いよいよ立正安国論のクライマックスとなる第九問答に入る。この部分を以ってクライマックスと呼ぶのは、他ならぬこの第九問答に、いわゆる的中したとされる“予言”が含まれるからなのであるが、早速そこに取り掛かりたいところではあるのだが、その前に一つ積み残した宿題を処理しなければならない。
客、則ち席を避け、襟を刷いて曰く……
第九問……最早本節は“問い”を含まないのであるが……は上引用の書き出しに始まる。席を避ける、襟を
ここに至って問題の箇所が登場する。礼の所作を尽くした客は、仏教というのはいろいろ異なる見解を含んでいてたちまちにはその真意をつかむのが難しく、わからないことも多いし何が正しくて何がそうでないのかも判然としないのですが、とした上で以下のように続ける。
但し法然聖人の選択現在也。諸仏・諸経・法華経・教主釈尊・諸菩薩・諸天・天照大神・正八幡等を以って捨閉閣抛の悪言を載す。其の文顕然也。
先に趣意を捉えておくと、客にとって仏教全般のことはたちまちにはわからないが、法然の書いた選択集は現在のものであり、それが捨閉閣抛の悪言を載せていることは誰にとっても明らかです、ほどの意味になろうか。以下、第一問答以来の、ゆえに善神がこの国を見捨てて云々、と続いていくのだが、そこはまぁいいとして、ここでは左記抄訳に含まなかった部分について検討したい。
つまり、広本において上引用下線部、特に正八幡=八幡神が追記されたのは何故だろう、という話である。まぁ、読者諸兄にとってはどうでもいい話であろうとは思うのであるが……それをいったら本稿全体がそうだとも思うが……そこに引っ掛かって今回の精読を始めたのであるから、やっている本人としては避けられない問題なのである、困ったもんだ。
改めて上引用部を詳細に現代語意訳すると、以下のような感じになる。
ただし、法然聖人の『選択集』は(遠い過去の真意が汲み取り難い諸経典とは異なり)現在のものである。彼がその書物の中で、諸仏、諸経、特に法華経、教主たる釈迦、諸菩薩、諸天神、天照大神、八幡神等の(尊崇すべきすべて)を捨てよ、閉じよ、
上拙訳においても、広本増補部に下線を付した。ここで改めてこの広本における挿入句の意味するところを考えてみたいのであるが、これまたあくまでも私見であるが、どうもここには二つの意味合いがあり、法華経・教主釈尊が追記された理由と、天照大神・正八幡のそれは、幾分異なっているように思われる。
第一に、比較的わかりやすい(?)、天照大神・正八幡の追記意図を考えてみたい。
まず大前提として、法然自身の筆にはこの二柱を含む日本の神祇について、捨閉閣抛の主張はもちろんのこと、そもそも言及がない。なので、ここで日蓮が客の口から言わせている「法然が天照大神、八幡神を捨てろと主張したのは明白である」という命題は、少なくとも法然の立場から見た場合は身に覚えのない言いがかりの類である。
が、この見解が日蓮固有の特殊なものか、というとそれも違って、半世紀と少し遡って書かれたところの法然一派に対する論難、その処罰を天皇に求める奏上文である『
繰り返しになるが、法然自身はそんなことを主張したつもりは露とないのであって、これは彼の専修念仏説が、結果的に、当時の各権門の権勢にうんざりしていた人々によって「法然聖人が念仏のみに専念せよとおっしゃっているからには、他の神仏の権威(に依りかかっている当時の支配層)に従う必要はないのだ」という具合に受け取られたことの裏返しである。そして、これが結果的に鎌倉幕府の視点から見ても治安問題になっていたことは既に述べた通りである。
つまり、略本における諸仏・諸経・諸菩薩・諸天等を以って捨閉閣抛の記述であれば、これは安国論第二問答で主張されたところの、誤った思想が国土を荒廃させるのだとする理念に触れているのみとなるが、ここに天照大神・正八幡が加わることで、専修念仏は理念上の問題に留まらず、日本のあるべき秩序を否定する治安問題という意味合いが加わったことになる。少なくとも、日蓮主観における意味合いはそういうことになるだろう。
一方で、第八問答を通して見た所の、広本増補時点での日蓮の態度の硬化、すなわち、施を止むのみならず、速やかに重科に行えと求める主張の過激化は、鎌倉幕府の立場からすれば専修念仏と同等か、あるいはそれ以上の治安問題なのであり、日蓮自身が神祇信仰を称揚したか排斥したかを問わず、結果的にはブーメランとなって彼自身に舞い戻ってくる論理になっているように、ボクには見える。一方で、論理の適否はともかくとして、やはり日蓮にとっては天照大神・正八幡の二柱が、観念としての神を超えた、現実の社会秩序を象徴するキーワードとして用いられていることが、改めて確認されるワケだ。
というワケで、広本に八幡の名が登場する理由は以上がすべて、と考えられ、結局のところボクの本源的な疑問であったところの「日蓮はいつ八幡になったのか?」に対しては、相変わらずはっきりした答えは得られない残念な結果となってしまった。
まぁ、それはそれとして、第二の意味合いについても検討しておくことにしよう。むしろこちらの方が、予言問題との関連が深いと言えるだろう。
これも考え方は同じになるのだが、略本における諸仏・諸経・諸菩薩・諸天等を以って捨閉閣抛の記述であれば、日蓮がこの時点で問題視しているのは、法然が称名念仏を除く仏教全般を否定していること……少なくとも日蓮にはそのように見えたこと、になる。ここに広本において法華経・教主釈尊が加わることで、その意味するところにどのような変化が加わるだろうか。
まず大前提として抑えておくべきことは、日蓮が殊更主張しなくとも、仏教の教主が釈迦であること、法華経が諸経の王であることは、当時の人々の間では、それが各自の現実の思考や言動にまで反映されていたか否かはともかくとして、半ば常識であった。そもそも諸仏・諸経の中に法華経・教主釈尊は包含されているし、かつ、それを代表するものとしても認知されていたはずである。したがって、略本執筆時と広本増補時で変化したのは、日蓮自身の内部における諸仏・諸経の中での法華経・教主釈尊の重み付けである。
これまた繰り返し述べていることであるが、略本執筆時点の日蓮は、自説が北条時頼、ひいては鎌倉幕府にすんなり受け入れられるものと楽観視していた可能性が高い。これは言い方を変えれば、仏典をすべて字義通りに解釈する真正原理主義者の日蓮にとっては「正しいことは正しいんだから、その通りになって当たり前じゃないか」というノリで言動していた、ということでもある。が、周知のように現実にはそうならなかった。
