…こうするのが様式美だそうなので。
ウマ娘好きが高じてこうなるのは自明ですよね。
憧れた。
———現在殿…京都の正面は第三コーナーの登りで行った…逃げる逃げる逃げる!———
一気呵成に、笑顔で坂を駆け上がる姿に憧れた。
世界の、人々の、みんなの、私の常識を打ち壊すあの姿に憧れた。
憧れた。
———これでいいのか…早くも、早くも先頭に立つのか…完全に先頭だ———
王道を華麗に駆け抜ける姿に憧れた。
背負うプレッシャーを、襲い掛かる後続をものともしないその姿に憧れた。
私も、そうなりたい。
いつか、きっと、必ず、憧れに並んでみせる!
彼女たちのような、強くて、誰からも称賛されるような、そんな存在に!
そうすれば、きっと…
♪~♪~♪~♪~
目覚ましの音が耳に届く。寝起きの耳にやさしく、しかし意識の覚醒にはもってこいな、私のお気に入りの曲が聞こえる。しかし頭はそうでも体は意識についていかないもので、もぞもぞと片腕だけで音の発生源を探す。……当たらない?おかしいな、いつもなら枕のそばにあるはずなのに…
「……あぁ、昨日充電してたんだった」
ってことは…場所はライトスタンドのそばかぁ…めんどうな…。
横寝していた体の向きを反転させ、スタンドのあるほうへと向けて音源の行方を捜している腕を伸ばす。
「…あった」
音源の正体である携帯…今ではウマホなんて呼ばれてる代物の画面を見る。
「…5:00ね。よし、いつも通り」
冴えた頭で寝ぼけた体を起こしてベッドから立ち上がる。相変わらずおぼつかない脚に若干いらだちを覚えるが、時間が解決するのでそのまま洗面所へむかう。いつものように洗面所に向かう。鏡を前にすれば自分の寝ぼけ顔が移る…どうせ忘れるものだが、朝一番では見たくないものだ。
眼醒まし代わりのスキン・オーラルケアを済ませてタオルで顔周りの水気を抜いたら髪に櫛を通す。世の女性は引っ掛かりを覚えないことを羨むそうだが、私としては櫛を通すことの大切さを忘れる気がするので少しくらい引っ掛かってくれてもいいのではないか、とも感じてしまう。頭上にある耳にはそれ専用の櫛をあてがう。脳内で愚痴を吐きながら鏡の向こうの自分の見た目が悪くないと感じたので、櫛を置いて寝巻からジャージに着替える。
着替える目的はただ一つ。日課のジョギングに行くためだ。
「…着替え終わり。今は…5:20ね、いい感じかな」
私は学生寮住まいだから、朝ごはんの時間まで余裕があるからこそこういうこともできる。でも、走ることに時間を使いすぎると大浴場の朝の開放に間に合わなくなるから、意外にシビアなんだよね。
「飲み物…(多分)よし。朝ごはんまでの繋ぎ…よし。一応のお金…よし。ウマホ…よし。うん…行こう」
履いた靴で玄関から出ていつもの道へと向かい、
「…よし、スタート」
アプリのタイマーをつけて走り始める。
私は…私たちを、人々は『ウマ娘』と呼ばれている。科学的には人間に近く、またほど遠い存在である。ビジュアルなんて一般的な人間と瓜二つだ。ただほんのちょっとだけ、人間とは違う。まずは耳。ウマ娘の耳は細長くて、感情によっていろんな方向に向かう。《耳は口ほどにモノを言う》とは、どこか昔のお偉いさんが言ったそうだ。次に、私たちには尻尾がある。多くのウマ娘の尻尾の長さは基本年齢に比例して長くなる。といっても尾椎が長くなるのではなく
そして何より、私たちウマ娘の最大の特徴にして、人間にない特徴。
———脚だ。
見た目は人と変わらない。しかし、本質的に異なっている。
強く、速く、脆いのだ。
軽く流すだけでも40㎞/hは出せ、本気であれば70㎞/hにだって到達するこの脚が、私たちが私である証明であり、私たちが最も誇れるもの。しかしその速さは、身体の限界を超えると、あっけなく崩壊してしまう。いつしか人は『硝子の脚』と呼ぶようになった。
でも、それでは収まらないのだ。ウマ娘の心は、本能は、魂は、〈走れ〉と叫ぶのだ。
だから、ウマ娘は走る。
…私は、少し違うけれど。
「…ウマ娘のおねえちゃん速いね!ビューンってくるま追いこしててすごかった!」
なんてことを考えていたら、目の前が赤信号になって止まっているときに隣から幼げな声が聞こえた。軽自動車の窓から朗らかな笑顔が出ている。危ないでしょ、という声とそれに対して低音で苦笑する声が車の奥のほうから聞こえる。どうやら家族のようだ。
「…ありがと、でもまだまだだよ」
