ルックアップミーというウマ娘。ついこの前私のトレーナーとなった彼女は夫がかつて私を助けるために全てをかなぐり捨てる直前まで担当していた子だ。当時は夫からの話でしか知らず、子犬ように大人しかったらしいけれども…。
「えっと、これは捨てちゃダメな書類で、これもダメ、こっちも捨てちゃダメ。あ、これはいいよ」
「なんで大事な書類もこんな床にぶち撒けてるの!?」
今はひどくズボラな女の人だった!同じく彼女の担当となったドーベル先輩があまりにひどい有様にとうとう怒鳴ってしまうほどに。ドーベル先輩、基本的に初対面の人には若干人見知りするタイプなはずなのだけど、あまりにあんまりなルックさんの有様にあっという間にそうも言ってられなくなった。
あのスカウトの日は強引に片付けていたのか、たった数日でこんなゴミ屋敷のような状態になるとは思ってもみなかった。部屋のにおいは大丈夫なのはせめてもの救いか…ううん、なんか変な薬品みたいな臭いはしているけれども。
「ふぅん…やはり気になるものかねぇ」
「タキオンも見てないで手伝って!」
「おや、チームの先輩にそんな――いや、やろう」
ドーベル先輩がキッと睨んだ相手は私たちよりも先にルックさんが担当している“アグネスタキオン”さんだ。確か結構いいお家のお嬢様だった、ような気がするけどスカウト翌日に初めて会って開口一番に「やぁ君がプライズくんだね!早速だがちょっと色々、お付き合いしてもらえないかい?」と何かしらの実験をされそうになった。ドーベル先輩が護ってくれたけど。
タキオンさんの目つき、なんかこう…妖しいというか、正気じゃなさそうというか、トレーナーさんの瞳に似ている?逆に似てしまったのかな。とにかく、なんか怖い。
ただそんな人でもドーベル先輩の怒った時の睨みには勝てないのか、すごく嫌々だけど部屋の片付けを手伝い始めた。
「あぁ、トレーナーくん。そういえば昨日のはどうだったかな?」
「あれ?あれはなんか、暗いとこ行くと目が光るようになったし暗いところがよく見えるようになったよ」
「そうかい。あとでレポートを出しておくれよ」
「おっけー」
おかしな会話が聞こえてきて思わずドーベル先輩と目を合わせる。目が光るってなに?ここ数日で、ルックさんの体が発光するというのは知っていた。ドーベル先輩も「発光するトレーナー」の噂は聞いたことがあったらしい。でもまさかルックさんとは思わなかったそうな。これはタキオンさんがまだデビューしてなかったり、ルックさんがわりとそういうことは極力隠れてやっていたから。
――うぅ…知ってたら断ってたのに
とはスカウト後の初回ミーティングで全身がなんかものすごい様々な色に発光し続けるトレーナーと爆笑するタキオンさんを見て言ってしまったドーベル先輩である。うん、気持ちはわかる。本当にちょっと、いいえ、かなり大丈夫かなと思ってしまったからね、私も。
ぶち撒けられている書類をちらりと見た。何かの督促…というより、タキオンさんはいつデビューするんだという書面だった。いやこれ無視してていいの?
「あの、タキオンさん。この書類は」
「ん?あぁ、ずいぶんと懐かしいねぇ。それはもう捨ててくれていい」
「え?でも」
もう一度書類に目を落とすと、確かに日付は去年の9月ごろのものだ。それがなんでまた床に転がってるんだろう。この前私たちが5人でこの部屋にきた時はもしかして、どこかにこの書類も一緒に鮨詰めにでもしてたのかな。
私が書類を見ているとタキオンさんはサッと書類をひったくってビリビリに破くと、さらに丸めてポイッとドーベル先輩の横に置いてある口を広げたゴミ袋の中に投げ入れた。ナイスシュート。
「私はまだデビューしなくていいと、もう学園からお墨付きを貰っているからねぇ」
「そんなことあるんだ」
「ドーベルくん。色々と人には事情があるものだよ。ねぇ?」
なぜここで私に目線を向けてくるのかな!?いや、タキオンさんは“知って”いてもおかしくないっ!ある一定層の階級の家の人は、私の“産地”を知っているはずだから…!でも、ルックさんは気がついてないみたいだから、タキオンさんは言わないでくれている?なんでだろう。
それ言ったらドーベル先輩が知らないのは不思議だけど、あんな話、こんないい子には言えないよね。知らなくて当然かな。
「…詮索はしないよ。アタシも」
「フフ、やはりメジロ家のご令嬢ともなると、そのあたりは弁えているんだねぇ。助かるよ」
あの〜〜?無茶苦茶相性が悪くないですか?ドーベル先輩とタキオンさん。ドーベル先輩の表情がもう、固い。いつもの私たちといるときのような柔らか、くはないな。ボケに走った時のスズカ先輩とかになんか言ってるときは特に。
まぁいつも通りの調子だから大丈夫か!