一般論として、自分自身が「こうなって当然だ」と考えていたことがその通りにならなかった場合、以降の思考には二つの選択肢があり得る。自分が前提としていたモノが間違っていたのではないか、と考えるか、前提としていたモノは正しいが何かが足りなかった(あるいは、自分は絶対的に正しいが周囲が間違っている)と考えるか、だ。言うまでもなく、明らかに日蓮は後者の方向に突き進んでいる。現代の我々から振り返って、日蓮が極めて独善的な人間に見えるのもこのためであろう。
が、これまたあくまでも私見であることを断って書くが、思うに日蓮には「自分が前提としていたモノが間違っていたのではないか」と考えることが、本人の責以前に不可能ではなかったか、と思うのである。というのも、追って見ていくところのいわゆる“立正安国論の予言”が、結果的に的中してしまったからである。
結論を先取りすると、彼は自身の予言によって自縄自縛に陥った、とボクは考えている。第五問答における辛きことを蓼の葉に習い、臭きことを涸厠に忘るのような、不謹慎さすら感じるユーモアのセンスを鑑みるに、少なくとも略本執筆時点の日蓮が、自説の再検討がまったく出来ないほどカチコチの頭をしていたとは、ボクには思えない。が、本当に蒙古が襲来してしまったことにより、彼は自説の再検討すら許されない境地へ追い込まれてしまった、というのがボクの理解である。諸仏・諸経に含まれている法華経・教主釈尊をここで殊更強調しているところに、彼が背負い込んだ強迫観念が反映されている、とボクは見る。
読み物としての略本と広本は、第八問答の過激化を除けば、表面的にはさほど変化していない、と繰り返し論じてきたのであるが、日蓮主観にとっての『立正安国論』という自作品の意味合いは、実は真逆と言ってよいほど変化している、とも言えよう。つまり、元々日蓮が法華経の超越性を信奉していたことには疑いの余地がないにせよ、観念論に過ぎなかったそれが、蒙古襲来の現実化によって絶対不動の信念にまで肥大化したのであり、その結果、彼にとっては自筆の『立正安国論』が、『法華経』と同等の“絶対無謬の聖典”に昇華してしまったのである。
*
『立正安国論』を読んだことがない人は、日蓮が蒙古襲来を予言したと聞いて、彼が「オレの言うことを聞かないと外国が攻めてくるぞ」という風に北条時頼に迫った、とイメージしているかも知れない。もちろんそのような要素がないとは言えないし、おそらく時頼自身もそのように受け取っただろうとは思うが、厳密に言うとこれは正しくない。
ここまで安国論を頭から読んできてお気づきの通り、第九問冒頭で客が主人に礼を尽くすことに端的に表れているように、日蓮主観においては第八問答までで国主の説得は完了しているのである。そして、ここまでの内容は、大雑把に要約すれば、現在我が国は種々の災難に襲われているが、これは法然の専修念仏説、広本も含めれば法華経に違背するすべての宗派、に起因するのであり、これらの“謗法”を排除せよ、ということに尽きるのであって、未来の出来事に対する言及は一切なかった。
では、“予言”とされている内容はどのように登場するのか。この辺りから読み進めてみよう。
但し人の心は時に随つて移り、物の性は境に依つて改まる。譬えば猶水中の月の波に動き、陣前の軍の剣に靡くがごとし。汝、当座に信ずと雖も後定めて永く妄ぜん。
第九答は、客が自説を受容したことを喜ぶ主人の、現実ではない、という意味において虚しい賛辞に始まるのであるが、その直後に上引用が来る。曰く、(客は主人の説に納得したようではあるけれども)人の心というものは移ろい易いものであるし、環境が変れば物の性質すら変化するものだ。それは、水に映る月が波に揺らめき、戦場の優劣が些細なことで一変するようなものである。客はしばらくは主人の説を信じるだろうが、少し時が経てばまた迷いを感じるようになるだろう……ほどの意味になろうか。
これを読むと、日蓮が、確かに楽観的原理主義者でありつつも、存外冷徹な現実主義者の一面も合わせ持っていたことがわかる。彼は、論争の相手が一旦自説に納得したから、というだけでは安心しないのであり、たとえ日蓮主観における“正しい教え”に恭順したように見えても、真に困難であるのはそれを継続することだ、と捉えていたのである。
これは、法然や親鸞が、現世に対しては徹底的に悲観しつつも、阿弥陀仏の本願に決定すれば往生疑いなし、と楽観していたのと、ある意味において対照的ですらある。同様に、同じ原理主義者でもクリスチャンファンダメンタリストな人には、たとえば、(彼らが信じるところの特別な)洗礼を受けたからもう救済間違いなし的な、極めて形式主義的な一面がしばしば見られるのであるが、日蓮はそういう見方をしていない。
一念に億劫の辛労を尽せば、本来無作の三身念念に起るなり。所謂南無妙法蓮華経は精進行なり。
上引用は、『日興記』とも呼ばれるのであるが、日蓮の弟子の一人、日興が日蓮の法華経講義を口述筆記したもの、と伝えられる文書に出てくる一節である。これが日蓮の真意を伝えているものであるか、後世の偽作ではないのか、という点については日蓮宗各派において温度差があるが、ボク個人としては、細部については疑義がないわけではないが、概ね日蓮の思想を反映したものだろうと考えていて、上引用などは端的にそうである。
つまり、日蓮にとって南無妙法蓮華経は、一度口にすればそれですべてが解決されるマジカルワード、ではなく、一念に億劫の辛労を尽して精進し続けるためのスローガンのようなものであったことが伺い知れるのであるが、それはともかく、同様の思考様式に従って日蓮は、客が一旦は自説に納得しても、強い動因がないとその理解、およびその理解から導かれる行動は決して継続しない、と考えていたのである。これが、彼が存外冷徹な現実主義者でもある、とする理由である。
そして、問題の“予言”はこの文脈で登場するのである。
若し先ず国土を安んじて現当を祈らんと欲せば、速かに情慮を廻らし忩で対治を加えよ。所以は、薬師経の七難の内、五難忽に起り二難猶残れり。所以他国侵逼の難・自界叛逆の難也。
この部分は、漢文ベースでは略本と広本で用字に差異があるのだが、書き下してしまえば内容は変らない。曰く、国土の安寧な運営を望むのであれば、大急ぎで策を講じ実施しなさい。なぜならば、薬師経に書かれた七つの難のうち、五つは既に起こっているのに、二つがまだ起こっていない。
