出会った日の出来事を思い出したのは変なことを言われたからだ。
ヒーローになるための第一歩であり、衝撃的な出来事があったために、思い出そうとせずともいつでもあの日の光景が脳裡に浮かんでくる。
フッと笑った
(ゲロ吐きかけてたぁ~……!)
「お茶子ちゃんどうしたの? 何に絶望しているの?」
改めて考え直すきっかけを与えられたせいか、忘れたいことまで思い出している。しかしそう考えれば彼の役に立とうと思っている理由も改めて判明した気がする。
あの時の借りを返したい。それがまず大きな理由。
そしていざ入学の後、一緒に行動し始めて、彼のひたむきな姿を尊敬しているのも事実。時折自分の身を省みずに無茶をすることもあるとはいえ、必死に走る彼の背中にヒーローを見たのはあの日の出来事の後にも何度かあった。
共に学び、成長し、彼のようになりたい。そうした気持ちがあるのを再認識する。
前の席に座ってこちらを振り返る
わずかに頬を赤く染めてうんうん唸っている様子は本調子とは言えないが、さっきまでと比べていくらか落ち着いたようだ。
「緑谷ちゃんのこと考えてたの?」
「うん……考えてみたら出会ったその日にめちゃめちゃやらかしてたなぁって思って」
「そう。やっぱり緑谷ちゃんだったのね。さっき思い浮かんだ人」
「へ?」
淡々と言われて反射的に顔を見ると梅雨に見つめられていた。それ自体は珍しいことではなく、問題なのは会話の内容。
今、自分は何を言った?
梅雨ちゃんやっぱりって言った? 最初からわかってた?
強烈な熱に襲われて顔を真っ赤にしたお茶子は思わず席を立って後ずさりながら、精一杯否定するために両腕をぶんぶん振り回した。
「いやぁあああっ!? 違う違う! 全ッ然違う! そんなんじゃないから!」
「はっきり言ったのに」
「どうしたんだ麗日君! ゴキブリでも出たのか!」
教室で大声を出したがためにすかさず
ハッと我に返り、慌てて取り繕おうとするお茶子は、飯田の隣で驚いた顔をしてこちらを見る出久の存在に気付く。
「いいいやっ、なんでもないよ? ごめん飯田く――」
「大丈夫? 麗日さん」
「きゃああああああっ!?」
「ええっ!? 僕ぅ!?」
「麗日くーん!? 何をしたんだ緑谷君!」
「何もしてないよ!? ほ、ほんとに何も!」
悲鳴を発しながら駆け出したお茶子は教室を飛び出してしまった。
仕方なく梅雨は後を追い、状況を理解できない飯田と出久は激しく狼狽して、追いかけることもできずに肩を大きく揺さぶって揺さぶられることしかできずにいる。
梅雨が追いついた時、お茶子は見るからに絶望した様子で崩れ落ちていた。何もそこまでならなくても、とは思うのだが、こればっかりは本人の意思だ。
隣に並んでしゃがみ、人通りがない廊下の隅で顔を覗き込む。
お茶子は激しく動揺しており、同時に落ち込んでもいて、赤らんだり青ざめたり忙しない様子でぶつぶつ言っていた。
「あああぁ最悪やぁ……! 間違いなく変な人って思われた。いや実際変な人やったけど。なんかデク君が悪いみたいな感じに……謝らんと」
「込み入ってるわね」
梅雨に気付いてお茶子が顔を上げる。
目には涙が浮かんでいて混乱しているのが伝わってきた。
「梅雨ちゃぁん……私って変?」
「大丈夫よお茶子ちゃん。何も変じゃないわ。ただちょっと奇行を見せただけよ」
「それって変ってことじゃないかな!? ねぇ!?」
「ただ緑谷ちゃんも飯田ちゃんも心配してるから、後で説明してあげて。でも全部正直に伝える必要はないと思うわ」
「う、うん。ありがとう梅雨ちゃん」
角とはいえ廊下に座り込んでいる状況は褒められたものではない。ひとまず梅雨が手を引いてお茶子を立たせ、二人は壁に背を預けて立った。
落ち着く時間が必要だ。ふーっと大きく息を吐いて気分を変えようとする。
何を意識しているのだろう。違うなら違うで、はっきり言えばいい。言っていたつもりなのだが動揺するのがまずかった。これでは隠し事のために嘘をついているみたいに見える。
必死に落ち着こうとするのだが頭の中がぐるぐるしていて、一向に気分は落ち着かない。
はふぅと情けない顔で息を吐くお茶子に、じっと顔を見つめる梅雨が質問した。
「お茶子ちゃんは、嫌なの?」
「え? 何が?」
「緑谷ちゃんを好きなこと」
「ええっ!? いやぁ、だから違うって……!」
「私は好きよ。緑谷ちゃんのことも、お茶子ちゃんのことも」