「プライズ?なんか失礼なこと、考えてないかな?」
「な、なななんでもないよ!そんないつも仏頂面して――あっ」
「ぷ〜ら〜い〜ず〜!」
「ひーん!」
口は災いの元〜〜!!
色々とありながらもなんとかトレーナーの執務室は綺麗になった。なったけど、やっぱりなんか薬品っぽい臭いは消えてないし、タキオンさんが制服の上から着ている白衣からも消毒液みたいな臭いがする。窓開ければいいかな。あとで。
「まったく。最近はプライズまでスズカたちのほうに寄っちゃうんだから。ダメだよ?しっかりしないと」
「ごめんなさい…」
ドーベル先輩はため息をつきながらそんなことを言ってるけど、まぁその…まだ私はスズカ先輩みたいにぐるぐるどこでも回ったり(一時期一緒に回ってた)、タイキちゃんみたいにいきなりグラウンドでBBQしだしたりとはないから…。フクキタル先輩?フクキタル先輩はもう勝手にテント立てて占いの館したりするから、うん。
「ククッ…君らを見てるとまるで母親と娘のようだね。ドーベル君はいい母親になれそうだ」
「あ、それは私も思います!」
「君が言うなら間違いなさそうだねぇ」
「ちょっと、何言ってるの!私まだそんな歳でもないし…」
「失礼失礼。あぁ、せっかくだし紅茶を淹れてくれないかい?君はそのあたりうるさいのだろう?」
「くっ…好き放題言って……!」
そう言いつつ、しっかり紅茶淹れようとするのがいけないんだと思うんだ、ドーベル先輩。いい子すぎるのも考えものだなぁ。
ドーベル先輩がお茶を準備している間、私たちはミーティング用のテーブルに着いた。タキオンさんとルックさんは並んで、私たちの席は向かい合う形となる。
「タキオン、いきなり後輩をパシリにするのは流石によくないと思うよ?」
「すまない。実は前のルームメイトから彼女が紅茶を淹れるのが上手いと聞いていてね」
タキオンさんの前のルームメイトって誰なんだろう。こんなぶっ飛んだ人(失礼)と一緒って大変じゃないのかな?
「デジタルが言ったの!?」
「あぁ、そうとも。そういえば君のルームメイトだったね、今は」
「ほ、他には何か言ってた!?」
「いや特に」
「そ、そう…」
ドーベル先輩がなんか妙に焦ってるけど、デジタルさんってタイキちゃんが言ってたアグネスデジタルって子だよね?リトちゃんも前見かけたって言ってたけど、まだデビュー前でめちゃくちゃ歌が上手いって聞いたな。
それだけだと何もわからないけど。
「アグネスデジタルさんってどんな人なんですか?タキオンさん」
「どんな人…というと、少なくとも善人ではあるねぇ」
「うんうん。いい子だよね」
タキオンさんの評にルックさんも同意する。でもさ、言い方からしてなんか、変な人であること隠してない?
「才能も正直に言えば悔しいが、かなりものだね。アレはおそらく相当大成するね」
「わかる。なんでもできそうだもんね」
「…ますますわからなくなりますね、それ」
なんでもできるようになる?才能がすごい?リトちゃんの歌が上手い情報も入れるとなんか完璧超人っぽくなっちゃうけど。たぶん、そうじゃないんだろうなぁ。
ドーベル先輩はどうしたんだろうと目を向ければなんかちゃんと、いや、すっごいしっかりした紅茶入れ方されてない?む、蒸してる。
「む、これは期待できそうだね」
「確かにいい匂い。タキオンも上手だけど」
「褒めてくれるのは嬉しいが、これは彼女の方が上手だね」
とてもゴミ屋敷状態の部屋にいるような人たちには思えない会話なんだけど、本当に大丈夫なのかな、この人たち。なんか微妙にいちゃついてないかなしかも。
「仲いいですね」
「そう見えるかい?」
「私は仲がいいと思ってるけどね〜」
「って、言ってますけど?」
「一つ言わせてもらうならば、被験者には快く接したほうが色々とスムーズだろう?」
ものすごい悪い顔して言ってるよ。どう見ても悪の科学者にしか見えない。実際学園でのタキオンさんの評価はだんだん噂が届いてきたけど、どう聞いても悪の科学者だった。なんで退学になっていないのか不思議なぐらい。
ルックさんもそれでいいのかな?と思ったけど彼女も既に目が妖しいのでまぁ、もういいのかな?