最初に、もう読者諸兄としては飽きているかも知れないが、経文上のこれらの難の意味を確認しておこう。もちろんこれは、大乗仏教の偽作者たちが「オレを敬わなければエラいことになるぞ」とそれぞれの時代において支配者・権力者を脅した記録なのである。敵が攻めてくるぞ、身内から裏切り者が出るぞ、というのは、支配者・権力者にとって常に潜在的な危機なのであるから、これは本来は予言でも何でもない。
もし仮に、仏教を大事にしなかったらこうなるぞ、とされる警句の中に、常識的に考えてあり得ないこと……たとえば、食わんがためのハゲ野郎の頭のてっぺんから毛が三本生えてくるぞー(つまりオバQが現れたならば、それは仏教が敬われていない証拠でもある、との主張)とか……があれば、それは“予言”と言えるかも知れないが、幸か不幸かそういうものは知られていない。まぁ、好意的に仏教=社会で受容されて当然の道徳観・倫理観と考えれば、それが乱れているときに、戦乱のような人災や、天災起因の災厄がより猛威を振るう、というのは、合理的な見識ではあり得るだろう。
さて、この他国侵逼難=元寇“説”の検討は先送りして、ここでは、第九答の文脈上に上引用の今日“予言”とされているものが表れてくる意味を考えてみたい。
現代から振り返って安国論を読む我々からすると、元寇が史実として存在することを知っているがゆえに、どうしてもこの一節の予言性に目がいってしまいがちである。が、私見ながら繰り返し述べているように、略本執筆時点の日蓮は、どう考えても自説が鎌倉幕府に採用される前提でこれを書いているようにしか思えない。実際、前述したようにこの下りは、主人による客への説得が完了した後に、念押しとして登場する。ということは、日蓮自身、この時点では予言が成就するとは思っていないし、予言が成就するということは、日蓮の自説が幕府に却下されることを意味しており、少なくとも略本提出以前の彼は、決してそれを望んではいないのである。
で、以下もまたあくまでも私見であることを断った上で述べたいのであるが、そもそも、法然の専修念仏説が災難の原因になる、ということを言い出したのは日蓮が最初ではないのである。つまり、流石にこれを“パクリ”だとまで言うつもりはないが、実は立正安国論の主張には元ネタではないかと疑われるものがある。
明恵は華厳宗の人であり、日蓮とはまた異なる立場から法然を批判していて、摧邪輪では立正安国論がシンプルに見えてしまうほどの理屈を捏ね繰り回した論理を展開しているのだが、その上巻にさらりと以下のようなことが書いてある。
依之減三宝、損国土。善神捨国、悪鬼入国、興三災、廃十善。
敢えて原漢文で引いてみたが、一見して立正安国論の一部と見紛うほどに主張が一致していることがおわかりいただけると思う。
明恵自身はこのように考える論拠として、抄至相五十要問答意也、つまり、五十要問答の意を抄訳するとこうなのだ、と言っている。五十要問答、というのは、中国大陸における華厳宗の第二祖とされる
摧邪輪における明恵の主張の力点は、法然の専修念仏説は、菩提心(衆生が仏の悟りを得たいと自ら欲する心)を否定しているのがけしからん、という、現代人的感覚からするとむしろ日蓮のそれよりも共感し易いところ……一方で摧邪輪の筆致は極めて難渋で通読するに耐えない代物でもあるのだが……に置かれていて、上に紹介したような、専修念仏が現世に災難をもたらすのだ、というのは本当にオマケ……明恵は法然を人間としては敬愛していたのだが、彼の死後の弟子の言動に我慢が出来なくなり、三災を防ぐべく選択集を論破するのだ、と自分を納得させている……のようにサラッと触れられているだけなのだが、日蓮が京都における修学期に明恵の著作に触れていたのは間違いない……『守護国家論』のように真作であることがわかっている日蓮遺文に摧邪輪への言及が見られる……ので、自覚的であったか否かはともかく、その影響下にあったと言って良いのではないかと思う。
否、自身を天台教学の正統唯一の継承者と自認する日蓮としては、華厳教学……天台ではこれを仏教の入門編的に位置づけて下に見ている……の文脈で登場する論をそのまま引くワケにはいかないので、その典拠となる経典まで遡り、さらには類似する経典の記述……第九答予言部では前述の薬師経のほか、大集経、金光明経、仁王経が引用される……を総ざらいした、といったところが真相ではなかろうか。
そしてその動機は、あくまでも説得対象であるところの国主に対し“念押し”をするためである。日蓮が言いたいのは「オレの説を受容して、こういう災難を未然に防げるよ、良かったね」なのであって、「オレの言うことを聞かなかったから残る二難が起こったぞ」ではないはずなのである、少なくとも略本執筆時点では。この予言は、ハズれてもらわないと困る予言なのである、他ならぬ彼自身にとって。
混沌としてきたので一旦整理する。
幼少の時より虚空蔵菩薩に願を立てて云く、日本第一の智者となし給へ(善無畏三蔵抄)と願った日蓮は、京都での修学期に天台教学に心酔した。そして、その思想が、比叡山の権勢にも関わらず国家運営に必ずしも反映されていないと考えた日蓮は、叡山と常に共にありつつも遂に実を挙げることが出来ない朝廷ではなく、新進気鋭の権力基盤である鎌倉幕府に登用され、以って法華経の理念を国是に反映することを目指す。
その足がかりとして、幕府が治安上の懸念から疎んじている法然の専修念仏説を経論上から論破し、幕府の方針を<仏教>史観点から裏付けると共に、その功で以って幕府の信用を得ようとする。これが『立正安国論』であり、その着想の根には、京都での修学中に触れた明恵の『於一向専修宗選択集中摧邪輪』があった。が、摧邪輪は華厳教学の観点から書かれているので、天台教学に立脚する日蓮はそのまま引くことが出来ない。よって日蓮は、摧邪輪が参照する経論、さらにはそこに引用される仏典と遡って、大集経のいう三災に辿り着く。
経典に書かれたことはすべて文字通り真実である、と信じてやまない日蓮は、大集経の三災の内、二災早く顕れ一災い未だ起らずに気付き、これを安国論末尾の、読み手に対する念押しに使うことを思い立った。そして、日蓮主観において安国論による国主説得は成功するのであるから、当然残る一災である兵革の災は起こりようはずもない。なぜなら彼にとって、釈迦の説き給う八万法蔵は是皆真実なのであるから。
