気がつけば、もう年末が近くなっていた。アタシがデビューして、一年目の終わり。人生初めてのG1レース。そこを目指して日々頑張っているけれど、全然勝てる実感が湧かない。G2やG3とは訳が違う、G1という重み。
手に持っていたペンが動きを止める。目の前にある画面の中には仕上げに入っているコマがあった。そう、こっちも一年の終わりの祭典が待っている。こんなことをしている場合じゃない、そう思っているけれど、トレーナーはむしろ普段通りにしていた方がいい、と言ってオフの日をしっかりとってくる。
確かに、オーバーワークをして体を壊したら本末転倒だけどさ。
「ドーベルさん?どうかされましたか……?」
アタシの様子を察してか、デジタルが声をかけてくれた。タイキと別れて、この子とも4月から12月まであっという間だった。ときおり、ちょっと、いや、結構な頻度で奇行に走ってるけど、基本的にはすごく良い子だった。アタシの周りにいる子が色々とフルスロットなせいで、ここ最近はデジタルがプライズの次に癒し枠にさえ思えてる。
「デジタル……ううん、ただ、落ち着かないなって」
「ひえぇ、で、出ていきましょうか!?」
「いや、デジタルのせいじゃないから」
そんなことはなかったかもしれない。
ともかく、出て行きそうになるデジタルを引き留める。アタシに引き止められてデジタルは席に戻った。ちなみに、デジタルはもうとっくに原稿を終えていた。筆がめちゃくちゃに速いのに、出来上がったものを見せてくれたらとんでもない仕上がりだったし、描き手の熱量が伝わってくる出来だった。
アタシもデジタルみたいに上手く描けたらなぁ。
「…………えと、恐れ多いですが、な、何かあれば、ご相談に」
心配、かけさせてるのよくないよね。アタシは緊張して、もしここで負けたら、なんて思ってしまう。G1を取るのは簡単じゃない。それどころか、そもそも重賞を取ることさえ難しい。この年末に至るまで、プライズのクラスは特に自主退学した生徒が多かったらしい。
本人は気がついてなかったけど、原因はプライズにあった。同期とはいえ、一年上の先輩にも食らいつくというプライズの実力と走る姿を見て、実力差や覚悟の足りなさに絶望、あるいはプライズ本人に直接敗北し――いなくなった。
外から見たトレセン学園は華やかな、ウマ娘だけの花園に見えているのかもしれないけど、実情はひどく泥にまみれてる。みんな必死にもがいて、力が足りなければ溺れていく。アタシやタイキ、スズカやフクキタルも、デビュー前の間にも先にデビューした子の中で様々な理由があって去っていったクラスメイトをたくさん見てる。
アタシにも、いつかそんな絶望を感じてしまうことがあるのかな。それが、少し怖い。
「気にしなくて良いよ、デジタル。ただの緊張だから」
怖くても、これはアタシ自身の力で乗り越えたい。デジタルは少しだけ悲しい顔をした。
「お、応援してます!ドーベルさん!阪神JF、ウィニングライブは絶対1列目取ります!!」
「あはっ!それ、まるでアタシが絶対勝つみたいだね」
「わわわっ!?す、すいません!すいませんっ!変にプレッシャーを!」
「いいよ、別に。そうだね。こんなアタシでも、応援してくれる人がいるんだもんね」
プライズも言ってたっけ?応援してる人のために負けられませんって、初めて勝った重賞の後のインタビューで。そうだ。頑張ろう。まずはこの目の前のルームメイトのために。
「ありがと、デジタル。ちょっと元気出たよ」
「それは良かったです!ふぁ…」
「え、ちょっ!?」
アタシの笑顔で毎回気絶するのはやめて!?怖いから!
