秘密が漏れ出なかった理由。
ヘスティアとギルデロイは忠誠の術を使い、お互いをお互いの秘密の守り人としていたのだ。不死鳥の予言から、レギュラスの事から、何から何まで……。
ヴォルデモートでさえも望んだ答えは手に入れられなかった。
しかし、ある一つの情報はあった。
「ベラ!」
ヴォルデモートが怒鳴る。階段の上から、急いでベラトリックスが降りてくる靴音がした。
「なんで御座いましょう、我が君」
「ギルデロイ・ロックハートの居場所が分かった」
ベラトリックスは目を見開いた。
「ウィンダーミア湖の西にある、ニュート・スキャマンダーの家だ」
ヴォルデモートはヘスティアを見下ろし嘲笑すると、そう言った。彼女自らの無力を見せつけているかのようだったが、ヘスティアには聞こえていない。生憎それどころではなかった。
ベラトリックスは恭しく礼をすると、すぐ様その場から消えた。
闇の帝王も掻き消える。
ただ、必死になって正気を取り戻そうとしている、顔の赤いヘスティアだけがその場に残った。