上記の論理に基づけば、安国論略本執筆時の日蓮は、自身が書き示したところの他国侵逼難と自界叛逆難が、実際には起こらないと考えていたはずだ、という話なのである。予言した本人が成就するとは考えていない予言……果たして、これを予言と呼べるのだろうか。
ところが、である。実際には日蓮の“予見”は裏切られ、彼の説は幕府の用いるところとならず、蒙古からの恫喝的な国書が届いたのである。彼に真に予言能力があるのであれば、幕府が彼の説を受容しないことこそ予言すべきであった。
つまるところ、これは彼主観からすれば予言でも何でもないのであって、単に経典にそう書いてあった話、それ以上でもそれ以下でもなかったのである、少なくとも略本執筆時点では。
*
“予言”という言葉で示される現象は、古今東西たくさんある。その中にあって、我らが『立正安国論』の予言には顕著な特徴が二つある。
第一には、予言者(この場合、日蓮)の存命中にそれが的中したと自他共に認めていたこと。第二には、予言が複数(日蓮の場合、他国侵逼難と自界叛逆難)あり、そのいずれもが的中したとされること、である。世に予言と称される言論は数あれど、この両者を満たすものはそう多くない。
これは裏を返すと、第一の点は、後から振り返って「アレは予言であったのだ」と説明する、いわゆる“後ろ向きの予言”は容易であること。第二の点は、予言の数をこなしておいて偶然そのうちの一つが的中したことを以って予言的中と嘯くのは、さほど難しくはない、ということである。日蓮の予言は、ここに述べたような、予言的中と錯覚される現象に一般的な認知論的問題に、一見該当しないのである。
また、強いて第三の点を加えるとすれば、前段で指摘したように、予言をおこなったとされる当の本人が予言の成就を期待しておらず、また、予言の成就が当人の利益に相反している、という点も挙げておくべきかも知れない。これは何を言っているのかと言うと、日蓮自身に……そんなことが可能かどうかはともかくとして……予言が成就すべく陰謀をめぐらせる動機がなかった、という意味である。
以上のように書くと、やはり日蓮の予言能力は本物だったのだろうか、と思う人もいるかも知れない。信仰心としてそのように考えるのは、その人の自由であるから敢えてボクはその点を否定はしない。が、この一連の現象を以って「予言の的中と考えるのが唯一無二の解釈か?」と問われると、それは違うでしょ、と言いたくなる。そういう意味において、以下に述べるところは、日蓮の“予言的中の実績”とされるものを、何がなんでも否定したくて論難するという意図によるものではなく、あくまでも、このように解釈すれば必ずしも日蓮を神格化して考えなくていいでしょ、という、まぁ、歴史解釈のオルタナティブのようなものだ、ということを、まず大前提としてご理解いただきたい。
さて、ここで検討したいのは、元寇の予言と見做される他国侵逼難、ではなく、相方になっている自界叛逆難の方である。一般には、“二月騒動”あるいは、このときに討伐される執権北条時宗の異母兄の名を取って“北条
先に結論を示しておくと、この自界叛逆難に限って言えば予言的中と考える必然性はない、というのがボク個人の見解である。一方で、これまた日蓮固有の特殊事情ではあるが、他ならぬ日蓮本人だけは予言が的中したと自ら思い込んでいたであろうが、これはある種の自己欺瞞であり、日蓮が当初想定していたそれは、二月騒動とはまったく異なる事象であったはずだ、ということを論じてみたい。
まず、改めて予言とされる第九答の一節を確認しておこう。
薬師経の七難の内、五難忽に起り二難猶残れり。所以他国侵逼の難・自界叛逆の難也。
薬師経、正しくは『
日本史に詳しい人であれば、この時点でピンと来ていいのではないか、と思うのだが、“自界叛逆”の字義をどう解釈するかにも依存しようが、その言葉にピッタリの事件が、日蓮が安国論略本を執筆するはるか以前に起きていることを、我々は知っているし、他ならぬ日蓮も知っていて、この安国論の中にもそのことが言及されている。
つまり“承久の乱”(1221年)である。
歴史観によっては異論があるかも知れないが、一般論としては、承久の乱は天皇を担いだ勢力が対向勢力に対し一敗地に塗れた我が国最初の戦乱、とされることが多い。これは、単に戦闘の勝ち負けを言っているのではなく、勝者が結果的に天皇に弓引いたことが戦後に問題視されなかった、という一点が、日本史上において特殊な事例になっている、という意味である。
日本国の支配秩序の象徴たる天皇が一敗地に塗れた……これ以上に“自界叛逆”の語感の似合う事件は他にない。また、日蓮自身、第五問答において後鳥羽上皇が流されたのは法然のせいだと仄めかしている。にも関わらず、前引用にも示したように、日蓮は薬師経のいう自界叛逆難は猶残れりと認識していたことになる。ということは、日蓮が略本執筆時点で考えていた自界叛逆の要件を、承久の乱は満たしていないのだ。
では、彼の考えた自界叛逆の要件とは何であったのか。いやいや、それがどしうちじゃないのか、と。承久の乱はそもそも反目関係にあった後鳥羽上皇一派と北条家が争ったものであって、同士討ちではないだろう、と言えば、それはそうである。が、これは以下に述べる二つの点でおかしい。
第一に、日蓮遺文中にどしうちという表記が登場するのは、実際に二月騒動が起こってから早くとも3年以上経過した後のことであり、事件発生以前から「自界叛逆とは、利害を同じくする人々の同士討ちである」と定義されていたわけではない。第二に、百歩譲って、発言は残っていないが元々日蓮は自界叛逆=同士討ちと考えていたのだ、と仮定すると、今度は安国論執筆から遡ること13年前、1247年の“法治の合戦”はどうなるんだ?という話になる。二月騒動以前に、幕府内の同士討ちによる合戦の事例が存在するのだから、自界叛逆難は猶残れりにならないはずである。
さらに言えば、繰り返し述べているように、略本執筆時の日蓮にとって安国論の予言は成就してもらっては困る予言なのであるから、幕府や北条家内部の権力闘争のような、十二分に起こり得ることがその対象であっては、他ならぬ日蓮自身が困るのである。最初に安国論を書いた時点では、幕府が自身の説を採用し、よって難が回避される=予言が成就しないことこそを、日蓮は期待していたのだから。