「そうなの?でもすっごくはやかったよ?」
「いや、まだまだかな…ところで、今日レースするって知ってる?」
レース。それは私たちが走りあう場所。そして…努力を、夢を、栄光を賭けて競う場所。世界的エンターテインメントの一つであり、競技大会でもある。そして、私たちが目指す場所。
「うん!お父さんに見たいっておねがいしたんだ!…もしかしておねえちゃん出るの!?」
「私はまだ、かな」
「…そう、なんだ」
そう言うと、見るからに残念そうに俯く。
「がっかりしないで。私がデビューするの、待っててくれる?」
「…うん!」
無事に笑顔を取り戻せたようだ。よかった。
「…信号変わるから、ちゃんと座りなさい」
「は~い、おねぇちゃん、またね!」
そう言って顔を引っ込めてすぐに信号が青に変わった。直進する隣の車と進行方向が違うので、申し訳ないがお別れだ。
そうして脚を速めて道を曲がっていく。過ぎていく景色に意識が向かなくなり、五感が勝手の情報が認識できなくなっていく。自身の中へと埋没するような感覚と共に、ただ前を向いて走る機械へと変わっていく。
———不意に、今朝のことを思い出した。
懐かしいことを夢に見た。
つい2年前の、1年前の現実を見た。
二人ともが、後ろの誰にも追いつかせずにゴール板を駆け抜ける姿に惹かれた。猛々しくて…それでも消えない美しさがあって。だから彼女達が走るレース中継はずっと見ていられたし、聞いてられた。それこそ当時のアナウンサーの実況の台詞なんて全文暗唱するくらい序の口だし、今じゃイメージだけで二人と並走するくらいなら当然できる。
そして多分、二人のレースをずっと見ていたその頃からだろうか…私自身が〈走りたい〉と思うようになったのは。レース映像なんかを見ていくうちに〈あの舞台に立ちたい、二人が見た景色を見てみたい〉と漠然とした思いが芽生えたのはその時からなのかもしれない。
この朝のジョギングもその頃からずっと続けている。一日も休まずにだ。最初のほうなんて自分のスタミナのなさに驚いたものだが、《継続は力なり》とはよく言ったものだ。例えば青信号に間に合わず、消費していた体力を回復する時間が日を追うごとに減っていくことが多くなったりしているのが最近の成長の結果だろうか———
pppp…pppp
唐突のアラームが鳴ることで私の意識はやっと浮き上がった。
1時間後に鳴るように設定していたタイマーがしっかり機能していたようだ。荒い呼吸をしながら今の景色を見渡すと、いつの間にか寮の門の前についていたらしい…ということは、
「時速は…約42㎞……ふぅ、やっと第一段階クリア…か」
この調子だと、到達目標までは遠いなぁ…ま、また明日も頑張ろう。
明日への意気込みが若干湧いたところで持っていた飲み物を傾ける。…うん、おいしい。一滴も飲まずに運動をやった後の飲み物はなんとも言えない充足感だ。少々病みつき気味になっていて正直ヤバい。事実、朝練を始めたばかりの時や夏の間はこれのせいで脱水症状による頭痛に悩まされたりした。逆にやる気は出たけどね。
「お疲れさん、今日も早いな!」
靴を脱いでいるところに後ろから快活な声が軽く響く。
…ちょっと痛い。
「…おはようございます、寮長」
「寮長はやめとくれよ。アタシのことはヒシアマ姐さんとでも呼びな!」
朝から快活な声を出すウマ娘の正体は、ヒシアマ姐さんことヒシアマゾン。学年的にも走者としても私の先輩であり、私の居住している美浦寮の寮長である。彼女は才媛蔓延る中央でも、特に名誉あるG1レースを複数優勝している選りすぐりのスターウマ娘だ。
「分かりました…アマゾン先輩」
「強情だねぇ…まぁそれはそれとして、今日はどうだったんだ?」
「……まぁぼちぼち、といったところでしょうか」
「……ふぅん?」
靴をしまい終わった私と目を合わせながら、あからさまに訝しむような表情をこちらに向ける。ジロジロとひとしきり私を見たあとに口を綻ばせて、
「ま、そういうことにしといてやるよ、そろそろ朝食の時間だから早く汗を流してきな」
先輩の言う通り、奥のほうでガヤガヤと
「…わかりました、寮長」
といってそそくさとその場を後にして奥のほうへと向かう。
「ヒシアマ姐さんと言ってるだろう!」
まったく…素直じゃないやつだなぁ…なんていう先輩の台詞など私には聞こえていないのだ。そう、聞こえていないのだ。大事なことなので二回言った。なので先輩の一言には一切反応せずに寮内の自分の個室へと向かう。
