社内に人員が手薄になっていたのだが、それが仇となったのか……
突如事件が発生した! それも火災という形で。
俺は社内にいて、いきなり火災検知器のけたたましい警報音を聞いた。
驚いているうちにスプリンクラーが自動で作動を始めているのだ。すぐさまパソコンを切り、データを保存させるや否や社員を全員避難させる。社員を守る、それが最優先なのは当たり前である。
とにかく屋外へ出てから、振り返って火災の程度を見てみる。確かに焦げ臭い匂いはしているものの、さほど強いものでもないし、炎は全く見えない。社屋からは言われれば分かる程度の薄い煙がたなびいているだけだ。やってきた消防車が消火活動を始めるも、直ぐに終わってしまった。
結果的に社員の一人にもケガはなく、大事にならずに済んでいる。
「ボヤだからさ」
「見たら判るからね」
いつの間にか傍にいた赤井君がボソッと呟いているではないか。当たり前の内容を、いつもの赤いシャツにサングラスで。
ともあれ俺は安堵したが、はてさて火災は直接的な被害よりも復旧作業が厄介になる。
煙や火の被害はほとんどないにしても、慌てた避難行動のためにひっくり返された机や椅子がそこそこある。何よりも消火のための水によって紙の書類がめちゃくちゃになっているんだ。そして水がしっかり引いてからでないと下手に電気も使えない。
社の営業を続けつつ、手の空いている社員を復旧に回す。
俺ももちろん陣頭指揮だ。
一週間もすれば、だいぶ片付いてきた。
これには意外なことに赤井君が頑張ってくれた。先日のタレント絡みの失態を挽回するつもりなのか、目を見張る働きぶりだ。
彼の手にかかれば、通常の三倍の速度で片付けが進む。
しかしいくら彼でも疲れは溜まるだろうし、俺はいったん休ませてあげようと思い、片付けがどれくらい進んだのか聞いたが……
「まだだッ! まだ終わらんよッ!!」
「……休憩を取りながらでいいから」
そして俺はもう一つ別のことも考える。
これは偶然じゃない。
証拠はないが、連報の仕業であることには確信がある。その後の調べによると、火元は我が社の資料室であり、原因については不明で終わった。それはそうだ。資料室に火種なんかあるはずがない。それに普段からほとんど人の入らないところであり、死角になる。火を点けるにはうってつけではないか。
ただし…… 連報の狙いが見えない。
結果的に火災は広がらず、ほとんど実害はなかったからだ。
これは脅しなのか。
それとも何か別の狙いがあるのか。
考えても結論は出ないが、少なくとも連報は単なる嫌がらせの範囲を超え、直接手を下してきたのだ! もはや一線を越えたと見るべきである。戦いは別のステージに上がり、我が社としても覚悟を決めなくてはならない。
________ 同日同時刻、全日本連合報道媒体協議会の一室において深刻な話し合いが持たれている。
この場の主役は間違いなく
ゆったりとチェアーに座り、白磁のカップに入れた紅茶を嗜んでいる。漂う香りはその紅茶が高級品であることを如実に示す。ただそうしているだけで別格の存在感を持つ。
「その表情を見ると、今回の作戦に反対なのかな、ブライト君」
「輪岩戸委員長のなさることに私ごときが反対するはずもありませんが…… ただし正直に申し上げますと、腑に落ちない点があることも事実です」
この話し合いは、実務にかこつけて輝橋乃愛の方から申し入れたものだ。無論理由がある。輪岩戸緑が最近になってこの部署、つまり渉外担当になっているのだが、いきなり意外としか言いようのない作戦を考え、実行させてしまったからである。
その真意を聞きたい。どうやって聞き出そうか……
しかしながら、輪岩戸委員長の方から話を振ってくれた。これで堂々と聞くことができる。
「君の思うところは判るつもりだが、今一度確認しておこうか」
「一つは、字恩広告社に忍び込んで火を点ける役、これを
「なるほど、これはブライト君に手痛い指摘をされてしまった」
輝橋乃愛の言うことは事実である。
今回、輪岩戸委員長が城戸をそそのかして放火の実行犯にしたのだ。城戸は金に困っていたし、何より字恩広告社に含むところがあるので都合の良い人物だった。
だがそんな指摘を聞いても、当の委員長は余裕のある表情を崩しもしない。優雅に紅茶を楽しみ続けている。
「……もう一つ宜しいでしょうか、委員長。そもそも字恩広告へ実力行使をしたことが納得できかねます。ついに一線を越えたとしか…… しかも効果があったのでしょうか。業務を多少妨害できた、それだけにしかならなかったのでは」