以下、あくまでも私見であるが、そもそも日蓮は自界叛逆=同士討ちと考えてはいなかった。が、幕府が彼の(無茶な)期待を裏切って彼を登用せず、1268年に蒙古国からの最初の国書が届くに至って、他ならぬ日蓮自身が、自界叛逆難もまた的中すると考えずにはいられなくなったのである。結果、自界叛逆と見做す要件が、彼の中で変化したのだ。かくして、彼が佐渡に流罪されている間に起きた二月騒動が、後から振り返って自界叛逆難の的中と、日蓮自身によって認識されるようになったのであろう。
つまり、これは“後ろ向きの予言”の特殊ケースなのである。
何を以って特殊と呼ぶかというと、事実として日蓮は1260年時点で仏典記述から自界叛逆難の発生を(自身の献策が用いられない場合、という但し付で)予言していたが、彼自身はその成就を予期していなかった。が、もう一つの条件、すなわち自身の献策が幕府に受け入れられない、という現実、さらには、もう一つの予言である他国侵逼難が、蒙古国からの国書という形で成就の兆しを見せたことにより、おそらく彼自身自覚もないままに、彼の内部での自界叛逆難の予言成就を判断する基準が変化したのである。つまり、彼自身に自分が予言に成功したと他人を騙す意思がない点が特殊なのである。
彼が騙したのは他者ではなく、幕府の説得失敗に打ちひしがれ傷ついた自分自身なのだ。
ところで。
では、略本執筆時点の日蓮が考えていた自界叛逆とは、具体的にどのような事態だったのだろうか。同士討ちのように十分に起こり得るものではなく、かつ、承久の乱をそこに含まないような劇的な何か、が想定されていたに違いない。
これまたあくまでも私見ではあるのだが、日蓮が当初想定していた……よもや現実にはなるまい、と考えていた……自界叛逆の成就は「在位したままの天皇が殺害され、かつ、その直接間接を問わない犯人が権力を奪取する」という事態だったであろう、と思っている。
日蓮は何を思ってか、『諫暁八幡抄』をはじめとするいくつかの書き物の中で承久の乱の勝者である北条義時を右大将家権の大夫殿との尊称を恭しく用いてやたら持ち上げているのだが、いささか牽強付会かと自分でも思いつつ、この話題と根の部分で関係があるように思うので取り上げたいエピソードがある。四鏡の一つ『増鏡』が伝える義時の逸話なのだが……
義時、とばかりうち案じて、かしこくも問へるをのこかな。その事なり。まさに君の御輿に向ひて弓を引くことは、いかがあらん。さばかりの時は、かぶとをぬぎ弓の弦を切りて、ひとへにかしこまりを申して、身をまかせ奉るべし。さはあらで、君は都におはしましながら、軍兵を賜はせば、命を捨てて千人が一人になるまでも戦ふべし、と、いひもはてぬに急ぎ立ちにけり。
これは、いざ後鳥羽上皇の軍勢との決戦場へ、という段になって、配下の一人が「もし、敵方の軍勢に天皇がおられたらどうしますか」と問うた際、義時がこう答えたのだ、と伝える一節である。
曰く……よく肝心の点に気がついた。君(天皇)の御輿に弓引くことなど許されない。もしそうなったら、兜を脱ぎ、弓の弦を切って速やかに降服せよ。そうではなくて、君が都におられるまま軍勢のみを差し向けられたのであれば、千人が一人になっても命を捨てて戦え、と言い終わりもしないうちに出立されました……ほどの意になる。
流石にボクも、これを史実であるとは考えないし、増鏡の成立年は不詳だが、早くとも南北朝以前には遡らないので、無論日蓮はこれを読んではいない。が、後付でこのような美化がなされた、ということは、ここに示されている論理は、概ね当時において違和感のない思考様式だったのだろう、と言えるとは思う。つまり、狭くは北条義時、広くは当時の人々全般にとって、天皇経験者である後鳥羽上皇に弓引くことは謀叛に当たらず、ただ、今この瞬間天皇の位におわす“君”に弓引くことのみが忌避されていた……あるいは、それが事後の権力運営を前提としたとき、最低限死守せねばならぬ建前だった……ということだ。少なくとも増鏡は、この観点において義時を好意的に描いている。
おそらくは、日蓮も同様の思考様式を採っていたのではないか、と思うのである。つまり、彼にとっては、その時点で天皇位にいない後鳥羽上皇以下、三人の上皇が、敗戦の果てに島流しになっても、確かにそれは貴人の悲劇ではあるが、決して“自界叛逆”ではないのである。そして、内実はともかく、建前上はその筋を通した義時が結果的に権力を手にするに至るのを見て、日蓮は彼を右大将家権の大夫殿は不妄語の人、正直の頂八幡大菩薩の栖む百皇の内なり(諫暁八幡抄)と評したのではなかったろうか。
さて、ここで上引用にも含まれている“百王”説が再登場するのである。既に長文になって来ているのでサラリと流すに留めたいが、そもそも百王説を根拠に天皇の世から武士の世への移り変わりを指摘して見せたのは、慈円の『愚管抄』であり、おそらくは日蓮もこれを読んでいて影響を受けたであろう、ということは既に述べた。
ただ、日蓮主観で見たとき、ここにはいささか複雑な感情が絡むことになる。まず、慈円は貴族の生まれで天台座主、かたや日蓮は、自身こそが伝教大師最澄の正統後継者であるとする自負こそ強いが、名も無い東国の漁師の子でしかない。また、日蓮は慈円を、比叡山を真言密教化した戦犯の一人と見ている。一方で、慈円のいう世の移り変わりは、聡明な日蓮であればこそ、まさに慈円の言う通りであると得心したに違いないのである。
薬師経のみを素直に読めば、自界叛逆難は、承久の乱がそのものズバリに見えたはずである。が、薬師経七難の一つが承久の乱によって予言成就したと認めることは、同時に、台密僧慈円が仏典に沿った正しい論述をしている、と認めることになってしまう。さらには、八幡抄にも出てきたが、後鳥羽上皇が真言宗東寺に義時調伏を命じた、という史実*1が日蓮の判断に影響を与えないはずがない。これらの要素が絡み合って、日蓮に承久の乱をして自界叛逆難の成就と見做させず、後鳥羽上皇の自業自得の必然的結果、と思わせたのではないだろうか。
蛇足であるが、日蓮が比叡山の台密化を含む真言宗全般に敵意を剥き出しにし始めるのは、早くとも佐渡流罪以降とする見解もあるので、安国論略本執筆時点でそこまで慈円や真言祈禱に反感を抱いていたかは定かでない。ただ、日蓮の全生涯を概括するとき、その行動原理の根の部分に、成功しているように見える先達者に対する嫉妬のようなものが散見されることもまた事実であり、そのあたりが上記の日蓮の認識のベースにあるような気がしないでもない。
*
サクッと結論を書いておく。
日蓮が立正安国論において他国侵逼難を警告し、後に実際に蒙古が襲来したのは、予言の成就でも何でもなくて“不幸な偶然”である、というのがボクの(証明不可能な)見解である。
