デート・ア・ライブ 千璃ホロコースト   作:泰邦

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第四十五話:君の名を呼ぶ

 血が流れる。

 腹部を剣で貫かれた士道は血を吐きながら床に倒れ、床を赤く染めていく。

 

 ──やめて。やめて。やめて。

 ──私からその人を奪わないで。

 ──世界で初めて私の存在を認めてくれたその人を。

 ──私はどうなっても構わないから、その人だけは奪わないで。

 

 倒れ伏した士道。剣で貫かれた腹部からは止めどなく血があふれ、本来その役割を果たすはずの『灼爛殲鬼』が働いていない。

 このままでは遠からず死んでしまうだろう。囚われたままの姿で、十香は漠然とそう思った。

 自身を助けに来てくれた士道が、自身のせいで死んでしまう。

 四月、初めてデートしたあの日のように。

 士道が、もう笑ってくれなくなる。

 

 ──いやだ。そんなのは、絶対に嫌だ。

 

 彼がいたから世界を恨まずに済んだ。

 彼がいたから世界が綺麗なのだと知ることが出来た。

 彼がいたから──恋を知った。

 失いたくない。何を犠牲にしてでも無くしたくないたった一つの大事なモノがある。

 

 それ故に、十香は全てを捨てる覚悟を決めた。

 

 

        ●

 

 

 十香が閉じ込められているとされる場所に辿り着いた士道たちは、ウェストコットと相対することとなる。

 だが彼は人間だ。魔術師でも何でもないごく普通の人間である彼は、精霊と対抗する術を持たない。例え精霊の中では身体能力の劣る美九であっても、彼を縊り殺すことすらいとも容易い。

 三人もの精霊がいるのだ、多少の油断はあったといえる。

 何があっても自分たちこそが最速だという自負が、八舞姉妹にはあったことも原因か。

 

 端的に告げよう。五河士道は、千璃との戦いを放棄して帰還したエレンの刃によって心臓を貫かれた。

 

 どれだけ肉体を鍛えようと、魔術師の使うレイザーブレードを生身で防げるわけもない。しかも、エレンは確実に殺すために肋骨の隙間を縫って突き刺した。

 まともな人間なら生きてはいられない絶対の一撃。かなり衰弱している今、士道に宿る回復の炎さえ表出していない。

 

「ふむ。随分とタイミングがいい。センリが逃がしてくれるとも思えないが?」

「ジェシカに囮になってもらいました……もっとも、あの様子では生きている可能性は低いでしょうが」

 

 それをわかっていても二人の顔色は変わらない。

 相も変わらず剣を士道に突き刺したまま、耶倶矢たちが動いても対処できるように視界に収めている。ゆっくり剣を引き抜くと、士道は倒れ伏して血の海に沈む。

 ピクリとも動かず、普通に考えれば死んでいるとしか考えられない。

 だが、士道は弱々しくも呼吸を続けており、未だ生きていることを示していた。

 

「なるほど、これくらいで死ぬほど脆弱ではないということですか」

 

 死んでいないだけで死にかけではある。このまま放っておくだけでも容易く死ぬであろう彼を尻目に、ウェストコットは十香へと視線を向けた。

 自分を見失わないよう、士道の名を必死に呼びながらガラスに拳を叩きつける彼女。その様子に思わず口端が吊り上がるのを自覚しながら、ウェストコットは告げた。

 

「さぁ、精霊。〈プリンセス〉。ヤトガミトオカ。──私はこれから、君の大事な彼を殺そうと思う」

『な──』

「止めたければご自由に。私はそれを止めはしない。君の持てる力の全てを使って、彼を助け出してくれたまえ」

 

 もっとも邪魔する可能性の高い耶倶矢、夕弦、美九に関しては〈バンダースナッチ〉を使うことで抑え込む。

 例え千璃が〈バンダースナッチ〉の操作権限を上書きしたとしても、この場にいなければ局所的に戦力として扱うことが出来る。どのみに彼女が来ればウェストコットを連れて撤退するしかない以上、この判断はどこまでも正しい。

 故に、邪魔は入らない。

 