実を言えば、この問答だって今日が初めてだったわけじゃない。それこそ私が朝練を始めたくらいの時からずうっと同じような問答を続けている。一日欠かさずだ。多分本人も分かったうえで茶番に付き合ってくれているのだと思うと立派に寮長していると思う。そういう素質があるからこそ年の差関係なく仲良くなれるし、問題児や幼い子供にも好かれるのだ。
部屋に着いたら前日に用意していた着替えを出して部屋の中にあるバスルームへと向かう。それぞれの部屋には簡易的なバスルームを完備しているところは素直にすごいと思う。ウマ娘も性別的には女の子なので肌艶や美容・化粧といった類には敏感なのだ。
シャワーで汗を軽く流せたら止めて、速く確実にタオルで拭く。そのあとは制服を着て軽く化粧を施す。ようやくよさげに見えたのでメンコをつけながら急いで寮内の食堂に向かう。しかし50分という時間では少々足りなかったようで…バカみたいに混んでいる。正直に言って耳が痛くなるくらいうるさい。しかしもう慣れたもので列に並びながら献立を確認する。料理人から湯気の上がる料理が丘ぐらい乗ったお椀たちをもらって空いている席を探す。きょうはなかなか運が良く、空いている席を見つけてささっと座る。これがひどいときは5分以上見つからない時がある。
(いただきます)
心で唱えて野菜から食べていく。…うん、美味しい。
周りの喧騒をBGMにそのまま食べ進める。周りの子たちのように談笑しながら楽しく食べるということはない。
———心が、揺れる。———
「ごちそうさまでした、おいしかったです」
と言って空になった食器の乗ったお盆を返却口でいう。ありがとさん!なんて気前のいい返事を片耳で受け取ってその場を後にする。
さて、もう制服には着替えているので教科書やペンやいろいろと入っている鞄を持っていざ登校である。
「…行ってきます」
彩りが右に寄っている部屋を後にする。
さて、現在時間にして8:30ごろである。教室の自分の席について1限目の授業の教科書やノートを机に置く。しかしやることがないので残りの時間をつぶすために音楽を流す。足と腕を組み、目を閉じてその時を待つ。おもむろにゆったりとした洋弦の調べが周りの喧騒をかき消して耳の中へと入っていく。低音のモノローグの後の重なる音による穏やかさと豊かさによって心の揺れが収まっていく。
…4ループ目が終わって五回目が始まる前に切る。授業開始五分前ちょうどである。軽く頭を振って脳を覚醒させながらノートを開いて、前回の授業の内容を思い出しつつ軽く教科書を流し読みする。
「さて、授業を始めます。68ページを開いてください」
先生の声とともにチャイムが鳴る。
起きたままを維持しにくい午前中の授業が終わったら、待ちに待った昼休憩である。昼ご飯を食べるなり、友達と話すなりして束の間の楽しい時間を過ごせる時間である。
チャイム音をゲートが開く音と勘違いしそうなくらい一斉にクラスメイトが駆け出すさまは何とも単純だなとは思ってしまう。10秒もすれば教室にいるのはたった3人である。
そこに新たに教室か入ってくる娘と少し遠くにいたクラスメイトが少し駆け足気味に隣の席の娘へと近づいてくる。
「「いっしょお昼ご飯食べに行かない?」」
「…なぁおまえら、いつも言ってるよな?俺にかまう必要はねぇってよ」
「そんなこと言ってぇ~いいでしょ?ねぇ?」
ズズッと顔を寄せていく。
「だからなぁ…!」
「アハハ!あきらめてお縄につけぃ!」
「…ったく」
このように、この時間になると他クラスからとクラスメイトの生徒にお隣さんはいつも話しかけられる。あからさまに呆れた顔で席に立つ姿を確認した。
「さて、一人は確保したと…」
そう言うと栗色の髪がたなびいて顔をこちらに向けてくる。
あぁ、いつものやつか…
「さぁ、君もだよ!」
さっきの二人が今度はこっちに寄ってくる。
「…私は、結構ですよ」
「そんなこと言わないでよ!君も来てくれたら楽しいもん!ねぇファイン」
「うん、もちろん!私も来てくれたら嬉しいな!」
ファインモーション。海外からの留学生…なんてくくりでは他の生徒は一切見ない。だって名家出身だって言うんだもの。噂じゃ王族に関わりがあるって聞くもの。怖いよ。
「ファインモーションさんがそんなこと言わないでくださいよ…」
