パドックが終わり、ゲートに入る直前。体は今にも走り出しそうなくらいにやる気が湧き上がっているのに、相変わらず私の心の中は凪いでいた。こういう気分の時、夫は冷静なリトちゃんに似てるって言ったっけ。
観客席からの視線は悪感情のようなものもあるし、実際に野次も少しだけ聞こえてきた。この歳で勝負服を着ていることや、そもそもこのレースに大人である私が出ること。どうしたって、それは出てくる声だ。
それでも……それでも、私は今日、このターフの上で走りたい。私の前を行く、タイキちゃんに勝ちたい。ここにいるみんなに、ここで私は走ってもいいって、認めてもらいたい。
レースのスタッフたちの誘導が始まって、私たちもそれぞれ指定のゲートの中へと入っていく。私のレーンは大外だ。隣に入った子は私をチラリと見て、すぐに前を向く。この子はそんなに、私に対して悪い感情を持ってないのかな?
『さぁ、始まります。クラシックへの登竜門、朝日杯¬フューチャリティーステークス!』
聞こえてくる場内の実況。私の初G1が、始まる。目を閉じる。ここに立つだけでも、ほんの一握り。勝負服を着ることだけでも、名誉あること。そして、レースに勝利できるのは更にその中の、たったの一人。
それが、私は欲しい。昂ってくる心が、私を子供に戻していく気がした。目を開ける。冬空は晴れ渡って、碧いターフが広がってる。少し足踏みをすれば確かな感触が足裏にあって、良バ場であることがわかる。
『スタート前に改めて注目株のウマ娘を紹介しましょう!やはり、まずはここまで無敗!本日一番人気!このままダートもターフも全て開拓するのでしょうか!?タイキシャトル!』
スタート前の紹介。タイキちゃんの名前が出る。無敗のダートも芝も走ってみせる彼女は相手からすれば脅威以外の何者でもない。ハッピーミークを育て上げた桐生院トレーナーの次世代。注目度は高いのは私でもわかる。
それでも、私がこのレース、勝ちたい。
『続けて、人気こそ6番と落ち込みましたが、その体のどこにそのような熱を秘めているのか!?URA史上初の20代でのG1初制覇なるか、プライズ!』
2番人気から5番人気まで飛ばされて、私が紹介される。どよめきが伝わった。なんで私をわざわざ紹介するのか。無敗のタイキちゃんと異色の私を並べて、話題作りのつもりなのか。隣から舌打ちが聞こえた。
前を見続ける。今日は、出遅れるわけにはいかない。
――タイキシャトルは恐らく逃げでくると思う。それも、大逃げ。
ルックさんが控え室でこっそりと私にだけ教えてくれた予想。圧倒的なフィジカルによるゴリ押し。私を倒すために桐生院トレーナーは影すら踏ませないようにするだろうと。ならば、倒す方法は一つしかない。一呼吸どころではない、大幅な早仕掛け。それも、いつもより前で。
ルックさんは無茶をしてもいいと、今回は許してくれた。今日のレースが終われば、年明け、しばらくはレースの予定がないからだ。無茶のケアに時間を当てる。体の方も春とは比較にならないぐらい成長しているから大丈夫、とのことだった。
『なんとこの二人、学校では同じ寮のルームメイト!友人同士とのことです!遠慮なしの勝負に期待したいところです!』
付け足されたかのような情報に私はだから、と思った。ルームメイトで、友達で、私がタイキちゃんのことを好きでも、ここでは関係ない。遠慮なしの勝負?それは当たり前だ。私がここにいるだけで、誰かの夢を壊しているかもしれないのに、遠慮なんてできるはずがない。
『各ウマ娘ゲートに入り体勢整いました』
スタート直前。私は構える。このレースはきっと高速展開だ。けれど、コースはコーナーに入れば緩やかな坂。私は決して速度を坂で緩めない。危険を覚悟。決死の直下降をしなくちゃならない。でないと、最高速で劣る私が勝つことは難しいから。
静まり返る場内。集中する。
『この一戦が何か大きなうねりを生み出すかもしれません!さぁ、今、ゲートが……』