「はい、お待たせ」
話してたらドーベル先輩が紅茶を淹れ終えたのか、カップをそれぞれの前に置いた。私よく紅茶はわからないからあれだけど、すっごくいい匂いなのは素人でもわかる。
「勝手にやったけど…あの茶葉すごい高いよね…?」
「あぁ、気にしなくていいよ。私の私物だからね」
「え、普段からあんなの淹れてるの!?」
「嗜好品こそ手を抜かないほうがいいのさ。モチベーションに関わるからねぇ」
「なんか一理あるのがまた…」
紅茶はおいしかった、としか言えない。タキオンさんやドーベル先輩はすんごい色々話してたけど私にはちんぷんかんぷん。我が家では紅茶は徳用のインスタントばかりだ。夫もリトちゃんもジュースばっかりだからね。
「おいしい紅茶ありがとう、ドーベル」
「どういたしまして」
「さて、それじゃあ記念すべきチームの初会合をはじめよっか」
どんどんぱふぱふ〜、って言おうと思ったけどドーベル先輩が疲れているのでやめておいた。今日私たちがこの部屋にいるのは何も部屋の掃除をするためではなく、この名前すら決まってないチームの初会合を行うためだった。
その前に、学園ではトレーナーさんが担当を1人だけ見るというのは珍しくはないけれど、大抵は“チーム”として複数担当することが一般的だ。完全に新人トレーナー、という状態だと1人だけ担当することのが基本だけど、二年目三年目ともなれば違うらしい。
ルックさんは別のトレーナーのところでサブトレーナーだった頃があったらしく、それで私たちを受け入れられたようだった。
で、チームを組むということはチーム内で併走とか模擬レースとか色々トレーニングにも幅が出るし、切磋琢磨して相乗効果があるとのこと。挑戦する路線が被ってると厳しいけど、そうでない場合はレースでの“コツ”を教えあったりすることもあるらしい。
幸いにもドーベル先輩とは脚質も近いうえに、挑戦する路線も異なるのでいい関係を築けそう。もう現段階でものすごい面倒見られてるのはなんか申し訳なさがあるけどね。
「会合と言っても顔合わせだろう?」
「確かにそうだね。でも、ウマ娘がこうやって集まったところで、顔合わせだけで済むと思ってるのかな?」
「君のそういう熱血なところは嫌いだよ、トレーナーくん」
「「?」」
どういうことかわからず、私とドーベル先輩は首を傾げた。ルックさんは私たちの反応を見るや否やバッと立ち上がって着ていたスーツのジャケットを勢いよく脱いだ。すると、そこに立っていたのは白を基調に青がところどころワンポイントとして入っているドレス…勝負服を纏ったルックさんだった。
「いや、キツイね」
「ひどいっ!」
タキオンさんの容赦のない一言にルックさんは崩れ落ちた。いや、うん。デザインは今でもルックさんに似合ってていいんだけど、その、なんというか、微妙にルックさんが成長したのか、ちょっとだけサイズが“一部”合ってない。
「と、トレーナー、勝負服自体は合ってると、思うよ?」
「ドーベルのフォローも辛い!けどありがとう!」
端的に言えば胸元がだいぶ苦しそうなおかげで、キツく見えているんだよね。それで走ったら色々とまずいと思う。それにしてもなんで着て…あ、そういうことか。
「トレーナーさん」
「なにかな、プライズ」
「もしかして、今回の顔合わせはみんなで走るってことですか?」
「そう!そのために気合いれて着てみたんだ!」
「「体操着にしたほうがいいと思います」」
思わずドーベル先輩とハモってしまった。
「だよね!着替えてくる!」
流石にルックさんはわかってくれたのか着替えてくると室内の簡易更衣室へと入っていった。よかった。あのまま走られたら大惨事だった。
「しかし、よくあのドレスをスーツの下に着込んでいたね。さて、じゃあ我々も着替えてグラウンドに行こうか」
「タキオンが仕切るんだ」
「そりゃあねぇ、一応、このチームのリーダーになるからねぇ」
変に責任感強い…根はいい子なんだろうなと思うけど。噂通りならこんな会合にも顔を出すことはなさそうだものね。
「トレーナーくん、今日は私も走ろう。いいかな?」
「タキオンがいいなら良いよ〜!」
どうやらタキオンさんも走るらしい。どんな走りをするんだろう。
というわけで、全員体操着(トレーナーも)着替えて練習コースへとやってきた。ドーベル先輩だけ体操着はいわゆるブルマだ。ドーベル先輩の足、きれいなんだよね。私は子供体型なのでなんか頼りない感じだけど。