「熱心だねぇ。担当にはあれだけ無茶するなと言っておきながら…とりあえず、電気は点けたほうがいい」
タキオンがそのように背後から声をかける。その声にはあまり感情が乗っていない。呆れてるな、これ。まぁいいけど。
私は手を止め、一度立ち上がった。身体が少しだけ凝っている。ウマ娘といえども、歳というものの影響はどうしても避け切れない。それはたとえ、本格化が未だ続いていようともだ。
タキオンの方へと振り向けば、彼女は制服の上に白衣を羽織っている。いつものスタイルだ。勝負服には絶対この要素を入れてあげようと思う。
私を見る瞳は相変わらずとっても綺麗だった。
「オーバーワークをしている自覚はないよ、私は」
「ククッ……そんなひどい顔でよく言ったものだねぇ」
歩み寄ってきて、白衣余った袖の中からするりと出てきたタキオンの手が私の頬に触れる。少し体温の低いタキオンの手はぞくりとする。より近くに
「疲れていると本性を隠しきれないんじゃないかい?ルックアップミー」
本性?はて、私は裏表なんて無いと思うんだけど、何をこの子は言っているんだか。
「いいねぇ…君好みの言葉をかけるなら…そうだね、そそるよ、今の君は」
反射的に私はタキオンの手を弾いた。軽く、退ける程度に。
「悪ふざけがすぎるよ、タキオン」
「あぁ、すまないね。しかしながら、ひどい顔をしているのは事実だ。休みたまえよ」
妙に優しいタキオン。大抵、こういうときは裏がある。大方、明日に疲れるタイプの実験をやらせるつもりか。明日はドーベルもプライズも完全オフ日だ。つまり、タキオンにつきっきりになる日。疲れていては実験の結果にノイズが出るとかそっちを心配しているんだろうね。
「ふむ。それにしても、彼女たちもついにG1か」
「羨ましい?」
「まさか。私は私のしたいようにやらせてもらうからね。遅いも速いも私が決めることさ」
タキオンは当たり前のように私の横に座り言う。………この子に私ができることは少ない。その走りに魅せられて、手を組んだのに。今は他の子を見ている。それでもいいのか、以前に聞いたがはぐらかされてしまった。
「見ていたのはプライズのデータかい?うん……やはり異常だねぇ」
異常、という言葉に私は意識を仕事へと戻す。目の前にあるノートパソコンの画面にはプライズのこれまでのタイムなど様々なデータをまとめてある。それを見て、タキオンは異常と言った。
タキオンの所感は合っている。そこに並べられたデータは異常だ。
「どのコースでも終盤前までは遅いが、スパートをかけ始めればスピードが落ちていない。大抵はある程度のところで落ちるものだというのに」
ジュニア級ではありえない現象をタキオンは言う。根性。類まれなる精神力。プライズがここまでのし上がれてきた最大の武器。とても十代の子供が持っているものじゃない。……いいえ、私もここまで一緒に過ごしていれば嫌でも噂は耳に入ってくる。プライズが、一体、何者なのか。
けれど、それは今、私の担当しているプライズには関係のないことだ。
かつて、裕二トレーナーがそうしようとしたように。担当の子が3年間を乗り越え、その手に勝利を掴んでもらうために、そんなものは雑音だ。
「プライズの根性は確かにそう言えるかもしれないけど、これ以上の強みはないよ」
「まぁ、そうだねぇ。私もできればやり合いたくない相手だ。このテの相手は易々とデータを根性で乗り越えてくる」
想像を超えるほどの成長速度。それを本番で成し遂げてしまうというのも、プライズのような根性・気合い型のウマ娘の特徴だろう。本当に、ごく稀にいるタイプだ。ただ、それでも、それでもだ。
「ただ、世の中そんな漫画みたいに根性でなんとかはならないんだよねぇ」
「……まぁ、これ見ちゃうとね」
朝日杯FS想定のタイムと、本番で相手となるタイキシャトルの想定タイムを横並びにすれば、どうやっても今のプライズは届かない。根性でなんとかしようとしても、まるで大河のような差が横たわってる。
どうにか作戦で上手くやれないかとこんな時間まで考えたけど、成果はなしだった。タイキシャトルの強烈なフィジカルはこれまでプライズが相手にしてきた者たちとは比較にならない。早仕掛けをしても、まるでガンマンのようにタイキシャトルは一瞬で加速し切ってしまう。領域の片鱗を掴んでるのかもしれない。
