歴史if小説01 太平洋は、太平だった 日露戦争if編   作:琉球お爺ぃ

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 日本が、太平洋戦争に突入した理由は、日露戦争で勝ちすぎた結果である。そんな持論で、日露戦争で勝ち過ぎなかった日本という形で、シミュレーションを検討してみました。
 まぁ、これが、今回の歴史ifを書く、起点となっています。

アルファポリスというところで書いている。
 「世界大戦は終わらない」
 背景考察みたいな感じです。



日露戦争は、終わらなかった?

 日露戦争は、1905年2月21日から3月17日にかけて、奉天会戦の敗北と遼陽への後退、追撃するロシア軍を第三軍が強襲して撃破すると、奉天郊外四平にロシア軍は後退した。日本側は死者3万7281名、傷病者7万9,612名となり、参加24万の三割を失う大損害であった。奉天の敗北を受けて、樺太上陸作戦が企画立案され、日本側は樺太へ1905年7月7日に上陸し、全島を占領し、ロシア軍7121名を捕虜とした。1905年5月27日-28日の日本海海戦は、日本軍の圧勝で終了し、帝政ロシアは海上戦力の大半を失う結果となった。

 

 日本海海戦の圧勝と奉天会戦の敗北と反撃によって、終焉を迎えた。戦争の終結は、ロシア軍が奉天郊外四平に後退したが、日本軍に追撃する余力なく、各師団既に弾薬が尽きる状況であった。シナ派遣軍総参謀長、児島太一郎によれば、1年間の戦争継続を想定した場合、さらに25万人の将兵と15億円の戦費を失うとして、戦争の休戦を求めていた。

 

 ロシア側としても、日本側の赤岩次郎(当時、大佐)による、反政府勢力支援の結果として、1905年1月に「血の日曜日事件」が発生し、国内に混乱が生じていた。しかしながら、帝政ロシア政府は、徹底した賠償請求拒否を貫き、領土の1mmも割譲せずという強硬姿勢であった。

 

 1905年8月1日に始まる日露講和会議は、領土と賠償金を請求する日本と拒否するロシアという、平行線で始まった。決裂した場合、帝国陸軍としては、樺太派遣軍を動かすことで、ニコラエフスク上陸作戦およびウラジオストク上陸作戦の検討を始めていた。

 

 日本側の全権を担っていた、古村純一郎は、少なくとも会議が開始される、8月1日から捕虜返還を実行するために半年間を期限とした、停戦についてヴィルトールと合意し、停戦協定に署名したのである。結果として、講和が成立しなくても、捕虜返還が終了する半年間は、停戦期間とすることとなった。

 

 日本軍は、遼陽に後退した派遣軍の再編を進め、尽きかけている弾薬について、国内の備蓄分を送ることで、多少なりとも改善を図ったのである。

 

 日本側は、賠償金の請求が国是となっているが、ロシア側が承諾しないと判断していた。日本側は、御前会議の中で、第二次日露戦争に向けた準備期間という位置づけとして、講和会議を捉え、第二次日露戦争を遂行するための準備期間として10年間を想定し、10年維持可能な講和条件の調整としていたのである。

 

 古村は、当初こちらの要求をロシア側に提出し、日露双方が賠償を相手に請求し、支払いについては講和成立後に、日露は定期的に会議を開催し、継続的な審議事項として、講和条件から保留するという流れを造ろうとしていた。ヴィルトールにしても、講和そのものには賛成であるが、賠償金ゼロ、領土ゼロという前提条件を日本が認めるとは考えておらず、最初の三日間は平行線で終わった。古村から提唱された、双方が戦費に対して、互いに相手に賠償として請求する、相互交渉を別として、講和条項に継続審議事項という流れを作ったのである。

 

 停戦交渉および停戦期間については、交渉が成立し8月1日から半年後の2月1日までとして、捕虜の返還を相互に実施するとしたのである。停戦および停戦期間の公布は、日露本国の了承を得て、停戦条約が締結された。

 

 続く講和交渉の焦点となったのは、樺太の領有権に関する交渉であり、日露双方ともに領有権を主張し、すでに樺太を占領している日本軍の撤退をロシア側が求めていたが、日本側は許容できなかったのである。

 

 旅順を含む、遼東半島の権益はすべて、日本に移管することについては、大きな問題とはならなかったが、奉天の帰属については、日露双方共に領有を主張したのである。

 

 講和条約の中で奉天については、日露双方が領有権を主張する形とし、奉天市街に日露双方共に軍を駐留させないという形で決着したのである。奉天からの撤退を日本側が認めたことで、ロシア側は、樺太からの日露両軍の撤退をも示唆し、樺太の領有権は、日露双方が有しているという提案をおこなったのである。

 