「よーし。じゃあまずはランニングで行こうか」
ルックさんが言う通り、まずはコース上をランニングすることになった。ちなみに柔軟はもうやってあるのであとは体をあっためて、というところかな。隊列はルックさんを先頭にタキオンさん、ドーベル先輩、最後に私である。
ランニングということもあってペースはレーススピードからは程遠い。私でも余裕がある感じだ。
「並んでランニングなって久々だぁ。なんか生徒だった頃思い出しちゃう」
「トレーナーは生徒の頃、どんな感じだったの?」
「引っ込み事案だったかな最初は」
「え?」
「そんな驚かなくても…でも、ほんとだよ。そのうちレースじゃそうもいかないからって今の性格になっていったけどね」
なるほど。夫から聞いていた感じと違うのはそれが原因なのかな。レースではお行儀よく、とはいかないから。
「それに、あの頃はこんなタキオンみたいなぶっ飛んだ子もいなかったからね」
「目立っていなかったり、方向性が違うだけでいたかもしれないとは思わないのかい?」
「うーん、少なくとも、私の周りにはいなかったかな。だから面白いけど」
いちゃついてるよね、やっぱり。ドーベル先輩も私をチラッと見て苦笑している。このあたり、ちゃんとトレーナーとウマ娘が信頼関係を築けてる、それも学園一の問題児と、というところがかろうじで私とドーベル先輩が、ルックさんを信じてみようという判断材料になっている。
少なくとも悪い人ではないだろうと。
アップもそこそこに、ランニングのあとは何をするのかと言えば模擬レースだった。
「じゃあまずは、タキオンとドーベルと、プライズ3人で行ってもらおうかな」
「了解だよ」
「はい!」
「わかりました!」
言われて、私たちはいつの間にか白線で引かれているスタートラインの前に立った。コースは芝、右回りで、1600m。マイルの距離だ。タキオンさんが内枠、真ん中にドーベルさん、外に私と並んだ。タキオンさんと走るのはこれが初めてだ。どういう走りをするんだろう。
「一応言っておくけど、あくまで顔合わせだからね。本気になりすぎて無茶したら、私は怒りますよ?」
スタートを切る前に、ルックさんはおそらく私に対して釘を刺した。あくまでこれは交流の一環ということなんだ。うん。流石に早仕かけはやめよ。やったらトレーナーさんもそうだけど、隣で念押しするかのように私を見ているドーベルさんにも怒られる。
だから、タキオンさんを今回は“マーク”してみよう。
「よし、じゃあ位置について…よーい、どん!」
掛け声と同時に、駆け出す。今回は出遅れなしだけど、先頭に立ったのは――。
「ッ…!?」
予想外、と言わんばかりの顔をちらりと見せてきたドーベル先輩。後にタキオンさんが続いているけど、ペースを落としてる?差しの位置につくみたい。なら私は今回、マークもする意味で同じく差しの位置についてみよう。
スタート直後の直線ではドーベル先輩が少しこちらを離していく。タキオンさんは動じずにマイペースで間を空けてついていく。タキオンさんのフォームはこれまでの誰とも違い、なんというか、無駄がない。ターフを叩くと音がずいぶんと綺麗に聞こえてくる。
無駄な力も入っていなくて、軽やか。怪しい雰囲気とは真逆の綺麗さだった。
コーナーに入る。僅かにドーベル先輩の速度が遅くなり、タキオンさんは逆に上がった。私は無理についてはいかず、付かず離れずの距離をタキオンさんと保つ。無理をするならばもう少し先に行ったところで仕掛けたくなるけど、流石に無理はしないでおく。
ドーベル先輩が仕切りにこちらの様子を伺っている。私に気を取られてるのかな…大丈夫。今回は心配しないで。
そんな念が届くわけもなく、ドーベル先輩はそのまま進んでいく。
3人だけのレースで、本気を出しすぎるなと言われている以上、大きな変化はなくレースは進んだ。
コーナーの終わり、コース終盤が近づいた時だった。タキオンさんが増速した。
「では行こう」
短く、呟いたかと思えば、姿勢は低くなり、加速していく。その様があまりにスムーズすぎてびっくりする。スズカ先輩の加速の仕方は風のようで驚いたけど、タキオンさんはまた別、瞬きをした合間にあっという間に速度が乗る。
光。そう、光のような加速感。って、私も見惚れてる場合じゃない!行かないと!