「よろしいのですか、アイク」

「構わない。最悪本当に死んでも霊結晶(セフィラ)が砕けるようなことはないだろう──それに、あの用意周到な女が予備を用意していないはずがない」

「そうですか」

 

 レイザーブレードを振り上げるエレンに向け、美九はその『声』を発する。

 だが、その程度では彼女を惑わすことなど出来はしない。防壁と化している随意領域を貫けないのだ。

 止める手段など無い。このまま倒れ伏した士道が殺されるのを黙ってみているだけ。

 

「……そ、んな、こと……させ、っかよ…………っ!」

「な──」

「ほう──」

 

 間違いなく致命傷だった。生きていることすら不思議なのに、士道はゆらりと立ち上がってエレンをにらみつける。

 血の気は失せて今にも死にそうな顔をしたまま、壁に手をついていなければすぐにでも倒れてしまいそうな不安定な状態のまま。それでも黙って殺されることなど認められないと立ち上がる。

 弱々しい炎はかろうじて致命傷を塞ぐ程度の働きしかしておらず、十香には今にも崩れ落ちてい無くなってしまいそうにも見えた。

 

『シドー──』

「心配、すんな……ぜ、ったいに、皆、で、帰るんだよ……っ!」

 

 言葉を出すのもつらそうにしているというのに、どうやって抵抗しようというのか。エレンは一度だけウェストコットに視線を向けたが、ウェストコットは「構わない」と頷く。

 それを見て、エレンはすばやく距離を詰めて剣を振り上げた。

 どうやっても逃げられない。

 どうあがいても助からない。

 ならば、そう。せめて一矢報いてやろう。

 

『シドー──ッ!!』

 

 後ろで十香の叫ぶ声がする。左の肩口に深々と剣が刺さって体を切り裂いていくが、もう体の感覚なんて麻痺しきっていてわからない。

 だから、せめて。

 右手に残った〈鏖殺公(サンダルフォン)〉でエレンに傷を与えようとする。

 腹から血反吐が上がってくるのがわかるも、それを無視して手に力を込め──たった一人の、どうしても守りたい少女のことを願って剣を強く握った。

 意識が途切れかけたその瞬間、握っている剣が〈鏖殺公〉ではない、何か別のもの(・・・・)に変わっていることに気付いた者は果たしてどれほどいたのか。

 命の全てをかけて繰り出そうとしたその一撃を振るおうとした、その時。

 

「それを許容することは出来ない。私にとってもそうだが──君にとっても、それは都合が悪い(・・・・・・・・)

 

 背後から包み込むような黒い闇と、エレンの背後に現れた金髪の青年の発する光が同時に炸裂した。

 

 

        ●

 

 

「間に合わなかったか」

 

 青年は淡々とそう呟く。

 こちらを警戒してウェストコットの傍まで下がったエレン。〈バンダースナッチ〉を相手に一進一退の攻防を繰り広げている耶倶矢と夕弦。そして二人に守られている美九。

 最早死体といっても過言ではないほどに傷つけられた士道と、その背後に無表情で佇む十香。

 

「……これは、一体。前にあった時は実体はなかったはず……」

「ふむ。〈王国〉が反転したことは喜ぶべきことだが──貴方と一戦交えるにはまだ時期が早すぎるが」

「好きにしたまえ。私も君たちにかかずらっていられるほど暇ではないのだ」

 

 誰もが注目し、警戒する青年は裸足のまま血の海に進み、倒れ伏す士道に手を当てる。

 最初は何をしているのかと眉をひそめたが、次の瞬間には誰もが目を見開いて驚いた。

 士道の肉体が炎に包まれている。それも先程までの弱々しいものではなく、大きく燃え盛る業火の如く。

 

「これで大丈夫だろう。人の身で無茶なことをやるものだな、本当に」

 

 やや呆れたような口調だが、普段はポーカーフェイスな青年には珍しく喜色が見て取れた。

 まるで子が成長したことを喜ぶ親のようだとウェストコットは思う。ある意味では精霊という存在そのものが青年にとっての子供に等しいはずだが、士道もまたそうなのだろうかと思考する。