あなた、リトちゃん、ルックさん、スズカ先輩、フクキタル先輩――そして、ドーベル先輩。見ていて、私を。
『――開いた!朝日杯!スタートです!』
音を立て広がるゲート。私は過去一番のスタートを決める。位置は差しを目指して、速度は緩めない。ただし、そのまま進路は外に。内からタイキちゃんが大きく伸びて先頭に立った。ルックさんの読みは当たっていた。
タイキちゃんの背中に、スズカ先輩の影が過ぎる。けれど、風のように駆けていくスズカ先輩と違って、タイキちゃんの逃げはまるで強引に切り拓いていくような力強いものだった。
第3コーナーまでの直線で周りの動きは大きく分かれた。無理について行こうとする子…あれはさっき、地下バ道で私に声をかけてきた子だ。必死に、掛かってるから、今はいい。タイキちゃんにはきっと勝てない。
逃げと追う一人に続いて、二人の先行策の人。ものの見事に大逃げに釣られてオーバーペースになってる。以前のルックさんの破滅的な逃げや、ドリームトロフィーリーグでの逃げとそれ以外の駆け引きを見ておいてよかった。
私はいつもより前目につけて速度を維持する。この私の位置の周りに残りの子たちがいる。差し、追込狙いの子たちだ。タイキちゃんが落ちてきたら食おうという気だろう。待ってて勝てるほど、タイキちゃんは甘くない。私の友達は、本当に強いのだから。
マークは見事にタイキちゃんに移っていくのがわかる。数人が私をブロックしようとするけど、外に逃げようとすれば無理にはしてこない。タイキちゃんに引っ張られている以上、無理に私をマークして遅れれば終わりだってわかってるみたいだ。
ここも、ルックさんの読みが当たる。私とタイキちゃんではどちらの方が強いかと言われれば、今の状況では全員がタイキちゃんを指すだろうね。だから、ルックさんは「きっと君のマークはここ最近のレースで一番薄いはずだ」って言っていた。
利用しない手はない。
「はぁ…はぁっ…はぁ…!」
早くもハイペースで息が上がってくる子がいる。私も苦しいけど、我慢する。最後まで走り続けなくちゃ、勝ちの可能性もなくなってしまうんだから。
タイキちゃんの背中は遠い。追いかけてる黒い髪の子は必死だけど、フォームも崩れかけて、完全に破滅していく。
第3コーナーへと入って、緩やかにバ場が下っていく。速度が乗っていくけれど、私はほんの僅かに溜めを作る。息を入れて、かつかつの酸素を増やして、頭を回転させる。
そうしてから、ゆっくり速度を上げていく。周りはそれよりも速いけど、後半に全てをかけてるのか動きはない。タイキちゃんはきっと保たない。そう願ってるように見えた。
マークは完全に外れた。前は開いてる。第3コーナーが終わり、第4コーナーへ。レースが終盤に移るにはまだ早すぎるここで私は、仕掛ける。曲がりながら、一気に加速をかける。坂のおかげか、いつもより速度が乗る。けれども、まだ、まだこれじゃタイキちゃんには届きそうもない。
周囲は出遅れた、息を呑む声がはっきりと聞こえた。後方集団は今からスパートをかけようとする。もう私の視界には入ってこないから、知らない。
もっと、もっとっ、もっと!私は、加速して、速度を上げて、タイキちゃんの影をッ!
「とど、けっ!」
大きく、蹴った。その瞬間、私の視界が、違う、世界が、変わった。なに、これ?私はレース場にいたはずなのに。
そこにあったのは一筋の光の道と、その先にある光り輝く優勝カップ。そこに目掛けて、私の横を何かの影が通り過ぎていく。どくん、と心臓が大きく鳴った。やめて、それは、その輝きは私のだけのもの。私がほしいもの。出遅れた私は、それを掴もうと駆け出す。影は速い。速くて、このままじゃ私のものが奪われる。それは嫌。足を動かす、動かして、もっと先へと急ぐ。
影を追い抜いて、追い抜いて、追い抜いて、私の前には誰もいなくなる。カップに手を伸ばす。影も横から伸ばしてくる。
――届いて、この先にっ!