断れない一番の理由は…私には聞こえるんだ。遠くのほうで息を殺す音が聞こえるんだよ。ザーって音…スケルチっていうそうだけど、その音がとにかく怖いよ。そのせいで断った時の未来が怖いんだよ。素直に。
二人してまた顔をズズッと寄せてくる。やめてください心が痛みます。
「…わかりました」
…観念していつもの返事をする。多分この時、絶対お隣さんと同じ顔をしていると思う。
「やった!」「よし!」
「なぁ、お願いだからファインモーションさんに確認取らないでよ…アグネスフライト」
アグネスフライト。彼女と初めて対面する際の皆の第一印象はまず『明るい性格』である。そのめげない姿勢はいったいどこから来たんでしょうね…
「……だってそのほうが確実なんだもん、なぜかは知らないけど」
知らないほうがいいこともあるんだよ。ホントに。
「おい」
鶴の一声かのようにさっきまでの声が静まって、3人して声のするほうへと向く。
「しゃべってねぇでさっさと行くぞ」
お隣さんはもうすでに教室を出ていく寸前だった。というかそれだけ言って廊下を歩きだした。
「そうだね!行こう行こう!」
「おぉシャカール、乗り気になったのか!」
エアシャカール。理詰めな考え方と、少し直接的な表現をよくする私の席のお隣さん。
正直に言って彼女の考え方は、嫌いじゃない。
シャカールを追いかける二人の背中を少し遅れて私もついていく。
でも、教室の中でこれだけは言い残したかった。
「エアシャカールだって、さっきまでごねてたくせに…」
本人には聞こえてないことを切に祈るばかりである。
場所は変わって食堂。
生徒達の和気藹々とした雰囲気と奥の厨房から漂ってくる芳醇な香りが空腹を呼び起こす悪魔の領域である。二人に連れてこられた私もこの空間に入ってしまったせいで腹の虫が叫ぶ準備を行っている。流れ作業のように受取口から注文した料理をトレーに乗せて三人の姿を探し歩く。
「こっちこっち~!」
「そんなにアピールする必要あるの?」
「なんとなくだよ」
「それでいいの?」
「いいんじゃないかな?」
あやふやな二人の返しに少々呆れている会話の中にシャカールは混ざらず、ただ黙々と口にご飯を運んでいる。円卓の最後に空いている席に座って合掌しながら〈いただきます〉と心の中で唱えておいしい料理たちを口に運ぶ。いつもの味でありがたい。
「それで午後の時間、みんなはどうするの?」
唐突にファインが切り出した。
昼休憩の後はトレーニングの時間として割り当てられている。普通は一人の教官による合同練習だ。合同練習は比較的短時間で終わるため後の時間は自主トレーニングに時間を費やす生徒が多い。一方で『トレーナー』と呼ばれる人との担当契約を結んだ生徒は、そのトレーナーの指示に従って各施設を使用したトレーニングを行ったりするが、私はもちろんシャカールもおそらく自主トレのタイプであることは言うまでもない。
「そのことで~…私、発表したいことがあります!」
フライトがニマニマと自慢とも煽るとも取れる笑顔をする。
「えぇ!なになに!?」
ファインはきらきらとした目で続きを促している。反対に私とシャカールは何の反応も見せず黙ってく食事を進めている。
「実は私、担当トレーナーができたんです!」
「ほんとに!おめでとう!それでトレーナーさんはどなたなの?」
「それがね…フラワーちゃんと一緒のトレーナーなんだ!」
「あのトレーナーさんなんだ!周りからすごく評判がいいって噂の方だよね!」
ニシノフラワー。飛び級という優秀さとの引き換えに、同級生に比べて小柄な娘だ。それでいて実力と実績でもって強さを証明した生粋のスプリンター。その担当は二転三転したが、あの子のトレーナーという印象は、一人しかいない。そのトレーナーを私が知らないわけがない。
「そうそう!決まった時にもう嬉しくて嬉しくて…部屋に戻った時に軽くはしゃいじゃったくらいだよ!」
「いいなぁ~…私はまだ見つからないんだ~…なんでだろう?」
「わかんないけど…必要なのは探し続けることだよ!頑張っていこうよ!」
「そうだね、頑張ればなんとかなるよね!」
「そうそう!…ところで、二人はどうなのさ?」
矛先がついにこっちに向いてきた。
「知るか」
一言。それだけで流れが切れた。円卓の上では黙っていた二人の食器しか動いていない。
…私から切り出すべきか?でも残念ながら提供できるネタはない。流れを止めまいと二人がマシンガンのごとく猛追撃するが、その効果は薄いのかだんまりを決め込んでいる。しかし流れが始まったのも、観念したのか意外にもシャカールからであった。
