事の始まりは女子チームで恋バナをした翌日のことだった。
早速恋について教えようと息巻く
「もうベッタベタにベタなやつだけどその方がわかりやすいから! 頑張って!」
「大丈夫! ヤオモモちゃんも恋できるよー!」
何を頑張れというのか。そもそも頑張らなければならないものなのか。疑問は多いが心底楽しそうな芦戸とぐるぐる腕を回す葉隠の勢いに負けて伝えられなかった。
どすんと置かれた大きな紙袋には様々な書籍が入れられている。
返すのはいつになっても構わない、と言われて、困った顔で礼を言うことしかできなかった八百万はそれを持って帰ったのだ。
事件はその帰り道に起こった。
まだ校舎すら出ていない頃、思い悩む八百万は珍しく一人で廊下を歩いていたのである。普段ならば耳郎を始めとしてA組の女子と行動を共にすることが多いのに、なぜかその日は一人で帰ろうとしていた。
(恋……ですか。みなさんはとても興味があるのですね。けれど、芦戸さんと葉隠さんが応援してくださっているのに、本当に必要かどうかなんて)
恋とは何か、その答えがわからない。求めている反面、その熱意はさほど強くないという自覚があって、そのせいで芦戸や葉隠との温度差を感じてもやもやするのだ。
二人の行動が迷惑だなどとは微塵も考えていない。むしろ二人が知ってほしいと協力してくれることにとても感謝していて、友人との時間や付き合いを大切にしたい、それなのに乗り気になれない自分を嘆かわしく思ってしまった。
理解するための資料として渡されたたくさんの本。これを読めばわかるのだろうか。
帰って早速読んでみようと決意する。しかしその時にも迷いは生じて、読んでもわからなければどうしようなどと心配していた。
八百万は決して苦境の中を生きてきたわけではない。
家庭は裕福でお金に困った経験はなく、幼少期から習い事の数も多く、身に着けた技量はピアノやバイオリンに茶道に華道と非常に幅広い。
三歳の頃には“創造”という利便性が高く応用が利く“個性”に目覚めて、幸いにも彼女は反射神経や運動能力にも秀でており、幼少の頃から真面目な性格で勉学にも励んだ。
小学一年生ですでに学校を代表する優等生。早々に“神童”と囁かれていた。
その一方で、自分は少し変わっているのかもしれない、という認識を持っていた。
お金持ちの子息子女が集まる学校に通っていると、真面目過ぎるきらいのある彼女は時折学友の会話についていけない時があった。
いじめられた経験こそないものの、八百万さんって変わってる、そう言われる度になぜか寂しい気持ちになったものだ。
(恋を知っていれば、ご学友との関係も円滑にいくはず)
雄英高校に入って、周囲の環境は変わった。
これまでの八百万の学校生活に芦戸や葉隠のように天真爛漫にはしゃぐ生徒、
清く正しく美しく。母の言葉に従って常にそうあろうと努力していた。けれど今になって自分はこのままでいいのか、ここでなら変われるのではないかと考えるようになっている。
これまでも気にしない自分を気にしていた。
母の言葉に逆らいたいわけではない。それもまた大切だ。だが今の八百万は、自分と親しくしてくれる学友に相応しい人物でありたいと考えている。
恋について学ぶのはそのための要素の一つだ。
(だけど、やっぱり難しいですね。お父様やお母様を想う“好き”とはまた別の“好き”……本当に私に理解できるのでしょうか)
考え事をしながらため息などつき、俯いて歩いていた。その時の彼女は普段に比べて注意力が散漫になっていただろう。
おそらく、誰が何を狙ったわけでもなく、本当にただの偶然だったのだ。
廊下の角を曲がろうとした時、ドンっと誰かにぶつかってしまった。普段ならばいざ知らずその日は重い荷物を持っていて、バランスを崩した八百万は尻もちをついてしまう。
ぶつかった相手も同様に尻もちをついて、何かを考える前にその顔を見ると、あからさまに申し訳ないことをしたと怯えている見知った人物であった。
「ごごごごめんなさいっ!?」
「緑谷さん? すみませんでした。お怪我はありませんか?」
「いいえこちらこそっ!?」