「仮に並んでもトップスピードはあちらが上……データ上は完全に詰んでいる」
「………どうすればいいんだろ。プライズのトレーニングはこれ以上負荷をかけちゃいけない」
プライズたちへ課しているトレーニングは限界をきっちり見極めてやってるから、今はこれ以上すればオーバーワークになる。そうなればきっと、彼女たちは壊れてしまう。ジュニア級でG1が見えてくるというのはそういうことなんだ。
ジュニア級で消えていく生徒たちの中にはそうやって、G1を取りたいがために身体を壊して消えていくものもいる。
「可能性があるとすれば…やっぱり、“領域”かな」
タイキシャトルにプライズが勝つ可能性があるとすれば、朝日杯FSの中でプライズが完全に“領域”へと至り、かつタイキシャトルが“領域”を掴まなければといったところかな。プライズは“領域”の中でも感知が非常に難しいハッピーミークの“領域”を朧げながらも感じていた。
それに、タキオンからの報告で“領域”の片鱗も無自覚ではあるものの掴みつつあるらしい。レース中に覚醒することは十二分に可能性がある。
「しかしだねぇ…トレーナーくん。果たして“領域”に彼女の足は耐えられるかな?」
「…………わからない」
プライズの“領域”により発現するものは強烈な加速とそれを持続させる根性の限界値の上昇――と私、そしてタキオンは睨んでいる。加速する、という行為は足に多大な負担をかける。特に、コーナーを曲がりながら、というのは。
プライズの身体はまだ、まだ出来上がっていない。来年の春にはようやくといったところだろう。そんな状態で完全に“領域”へと至ってしまえば…嫌な予測だ。それでも、1%でも可能性があるなら、捨てちゃいけない予測。
私自身、“領域”を手にしたのは最後の、本当に引退となった唯一勝利したG1。今はほぼ完治しているけれど、自爆技とも思える私の“領域”は私の足に容易くヒビを入れた。仕上がっていた身体でも、万全を期してもなお、“領域”へと至って使いこなすのは難しい。ジュニア期でそれができるのは本当に極わずかだ。
「無理をするな、といっても聞かないだろうね。彼女はG1となればおそらく、死んでもいいぐらいの気持ちで獲りに行くはずだ」
「それが問題なんだよね。プライズ、いくら言っても暴走する時はするから……」
物腰が柔らかくて、時に子供っぽいけど、基本は聞き分けがいい子。周囲からはそう思われていると、情報を集めている時に聞いた。けれども、プライズはそんなに“
何か、どこかで“矯正”を受けていたのかもしれない。それが彼女の本質を大きく覆い被しているだけで、レース時の勝利への執着は私でさえも鳥肌が立つ。
その時のプライズはとても十代とは思えない。もっと大きく見える。
「どうするんだい?いっそのこと、出走取りやめにするかい?」
「それはないよ」
出走は辞めない。結局、信じるしか無い。無事にレースを終えて、帰ってくることを。
“信じる”。私の、トレーナーとしての心得の中で一番大事なことだ。
――信じているよ、ルック。君なら、きっと。僕がいなくても。
――私が、証明します。トレーナーさんの言葉は全て正しいって。あなたの言葉を信じて、勝ちます。
裕二トレーナーは私の勝利を信じた。私も、もらった言葉を信じて勝った。たとえ、裏切られても、私は信じ続けて、結果を得たんだ。だからプライズを信じる。あの子を勝たせることで、“トレーナーさんが正しかった”と証明するために。
「…………あはっ…」
「…重症だねぇ」
「なんか言った?」
「いや何にも。プライズはいいが、ドーベルはどうなんだい?」
言われて、私はドーベルのデータも出す。そこにあるのはプライズと比較するのもおこがましい仕上がりだ。
メジロドーベル。プライズと同じくスカウトした彼女はまさしく時代の寵児となるに相応しい能力を持っていた。スカウトした時、メジロの本邸で当主の“おばあさま”とやらに私の心の奥底を見透かされたのが怖かったけど、無事今は担当してるので問題ない。
「さすがだねぇ。このデータだけでもかなりの才能があるのがわかるね」
「うん。こんな子がまだあと二人もいるわけで…この世代のクラシックは怖いね」