「…鬱陶しいくらいストーキングしてくる奴なら、いる」
しばらくのフリーズの後、たちまち二人は色めきだつ。
「え!?マジ!?あたし全然知らないんだけど!」
「そうだよ!なんでそんな大事なこと言わないの~!!!」
「こうなることが解ってたからだろうが!!」
―――クソが―――
という言葉が幻聴とは思えないほどはっきり聞こえた。二人の猛攻を何とかいなしたり黙秘したりとてんやわんやな状況を見ながら考えを巡らせる。
…そうなんだ。シャカールでさえもうトレーナーに注目されているのか。そして咀嚼している中で私は勘付いていた。多分、シャカールはその人とトレーナー契約を結ぶつもりだと言外に示しているんだ。想像するに考え方とか気性面で多少折り合いがついていなさそうだけれど、それでもこの人でいいと思ったんだろう。
基本的にトレーナー契約の形態は大きく二つに分かれる。一つは生徒とトレーナーが一対一の専任タイプと、多対一の兼任タイプの二つである。
シャカールが他の生徒と並走するとは思えないから、おそらく専任してくれるトレーナーを選んだんじゃないか…いや、兼任のトレーナーの方が監視の目が届かないからこそ、自分で勝手にメニューを弄っても問題視されないとも考えそうだ。
考えを巡らせていくうちに自然と箸が止まる。
…あぁ、私は何をしているのだろうか。彼女たちを見ていると、とてもまぶしく見える。
眩みそうになる。みじめに思える。でも、どうしようもない。今の私には、何も…
……やめよう。とにかく、私はやることは変わらないのだ。
「…ごちそうさま」
「はやいよ!まだ話聞いてないんだけど!?」
そう言ってトレーを持って静かに席を立つ私に向かってフライトが言う。フライトの眼だけを見て、何も言わずに立ち去ろうとすると、
「おい」
シャカールから、声がかかる。
「…なに?」
「17時、展望デッキ」
「…わかった」
彼女の目的は全く分かっていないが、そう返答して返却口へ向かう。
ご飯を食べた後、トレーニングまでの時間をどう使おうか考えを巡らせる…何も考えが浮かばない。取り合えず校内にある噴水の周りにあるベンチの一つに座ってとりあえずウマホを出してネットニュースやSNSの情報を流し読みする。
「…へぇ。あの先輩海外遠征するんだ。それで…その同期が今週レースに……あ、今日火曜日だ」
時間つぶしをしていると何やら向こうから和気藹々とした一団がやってくる。
「それで、次のお茶会はどこでなさいますの?」
「たまにはカフェテリアでいいんじゃない?」
「休日も生徒の数は多いし、学校だと周りの生徒の方が落ち着かないと思うけど?」
「ゆるりとした気分で楽しみたいですし、屋敷で行うほうがよいのではないですか~?」
「そう?あたしはまた別の場所にしてもいいと思うけどな~」
「別の場所とは…具体的には?」
「それは…うぅん……カラオケとか?」
「…お茶会、というよりももはやお出かけになりますわよそれは…」
「…私は、ここでよいと思うのです」
「ここ?噴水前ってこと?」
全員がティアラのように編み込んだ芦色のウマ娘のほうを向く。
「えぇ。ピクニックの感覚で各々が好きな茶菓子を持ち寄るというのも、一興ではありませんか?」
「ですが…肝心のお茶はどうしますの?美味しくいただくには少々難しいのでは?」
「それについてはご心配なく。お姉さまが持っていらしてくるそうですわ」
「えぇ!?来てくれるの!?」
「えぇ、是非にと」
「そうなりますと…大変ですわね~。何を持ってくればよいのかしら…」
「あたしもどうしようかな…合いそうなのが浮かばないや…」
「そもそも、何をお持ちになるか想像もつきませんわ…。慎重に選ばねば…」
「ねぇ、手伝ってくれる?」
隣の子の袖を軽く引く。
「わたくしもご一緒させてもらっても~?」
「うん!…あたしも自信ないんだけどなぁ…」
「ではここで開くということでよろしいですか?」
全員が肯定の言葉をつたえる。
「では、そのように。さっそく生徒会の皆様に許可をいただきに行きましょうか」
「許可、必要になるの?」
「お姉さまのことですもの」
その一言でなるほど、とみんなが頷いていた。
「ではなおさら気を引き締めねばなりませんね…!」
「ちょっと入れ込みすぎじゃない?気楽にいこうよ」