“個性”を使っていないのに素早い動作でシュバッと正座し、ともすれば土下座さえしそうな彼を慌てて手で制して止める。確かに尻もちはついてしまったがそこまでしなければいけないことだとは思わない。
止めても頭を下げて地面に額をぶつける
「急いでいらっしゃったのですか? ごめんなさい。私がぼーっとしていたからお邪魔を……」
「いいえ! 全面的に僕に非がありますから! 走ってたのはこっちですし!」
背筋を伸ばして気をつけをする。まるで訓練された兵士のようだ。どうしてそこまでするのだろうと八百万は気にするものの、質問する前に別のものに意識を奪われた。
せっかく受け取った本が散らばっている。紙袋をパンパンにするまで詰め込まれていたせいだ。横にしてしまうと一気に外へ出てしまったようだった。
「あ、荷物が――」
「僕が拾います!」
最後まで言わせず遮るようにして出久が言い、素早く跪いて拾い始めた。
そうしてほしかったわけではないのだがあまりにも凄い勢いだったため気圧されてしまう。
気を使われている、と感じる一方、八百万は彼を優しい人だとも受け取っていた。
「すみません緑谷さん。そんなに気を使わなくてもよろしいんですのよ? 私の不注意で散らかしてしまったのですから」
「いえいえ! 僕が勝手にぶつかってきたのが悪いですから!」
「そんなことは……」
「あれ? 漫画?」
拾っている最中にようやくといった様子で出久が気付いた。手に取ったのは自身が手にしたことはなくとも一目でそれとわかる漫画本だ。
意外な持ち物だと思った。当然学校には持ち込み禁止である。校内で販売しているはずもないため生徒が持ってきたのは間違いない。
それを見られて八百万は緊張し、しかし出久はその時になって余計な力が抜けて微笑んだ。
「なんか意外だね。八百万さんこういうの読むの?」
そう言われて、八百万はわずかに表情を曇らせた。
意識していたわけではない。彼女は自覚できていなかっただろう。
明らかにさっきと違っており、途端に動揺する出久はがたがた震えながら慌て始めた。
「ごごごめんなさい!? 僕何か失礼なことを……!」
「い、いえ、そんなことありませんわ。それは芦戸さんと葉隠さんが貸してくださったのです」
「あっ、そうなんだ。そう言われるとちょっと納得……ってこれがいけないんだよね!? ほんとにごめんなさい!」
動揺する出久はてきぱきと紙袋に本を納めていく。きれいに並べて本が傷まないよう細部まで気遣うのは彼の性格がよく表れていた。
全て納めて以前よりきれいになったとすら思える状態で、出久から紙袋を手渡される。
ぼんやりしていた八百万は戸惑いながら受け取った。
「はい。本当にごめんね」
「いいえ。ありがとうございます」
「うん。えっと……じゃあ」
「緑谷さん」
咄嗟に出久を呼び止めて、彼は見るからに動揺していた。しかしその時、八百万はどこか寂しげな顔をしていて、疑問を覚えた時にはあっという間に冷静になる。
出久は去ろうとした足を戻して彼女と向き合った。
「どうしたの? 何かあった?」
「いえ……少し、お尋ねしたいのですけれど。私は、変、なのでしょうか?」
「変?」
出久が思わず首を傾げる。
こくりと頷き、八百万は視線を逸らして、躊躇いを見せながら呟いた。
「実を言うと私、これまで漫画という物を読んだことがないのです。小説はあるのですが」
「えっ、そうなの?」
「幼い頃から習い事をたくさんしていて、ヒーローになりたくて勉学に励んでいました。ですから校内ではともかく、休日にご学友と遊んだ経験もほとんどなくて……」
なるほど、と納得する。確かに普段の姿を見ていると彼女は真面目なのだと認識していて、その話を聞けば違和感を持つことなどなかった。
それなら余計に不思議に思える。友達に借りたとはいえ、常日頃から規則を守る彼女が先生に隠れて漫画の貸し借り。奇妙な状況である。
よほどの事情があるのかもしれない。言葉にはせずそう察した。
何より彼女の表情を見ると簡単には立ち去れない。
どこまで話してくれるかわからないが、出久は彼女の
「変じゃないよ。頑張ってきたってことでしょ?」
「でも……」
「僕なんか、その、友達居なかったし、話せるのはほとんどかっちゃんだけで」