彼が究極本源の久遠仏の降臨でありすべてお見通しであった、とする捉え方を論外として除却すれば、日蓮の予言成就を合理的に説明する論は、大雑把にまとめれば古来二つある。
一つは、日蓮が事前に蒙古襲来と二月騒動の情報を掴んでいた、とするもの。もう一つは、実は北条時頼に提出された安国論原本(もちろん現存しない)にはこれらの予言は記載されておらず、蒙古襲来と二月騒動が現実のものとなった後に日蓮が自ら写本作成時に追記した、とするものである。
これらに納得がいかないので、ボクは予言成就は偶然だ(=そもそも合理的に説明する必要がない)と結論するのであるからして、上記二説を論難することに特に深い意味はない(=これら二説を論破しても偶然説の証明にはならない)のであるが、自身の思考過程を備忘のため、という意味合いで記録しておいても無駄にはなるまい。
まず総論としては、ここまで私論を述べて来たように、日蓮の立正安国論執筆の動機は、自身をして鎌倉幕府に登用せしめること、と考えるのが妥当である。よって、日蓮自身は決してこれらの予言的中を、予期も期待もしていなかったはずだ。さらに、一般に二月騒動と対応すると考えられてきた自界叛逆難予言に限って言えば、これは後ろ向きの予言であり、そこに神秘性を見出す必要がないことは前段で論じた通りである。
そもそも、上記の予言成就を説明する二仮説は、安国論予言成就を前提とした上で、第三の仮説、すなわち日蓮本仏論を認めたくがないゆえに考案されたものである。が、上に述べたように、少なくとも一方の自界叛逆難予言を成就したと考える必要性がない以上、前提が崩れている。つまり、日蓮には百発百中……いや、実際には二発二中に過ぎないのであるが……の予言能力などないのであるから、これを合理的に説明する必要もこれまたないのだ。
とは言え、これでは粗雑に過ぎるので、以下、各論を述べてみたい。
まず第一の説、つまり、実は日蓮は事前に知っていた説、であるが。確かに日蓮には事情通、情報収集家としての一面が見られる。が、あくまでもそれは当時の人々の平均に比して相対的に、という話に過ぎない。百歩譲って、二月騒動については、宿屋入道あたりから何らかの事前情報を得ていた可能性はなきにしもあらずであるが、中国大陸の事情にまで通じていたと考えるのは無理があるだろう。
これには傍証もある。『妙本寺本<日本図>』がそれだ。
上に掲載したのは、説明の便宜上ボクが模写した<日本図>*2である。現物にはもう少し細かい書き込みがあるが、概ねこんな感じだと思ってもらっていい。ただし、赤字で示した方角は、わかりやすさを優先してボクが加筆したものである。
これは日蓮から見ると孫弟子にあたる日順が、日興から受けた講義の際に取ったメモ(妙本寺の現物は、さらにその写本)と考えられている。従ってこの図は、日蓮、日興、日順が共有していた世界観、と言ってよいだろう。地図上方中央、方角で言えば日本の西に、ドンと蒙古が居座っている。日順がメモを取ったのはいくら早くても弘安の役(1281年)以降と考えられるし、時代が下って南北朝の頃までしばしば「蒙古が再びやって来るぞ」的な流言があったと伝えられているから、おそらくは、そうした蒙古の存在感が図に反映されているワケだ。
一方で、必ずしもそれは、日蓮たちが蒙古からの国書到来(1268年)以前に蒙古の存在を意識していたことを意味しない。むしろ、この図=日蓮たちの脳内マップ、に蒙古が加わったのは、実際に元寇が起きて以降のことではないか、と思う。
と言うのも、その周囲に目をやれば、まずは左上、宗(南宋)であったはずの漢民族王朝が、相変わらず“唐土”と表記されている。これは、日蓮が心酔した天台教学が、主に唐時代に発展成立したことと無関係ではあるまい。彼が師と仰ぐ伝教大師最澄も、唐から天台教学を持ち帰ったのである。さらに図中右上、朝鮮半島の部分に“新羅”や“百済”という、日蓮の時代から300年以上前に滅亡した朝鮮族国家が当たり前のように記されているのも見逃せない。これは、彼らが八幡神の権威、三韓征伐の神話を故実として受容していたことを意味している。
つまり、彼らの大陸に関する知識は、皆無ではないにせよ、極めて観念的なものだったのであって、現実を直視していたワケではないのである。このような人々が、リアルな現状分析からフビライの野心、さらには前代未聞の日本列島への渡海侵攻を予見できたはずがなく、仮に百歩譲って予見していたとしても、それは妄想の類であって「事前情報を掴んでいた」などというレベルのものではないだろう。
第二の説、つまり、日蓮は後から立正安国論に予言を追記した説、は、よりシンプルに論駁できる。確かに日蓮に自己粉飾の悪癖がしばしば見られるのは事実であるにせよ、彼がそこまで自覚的に自身の文書の遡及改竄を平気でおこなえる人であったならば、安国論第八問答、すなわち、略本において一旦は「謗法者を殺す必要はない」としつつ、広本加筆において「いや、やっぱり殺せ」と方針転換された箇所であるが、日蓮はこれを広本増補時に全面改訂できたはずである。
が、実際にはそうなっておらず、第七問答の仏典引用を一部削除してまでも辻褄を合わせている。これは、日蓮が、それが正しいかどうかはともかくとして、自身の作品『立正安国論』に対して誠実であったことの表れである、とボクは思う。当時はもちろん、今日においても略本と広本を比較検討する奴なんかそんなにいないのに……自分がやっておいて言うのもアレだが……日蓮はそのような読者、彼の書き物を文献として検討する視線を、明らかに意識している。そういう彼が、予言的中演出したさに後ろ向き予言を加筆する、というのは考えにくいし、そもそも日蓮にそんな動機はないはずである。予言が当たろうが当たるまいが法華経は絶対的に正しい、という一点において、彼にブレはないのであるから。
以上が、他国侵逼難予言的中を“偶然”である、と考える理由である。
さて、本稿冒頭において、他国侵逼難の予言的中を、単なる“偶然”ではなく“不幸な偶然”と書いた。言うまでもなく、ここでいう不幸は、日蓮にとって不幸だった、というのがボクの考えである。蒙古が国書を送って来なければ、あるいは、国書のみに留めて二度に渡る侵攻をおこなわなければ、日蓮がここまで追い詰められることもなかっただろう、と思うがゆえである。