「そうも言っていられますか…!わたくしはとっておきの逸品を取り寄せますわよ…!」
全員がその娘の瞳の中に何か違うものが映るような幻覚が見えたのか、少し引いていた。
「みなさん…なんですの?その眼は?」
「焦ってる子を見るとかえって落ち着くってこと、あるよね…」
「なんですの!もう…」
「あ、そろそろ時間だね。ごめん、もう解散でいい?」
全員が首肯する。
「ありがと、それじゃおっさき~…もしもしトレーナー?」
そして一人離れる。
「そうだね。二人とも後で予定合わせとか考えようね!じゃあね!」
「うん、またね。私もそろそろ本腰、入れないよね」
「えぇ、またあとで~…わたくしも、仕上げてまいりませんと…ね」
「では私も失礼します。えっと、今日の予定は…」
「…なぜ、わたくしばかりがこんな目に…」
それぞれが離れていく中でぽつんとひとり残っていた彼女の背中は小さくなっていた。
波打ち際のさざ波がだんだん凪いでいくような感覚を得る。にさっきの一団の全員の姿が散り散りに見えなくなってから、背景に徹していた自身の体を一気に伸ばす。
どんな会話内容であろうとも感じてしまう高貴なる姦しさとはあの雰囲気のことを言うのだろうけれど、浄土にいる如来同士の会話を聞いたところで六道に住まう者たちに理解できるはずもないものだ。表現に多少バイアスがかかっていたとしても、感覚は似ているだろう。
…よかった、覚えていなくて。
一瞬の解放感を感じた後だが、時間だ。合同練習に参加するべく静かに目的地へと走る。
トレーニング施設近くの総合更衣室に持ってきたジャージ類や飲み物をロッカーに置いていそいそと着替える。
飲み物とタオルを持ってトレーニング場に来た頃には大体の人数が集まっていた。練習用のレースコースの外側に参加する生徒たちの持ってきたボトルが集まって置いてあるところに自分のも置かせてもらう。
チャイムが鳴り、教官が指示を出す。と言っても、指示される内容は通常と変化がないので分かり切っている。最初は軽く走ってからのストレッチ。その後は任意もしくは教官に指示されたコースでの併走トレーニングになるので、私はウッドチップのコースを選んでそこまで移動する。まだ組まれていない生徒がいないか探すと、同じようにキョロキョロしている生徒がいたので早速声をかける。
「こんにちは。併走、いいかな?」
「もちろん、内外どっちがいい?」
「内でいいよ」
「ありがと」
そう言っていると、教官に順番が来たので走るように促される。コースの上に出て内側にいる私が一歩前に出る。
「スタート!」
教官の声と共に駆け出す。最初のほうはウォーミングアップ程度の速度を出しながら、だんだんと足を速めていく。カーブに入るまでにはダッシュに近い速度にまで速める。隣の娘は頑張ってついてきているようだ。直線に入って距離もだんだん私に迫ってきている。それは嫌なので私も少し速度を上げる。
多少迫ってくる雰囲気が薄れたころにまたコーナーが迫ってきた。隣の気配が遠ざかる感覚を得るが気にせず私はそのままカーブに入る。内側の柵が視界の3割を食っているが、それでも隣の娘は体を合わせようとしている。必死に走っているのか息遣いが荒っぽくなっているが、それで地面を踏み締める音が徐々に不規則になってきている。焦るのは分かるけど、それでは前に進めないよ。コーナーを抜けるまでその距離を維持していたが、もう一度直線に入ったところで前に出る。隣の息遣いがさらに荒れるが小さくなる。程々に突き放しながら教官の前を通り過ぎる。
減速のために流している間に柵の内側に入る。疲れを労う声のする方向に寄っていく。お相手さんも同じようにしていたので少し近づく。
「お疲れ様です」
「はぁ、はぁ…うん…お疲れ様…。はぁ、はぁ…凄かった」
「そうですか?」
少し息を整えるために深呼吸を続けている。
「すぅ…はぁ…そうだよ!私ってまだまだなんだなぁ…って思っちゃった」
「私だってまだデビュー前ですよ?」
「それでもだよ!」
かなり強めな語気に少したじろいでしまった。
「…そんなことありませんよ。私もまだまだです」
「そこまでにしないと、もはやイヤミにしか聞こえないよ?」
「そんなつもりは、ないですよ」
「はいはい。教官の話も聞いてほしいぞ~」
ホントに~?という軽い言葉を最後に会話を一時中断して割って入る教官のほうを向く。
「さて…まずは課題が多いほうの君になんだが~…」
