とんとん、とんとん、と音がする。
それはデスクを指でせわしなく叩く音だ。
俺はこの部屋に呼びつけられ、豪奢なデスクの前に立たされ、そんな音を聞かされている。
俺を呼びつけた人物は、むろん悪気はないのだが、苛立ちのために無意識にそういう癖を出してしまっているのだ。
「済まないな。ただでさえ忙しいだろうに。だが事は急を要する」
「それは構いません。呼ばれた理由について大体のことは察しておりますが…… やはりあの件でしょうか。岸常務」
「その通りだが、おそらくお前が思うより問題は深刻だぞ。今まで会社の危機は幾度かあったにしろ、今回はよほどのことだ。全く頭が痛い」
そんな岸常務が俺に話を持ち出している。
会社の危機とは……
もちろん岸常務はその情報を俺と共有し、俺に何とか解決して欲しいと考えている。
その危機感は本物だ。
なぜなら我が社は一手判断を誤ったら転落してしまいそうなほど弱小なのである。
我が社は
へんてこな社名であるが、なんでも創業者が文字一つ一つに恩を込めて、社会へそれを還元するとかいうたいそう高邁な意味でつけたものらしい。
その名の通り、わが社は創業以来広告制作の下請け一本鎗で続けてきた。
地元である横浜のエリアから手を広げず、しかも本業だけを真面目にやってきたため、潰れることもないが逆に巨大化することもなかった。要するにずっと弱小会社のままということだ。
「思い返せばお前に物事を頼んで解決できなかったことはない。この件についても手腕を期待しているぞ、
「しかし、とても簡単には…… 常務、相手は連報なのでしょうから」
会社の危機、その原因ははっきりしている。
全日本連合報道媒体協議会、長たらしいので
それは広告業界を牛耳っている団体なのだが……単なる親睦団体ならいい。
そうではなく、長い間のうちに権力を培い、まさに業界に君臨しているのだ。しかも内実は腐っている。広告各社から上納金をせしめ、そればかりか調整という名のもとに営業活動にまで口を出す。もちろん、それは上納金の多い会社を有利にする横槍だ。結果的に上納金など屁でもない大手は安泰、逆に上納金の工面に苦労するほどの弱小会社はいつまでも底辺のまま押し込められてしまう。
そんな歪んだ構造を放置していいわけがない!
業界を支配する黒い団体など不要だ。近年になり、我が字恩広告社は連報へ鋭く異議を唱えている。
だがしかし…… これは少々正義感が先走ってしまった。正論を言う嚆矢といえば恰好はいいが、結果的に我が社ばかり矢面に立ってしまった。
連報からすれば弱小会社のくせに歯向かうなど赦せない、そんな会社は何とか排除したいと考えるところだろう。それが叶えば、一罰百戒、今後連報に盾突く会社はいなくなり、万々歳に違いない。その支配はいっそう強まり、盤石なものとなる。
だがさすがの連報でも我が社を正面から潰すことはできない。そこで我が社の落ち度を見つけ出してはあの手この手でネチネチと虐めることに終始してきたのだ。そんな嫌がらせだけでもさんざん困らされてきたのだが……
しかし今、我が社は自ら付け入れられる隙を作ってしまった!
それも連報が一気に攻め込んでこれるくらいのものを。
「とにかく悔やまれる。奴を自由にさせ過ぎた」
「岸常務、それは役員会の決定だったのですから仕方ありません。おまけに彼が有能なのは全く確かなこと、今回のことは結果論でしょう。ついでに言えば彼自身もたいそう反省していると聞き及んでおります」
岸常務と俺の会話に出てくる彼とは、特別な人物である。
そして……もっと異常なのはその成果なのだ!
通常の三倍のスピードで契約を決めてくる。
とうてい考えられない仕事能力である。ここまで圧倒的な差があれば、多少のことには目を瞑ろうというものだ。
しかし彼は先日、やり過ぎてしまった……
他の広告制作会社の専属タレントを強引に説き伏せ、こちらの制作する広告に出てもらったのだ。もちろん専属とはいっても契約上に明記されているわけではなく、法律的な意味では問題がない。ただし、業界内では無名のうちから育成してきたタレントは専属扱いと見なす、それが暗黙の了解なのである。
彼がそんなことをしたのは、
しかし、運が悪いことに先方の社のタレント担当者は
とにかく騒ぎ立て、引っ掻き回すのが好きな性格らしい。そのために話がこじれてしまい、その社と我が社との関係がちょっとやそっとで修復できないものになってしまった。
こんな事件を連報が嗅ぎ付けた!