無論、ここで言っている“追い詰められる”というのは、日蓮が伊豆や佐渡に流罪されたり、数々の危難に陥ったことを言っているワケではない。むしろその点については、末法の法華経の行者を自認する日蓮としては本望であったはずである。追い詰められた、は、日蓮が、結果的にすべてを背負い込んでしまったことを言っている。
1268年4月に執筆されたと見られる、その名も『安国論御勘由来』という日蓮真蹟が遺されている。
而るに、勘文を捧げて已後九ケ年を経て、今年後の正月、大蒙古国の国書を見るに、日蓮が勘文に相叶うこと、宛かも符契の如し。
言うまでもなく、ここで言われている勘文は立正安国論のことである。現代的な感覚では「1260年からだと已後九ケ年はおかしいのでは?」と思われるかも知れないが、これは、当時はいわゆる“数え”で年数を計ったためだ。本書の存在が示しているように、日蓮は蒙古の国書が届いて、遅くとも三ヶ月以内にはその事実を知っていたらしい。
上引用の安国論御勘由来がその皮切りとなるが、日蓮は以降この年を、幕府中枢や鎌倉の宗教指導者に対し、立正安国論の再検討を求める手紙を送ることに費やしたようである。これらは真蹟が残っていないが、写本を通じてその内容を知ることが出来る*3。これらを『十一通御書』と総称するのであるが、目指した相手に本当に読まれたかどうかはともかく、主な宛先を列挙すると、本連載にも繰り返し登場した宿屋入道、執権北条時宗、後に竜口法難のきっかけとなる侍所所司平(左衛門尉)頼綱と極楽寺忍性(良観)など、日蓮の人生を彩る人々が概ね出揃っている。
さて、日蓮のこの行動の目的は何であったろうか。「見て見て、ボクの予言、当たったよ」と吹聴したかったのだろうか。いや、そうではあるまい。思うに、蒙古の国書到来は、それを知る当時の人で驚かなかった人はいなかったろうが、一番驚いたのは他ならぬ日蓮だったはずである。繰り返し述べているように、突き詰めれば彼は安国論において「経文にこう書いてあります(これを調べ上げて書くことが出来る私を雇って)」と言ったに過ぎないのだが、自分で書いたことが現実になってしまったのである。日蓮主観においては、本来であれば彼が幕府に登用され、成就するはずがなかった予言が、だ。
この瞬間の日蓮が何を考えたか。傍から見れば思い上がりも甚だしかろうが、彼は猛烈な自責の念にかられたはずである。自分がもっと上手く立正安国論を書けていたら、あるいは、もっと上手く幕府に働きかけていたら、この事態は防げたはずなのに……と。もちろんこの推論には、正しいところがまったくない。日蓮が何をしようが、幕府がどう応じようが、法華経が尊崇されようが無視されようが、専修念仏が流行ろうが廃れようが、蒙古国書は届くし元寇は起こるのである。
だがしかし。
想像力を逞しくして、自分がこの日蓮の立場に置かれたらどう振舞うか、を考えてみて欲しい。自分も含めて、誰も想像していなかった未曾有の国難が迫っている。そして図らずも、自分がその国難の到来を8年も前から予言していたことになってしまった。国主に提出したものである以上、今更なかったことには出来ない。否、この予言に成功した自分だけが、この国難の回避策に最も近い位置にいるのではないか。今たちまちにその具体策がわからないとしても、私であれば、この国難の予言を経文から見出した私であれば、その解決策も見出せるのではないか。その責任が、私にはある。否、他の誰に任せることが出来ようか!
以上が、ボクの考えるところの、日蓮が“追い詰められた”思考の陥穽である。そして彼は、背負い込む必要がなかったどころか、そもそも背負い込むこと自体がナンセンスなこの責任の落とし穴から、生涯脱出することが出来なかった。これを“不幸な偶然”と呼ばずして何と呼ぼうか。いや、晩年の彼の言動を察するに、そこに安住してしまった、とすら言えるから、ひょっとすると彼自身は“幸福”であったのかも知れない。
といった次第で、あくまでも私見であることを断りつつ、立正安国論の予言の真相、を読み解いてみた。言わんとするところは、こうして芽生えた猛烈な自省と責任感が、彼をして過激化の一途を辿らせることになった、という読みであり、安国論第八問答の略本/広本間の温度差はその端的な一例だ、ということになろうか。
*
第九答の、残す後半部分にも目を通してみよう。これは「本当は怖い仏教」のパート2、あるいは「本当は酷い仏教」とでもいうべき感じの内容になろうか。
ここまで、第九答の真の目的は、予言ではなく“念押し”である、ということを述べてきた。日蓮主観では、第八問答までで客の説得は完了している。そして、説得された客の心が、それ以降迷うことがないように、という意図の元、客が主人の献策の採用を躊躇った場合の社会に対する影響を論じたのが第九答前半、いわゆる立正安国論の予言になっている。対して第九答後半は、個人に対する影響を論じていると解することが出来る。
結論から言うと、いずれも逆効果、としか言いようがないのであるが。
就中人の世に在るや、各後生を恐る。是れを以て或は邪教を信じ、或は謗法を尊ぶ。各是非に迷うことを悪むと雖も、而も猶仏法に帰することを悲しむ。何ぞ同じく信心の力を以て妄りに邪議の詞を宗めんや。若し執心翻らず、亦曲意猶存せば早く有為の郷を辞して必ず無間の獄の堕ちなん。
問題の後半部は上引用の書き出しに始まる。大雑把に趣意を拾えば……人というものはみな将来に不安を感じるもので、その不安を払おうとして誤った教えにハマるのである。みな、何が正しいのか迷うことを嫌がるのに、そのくせ、本当に正しい教え(仏法)に従うことを好まない。どうして、その信じる力を無駄に誤った教えへ向けるのか。執着の心を捨てることが出来ず、曲がった心を持ったままであれば、虚しいこの世を去った後、かならず永遠の地獄に堕ちるのである……といったところか。
現代的な感覚で捉えるならば、悪質かつ無根拠な脅迫の類としか思えない表現になっているが、百歩譲って日蓮主観に思いを馳せると、繰り返し述べているように彼は原理主義者であり、経文にそう書いてあるから実際にそうなるのだ、と心から信じ込んだ上で、本気でこの話の聞き手の後生を案じてはいるのである。はっきり言ってありがた迷惑であり、事実、現代の日蓮教団の一部、また、仏教に限らない原理主義的傾向の強い教団は、布教に際して類似の言動を用いることが多いように思う。
しばしば、そのような人々に対して「それは本来の仏教(あるいはキリスト教)ではない」という非難が寄せられるのであるが、個人的にはそうは思わない。キリスト教は本題から外れるので捨て置くとして、仏教については、以下に紹介する日蓮の大乗経典引用が「そもそもそれが本来の<仏教>である」ということを雄弁に語っているからである。