「先生もイヤミですか~?」
「からかうにしても質が悪いっての!」
軽く笑い声がこぼれる。教官がコホン、と場を整える。
「さて、レースで追いかける側だった君が気を付けることは二つだけ。何かわかる?」
「仕掛け時とスタミナ管理、ですよね?」
「そうだ。向こう正面で距離を離されたときに焦ったかびっくりしたか知らないが、無理に合わせにいっただろ?そのせいで脚が疲れて最後あたりはしっかりと踏みしめていなかった上にリズムよく走れていなかった。君は見るに脚を貯めて最後に一気に加速したほうがよく伸びるタイプだ。まずはそこを修正しないとな」
「…はい」
身に染みて経験したせいか耳が徐々に倒れていく。
教官の言葉は続き、
「レースは言ってしまえば最後の最後に先頭にいたらいいだけの話だが、先頭にいる方法ってのを詳しく知るには…やっぱり担当のトレーナーをつけて、君自身をよく診てもらわないといけないな。俺は教官だからそこまでは言えないし、その権利を有してはいない」
「それ以外は特に問題はなかったから…ま、今できるのはとにかく焦らないこと、自主練の時には先輩方の走り方をよく見たり肌に感じるのも悪くないと思うぞ」
「分かりました、ありがとうございます!では次行ってきます!」
そして離れていってペアを探しに行く姿を尻目に話し始める。
「そして…課題が少ない方の君なんだが…」
「あるにはあるんですね?」
少し口をもごつかせながら、しぶしぶとつぶやく。
「俺から言えるのは一つだけだ」
「?」
「早くトレーナーをつけてくれ」
「…どういうことですか?」
「教えられることはないし、これ以上伸びることはない…ってことだ」
教官は眉間を指で軽く押さえながら言う。
「君の逃げは現段階で学べる環境下では最高峰に行っていると思う。今回だって後ろにゆさぶりやちょっと煽った走り方しただろ?」
「まぁ…はい」
やったことといえば自分に近づいたころに速度を上げたり、速度を上げたままコーナーに入ったりしただけなのだが。教官によるとその走り方に副次効果があったらしい。意外だ。その程度で心が揺れるものなのか。
「そもそも君自身が本気で走っていると感じないのが問題だ。だからいくらこちらで何か対策を講じたとしても、これ以上は合同教練で成長することはないと思う」
「…そうですか」
教官の言うことも分かりはする。さっきまでコース一周を全速力で走っていたのにもかかわらず、私は疲れていないのだから。
「そういうわけで…はい、これ」
渡されたのは一枚の紙。
「これは…?」
紙には『選抜レース出走登録届』と書いてある。……まさか教官は
「選抜レース、出なさい」
「…え」
気まずそうな顔をしながら言葉を続ける。
「こういうことは強制するべきではないとは思うんだが…君は出るべきだ。君はもっと成長すると確信してる。いくら学園で自身の本格化の段階に合わせて非公式で開催しているとはいえ…出られる回数は無限ってわけじゃないからな」
「言うことはわかります…ですが…」
教官の言葉が頭の中で繰り返される。紙を持つ手が少し震える。
どうすればいい?出るべきだと言ってる教官は正しい。私も理性ではそうするべきだと理解している。でも…と感情が許してくれない。私みたいな半端者が勝負の世界に本当に入っていいのかと、悩んでしまう。戸惑ってしまう。躊躇してしまう。
心が、揺れ始める。
本心に切り替わる前に、教官の声が耳に届く。
「悩んでくれてもいい。でも君がもっと先へ行きたいと思うなら、早く決めることを薦める」
そういって私から紙を取る。
「今渡すべきじゃなかったな、トレーニング終わりにまた渡すから、今はトレーニングをしよう。それでいいな?」
「………はい」
冷えた体をもう一度温めるために、軽く走ってからまたトレーニングを再開した。
併走を2・3回やったあとに合同練習は終了。現在は自主トレーニング芝とダート両方コースで疲れたと判断するまで速度を上げながら走り続けている
「はぁ…はぁ…!はぁ…はぁ…!」
踏み込んだ時に飛び散る土埃が視界をぼかしていく。フォームや踏み込み方は粗削りにしては整っていることから周囲が感嘆の声を上げている。しかし走っている本人の顔は険しい。
(やっぱり、ダートは走りづらい…!力を入れているはずなのに踏み込むタイミングが合ってない…!なにより予測上見えているはずのハロン棒がまだ見えていない!)