視界が開ける。ターフの上、レース場に戻った。途端に、私の胸の奥が爆発したかのように力が沸き起こる。体がまるでなくなってしまったかのような高揚感。感じたこともない力でターフを蹴る。大きく加速が伸びて、その上で、速度もなぜかもっと上がる。
あぁ、そっか、これが“領域”なんだ。
「嘘っ…!?」
私の領域を感知できてしまった子が悲鳴のような声を残して置いていかれる。坂を使ってもっと速度を上げる。視界が見たこともないぐらい早く通り過ぎていく。
コーナーの出口。先行の二人が私に気がついて目を見開く。遅いよっ!
追い抜いて、最終直線の坂に入った。もっと、もっと速度を伸ばしていく。息がもう保たない、足もフォームを維持できるか崖っぷち。なのに、まだ、いけると思える。歓声が耳に届く。心が燃え上がる。勝ちたい、絶対に、勝ちたい。叫びそうになりながら、私は進む。
あぁ、どうしてだろう。なんでだろう、段々と楽しいと思えるようになってきた。このレースが、楽しいって。まるで、走れること自体に喜んでるのかな、私。
「なんで、どう、してっ……!」
タイキちゃんについていった子を抜かそうとすると、少し彼女は踏ん張って…完全に終わった。崩れていく。ボトボトになった足取りはもう、私を止めるには足りない。もう私の前にはタイキちゃんしかいない。スパートをする直前、間に合った!
タイキちゃんの影を踏む。彼女がチラリと私を見て、わずかに驚く。驚いてから、楽しそうに笑った。いつもの、遊ぶ時のタイキちゃんのように。私の足が、タイキちゃんの先に行く。その瞬間だった。
――ここからホントの、真剣勝負デース!
耳には届いていないはずの声が、まるで心の中で響いて、微かな銃声と砂塵が舞い、タイキちゃんが加速した。
「!?」
目を疑うような、0から100に一気に伸びたかのような速さ。差が開く。
「くっ…!」
それでも、私は諦めずに足を動かす。下り坂を越え、最後の急な上り坂。もっと差が開く。届かない。今の私じゃ。けど、次は――絶対にッ!
『タイキシャトル!今ゴールイン!圧倒的な実力差を見せつけ、レースを支配してみせました!2着にはプライズ!その差は5バ身差!やはり高速レースは辛かったか!』
ゴール板を通り過ぎた私はターフの上で膝をついていた。体は燃えるように熱く、息は苦しく、このまま呼吸が詰まってしまいそうだった。
悔しくて、負けてしまったのが申し訳なくて、それなのに、なんでだろうか。とても、楽しかった、と思えてしまうのは。
「プライズ!」
「あ……」
顔を上げれば、目の前にタイキちゃんが膝を立てて私の前にいた。わざわざ視線を私に合わせてくれている。彼女も、かなり消耗しているのがわかる。こんな真冬なのにものすごい汗をかいて、まだ息が整っていない。
けれど、タイキちゃんもまるでたくさん遊んだ後のような楽しさの余韻が残っていた。
「タイキ、ちゃん」
「ダイジョウブですカ?」
「もう、少しで、息整うと思うよ」
目を閉じて、息を整える。タイキちゃんもこの間に息を整えているようだった。
そうして、しばらく、私はようやくまともに話せる程度には息が整った。
「ふぅ、ありがとう、タイキちゃん」
「ノープログレム!」
「それで、どうしたの?このあと、タイキちゃんはウィナーズサークルに行かないと」
タイキちゃんはこのレースの勝者だ。勝者には、ウィナーズサークルでのインタビューが待ってる。だから、このままコース上に残るわけにはいかない。なのにタイキちゃんはまるで私を待っていたかのようだった。
「プライズ、今日はとーっても!レース、エンジョイできました!」
楽しかった、と彼女は笑顔で言った。突き放される瞬間に見えたタイキちゃんの笑顔。待っていた、という顔。あのときの楽しそうな彼女は――そう、初めて見た“勝負が楽しい”という顔だった。
「プライズが来た時、すっごくゾクゾクしまシタ!そうしたら、ソウルがエクスプロージョン!アオイが言ってた、ゾーンに入ってました!」
「やっぱりタイキちゃんも入ってたんだね」
「YES!プライズもデスか?」
「うん」
「お揃いデース!」
「え?わっ!?」
ちょ、ちょっとタイキちゃん!?いきなり担がないで!?