特に酷いものをピックアップしていくが、紹介しないものも概ね言っていることは同じである。
まず
或は人身を得ば、盲人の家に生れ旃陀羅の家に生れ、厠を除い死人を担う種種の下賤の家に生れ、若しは無眼、若しは一眼、若しは眼瞎、無舌、無耳、無手ならん、と。
吐き気を催す言説である。親が盲人であったり、被差別階級の家に生まれたり、親の職業がトイレ掃除や葬儀屋であったり、生まれついて眼や舌や耳や手に障害を負っていたりするのは、前世において仏教に逆らった報いなのだそうだ。
ちなみに、ここで言われる死人を担う種種の下賤の家は、第六答に出てきた犬神人とほぼ同義である。大品経の引用があるのみであれば日蓮を「単に経典を引用しただけだ」と擁護することも出来ようが、犬神人の一件があるがゆえに、無論、時代制約だと言ってしまえばそれまでだが、彼が現代目線から見れば唾棄すべき差別意識を有していたことは否定できない。
曠野無水の処に居在して、生じては便ち眼無く又手足無けん。(中略)生まるる従りして盲なり。諸根具せず。身形醜悪にして人見ることを喜ばず、と。
以上は大集経から。生まれついての障害のみならず、耕作に向かない土地に住んでいたり、見た目が麗しくないこともまた、前世において仏教に逆らった報いなのだそうだ。さらに
気分が悪くなってくるので、この辺りでやめよう。
なお、ここに紹介した胸糞悪い記述は、すべて広本での加筆部分に含まれている。略本に収められた部分のみ抽出すると、ここまではヒドくない。概ね、第二答で引用された経典と同じ内容になる。と言うか、日蓮は第二答で引いた大集経の若し国王有って、無量世に於て施戒慧を修すとも〜に始まる一節を、ここでも取り上げている。よほど気に入っていたのか、寿終の後大地獄に生ずべしとか言っているこの経典が。おそらく、広本所収の引用の方がより酷い内容になっているのは、前稿で論じた“追い詰められた日蓮”の反映であろう。
さて。
これらの目にするのも憚られる言説をこうして取り上げたのは、こんなことを書いた日蓮はトンデモない奴だ、とか、仏教というのはヒドいものだ、などと言いたいからでは、もちろんない。
第一に、これらの表現は前述した通り時代制約では確かにあるのだ。我々は、このような言説が罷り通ることのない時代……同じようなことを言う人、言わないまでも思っている人、無自覚であるがいざという際に馬脚を現す人、は今なお多く存在しているのだが……に生まれたことを感謝すべきでありこそすれ、振り返って過去の人々を笑ったり蔑んだりすべきではあるまい。百年もすれば、我々だって未開の野蛮人だと笑われるに決まっているのだから。人類がそれまで存続していれば、だが。
第二に、だからと言って、ここに紹介した言説を「時代制約だから」と言って看過することもまた、ボクとしてはよろしくない、と思う。こういうことを表明して平気だった時代があった、ということを、我々は直視すべきである。歴史を直視しない人は、同じ過ちを繰り返すのであるから。
そのような意味において、これは日蓮筋に限った話ではないが、現代において大なり小なり仏教……ここでは捨て置くが、他の宗教も例外なく同じだ……を奉じている人々に、ボクが何か言ったとしてだから何なんだと自分でも思いつつ、それでも敢えて言いたいのは、仏教がこういう要素を、たとえ過去のこととはいえ内包していたことをちゃんと自覚しておいて欲しい、ということなのである。日本の仏教者は、概して耳心地のいい切り文だけを持ってきて「仏教は素晴らしいですよ」と言うばかりで、こういう<仏教>史の負の側面に対し目を塞ぎ過ぎだ。
卑近な例で言えば、昨今荒れ狂う中東情勢を評して「イスラム教は元来云々、対して仏教は平和主義で云々」としたり顔で発言する人……無論、これが過分に戯画化された藁人形論法であることは自覚の上で言っている、念のため……が、ボクは嫌いなのである。イスラム教の肩を持ちたいのではない。仏教を貶めたいワケでもない。ましてやお互い様、と言いたいワケでもない。もちろん、全宗教を否定したいワケでもない。
自覚の有無はともかく、我々が一般に宗教であるとか信仰と総称される、真偽証明不可能な信念の体系に大なり小なり依存せねば生きていけないのは自明なのである。そして、中東があの惨状で日本が今日の姿であるのは、別に我々個々人が優秀だから、なのではなく、たまたま我々の先達が、彼らが今陥っている惨状を既に通過していてくれたから、に過ぎないのだ。それを直視することなく「イスラム教は元来云々、対して仏教は平和主義で云々」などと言うのは、何よりもまず、現代日本を作ってくれた先達への侮辱、我が国自身の歴史に対する侮辱だ、とボクは考える。そしてそのことを直視してこそ、現在それに苦しんでいる人々と共に、それを乗り越えていく方策を考えることが出来るのではないか。ま、ボク自身にそこまでする気がないので偉そうなことは言えないのだけれども。
ここに紹介した見るもおぞましい仏典引用を、我々が「おぞましい」の一言で切って捨てることが出来るのは、突き詰めれば、たとえば日蓮のような人が、自身の熱さも賢さも迷いも愚かさも書き遺してくれて、それを我々の文化・社会が明に暗に継承した結果なのである。あなた個人に「だから日蓮に感謝せよ」などと言うつもりはないが、表面上の字面のみを以って「日蓮なんて糞じゃん」(まぁ、事実、確かに糞なところもあるのであるが)のような軽口を叩くことは、慎まれることをお勧めしたい。遅かれ早かれ、それは自分自身に返ってくるであろうから。
逆に、もしあなたが、たとえば日蓮に対して信仰心を有しているのであれば……そういう人はここまで読まずに既にブラウザを閉じておられることとは思うが……日蓮を末法の御本仏だの久遠元初自受用報身如来だのと、決して本人が聞いても喜ばない称号で持ち上げるのはやめて、真摯に“人間日蓮”と向かい合って欲しい、と切に願う。
日蓮の弟子を自認するのであれば、師の至らなかった点を認めて、よりそれを磨き上げてこそ真の弟子である。日蓮は師匠とするには人間的にいろいろと問題のある人であったように思うが、それでもこれだけは断言できる。彼は、自身の言説を頭を空にして鵜呑みにする奴は、弟子としては決して認めないはずだ。
ま、素直に褒めてもくれないだろうけど。
珍しくちょっと熱くなってしまった。立正安国論の熱に毒されたかな。