はははと照れくさそうに小さく笑いながら、所在なさげに出久は頭を掻いた。多少恥ずかしいとは思うが誰にも言えないわけではない。正直に言ってしまうとただそれだけのことで、ここに居る誰しもがそれを気にしてはいなかった。
八百万も同じだ。妙に自信を持って彼女に言う。
「うちのクラスには色んな人が集まってるから、変な人だらけだよ。比べてみたら八百万さんのそれはちっとも変じゃないってみんな言うと思う」
「そうですか……あの、もう一つあって」
「何?」
思わず言いかけて恥ずかしくなり、困り顔で八百万が口をもごもごさせる。
恋をしたことがなくて、わからない。
結局は言い出せなくて発言を変え、出久を見た時には咄嗟に口をついて言葉が出た。
「緑谷さんは、クラスの皆さんのことをとても気にかけていらっしゃいますよね。すごいと思うんです。本当なら私や飯田さんが委員長として気遣わなければならないのに、あなたに負担をかけている気がして申し訳なくて」
「あぁいや、それは僕が勝手にやってることで。そもそも負担じゃないし、気にかけるっていうほど大したことしてなくて」
「どうして、そういったことができるのでしょう?」
何を質問しているのだろうと自分でも思う。
咄嗟の判断だ。彼は優しいのだから、ヒーローになりたいのだから、人を
出久は真剣に考えて答えようとしている。
ううんと唸り、少し考えて、鮮明にわかってはいないだろうが困ったように笑った。
「なんでだろう……あんまり考えたことないや。ほら、僕、中学まで友達居なかったから、みんなが話してくれるのが嬉しくてさ」
「それだけじゃない気がします。上手く言えませんけど……」
言い淀み、考え、八百万はまとまらないままただ感情だけを伝えた。
「私はあなたのそういった部分を尊敬しています。その他の部分では、無茶をし過ぎて、他人を心配するあまりにご自身が怪我をなさるのではないかと心配してもいますが」
「す、すいません……それはいつもかっちゃん麗日さん飯田君に注意されてて」
「だけど、それがあなたの良いところなのだとも理解しています」
困り果てる彼を見たらくすりと笑えた。
八百万の表情が変わり、出久も苦笑して、雰囲気が変わったのを見て尋ねる。
「少しは気分転換になった?」
「ええ。何を悩んでいたのだろうと思ってしまいました。実習中いつもひたむきなあなたの姿を思い出すと尚更」
「あはは……よく怒られもするんだけど」
「ありがとうございます。では私、迎えが来ますのでこれで」
頷く出久は見送ろうとした。その間際に最後のつもりで、彼女の背中に声をかける。
「八百万さん」
「はい?」
「僕が言えた義理じゃないけど、もっと肩の力を抜いてみていいんじゃないかな。八百万さんが変でもA組のみんなは馬鹿にしたりしないよ」
立ち止まった八百万はきょとんとする。
外したのか、と一瞬不安もよぎったとはいえ、出久は負けじと優しく微笑んで伝えた。
「八百万さんは多分、頑張りすぎちゃうし、あんまり相談とかしないだろうから。あ、いや、僕の勝手な判断なんだけど。無理しないように、頑張り過ぎないでね」
「ふふ。ありがとうございます。緑谷さんこそあまり無茶をしないように」
「はい……」
言い返されてぐうの音も出ず、肩を落とす出久を見て再び微笑む。
今度こそ別れを告げて歩き出した時、廊下の向こうからおそらく待っていたらしい
くすくす笑って二人の姿を確認してから、八百万は歩き出した。
その夜のことである。
借りた漫画の一冊を適当に手に取って、机を前にして椅子に座り、背筋をピンと伸ばして読書を開始した。いつもの学びの姿勢である。
慣れない書物に戸惑いを覚えたのは間違いない。だが幼少期に幼児を対象としたアニメの鑑賞をした経験があり、成長してからも時折映画鑑賞をする機会があった。
漫画という新しい刺激に心が躍るのも確か。
絵をじっくり眺めて、一文字も逃さず読み、丁寧に一枚ずつページをめくっていく。
(漫画とは、こういった作品なのですね。絵と文字、セリフ。行間を想像で補完する、映像とも小説とも違う、その中間にあるような表現)