あろうことか、タイキちゃん、立ち上がると私のことを抱えていきなり肩車してきた。観客席から歓声があがる。
「タイキちゃん、なんで肩車!?」
「今日はプライズとレースで楽しくて!アンド!プライズとゾーンもトゥギャザーできましタ!だから、みんなからお祝いされちゃいマショウ!」
タイキちゃんは私を肩車したまま観客席に手を振る。私はどうすれば…と思ったけど、私への声援もあることに気がついた。あぁ、そっか。私は、今日は、こんなにたくさんの人の前で走ったんだ。観客席を埋め尽くす、たくさんの人。ドーベル先輩たちや、リトちゃんたち家族、学園の他の生徒たち、見知った顔もある。
自然と私の顔が綻んでいく。完膚無きまで負けたのに、それなのに、こんなにも私は。
「すぅ……ありがとうございまーす!」
気がつけば、その声援に返していた。手を大きく振った。観客席がもっと沸いた。敗北の苦い気持ちは声援に塗りつぶされる。これが…これが、トゥインクルシリーズ!
たくさん手を振ってから、私はタイキちゃんに降ろして欲しいと伝えると、タイキちゃんはあっさりと私をターフの上に降ろして、向き合ってくれた。
…なんて大きい相手なのだろう。いつもよりも、もっとタイキちゃんが聳え立ってる。見上げる先に、彼女は何故か自慢げだった。
「フフン!今日はやっと、プライズをみんなに認めてもらえマシタ!」
「……ありがと、タイキちゃん」
タイキちゃんも、心配してくれていたらしい。きっと、肩車をしてくれたのはこのためだ。言葉でどれだけ感謝を伝えようにも、伝え切れない。だから、私は手をタイキちゃん差し出す。
ノータイムでタイキちゃんは私の手を取った。
「タイキちゃん。今日はありがとう。それに、とっても速かったよ!」
「センキュー!プライズ!プライズも速かったデース!」
「そうかな?でも、タイキちゃんの方が速かったよ」
「プライズ、スズカみたいなコト言ってマース」
「あはは、そうかも。ねぇ、タイキちゃん」
私は、初めて“私”として、タイキちゃんを見た。蒼い瞳。いつも、ベッドの上で、学校の中で、練習で走って、ずっと春から見てきた瞳が見開かれた。
「――次は、負けないよ。私が、勝つの」
「Oh……」
驚いたようなタイキちゃんの表情はすぐに、破顔した。
「OK、プライズ。――受けてタチマース!」
いっそ、獰猛とも言えるような好戦的な笑みがタイキちゃんの表情として踊る。視点は違う。速さもまだまだ。けれど、ようやく私とタイキちゃんは今日、対等になれた気がした。
「ま、今日はタイキちゃんの勝ちだから、何かご褒美あげちゃおうかな」
“私”を出すのもそこそこに、ようやくいつもの調子に戻ってきたのでつい私はそんなことを言ってしまった。これが、言っちゃいけなかった。
「うぅーん、それなら…プライズ、今日は帰ったら、一緒に寝てもイイデスカ?」
「え?それぐらいならいいよ。そういえば、最近はレース近いからやめてたもんね」
大したことがない約束。レースのためにお互い、変に情をかけないようにと、意識してここ最近は一緒に寝てなかったので、まぁいいか、と。
そしてこのご褒美はたった数分後のインタビューで、タイキちゃんが自慢げに披露してしまった。……言ってしまった手前、やってあげないわけにも行かないのちゃんとその日の晩は抱き枕になってあげた。
「あっははははっ!不倫って!」
「笑わないでくださいよっ」
朝日杯FSの翌日。お疲れ様会という名のトレーナー室の片付けに駆り出された後に、ドーベル先輩のお茶を飲みながらルックさんが言った言葉がこれである。爆笑するルックさんの前には例の暴露記事を載せた週刊誌がまたあって、表紙には“歳下への淫行か!?不倫か!?”とこれはまたお下劣な内容が踊っていた。
うん。懲りてないね!今回は私が迂闊だったけどさ!