プライズと比べて、その精神力は劣るかもしれない。けれども、広い視野とその視野から得た情報をしっかり処理して実行する判断力は桁違いに高い。もし、ウマ娘のパラメーターなんてものが見えたら賢さだけが今は非常に高いかも。
彼女もまた、裕二トレーナーの教えを活かしやすい子だ。それに気安く接することができる相手にはとっても“素直”で“良い子”だ。私が悪い男の人だったら「いい子だ」なんて言って頭を撫でてしまいそうなほどに。
メジロで施された基礎と、私がやったトレーニングの結果は見事なまでにメジロドーベルの才能を開花させつつある。マイル、中距離におけるずば抜けた差し足。冷静にコトを運べれば炸裂する強烈な加速。プライズがいるおかげで「私がしっかりしなくちゃ」と思っているのか、掛かることもない。
あの名門メジロのウマ娘でありながら、柔軟性もある。つくづく、面白い子だ。担当できて嬉しく思う。
「年末のG1でプライズやドーベル、タイキシャトル、スズカくんは世に知れ渡るだろうねぇ。くくっ…実に観察し甲斐のありそうな面々だ」
タキオンは貴重なデータが得られそうで嬉しそうだった。私も、楽しみだ。裕二トレーナーにかけられた心無い言葉、私にも向けられた蔑むような目。トレーナーさんは何も悪くない。悪いのは世界だ。だから私が証明するんだ。
私を見てください、トレーナー。今の私を、どこでもいいから。見て、また言ってください。君なら勝てる、信じてるって。
「悪いね、ライズ」
「良いよ別に」
久々に家に帰ると夫がまぁひどい環境で生活していたので掃除をしてお昼ご飯を食べていると申し訳なさそうな顔をする。いやいや、これぐらいはさせてほしい。今日は完全オフの日だというのであとは家でゆっくりする。
リトちゃんは友達と遊びに行ってるらしい。学園で友達ができてよかった。
「それにしても、ついに君もG1か」
「応援、きてくれる?」
「勿論」
優しい笑顔で応えてくれる彼に、私は自然とつられて笑顔になる。
「……ルックとはどうだい?」
「ん?よくしてくれてるよ?」
「そうか」
ルックさんのことも裕二くんは気にかけてる。そりゃそうだよねぇ、心配にもなるよね。おまけに私も心配で。
「心配性すぎだよ。ルックさん、あなたに似てしっかりしたトレーナーさんだよ」
「君の活躍や、チームメイトのメジロドーベル君の活躍を見ればそれはわかるさ。よくもここまで仕上げた、とね」
「奥さんに言う言葉〜?それ〜」
「あぁすまない。つい、トレーナーとしての言葉が出ちゃったね」
やっぱりトレーナーに戻りたいのかな?戻りたいよね、きっと。私が、勝てば、彼も戻れるのかな?
「……未練がないと言えば嘘になるけど、もう戻るつもりはないよ」
「え…」
まるで見透かしたかのように彼は言う。どうして…?
「ルックはよくやってくれてる。守らなくてもいい私の教えを守って、彼女なりに形にしてみせた。もう、私があそこに戻らなくても、私の為したことは無駄ではなかったと、そう思えてるからね」
「ゆうくん…」
優しい顔は、誰に向けられてるのだろう。ちょっとだけ、嫉妬した。
けど、ルックさんがよくしてくれているのは本当だ。最短でG1に参戦できるのがどれだけ凄いことか。クラスから消えていく子たちのことを見て身に染みてわかってる。それを引きずっちゃいけないって表には出してないけれど。
「ねぇ、私を見て」
「見ているよ」
「朝日杯FS、私がどうなっても、私だけを見て」
「……勿論」
ちょっとだけ、嫉妬した、というのは訂正しなくちゃいけない。すごい嫉妬した。だから、次のレースは絶対に負けたくない。
タイキちゃんと、朝日杯FSのあとにどうなってしまうかはわからない。でも、私には時間がないかもしれないから。
――我儘を言うな、相手を立てろ、気を遣え、より取り入られ、優秀な種を手に入れろ。
いい子、その皮を被せてきた思い出したくもない顔が過ぎる。癒着しすぎたそれをレースだけは剥がさせてくれる。きっと、次のレースで私のことも世間に広まるだろう。なら、もう私が本当はどんなウマ娘なのかバレてしまってもいい。
だから、私を見て。見ていてほしい。夢を掴むために、私は逃げないから。