私も加速しようとするけど、遅すぎてとてもじゃないけどついていけない。ドーベル先輩はタキオンさんのスパートの開始より僅かに遅れてスパートをかけはじめているけど、光のように突っ込んでくるタキオンさんに簡単に追い抜かれた。
タキオンさんもスピードの上限がまるでスズカさんのように高いのか差が開いていく。そして、そのままゴール。ゆっくりと速度を落とし、タキオンさんは止まった。私はドーベルさんよりも遅れてゴールに辿り着く。
「ふ、ふたりとも早い」
「ふふ。プライズくん、君は私の姿を見てかなり遅れてスパートしていただろう?ならこうもなるさ」
「よく見てますね」
「ありがとう」
早いだけじゃなくて、視野も広い。デビューもまだしていないのに、タキオンさんってもしかしてすごいのかな?ドーベル先輩はタキオンさんをだいぶ真剣な目で見ていた。
「ん?どうしたんだい、ドーベルくん」
「ううん。ただ…」
「ただ?」
「早いなって。それだけ」
「それはよかった。今のは流しただけだからね」
あの速さで、流しただけ?ドーベル先輩も驚いているのか、目を見開いている。
「まぁ、私が走れる機会はそう多くないが…諸々、整ったその時は楽しみにしていてほしい」
両手を広げて、煽るように言うタキオンさん。今のは本気じゃない。次の機会があれば本気で「叩き潰す」と言わんばかりの言いようだ。ドーベル先輩はそんなタキオンさんの煽りに対して、柳のようにそれを受け流した。ここで乗らないから、ドーベル先輩ってちゃんとお嬢様なんだなぁって思う。
タキオンさんはその様子に少し意外そうな表情をしつつも、話はそこまでなのか「じゃあ次は私とトレーナーくんが交代だね」とコースの向正面にいるルックさんに手を振り出した。
ルックさんはそれを確認すると、すぐに走ってきた。とっくに引退してはいるけど、ウマ娘なので当然全力疾走は早い。ルックさんは確かステイヤーだったので、スタミナは多いのかもしれない。とったG1は中距離だったはずだけど。
「それじゃ、もう一本行ってみよっか」
「トレーナーと走るのってなんか不思議な感じかも…」
ドーベルさんの言葉に私も頷く。夫は当然人間なので併走は無理だ。
「そうだね、ウマ娘のトレーナーもいるにはいるけど、そんなに多くないからね」
ルックさんもそれはよくわかっているのかそのように返して、タキオンさんにクリップボードなどの道具を渡して、スタート地点に並んだ。ルックさんの脚質は私やドーベル先輩と同じ後方より。どういう走り方をするんだろう。
「さて、実を言えば私はマイル以下走るの苦手なんだよね。適正がないの」
「それなら無理に走らなくてもいいのでは?」
ルックさんがそんなことを言うので、私が無理やらなくてもと伝えれば「けどね」と続けた。
「一緒に走らないと見えない部分もあるからね。じゃ、タキオンお願い」
「わかった。位置につきたまえ」
まぁ、走るって本人が言うのなら止めない。そもそも、たぶん私の今の実力でどうこう言うのもね…。スタートはすぐに切られた。
「スタートだ」
「ふっ…!」
タキオンさんの掛け声の直後、飛び出したのはまさかのルックさんだった。どういうこと?逃げ?ぐんぐんと私たちを突き放そうとする。それにつられて、少し私とドーベルさんのペースが上がる。
さっきまでのタキオンさんとのは結局流したような感じに近かったのでスタミナはまだあるので、私たちのペースが上がっていくのは問題ない。
「まだ、伸びるのっ!?」
ドーベルさんの声が聞こえた。言う通り、ルックさんの速度はまだ伸びていく。まるで限界まで行ってしまうような。そんな気がしたところで、ようやくペースが落ち着いた。私たちとの差は6バ身はあるかな。飛ばし過ぎじゃない?