「ククッ。やはりこの手の連中は簡単には折れないねぇ。どこまで理事会が怒るか見ものだよ」
「あははっ、そうだね、タキオン。この会社潰れちゃうんじゃない?」
多分半分は本気で言ってそうな感じだなぁ。実際トレセン学園のスキャンダルってこれまでもあったけど、どれもこれもすぐに沈静化してたらしいので、こんな連続で話題が続くと理事会が本気出しちゃうらしい。
「タイキもなんで言っちゃったかな…」
ため息をつきながらドーベル先輩は最後に彼女自身のお茶を淹れ終えたのか私の隣に座った。いつも思うけど、ドーベル先輩も大概私との間に隙間がない。案外、甘えん坊さんなのかな?
タイキちゃんの気持ちはわからないでもない。一緒に寝るの我慢すると決めたときの泣きそうな顔たるや、写真に残しておきたいぐらい可愛らしく、実際一緒に寝た時はものすごく可愛い寝顔だった。これは写真を撮った。
「まぁまぁ、ドーベル先輩。タイキちゃん自身に悪気はないから、許しましょうよ」
「そりゃそうだけど」
「そうだよ、ドーベル。こんな三流記事、冗談半分で流しておくのが吉だよ。どうせ今回はすぐに消えるし」
「細かいことを気にしすぎるとよくないよ、ドーベル君」
「はぁ……そう」
なんかドーベル先輩がすごい疲れている!?なんで!?
「さぁて、美味しい紅茶も入ったことだし、お疲れ様会を始めようか」
「労われる側が1から10まで準備したことについて何か言うことないの?」
「ありがとうございます!」
ノータイムでルックさんが深々と頭を下げた。ドーベル先輩の目つきが、その…ものすごい、ゴミを見るような冷たすぎる目になってる…!怖っ!タキオンさんもなんでか頭を下げてるのはちょっと面白いけど。
「いやぁ〜ごめんって。最近余裕なくて部屋汚くなっちゃって」
「ルックさん、私たちのためにあんまり寝てなかったですもんね」
「ぷ、プライズ?どうして知ってるの?」
「娘がよく夜更かしするので、なんとなくそう思ってたんです」
リトちゃんはよくゲームをして夜更かしするのでそこはダメだよって言ったけどなかなかやめられないんだよねぇ。寮暮らしになってからもっと悪化してそうだけど大丈夫かな……?
ルックさんは娘と比較されたことに乾いた笑いを浮かべていた。
「は、はは…流石に見抜かれてたかぁ」
「アタシも気がついてたよ」
「デスヨネー!」
「形無しだねぇ、トレーナーくん」
肩を落とすルックさんへの追撃の言葉はトドメを刺すには十分で、深くため息をついていた。こういうところなんだろうなぁ、夫と相性良かったの。一生懸命で、頑張りすぎちゃう感じが。
「ま、気を取り直して、改めて……プライズ、ドーベル。お疲れ様。無事1年目を乗り切ったね」
切り替えの速さは流石だなって思う。それにしても、彼女の言った通り一年目がこれで終わってしまったわけだ。戦績は私がデビュー戦含め2勝2敗。ドーベル先輩は3勝1敗だ。悪くはない成績だと思う。
「ドーベルは私が担当して初めてG1を取れた子になってくれて…本当にありがとう」
「なんか、そう言われるとちょっとむず痒いね」
素直な賞賛にドーベル先輩が照れてる。とっても可愛い。ルックさんの目もこの時ばかりはタキオンさんとは似ても似つかない、ルックさんそのものの瞳になってる。いつもそうならみんなから距離取られないだろうにね。
「プライズも、怪我なく無事に、それにG1で2着になったのは本当にすごいよ」
「ありがとうございます。ルックさんの指導のおかげです」
感謝をルックさんに伝える。実際、4月からレースに関わってG1の上位に食い込むのはありえないレベルの話だ。これも全部、周りのみんなやルックさんの指導があってのもの。
「君たち二人はこれで来年からクラシック級のウマ娘になるわけだけど……きっとそのうち、同じレースで走ることもあると思う」
私とドーベル先輩は目を合わせる。まだ、実感がわかない。けど、もうタイキちゃんと戦ってしまっている。つまり、避けては通ることができない。
「もちろん。そうなった時に私はどっちも勝てるようにトレーニングをする。どっちかに肩入れなんてことは絶対にしないから安心してほしい」