 近場で争っている〈バンダースナッチ〉がうっとうしく思われたのか、青年は軽く腕を一振りして〈バンダースナッチ〉を全機停止させた。

 どれほどの権能を用いたのかは誰にも分らない。

 確実にはっきりしているのは──青年はこの場にいる誰よりも強者足りえているということだ。

 

「少々分が悪いな。ここは退くとしようか、エレン」

「……そう、ですね」

「どうして彼が実体化しているのか気になるかい?」

 

 エレンは青年から目を離さないまま頷く。

 ウェストコットにもその疑問はあったが、答えなど出るはずもない。

 考えて出ないのならば、聞いてしまえば答えを得ることは容易い。ウェストコットは躊躇なく青年へと尋ねた。

 

「貴方が何故実体化しているのか尋ねても?」

「答えたところで理解できるとは思えんがね」

 

 理屈としてはごく単純で、青年の肉体は同時に千璃の肉体でもあり、『天使』でもある。

 二人は同じ肉体を共有することで同じ『天使』を共有し、上位存在である青年は千璃の随意領域を用いることで限定的にその姿を現界させることが出来るというだけの話。

 細かい説明をするとなるとかなり複雑かつ煩雑な説明をしなければならないのだが、面倒なのでそれをやることはない。

 懇切丁寧に教える意味もなければ理由もない。青年はウェストコットの質問を一蹴し、右の指先を向けた。

 

「──選びたまえ。ここで死ぬか、退くか」

「退くことを認めてくれるとは思わなかったが」

「君たちはあくまで千璃の仇であって私の仇ではない。それに、個人的な理由ではあるが、君たちのやっていることにも興味はある」

 

 故に、選べと青年は言う。

 

「では退かせてもらうとしよう──何時か貴方の喉元に刃を突きつける瞬間を目指すとするよ、守護天使〈エイワス(・・・・)〉」

 

 エレンのCR-ユニットから『天使』の一撃にも匹敵するレーザーが放たれる。しかし青年──エイワスは気にした素振りもなく片手でその攻撃をしのぎ切った。

 閃光と煙に紛れて逃走したエレンとウェストコットを確認し、振り向こうとした刹那、莫大な霊力が集約されて背後から放たれる。

 

「──死ね」

「いきなり不意打ちとは、少々不躾ではないかね?」

 

 振り向きもせずに十香の振るう大剣を防ぐエイワス。よく見れば数センチほど距離があることから、おそらくは随意領域のようなもので攻撃を防いでいるのだろうと考えられる。

 十香の一撃を難なく防いだエイワスはゆっくり振り向き、十香のその変わり果てた様相を観察する。

 普段の霊装とは違う雰囲気を纏わせた姿で、十香は距離をとって再度剣を構える。

 その剣にしても〈鏖殺公〉とは別物だった。片刃の大剣はぼんやりとした闇色の輝きを持ち、見る者を畏怖させる恐ろしさがあった。

 

「……やはり貴様、どこかで見たな」

「私も君のことはよく知っている」

 

 エイワスはポーカーフェイスを崩すことすらないが、十香の研ぎ澄まされた殺意はエイワスの一挙一動ごとにさらに鋭くなっていく。

 具体的に何かされたという覚えはない。だが、心の奥底にこべりつくドロドロとした負の感情が抑えきれないほどに溢れ出すのだ。

 こいつを殺せ。

 こいつを許すな。

 ただ身の内から湧き上がる殺意に身を任せ、十香はその手に持つ大剣を振るう。

 

「やはり、こう何度もやっているとどこかしら不備が出てくるものらしいな」

 

 何のことを言っているのか理解は出来ない。だが、この男だけはここで殺せと自身が警鐘を鳴らしている。

 

「〈暴虐公(ナヘマー)〉」

 