1.ロシアは朝鮮半島における日本の政治上・軍事上および経済上の日本の利益を認め、日本の朝鮮半島に対する指導、保護および監督に対し、一切の干渉をしないこと。

2.日本およびロシア軍は、鉄道警備隊を除き奉天より全面的に撤退し、奉天については、双方が領有を主張する地域とする。

3.樺太についても、双方が領有を主張する地域であり、日露双方は軍を全面的に撤退し、領有権については、別途協議を継続すること。

4.旅順、大連およびその周囲の租借権については、ロシアが清国より獲得した権益すべてを、日本に移転交付すること。

5.ロシアおよび日本は、戦争遂行に要した実費について、双方に請求し、請求の金額・時期・方法については、別途協議を継続すること。

6.戦闘中に損害を受け、中立港に逃げ隠れした、ロシア艦艇については、すべて合法の戦利品として、日本に引き渡すこと。

7.ロシアは、極東方面について、海軍力の増強をしないこと。

8.日本は、日本海、オホーツク海、ベーリング海について、ロシア領土の沿岸・港湾・入江・河川について、漁業権を日本側に許与すること。

 

 日露戦争後に交わされた、ポーツマス講和条約は、後の世界大戦後の交渉を示唆するような内容となった。日露双方は賠償金の支払いを互いに拒否し、停戦期間だけが締結され、基本的には両国間での継続審議事項という形で保留としたのである。

 

 新聞への発表としては、「日露停戦、領土と賠償金は、継続協議」と報道された。ロシア帝国側は、一時的な敗北という認識しか無かったが、革命騒ぎへの対応もあって、一時的な休戦という講和条件であればと了承した形であった。

 

 内容としては、日露両軍が、奉天から撤退することとなり、日本側は遼陽を含む、遼東半島の租借権を確保し、朝鮮半島に対して、ロシアの干渉を排することに成功。領土及び賠償金については、継続交渉となり、交渉内容によっては停戦期限となる、来年2月1日に第二次日露戦争も辞さず。このような報道が、新聞各社から発表されたのである。

 

 10月には、岩崎財閥を含めた国策会社「樺太石油」の設立が報じられ、尾羽油田開発を開始すると報道された。武川伯爵が「武川組」を設立、樺太鉄道の敷設工事および維持管理を請け負ったことが閣議決定された。新聞報道の中では、日本は樺太を日本領として扱い、奉天に準じて鉄道警備以外の軍を撤退させると決定したと報道したのである。

 

 ヴィルトールは、日本の実効支配に抗議し、ロシア側が設立した民間軍事会社「極東公社」が、ニコラエフスクに発足し、示威活動を始めた。しかしながら、日露双方ともに、軍の再編に手間取っていて、遼陽と四平で対峙する状況が続いていた。

 

 大連から遼陽まで、シベリア鉄道に合わせた5ft広軌鉄道の敷設を開始、大連陸軍工廠の設置と大連工兵学校の設置が決められた。日露戦争の講和発行で、陸海軍から予備役に編入される者を選抜して工兵学校へ転属、新卒学生を含めて、内務省鉄道院傘下として大連に関東都督府を設置、新たに設置された関東鉄道都市整備局の配属とした。後の関東都督府である。

 

 大連から遼陽に敷設される5ftだけでなく、大連から旅順を繋ぐ標準軌の軽便鉄道も並行して敷設工事が始まった。

 

 ロシア側は、奉天郊外四平に10万を配置、長春および哈爾濱にも各10万、計30万が満洲派遣軍として配備された。日本側は、半島側が安定したことで第一軍を遼陽に移設、第三軍を旅順に、第二軍を豆満江に配置し、シナ派遣軍とした。

 

 ポーツマス講和条約は、日本側は第二次日露戦争に向けた、休戦期間とされた。戦費の拡大を防ぐため、第一軍から第三軍を解散せず配置を継続させたが、傷病兵を含め徴兵を予備役編入を含めた形で帰国させ、定数割れのままで配置を継続した。実数については、軍機という形で公表されなかったが、第一軍3万,第二軍2万,第三軍2万程度となり、日本軍の継続戦闘が失われていたと推定できる。機密事項ではあったが、ロシア軍が攻勢に出た場合は旅順方面への暫時撤退とされていて、陸軍は日露戦争で失われた陸軍戦力について、兵力の回復を図らねばならなかったので、講和を講和として利用しようとしていた。

 

 継続戦闘能力は、武器弾薬だけでなく、兵員そのものも対象であり、日露戦争では動員限界に近い形で海外派兵を実行し、戦地後方合わせて108万人を動員し、戦死84千、戦傷143千となり、1%以上の損害が生じています。日本の総人口4600万で、男性2300万、就労人口1200万とすれば、国民総生産を支える筈の人員10人に1人が参戦し、千人に1人が死んだという計算になります。都道府県によっては、1%から3%の軍に徴用されるような、成人男性が亡くなったことになり、日本側は本当の意味で総力戦であったと言えます。

 当時の日本では、知り合いの知り合いが、みな知り合いである、地縁血縁が強かったことから、近所の何人かを日露戦争で失ったのである。

 

 帝国陸軍は、遼陽にシナ派遣軍を駐屯していて、露西亜帝国陸軍は、奉天郊外の四平に、満洲派遣軍を駐屯させていたのである。日露両国とも、第二次日露戦争が、何時発生するかという前提で、戦争準備を進めていたのである。

 

 

 




 1905年が日露戦争で、オーストリア=ハンガリーが1914年7月23日にセルビアに対し最後通牒を発したことから、第一次世界大戦が始まった。

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