唐突に言われてびくっと反応する。
梅雨は軽々しく嘘をつく性格ではない。他人を無暗にからかったりもしない。いつも正直に自分の気持ちを伝えてくる。
きっとその言葉も嘘じゃない。
どう受け止めればいいのか悩んでしまうが、好きと言われて悪い気はしなかった。タイミングが関係して恥じらいを見せたものの、お茶子もにこっと笑って彼女を見つめ返す。
「私も、梅雨ちゃんが好き。デク君も……うん」
「ありがとう。好きになることは何も悪いことじゃないと思うわ」
「そ、そうだけどっ。好きとか、なんか、急にそんなこと言うからわからんようになって……デク君のことはヒーローを目指す同級生として尊敬してるだけで」
頬を赤らめてもじもじしているお茶子を見ていると、本当にそうだろうか、とは思うのだが別に本当の気持ちを隠したいわけではないとも思う。きっと彼女自身、これまではそもそも考えたことすらなくて、突然疑惑を突き付けられて混乱しているだけなのだろう。
これから他の生徒に好奇の目を向けられるかもしれない。しかし梅雨は、無理に聞き出そうというほどの興味を敢えて持たず、彼女の思うようにすればいいと思っていた。
ヒーローには恋愛や結婚を禁じる法律などない。
当然、恋愛や結婚をしなければならないという決まりもない。
個人の問題だ。好奇心だけで気遣いもなくつつき続ければ良い方向には動かない。ただ友達として見守っていればいいのだ。
ただ、悩んでいるお茶子を見捨てられなかったのも確かだ。
うんうん唸っている姿は、自分なりの答えを知りたくて仕方ないと言っているように見えた。
「お茶子ちゃんは、恋がわからないのよね?」
「へっ!? う、うん、そうかな……多分」
「無理に急がなくたっていいのよ」
普段通りに淡々とした声色。だがいつもより優しい口調に感じてお茶子が驚いていた。
じっと見つめてくる目は丸々としていて、よく何を考えているかわからないなどと言われていたものだが、そんなことはない。その眼差しには深い慈愛が感じられる。
「私も恋をしたことはない。でも、慌ててしなきゃいけないことではないし、誰かに強制されるものではないわ。無理をせずに、お茶子ちゃんのペースでいいのよ」
「う、うん……」
「でもね、お茶子ちゃんが本当に誰かを好きになったのなら、自分に嘘をつかないで。自分の気持ちを大切にしてほしいの。相手のためにも、お茶子ちゃんのためにも」
真剣なメッセージに体が勝手に動く。
ぐっと歯を噛み締め、唇をきつく結んで、俯いて考える素振りを見せる。
悩むお茶子に梅雨は視線を外してから呟いた。
「場合によっては嘘をつかなきゃいけない時はあるかもしれないわ。だけど自分の気持ちにだけは正直でいてあげてほしい。じゃないとお茶子ちゃんが辛くなっちゃうもの」
「私は……正直なつもりだよ」
「ええ。だから、今はまだわかっていないだけだわ」
静かに手が伸ばされた。下ろしていた手をきゅっと優しく握られる。
「慌てる必要はないわ。時間が必要なら、のんびり構えてこれから考えればいいの」
「うん……そうだよね」
ようやくお茶子が落ち着いて、力の抜けた笑みが浮かべられる。
パニックになったのは興味があったから。近しい人がそうだと指摘されて、咄嗟に否定したのはただ恥ずかしかったからだ。
冷静に考えてどうなるのか。それは彼女次第だろう。
よしっと気合いを入れ直したお茶子はいつもと変わらない態度になり、自らが先に歩き出した。
「教室戻ろっ。デク君と飯田君に謝らなきゃ」
「ええ、そうね」
肩を並べて歩いて教室へ戻る。
もう大丈夫そうだ。お茶子と梅雨は互いに多くを言わず安堵していた。
すぐに教室に辿り着き、開きっぱなしだった扉をくぐって中へ足を踏み入れた。
あっと小声で反応して近付いてきたのが出久だった。後方に腕組みをして仁王立ちする飯田が居るのを見ると、「傷つけることをしたのなら謝るべきだ」とでも言われたのかもしれない。
出久自身も心配する表情で駆け寄ってきて、瞬間的に緊張するものの、お茶子は努めて冷静で居ようと自ら笑顔になった。
「あの……麗日さん」
「デスっ、デク君!」
目の前に立たれると緊張して、信じられないほど舌を噛んでしまった。言おうとした言葉が潰れてすかさず訂正したものの、血が出ているんじゃないかと怖くなるくらい舌が痛くて、一瞬とはいえ笑顔が崩れかけた。