 全てを切り裂く暴虐の一撃が躊躇なく振り下ろされ、エイワスの体を一刀両断しようとする。

 だが、それですらエイワスの顔色一つ変えられない。

 どこまでも超越的な力を持つ彼に対しては、今の十香ですら相手にならない。無論普段の『天使』を使用する十香もまた同様、エイワスに傷をつけることすら叶わないだろう。

 とはいえ、エイワスもまた十香を殺そうとしているわけではない。彼からすれば子供の癇癪を宥めている程度の感覚でしかないが、彼女を元の『位階』に戻せるのは士道だけだと知っているのだ。

 故に時間を稼いでいる。

 傷は癒えている。ならばあとは時間が解決してくれるだろう──が。

 

「私もそれほど時間があるわけではない。故、少々手荒な方法をとらせてもらうとしよう」

 

 エイワスの体は徐々に薄く透けてきている。それは『こちら側』にいられる残りの時間がわずかだということで、つまり時間が来れば隣界に戻らなければならないということを示す。

 それまでに決着を付けておきたい。千璃の尻拭いでしかないが、エイワスからすればこれもまた一つの余興程度にしか考えていないのだろう。

 炎に包まれた後は顔色もよくなり気絶しているだけの士道に近寄り、その頭を軽く蹴る。

 その衝撃か、それとも別の何かをしたのか、士道はゆっくり目を開けた。

 士道を巻き込むことすら厭わない十香の一撃を退けながら、エイワスは簡潔に事の次第を説明する。

 士道が死にかけたこと。

 十香が『反転』したこと。

 彼女を戻せるのは士道だけだということ。

 そこまで話した段階でかなり存在感が希薄になっており、時間がないことを示唆していた。

 

「君にしか出来ないことだ──私と千璃はしばらく隣界から出てくることはないだろうが、君の傍には今多数の精霊がいる。生半可なことでは君たちを害すことは出来ない」

「俺にしか、出来ない……」

「それと、エレンには十分気を付けたまえ。あの女を相手にしては君たちとて無事では済まないからな」

 

 振るわれる闇の斬撃を歯牙にもかけないその異常さに士道は疑問を覚えるが、そんなことを考えている時間はない。

 ついにエイワスが消失した瞬間、彼が防いでいた十香の斬撃がビルを真っ二つに──それも縦に切り裂いた。

 その衝撃で士道は弾き飛ばされるが、偶然美九たちがいたため耶倶矢と夕弦に受け止めてもらうことが出来た。

 

「いてて……助かったよ、二人とも」

「よい、我らも助けられなかったのは事実。この程度でチャラに出来るなら安いものよ」

「安堵。士道が生きててよかったです」

「ていうか、ほんとになんで生きてるんですかー……? 胸貫かれてましたよねー?」

「ちょっと特異体質でな」

 

 そんなことを反している間に十香はビルの同じ階に降り立ち、先程までエイワスのいた場所を睨みつけていた。

 何故あそこまで激怒しているのか、士道はわからない。

 士道の知る限りでは十香と彼が出会ってから今のような状況に陥ったことはないはずだし、何かしら因縁のようなものがあるとは聞いたことが無い。

 だが、今の彼女は暴走しているようなものだとエイワスは言っていた。彼の言葉を全て鵜呑みにするわけにはいかないにしても、十香の現状を許容してはおけなかった。

 

「彼女激強じゃないですかー。助けに来る必要なんてなかったんじゃ……? 一体何がどうなってるんですかー?」

「俺にもわからねぇよ。だけど、ここは危険だ。耶倶矢、夕弦。美九を連れて脱出してくれ」

 

 その言葉に眉をひそめたのは美九だった。

 

「貴方、一人でどうにか出来るとでも思ってるんです? 人間がどうにか出来るとは思えませんけどー」

「それでもやるしかないんだよ。ここからは本当に危険だから、三人には避難しててもらいたい」

「だが、それでは士道が危険であろう」

「心配すんな、策ならある」

 

 じっと目を見続ける耶倶矢に対して、士道は決して目を逸らさない。絶対に退かないと覚悟を決めていることを理解したのか、耶倶矢は夕弦の方を見る。

 夕弦もまた士道のことを理解したようで、美九の手を引いてこの場から脱出しようとする。

 二人も〈バンダースナッチ〉との戦闘で少なからず傷を負っているのだ。広々とした外ならばともかく、ビル内部の限定された空間では二人の圧倒的な機動力を生かした戦い方が出来なかった。美九を守らなければならないということもあり、劣勢だったのだ。