ルックさんの真っ直ぐな視線に私たちは頷いた。次の一年も、彼女について行こうという意思確認のようなものだった。
「私としても君たち二人が戦うのは楽しみだよ。どんなデータが取れるかねぇ」
「タキオンさんはそこなんですね」
「“領域”に達したプライズ、君に感化されることでドーベルくんがどういう変化を起こすのか……早く見たいんだよ私は」
タキオンさんは相変わらず私たちを実験の対象として見ているのは変わらない。“領域”を使用した朝日杯のあと、全身をくまなく検査して足を少し痛めてることに気がついてくれたのは助かったけど、モルモットってこういう感じなんだなぁって気分だった。
なんの目的があってそうしているのかはわからない。でも、いつかは彼女がレースで走っている姿を私は見てみたい。
「“領域”か……」
「どうしたのドーベル?」
「ううん。なんでもないよ。ただ、アタシにも、いつか見えるのかなって」
「それは君次第だと思うねぇ」
“領域”はウマ娘それぞれで全く異なるものだって朝日杯の後でタキオンさんは言っていた。実際、タイキちゃんに見えた領域はまるで西部開拓時代の荒野らしく、それで発現した力も全く別のもの。ドーベル先輩の領域はどんなものになるんだろう。
「ドーベルにもきっとそのうち入れるよ。私だって“領域”に至れたんだから」
「……焦っても、しょうがない、か」
「そうそう」
“領域”が欲しいと焦って潰れてしまうというのはタキオンさんの以前の説明で出ていて、無茶なトレーニングで潰れてしまう子が後を絶たない。限界以上まで追い込んでも平気だったウマ娘は過去ほんの一握りだったらしい。
ちなみに、そのほんの一握りが宝塚2連覇を成したライスシャワーさん。靴を何足も潰すほどの過酷な追い込みトレーニングをして、私とおんなじぐらい小柄なのに、レース後のライブでちょっと足を挫いただけで済んだらしい。すごいね…。
「まぁひとまず、難しい話はこれぐらいにして、パーっとやりましょ」
「トレーナー君。人の用意したお菓子やお茶は美味しいねぇ」
「そうだね。ドーベルがいて助かったよ」
難しい空気はここまでで、楽しい雰囲気に変えようとしたのだろうけど、ルックさんはどうしてこう、言葉選びが下手くそなんだろうか?タキオンさんは素だけど。
隣に座るドーベルさんの顔を見たら、それはもう恐ろしい笑みを浮かべていた。さっきまであったルックさんへの信頼とかが丸ごと消えていた。あ、これ、娘に怒るお母さんの顔だわ。
「アンタたち……いい加減にしなさーい!」
「ひぃ!?」
ルックさんの悲鳴がトレーナー室に響き渡り、その後しばらくルックさんとタキオンさんは説教されることになる。うん、いつも通り!
あ、そうそう、チーム名がようやく決まったんだよね。クラシック級後半には種目別チームレースに出なくちゃだし。
――チーム名は“フラガラッハ”。ルックさん曰く、けると神話?に出てくる剣が由来らしい。どんな鎧も防げない剣で、私たちの差し足と掛けたんだって。なんかカッコいいね…。ドーベル先輩は恥ずかしそうだったけど。
12月の終わり。ジュニア級のもう一つのG1、ホープフルステークス。人々はついに、異次元の世代を認識することになる。
『サイレンススズカ!サイレンススズカが粘る粘るっ!先週のタイキシャトルよりも更に強い逃げ!大逃げです!』
『メジロブライト!二番手まで上がってきましたがこれはあまりにも…!』
まるで朝日杯の焼き直し、しかし、もっとそれは絶望を伴い歓声すらも止む。
「こんな奴ら、どうやって勝てっていうのよ…!」
一人のウマ娘の言葉が、全てを代弁していた。
扉は既に開かれ、世界は異次元に飲み込まれつつあった。
ドーベル「…ってことで、チーム名がケルト神話由来なんだけど……」
デジタル「斬り抉る戦神の剣……ってコト!?」
次回で完全にジュニア級が終わります。
プライズの固有はこんな感じです。
固有スキル名:届いて、この先に
<効果説明>
根性があればあるほど、少し早めにスパートをかけ、加速し、更に少し速度を上げる。
根性がものすごくあると、誰よりも早くスパートをかけ、すごく加速し、速度も上がる。
根性が高いほど効果量が高くなる上に誰よりも最速で加速します。