自分なりに理解してしまえば抵抗はない。
彼女はあくまでも学びのためにという目的を持っていて、読書の間は一時も気を抜くことなく、存外悪くないと漫画を受け入れてストーリーに集中していた。
言うなれば非常にわかりやすい恋愛漫画だった。
学生の少年少女が、登校中に曲がり角で偶然ぶつかってしまい、お互い尻もちをついて喧嘩を始めてしまう。その二人がああだこうだと言い合いながら徐々にお互いを認め合っていくと、山あり谷あり、ついに男の子が告白して主人公の女の子が涙ながらに受け入れるのである。
ひとまず短めの一作品を最初から最後まで読破して、八百万はふうと息を吐いた。
(なるほど。恋とは……曲がり角でぶつかったり、喧嘩をしたり、お互いを嫌い合ったり、でも良いところを見つけたり、本当は好きだったんだと気付いたり……とても、深いものです)
初めての漫画。感想は面白かった。
世評はわからないが概念を知るものとして素直に楽しめただろう。
一方、八百万は何かに引っかかっていた。
(あれは、どこかで見た覚えがあるような……)
気になってもう一度一巻を手に取った。
場面は冒頭。制服姿の少年少女が登校するために急いでいて曲がり角でぶつかる。
既視感がある。
はて、なぜだろうと八百万は手を止めて考えてみるのだ。
(そうですわ。今日の放課後、緑谷さんとぶつかってしまったから――)
ふと気付いて思い出し、ようやく納得する。不注意で実際自分がぶつかってしまった。それを思い出そうとしていただけだ。
なんだ、と思って漫画を見下ろして、その後の展開を思い返す。
その作品は高校生の男女が恋をする物語。
もやもやして、自覚して、まさかと驚いた後、紆余曲折を経てから告白をして、交際するまでが描かれている。
まるで模範的な恋愛漫画。そういうものだと言われればそうなのかもしれない。
(出会いのきっかけ……偶然にもこれは今日、私と緑谷さん、が)
今日、彼女は緑谷出久と曲がり角でぶつかった。
状況は違えども、おや? と思った直後、全身の毛穴から汗が噴き出す。
(恋っ!? そんなまさかっ、だだ、だって、性格的にも全然違いますし……! そもそもあれはたまたま、偶然に過ぎなくて、ででででもそれはきっかけでしかなくてヒロインが彼を好きになっていくのはその後の展開で……!?)
動揺する八百万の頭の中には漫画と同様の出来事があったことを思い出していた。
これは漫画だ。創作である。フィクションであると理解していた。ほんの数秒前までは。
似た経験を直前にしていたことが彼女を冷静では居られなくしてしまい、慌てて思案を始めた八百万は出久のことばかり考えており、頬を紅潮させて頭を悩ませる。
(確かに私は緑谷さんを憎からず想っていますがあくまでも同級生っ。ヒーローを目指す者として姿勢や取り組み方を参考にしようと学んでいるだけであって決してそんな浮ついた気持ちで見ていたわけではっ!?)
思考に埋没していた彼女ははたと気付いた。
今の自分の状況と思考、漫画のヒロインと全く同じではないか。
違う違うと自分の中で否定し、そう思っていたのに気付けば視線で追っていて、自分以外の女の子と話しているのを見てもやもやする。
がたんと椅子を揺らして立ち上がり、彼女は赤らんだ顔だが真剣な表情だった。
「こ、これは……!? もしかしてこれが、ラブコメ……!」
八百万は察し、納得した様子で呟いた。
この後、八百万は山と積まれた資料を一夜で読破して、流石に睡眠を削らずにはいられなかったようだが、翌日には芦戸と葉隠に全て返した。
「こ、恋とは、何なのでしょうね」
その際、明らかにドギマギした態度と真っ赤になった顔を見られた。
状況を理解して察するまでにほんの数秒。真っ先に声を大きくしたのが芦戸と葉隠だ。
当然のように恋をしたのかと問われ、反射的に必死に否定してしまって、そうか、これこそがラブコメなのだと理解したのである。
八百万百、十五歳の春の出来事であった。
その翌日には葉隠が出久に抱き付いているのを見てトゥシューズに画びょうが入っていたかのような顔で固まってしまった。
そうか、これもラブコメなのだと彼女は理解したのである。