 美九の手を引いてビルから出ようとする二人に対して、むしろ美九の方が驚いていた。

 

「ちょ、ちょっと! 置いて行っていいんですかぁ!? このままだと確実にあの人死んじゃいますよ!?」

 

 冷静に考えると士道が死のうが生きようが美九には関係のないことなのだろうが、二人があっさりと士道を見捨てたことにびっくりしていた。

 例え自分が洗脳の力を用いてることも原因の一つだとはいえ、ここまでの三人の関係ではここまで簡単に見放すとは思わなかった。

 美九の考えとは裏腹に、耶倶矢と夕弦は振り向かなかった。

 

「あやつなら心配いらん。やると決めたらやる男だ」

「肯定。信じて待つのもいい女の条件だと聞きました」

「だ、だからって……」

 

 自分が死にそうになるのも構わず、実際死んだとしか思えない傷を受けても助けることを諦めなかった彼の姿が焼き付いて離れない。

 彼ほど真剣に相手のことを想う人間を、美九は知らない。

 愚直なまでに一途に相手を想う、そのような人間にもっと前に出会えていれば──もしも、十香に向けられるだけの愛情の一部でも、自身に向けられていれば。

 

「急げ!」

「応よ! 姉上、しっかりつかまっていろ!」

「飛翔。脱出します」

 

 風を操る二人の力を用いて、耶倶矢たちはこの戦場から脱出した。

 律儀にその瞬間まで待っていた十香は、一人残った士道に目を向ける。

 

「貴様は何故残った?」

「お前を助けるためだ」

「助ける? 一体何から助けようというのだ、人間」

「全部からだ。お前はもう、その力を振るう必要はないんだよ」

 

 手に持っていたはずの〈鏖殺公〉は消えている。だが、不思議と十香近づくことの恐怖感はなかった。

 大剣を振り回し士道を殺害することも容易いはずなのに、士道はその恐怖がない。

 体が軽い。

 今なら何でも出来るという全能感さえ感じられるほど、体に力が満ちていた。ほんの数十分前まで死にかけていたとは思えない。

 

「は、お前如きに守られる私ではない。失せろ、目障りだ」

「嫌だ。俺はお前を連れて帰るって約束したからな」

 

 士道の真横を斬撃が通過する。床が大きく抉れてビルがグラグラと不安定に揺れるが、士道の歩みは止まらない。

 十香まであと五メートル。

 

「連れて帰るだと? 私に帰る場所場所など無い。疾く去ね、人間」

「お前の帰る場所ならある。琴里も、四糸乃も、耶倶矢も、夕弦も、七罪も、令音さんや神無月さんだってみんな待ってる」

 

 頬に斬撃が掠る。かなり深く切れたのか、血が止めどなく溢れて血塗れの服がさらに赤く染まっていく。傷のついた場所から炎が現れて素早く治癒していく。

 十香まであと四メートル。

 

「知らん。私は私だけでいい、他者など知ったことではない!」

「みんな、俺たちの帰りを待ってるんだ。あまり遅くなると心配されるぞ」

 

 頭痛が走っているのか、十香は左手を自身の貌に当てながら士道を近寄らせまいとやたらめったらに斬撃を繰り出し始める。

 十香まであと三メートル。

 

「私を惑わすか、人間!」

「惑わそうとは思っていないさ。お前はお前のままでいいんだ」

 

 虚空に不思議な波紋が現れ、そこから十香の身の丈十倍はあろうかという巨大な玉座が姿を現した。そして玉座はバラバラに砕け散り、十香の掲げた剣にまとわりついていく。

 十香まであと二メートル。

 

「惑わそうと思っていないだと? たわけたことを抜かすなよ……我が剣でその身の一片まで全て消し去ってくれる!」

「お前は本当は優しいやつだから、きっと手加減してくれるって信じてるよ」

 