レースが進むと、次第にその差は詰まっていく。あれ、思ったよりもスピード出てない?
結局、最終直線であっさりとルックさんはドーベルさん、更には私にさえパスされて、そのままゴールとなった。
「いやー、やっぱりマイルはダメだね」
「あれだけ飛ばしたらスタミナが保たないよね」
「うん、その通り!でも、2人とも――最初以降は釣られなかったのは偉いね」
「「!」」
私たちはハッとした。そう、私とドーベルさんはあの暴走とも言える動きに「釣られなかった」のだ。結果的にルックさんはスタミナ切れに近い形で落ちていってしまった。実際のレースでもあんな最初から飛ばしたら最後保たない。
“普通”ならだ。
「通常、あんな感じの暴走は、“大逃げ“あるいは“破滅的逃げ“とか言われてるけど、過去にやったウマ娘は例外なく最後、ギリギリ抜かされたり途中で潰れるんだよね。ただ、もしそれに付き合って焦って掛かったりしてしまうと、そんな大逃げがギリギリ逃げ切れることがあるの」
「だから付き合わない、というのは当たり前になってしまうのだが、ククッ、君たちはそうもいかないわけだ」
ルックさんの言う通り、素人でもわかるその対処は私たちには通用しない。タキオンさんが言うように私たちはそうもいかない。
「スズカ…!」
「うん。ドーベル、君の挙げたその名前――サイレンススズカというウマ娘がいる以上、君たちの世代はそんな定石をかなぐり捨てなくちゃいけなくなる」
スズカ先輩、サイレンススズカというウマ娘の存在。それが私とドーベル先輩、タイキちゃんやフクキタル先輩が挑まなくてはいけない相手。結局、5人で走っていて、一度も勝てたことがないのだ。かろうじでタイキ先輩が同着、ドーベル先輩が1/2バ差までいったぐらいだ。
選抜レースの映像は後から私も見たのだけど、スズカ先輩は本当に最初から最後まで差を大きくつけてそのまま逃げ切ってしまったのだ。しかも余裕そうに。一部では実力差があったから、という声もあるみたいだけど、実力差が違い者同士でも詰めるまでが精一杯であることを私とドーベル先輩はルックさんに伝えてある。
「さっきに暴走に付き合わない…その時点で君たちはデビュー前の子の中では非常に優れた判断力を持っていると言って良い。普通なら焦って悩んでそれで掛かる。それがないのだから。でも、それはまともな相手の場合。そうじゃない相手にはこっちも普通じゃまずいんだ」
一度ルックさんは言葉を切ると私を見た。
「そういう意味ではプライズの“早仕かけ”は身体がついてくれば対抗バになりうる。見たところ、サイレンススズカはあの速さで逃げながら、ちゃんと“スパート”もかけているからね」
「改めて他の人に言われると、スズカのとんでもなさがすごい…」
「うん。本当にとんでもないよ。今はマイル戦が限界だけど、あの強みをそのままに正統進化させれば、もう誰にも手が追えなくなる。彼女が逃げて差す前に仕掛けて潰すか、より上の速度で差し切ってみせるか…私が君たちをスカウトした理由の一つはそういった相手に対抗できうる判断力の下地があると思ったからだよ」
私たちが、スズカさんに対抗できる?私が?
ドーベル先輩もちょっと自信なさげだ。
「今はそりゃ自信なんてないだろうけど、これから頑張ろう。さぁて、顔合わせも済んだことだし、今日はこのあと、軽く坂路とかやって終わりにしようか」
そのあとのトレーニングは本当に少しだけで、それで今日は解散となった。
寮への帰り道。私とドーベル先輩は珍しく何も話さなかった。改めて意識してしまっかから。サイレンススズカという最大の壁がそこにいる、ということを。
ラスボス系スズカさん。