その時出久は、瞬間的に顔が青ざめて全身が震える。
飯田が駆け付けるのも早く、背後から彼の肩を掴むと力いっぱい揺らし始めた。
「デス!?」
「やはり何をしたんだ緑谷君! 死を望まれるほどの悪事をしたのか!? ヒーローを目指す君がどうしてそんなことをするんだぁ!」
「ししししてないよっ!? してない、と思うんだけど……まさかそこまで!?」
「君にそのつもりがなくても相手がどう受け取るかはわからない! 謝るんだ! 今すぐ頭を下げて謝罪するんだ! もうそれしかない!」
「ごごごごめんなさい麗日さん! すいませんでしたぁ!」
「うわぁああああっ!? 違う違う! 今のは噛んだ、噛んだからぁ!」
焦る飯田に、迷わず土下座した出久。騒がしい二人のやり取りを聞いてやっと状況を理解したお茶子は、凄まじい誤解を解くために自らも滑り込むように正座した。頭を下げて地面に額を擦りつける出久の顔を上げさせようと頭を掴み、ぐいぐいと力尽くで引っ張ったのだ。
辛うじて上げさせることには成功するも、見ようによってはお茶子が出久の頭を掴んで技を仕掛けているようにも見えてしまう。
喧嘩か、プロレスかとクラスメイトが集まる中、ようやく出久とお茶子が正座で向き合った。
「違うんよ! 今のはちょっと噛んだだけ! デク君って言おうと思ったらデス君になっただけでそんなんちゃうから!」
「そ、そうなんだ。あぁ~よかったぁ。僕が何かしたから死刑宣告されたのかと……」
「まったく。人騒がせな」
「飯田君もだからねっ! やはりとか言ってたから!」
「す、すまない。君たちが教室を出た後に何もなかったと聞かされていたものだから、それが間違いだったのではないかと……」
幸いにも誤解はすぐに解けたようだ。
出久は胸に手を当ててほっと撫で下ろし、飯田は事情を知ると安心して頷いている。
そそっかしい二人だ。ヒーローになるための実習では頼りになる場面もあるのに、普段の生活の中ではこうしてちょっとおかしな姿を見せる時もある。
不安そうだった顔が緩んで、困った様子で笑う出久を見ると、お茶子は安堵して笑った。
「さっきはごめんね。私が変なことしたからデク君が悪いみたいになっちゃったでしょ」
「ううん、全然。でも、なんでもないの?」
「う、うん。ちょっと色々考え込んじゃってて、びっくりしただけだから」
「そっか。何かあったら言ってね。僕にできることは協力するから」
うん、と素直に頷いた。
意識したわけではなく自然に笑顔になってしまって、お茶子は照れた顔で笑った。その笑顔に出久は顔を真っ赤にして挙動不審になるのだが、その態度がまたおかしく思える。
二人揃って誰に言われたわけでもなく正座しているのが不思議で、顔を見合わせて笑っていた。
いつまでもそうした雰囲気が続いたわけがなくて、なんだかおかしいぞ、と気付いた生徒がゆらりと動き出していた。
目を血走らせる
「なんかイイ雰囲気になってませんか……?」
「なんで女子とイチャついてるんですか……?」
「えっ!? いや、そんなことない……です」
「テメェの血は、何色ですか?」
「ちょっと待って! 痛いっ、何!? なんでもないよ喋ってただけだよ!」
峰田と上鳴の攻撃が始まり、出久が教室内を逃げ回り始めた。あまりに騒いでいたせいかわりと早々に
少し離れた位置から見守っていた梅雨の下へ向かい、肩を並べた。
どたどたと騒がしく、どうにも落ち着かない状況。こんなに騒がしいのはA組だけだろう。
お茶子は悲鳴を上げながら逃げる出久を見ながら呟く。
「梅雨ちゃん。やっぱり私わかんないや」
「そう」
「好きになってもどうすればいいかわからないし」
「それでもいいわ。急ぐ必要はないもの」
「でもね。素直な気持ち」
少し照れた顔で言うか言うまいか迷った後、ふーっと息を吐いてから意を決した。
顔を逸らして見えないように意識し、口元に手を当てて、お茶子は声を小さくする。
梅雨は誰もが気付かないその表情を唯一見ていた。
「好きになるかもなー……って気はしてる」
「よかったわ。お茶子ちゃんが素直になって」
「いやちゃうけどね!? 気がしてるだけでそんなんじゃないけどね! ううううぅ!」
「可愛いわお茶子ちゃん」
どうやらはっきり明確に意識し始めたようで、それがわかっただけでも前へ進んだのだろう。
赤面して慌てふためくお茶子を確認し、梅雨はにっこり笑った。