「確かにその通りだね」
「おまけに脅しとして見たところで、あの字恩広告社が膝を屈するはずはありません。筋金入りの強情さですから。かえって結束を強めさせてしまったと懸念します」
「字恩広告に脅しなど効かない、むろん私もそう思っているよ。ブライト君」
「この私でも考えられることを輪岩戸委員長が気付かないわけがなく……なので意図が判らないのです」
輝橋乃愛は決して輪岩戸委員長がミスをしたとは考えていない。
なぜなら輪岩戸委員長は「連報の魔術師」として名高い。
その頭脳から繰り出される作戦が外れたためしがないのだ。
幾分、いやかなりの皮肉屋のため上層部から受けが悪く、出世街道から外され、実務の最前線に送り出されるのが常である。しかしそれを本人は苦にするどころか楽しんでいる有様だ。この渉外担当部署に来てからも機嫌良さそうにしている。
そして輝橋乃愛の思うところ、この時期に来てくれたことは天祐にも近い。
連報は字恩広告という頭痛の種を抱え込み、早急にこれを封じたいのにできていない。今までも連報はいくつもの策を使ったのだが、全て功を成さなかった。字恩は思いの外強い。だからこそ連報の切り札、輪岩戸委員長に大いに期待していたのだが……
「私としてもブライト君を困惑させるのは本意ではないね。では早めの種明かしといこうじゃないか。それで君の心配はいずれも無用だと判るだろう」
「……お願いします。委員長」
「何も問題はなくなるのだ。ブライト君、字恩広告は近いうちに消えてしまうのだから」
「な!? 何と! 字恩広告は屈しないとご自分で言われたのでは」
「おお、これは言葉が足りなかったかな。字恩広告社が大人しくなり、連報に従うという意味で言ったのではない。
「え!? そ、そんなことが! なぜ!」
字恩広告という会社が丸ごと消える!?
とうてい信じられない!
たかがボヤ程度の火災でそんなことになるはずがない。字恩広告社は悔しいことに堅調な会社であり、今まで築いてきた地盤は固い。多少のダメージで潰れるようなヤワなものではないのだ。
いったい輪岩戸委員長は空想でも語っているのだろうか。
「ふふ、君が驚いてくれることが楽しいと思うのは、私も少し意地が悪いかな。しかし字恩広告が消えるのは本当だ」
絶句する輝橋乃愛から目を離し、輪岩戸緑はティーカップをソーサーに戻す。コツッという澄んだ音が妙に大きく響く。輝橋乃愛が次の言葉を聞き逃すまいと身じろぎもしていないせいだろう。
「ブライト君、字恩広告は火災の後始末に一生懸命だろうねえ。とても同情するよ。特に水浸しになった紙の資料は完全には戻せず、どうしても捨ててしまう分が出てしまう」
「おっしゃることは確かですが、今の時代に重要な情報を紙でとっておくはずはなく、実務に差し支えることはないしょう」
「いやいや、そういう意味ではない」
多少芝居がかった様子を見せ、輪岩戸委員長は話の途中で一拍置く。
「このタイミングだ。
「な、税務調査ですと!」
「ふふ、無事乗り切ることはできまい。税務関係の数字はパソコンに残っても、肝心の領収書なんかは紙だから、揃えられるはずはないだろう」
輝橋乃愛は今度こそ最大級の驚きに見舞われ、返事もできない。
字恩広告へ偶然税務調査が入るわけがなく、もちろん輪岩戸委員長が匿名で告発し、税務署を動かすに決まってる。そうなれば……どうなる……
「幾つもの段ボールの書類、火災の後でうっかり捨ててしまう分がある。当然、税務調査の結果、書類不備により少しは追徴課税が発生してしまう。いくら字恩広告が健全であってもね。領収書などの保存義務は七年もあるのだよ」
「委員長、判ってきました。そして追徴課税のわずかな金額が問題ではないのでしょう」
「おお、判ってくれたかね。その単なる追徴課税を、脱税という言葉に置き換えたら? そしてこれを大々的に流布したら? 先のヤラセ疑惑のダメージも抜けきらない字恩広告は弁解もできず、とうてい耐えられまい。そうじゃないかな、ブライト君」
これは…… 確かに字恩は潰れる…………
輪岩戸 緑、連報最強の魔術師の名は、伊達ではなかった!
全ては最初から緻密に組まれたものだった。
もはや終わっている。完全な形で罠は完成し、連報にとって邪魔な字恩広告を見事に消し去ろうとしている。まるで魔術師の帽子に入れられたウサギのように。
「お見事です…… 委員長。もはや言葉もありません」
「ブライト君にそう言ってもらえて嬉しいね。ただし、私としては別のことも考えてしまう」
「別のこと、とは」
「字恩広告社に