 玉座の破片と同化するたびに黒い粒子をまき散らし、巨大な剣は更に長大な剣へと変貌を遂げていく。

 そして、最後の一片が同化した時──その切っ先が、月を切り裂くように天を突く。

 十香まであと一メートル。

 

「〈暴虐公(ナヘマー)〉──【終焉の剣(ベイヴァーシュヘレヴ)】!!」

 

 ──空が割れるかのような音が世界に響いた。

 漆黒の斬撃が全てを呑み込み、ビルを、その先にある建物のことごとくを切り裂き消滅させていく。

 霊力の波はそこに在ったものの一切合切を粉砕し、消失させてしまった。

 何の冗談でもない。

 ただ単純に、今の十香の霊力に耐えられるだけの物質が存在していなかったという、それだけの話に過ぎないからだ。

 

「は、ははははははははは──ッ! やったぞ、あの人間はこの手で、確かに──」

 

 一直線に作られた虚無の道。

 何者も存在出来ない圧倒的破壊の力によって起こされたその現象の前では、確かに士道など道端の小石程度の価値しかないだろう。耐えられるわけがない。

 そして、あろうことか避けようとすらしなかった。

 愚かな人間だと十香は笑い倒してやろうとして──絶句した。

 そこに立っている。

 目の前まで迫り、左肩どころか胸と腹部の左側が消し飛んでいるにも拘らず、残った両足でしっかり立って、目の前に存在している。

 技後硬直で動けず、武器を持っていないというのに「やられる」と瞬間的に悟った十香。

 右手を前に出し、何をするかと身構えてみれば──士道は、十香の体を正面から抱きしめた。

 

「──さぁ、帰ろう。十香」

 

 わずかな間、十香は放心した。

 この男は何をしている? この絶好のチャンスにおいて、攻撃するどころかただ優しく抱きしめるだけなど。

 そう思った次の瞬間には二人の唇は重なっていて、十香の体は緊張したように硬くなったが、すぐに力を抜いて士道に身をゆだねた。

 

「あぁ、なんだろうな……どうしてか、こうしていると心地がいい」

 

 唇を話した後の、十香であって十香ではないその少女の呟きは、眠ろうとしている幼子のそれのようで。

 身に纏っていた霊装は溶けるようにして消失していき、手を離した剣は床についた途端砕けて粒子になってしまった。

 あれは十香のものではない──十香の持つべきものではない。十香が持っていられないのは道理というものだ。

 

「──……シ、ドー……?」

「おう」

 

 小さく名を呼ぶ十香を抱きしめ、十香は返事があったことに安心したのか、体から力が抜けて崩れ落ちる。

 慌てて支えようとするが、未だ左半身は再生が終わっていない。大部分は修復されているため、少し待ては全て元通りに治癒していることだろう。

 

「……ぁ」

 

 がくっ、と足が崩れ落ちる。十香どころか、自分の体すら支えきれなくなったのがなんとなくわかった。

 今日一日で無理し過ぎた。少しだけ休もうと思って、士道は十香が上になるように後ろに倒れ込む。

 真っ二つに裂けたビルの天井から空が見える。

 星が綺麗な夜だと思いながら、士道は目を瞑る。

 今は、少しだけ休もう。休んで、皆のところに帰ろう。

 

「……シドー……?」

 

 体に力が入らないが、意識はある。もぞもぞと動かない士道の腕の中で体を動かす十香。手には力が入っておらず、簡単に振りほどける。

 士道の手は驚くほど冷たくて、驚いてしまった。

 左半身は吹き飛んでからゆっくり炎に包まれて再生しているが、十香の呼びかけに士道は応じない。

 どこか嫌な予感がして、士道の名を呼ぶ。

 

「シドー? どうしたのだ、シドー」

 

 何度呼んでも返事が来ない。胸は上下しているし炎は未だ這いずって再生しているが、どうしても嫌な予感が拭いきれない。

 ゆっくり体を起こして士道の体をゆするも、眠ったまま起きることはなく。

 

 ──十香の呼びかけは神無月が来るまで続いたが、とうとうその時に士道の目が覚めることはなかった。

 

 




美九編は次話で終了となります。
その次からは折紙編が始まる予定。
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