次第に脚の運ぶリズムと踏み込みのタイミングが疎らになるせいでフォームが徐々に崩れ出していくことで疲れが限界に近づいた。
(…もう、むりぃ…)
ずるずると足の回転が遅くなっていき、最後は流しながら速度を落とす。そのまま柵の外に出て座り込む。熱さとだるさを帯びているふくらはぎと心臓を落ち着かせながら、汗をぬぐったり冷えた水を飲んで体を休ませる。冷感が体中に留め置かれている熱を消していくのが心地いい。
「…今何時?」
首以外がストライキ気味なので仕方なく首だけで周りを見回す。…16:50か。
「…あ」
時間まであと10分。
「許してくれるかなぁ…」
そんなことをつぶやきながら、いつまでも慣れないダートを走った後の体を言い訳に疲れと熱を逃がすことに専念する。
「来たな」
軽く冷えて疲れた体で展望デッキに来ると、シャカールが相変わらず誰かを射殺しそうな目を携えて私を見る。時刻は17:01。みごとに1分だけ遅刻したのが理由だろう、いや絶対にそうだ。
「…それで?今日はなに?」
「このレース見てくれ。意見が欲しい」
そういいながら自前のラップトップを開いて何か操作した後にその画面を私に見せる。何かの動画らしい…いや、レース映像か。
…このゲートの位置と風景は…東京の1600、9人立てか。
ゲートが開いて全員が一斉に飛び出す、審議のランプが光ることなく淡々とレースが終わる。
「…聞きたいのはどこ?」
「4角前の…ここからだ」
ビデオを巻き戻して一団が4コーナーに入る直前でテープを止める。
「さっき見たように、着順は6・9・8・5・1の順なわけだ。人気順と真逆な訳だが…まぁどうでもいい。重要なのは詰まる形で直線に入ったせいで後ろが伸びない中で5と6番が伸びたことだ。内に入ったとはいえ進路妨害なく通るには無理があるが…どう見る?」
「…そうだね、3角途中ぐらいに戻してくれる?」
「…やったぞ」
「ありがと、ここ見てくれる?」
そういって指でディスプレイに円を描くようになぞる。そこには2番が一瞬後ろを向いており、高身長に挟まれた少し小柄な4番が姿勢を上げているところだった。
「ここで後続集団を確認していたんだろうけど、たぶん1番の娘は4番のせいで後ろにいた6番と5番が見えていなかったんだと思う。反対にその二人は姿勢を上げてくれたおかげで風の影響が完全になくなった。それである程度スタミナが削れずに済んだんじゃない?」
「だろうな、なら5番が6番ほど伸びなかったのは単なるスタミナ不足だな」
「あとは最初に8番が変に周りをピリつかせたせいだろうね」
「完全に掛った7番が前に出た原因がそれとすると…9番が伸びる理由がねぇ」
「5番を警戒してたとか?」
「根拠は?」
「それも3角前にあるよ、もうちょい前だけど」
「…ん」
「……ここ」
本体をこちらに向けてきた。キーボード操作でゆっくりと目的の場面に戻す。その場面は4番に合わせながら5番が後ろに下がるのを内に入ろうとする9番が顔を向けているところだった。
「……それは4番を見てンじゃじゃねぇのか?」
「たしかにそうかも。…考えすぎだと思うけど、スタート時点で9番は前に行きたがってたことは変わらないから」
「…参考になった」
「……それで?」
いい加減、茶番をやめたかったので、こちらから切り出そう。
シャカールがこの程度のレースで私を呼ぶ理由なんて、言ってしまえばほぼない。
「……はぁ」
そういってシャカールはおもむろに、
そして一気に互いの鼻が当たるくらい顔を近づけてきた。
「お前も出ろ」
「…は?」
一瞬、耳が聞き間違いをしたかと思った。
私には…彼女を知る者にはそれほどの衝撃だった。
「選抜レースに出ろっつってんだよ」
シャカールが…私に…選抜レースに出ろって言ったのか?
あまりにも唐突で、あまりにも彼女らしくない言動に頭が一瞬だけ真っ白になった。
ありえないからだ。彼女が誰かに命令するようなことをすること、
それ自体が異常事態だと判断するのが正常な思考だ…そのはずなのに。
レースに、出ろ?
言葉にしようとするが口が餌を求める魚のように動くだけになっている。
「答えられねぇのか?今、ここで」
「…無理だよ」
「
射殺す目が逃がさないとばかりに私を捉える。口を何とかして動かそうとするが、思うようにいかずに全く声が出せない。
「…そうかよ」
「……もう、帰る」
頭を軽く振りながらゆっくりとドアのほうへと向かい、ドアノブに手をかけると後ろから声がかかる。
「最後に聞かせろ」
沈黙を肯定と判断したのか言葉を続ける。
「お前、名前は?」
ドアをゆっくり開ける。
「今は多分、ね」
光が翳る。
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