好機と見たのだろう。大々的に我が社を悪者に仕立て上げ、広告業界の秩序を乱すものという烙印を押してしまったのだ。こうまで鮮やかに先手を打たれたら挽回のしようがない。
悪いイメージが独り歩きすれば、この業界ではとてつもないダメージになる。我が社は孤立し、じわじわと先細りになり、立ち行かなくなるのは必定だ。
最後はおそらく連報の前に土下座しかない。反旗を翻すどころか泣いて許しを請わなくてはならないだろう。それでも許されるとは思えないが…… ともかくそんな未来が確定しかかっているほど状況は厳しい。
「最善を尽くします、岸常務。先ずは赤井君にもう一度事情を聴いた上で作戦を考えてみましょう」
俺は営業本部に戻り、さっそく赤井君を呼んで話を聴くことにした。
そして颯爽と現れた彼は…… なぜか赤を基調として、黒と黄色の線をアクセントにしたシャツを着ていた。しかも襟を立てている。
「むふう…… あまり言いたくはないが、社会人らしい服装とは言えんなあ、赤井君。我が社は昔から自由な気風とはいえ、仕事時間に派手なシャツとは」
「しかし、ノーマルなスーツはちょっと」
「とはいっても…………まあ、それについては話の本題ではないから置いておこう。先のタレントの件について詳細を聞きたい」
そして俺は彼の話を聴く中で、その深刻さだけではなく、いくつかの重要なヒントを掴んでいたのだ。
一方、彼の方では改めて事の次第を思い起こし、反省モードに入ったらしい。俯いてぼそりと呟いていた。
「…… 認めたくないものだな。自分自身の若さゆえの過ちというものを」
「いやそこは認めようよ」
思わずツッコミを入れてしまった俺だが、別に彼を責めているわけではない。
話はもうこれでいい。エースはエースらしく元気で働いてくれるのが一番であるからには、萎縮させるべきではないと判断する。
その二ヵ月後________
「『さすがの手腕だ。感服させられた。わずか二ヵ月で問題を解決し、連報の手を払いのけたとは驚かないではいられない』、そう岸常務は仰っておられた。あいにく常務は
俺の前にいる男は
その真久部課長が俺に最大限の賛辞を贈ってくれているのは……
先日の問題をきれいに解決したからだ。
「それはどうも。ややトリッキーな戦術ではあったが、上手くいって良かった。しかし実際に動いてくれたのは部下たちの方なのだから、恩賞ならそちらに上げるべきだろう。真久部課長、そう常務に伝えて欲しい」
「なかなかに優秀な部下をお持ちのようだ。しかもその信頼関係もうらやましい。ただし、上手くいったのはあくまで今部長の戦術のおかげであると拝察するが」
俺は別に嘘を言ってはいない。
俺の部下たち、その中でも
その戦術とは…… 簡単に言えば三角交渉だ。
俺は赤井君から話を聴く限り、先方の社は八島というタレントにこだわっているわけではなく、特別に優遇しているのでもないと判断した。つまり先方の社は、本当のところ何か別のタレントの方が良いと思っているのではないか。
そこが今回の狙い目だ。
しかし我が字恩広告だけでは、先方の社の欲するタレントを用意できない。おまけに話を聞いてもらえるかどうかも分からない。そこで我が字恩の飛び切り上質なタレントを別の社にレンタルし、そこからバーター的に違うタレントを放出させる。そうしてトラブルを起こした当の社へ、求めるジャストのタレントを向かわせられたというわけである。
こんなややこしいことまで行い、満足してもらう解決法を提示できれば、相手方も納得するというものだ。
最終的には我が字恩広告との諍いを水に流してもらう。そうすれば連報も梯子を外された形となり、攻撃のしようもなくなる。
もちろん口で言うほど簡単なものではない。
薄氷を踏むような交渉の連続は、負けの許されないビリヤードをやっているのと同じである。
ちなみに騒動の原因を作った
今回はこれで済んだ。しかし問題は、我が社と連報との関係は何一つ変わっていないということだ。
戦いはまだまだこれからである。
いずれ連報は別の手立てを考え、攻め込んでくるだろう。そういう強大な連報に対し、我が字恩は知恵を絞って立ち向かわなくてはならない。でなければ直ぐに消し飛ばされる。
俺もまた気を引き締め、字恩のために戦い続けるつもりだ。