日蓮『立正安国論広本』を読む   作:wash I/O

12 / 22
結 日蓮はいつから自身を八幡神と同一視するようになったか

 以上、日蓮の主著『立正安国論』を、そのオリジナルである1260年版の“略本”と1276〜8年頃に増補改訂された“広本”の差異を検討しつつ精読してみた。以下、これを通してわかったことをまとめてみたい。

 

 なお、最初にお断りしておくが、ボクがこの本稿を通しておこなった作業は、日蓮はもちろん、日蓮が引用した仏典・経論を書いた人も皆、泥臭い背景を背負った人間であることを大前提に、頼りない推論を重ねに重ねつつ、こういう解釈だって出来るよね、という“仮説”構築を趣味的におこなったまでのことで、それ以上でもそれ以下でもない。ボク自身、自分がこうして書いたことが唯一無二正しいものであるとは露とも考えていないが、とは言え、強いて読み手をあらぬ方向へミスリードしようと企んだワケでもない。何か間違いがあるとすれば、それは単にボクが阿呆だからである。

 

 加えて、少しでも面白おかしくしようとして口が悪い部分が多々あるが、基本的にはボクは日蓮を敬慕している。そうは見えないかも知れないが、本人としてはそうなのである。と言うか、そうでもなければ、こんな手間な作業をやったりはしないのだ。

 

 さて、世間一般の立正安国論の理解……そもそも普通の人はそんなもん知らん、と言われればそれまでかも知れない……は、第一には予言書であり、第二には他宗派攻撃の書というものであろうと思う。これに対し本稿では、それとは異なるオルタナティブを示してみた。

 

 第一の点については、日蓮の筆が蒙古襲来と符合したのは事実であるにせよ、これを超自然的な未来予知であると考える必要はまったくなく、少なくとも略本執筆時点においては、日蓮自身も予言などするつもりはなかった、ということを論じた。また、結果的に予言が的中してしまったことが、日蓮を、今日我々が知る彼独特の境地へと追い込んだことを述べた。

 

 第二の点については、確かに日蓮の法然に対する批判(というか、難癖)は苛烈を極めているが、鎌倉幕府が治安上の視点から専修念仏の流行を忌避していることを追認したものに過ぎず、むしろ、彼は、少なくとも略本執筆時点では法然批判を足がかりに幕府に登用されることを目論んでいたと考えた方が合理的であること、でありながら、彼の意図と幕府のそれは本質的にすれ違っており、そもそもそれは失敗する企てであったことも明らかにした。

 

 上記二点を合わせて鑑みるに、今日我々が知るところの日蓮の言動、すなわち自身とは異なる宗派に対する全方位的な敵対姿勢は、無論、法華経を至上とする彼の原理主義的傾向にその根があることは間違いないにせよ、それを決定づけたのは、蒙古襲来によって結果的に立正安国論の予言が的中してしまい、他ならぬ彼自身が、元来は方便に過ぎなかった立正安国論に展開したところの法然批判、ひいては他宗批判を、徹底せざるを得ない境地へ追い込まれた、と考えることが出来る。特に、第八問答に見える略本と広本の温度差が、それを象徴している。

 

 つまるところ、古来言われる「日蓮の発迹顕本は竜口(たつのくち)法難である」とする捉え方は所詮は“日蓮神話”なのであって、“人間日蓮”の在り方を決定付けたのは蒙古襲来、厳密には蒙古からの国書到来である、というのが、今回の精読から得た結論となる。

 

 これは図らずも……というか必然的であるのだが……『諫暁八幡抄』精読、及び『法門申さるべき様の事』との比較検討で得られた知見*1、すなわち、日蓮は竜口以前、遅くとも1270年までには自身が八幡神であるとの認識に達していた、と正しく符合する。

 

 無論、ボクがその知見を前提に改めて立正安国論を読んだから、自然と結論が同じところに行き着くのだ、というのは過分にあると思う。まぁ、日蓮も同じような自己フィードバックループでもって自界叛逆難予言を的中と思い込んだのであるから、ボクもそれに倣ったのだということにしといてくれ(ぉぃ)。

 

 もうひとつ。今回の精読を始めた時点でボク自身にそういうことをするつもりはなかったのであるが、結果的に、主に他宗派に対する攻撃性を以って「本来の仏教ではない」との批判を受けることの多い日蓮が、<仏教>思想史の正統な継承者と見做し得る(だからといって、彼が正しいという意味ではない、念のため)ことが、図らずも明らかになった。

 

 具体的には、自身への施与を社会的な災厄の警告を通じて引き出そうとする脅迫的言辞、釈迦に遡って未来を予言させることで現在の自身の言説を正当化する未来記、自説の論敵に対する強い攻撃衝動……立正安国論からも見出せる日蓮に特徴的なこれらの傾向は、彼が独自に生み出したものでは決してなく、大乗仏教の成立過程で生じた思考様式に強く依拠している。

 

 逆に言えば、日蓮の個性というものは、当時の日本人が神仏習合を通して存外いい加減に受容し薄めてきたところの<仏教>の濃厚なエッセンスを、一身に濃縮して体現して見せたところにある、という言い方も出来るように思う。その功罪の評価については、本連載の守備範囲を超えると思われるので、後日改めて取り組むべき課題として残しておくことにする。

 

 さて、以上を踏まえて、ひとつ気付きがあったので備忘しておきたい。

 

 日蓮はいつの時点から自身を八幡神と考えるようになったのか、が、どーでもいいこととは思いつつも、ボクのここしばらくの関心事になっていたことは繰り返し述べている通りであるが、基本的にボクはこの探索を、『法門申さるべき様の事』(1269〜70年頃執筆)から遡ってやっていたのである。が、ここに至って不意に思うところがあって、1276年成立と考えられている『種種(しゅじゅ)御振舞(おんふるまい)御書』に再度目を向けてみたのである。

 

 同書は真贋がいささか怪しいものであり、特に映像化に際していろいろと面白くなりがちな“光り物”の下りが後世の創話であろうことはほぼ間違いないのであるが、かつて真蹟が存在した複数の遺文を元に編まれたこともほぼ間違いなかろう、とされているので、それに期待しつつ以下のことを述べる。

 

 日蓮の伝記としても読むことのできる同書の書き出しは、実は、去ぬる文永五年後の正月十八日・西戎・大蒙古国より日本国ををそうべきよし牒状をわたす、に始まる。言うまでもなく、これは1268年に蒙古の国書が初めて到来したことを言っている。以下、次のように続くのであるが……

 

 日蓮が、去ぬる文応元年庚太申歳に勘えたりし立正安国論、今すこしもたがわず符合しぬ。此の書は白楽天が楽府にも越へ、仏の未来記にもをとらず、末代の不思議、なに事かこれにすぎん。賢王・聖主の御世ならば、日本第一の権状にもをこなわれ、現身に大師号もあるべし。定めて御たづねありて、いくさの僉義をもいゐあわせ、調伏なんども申しつけられぬらんとをもひしに、其の義なかりしかば、其の年の末十月に十一通の状をかきて、かたがたへをどろかし申す。

 

 本稿を通読して下さった方(いるのか?)には、もはや馴染みを感じてすらもらえるのではないかと思うが……え、無理?……ざっと抄訳すれば……日蓮が1260年に書いた立正安国論の予言は少しも違わずに現実のものとなった。安国論は白楽天の楽府や釈迦の未来記に匹敵するものであり、今後もこれほど不思議なものは現れないだろう。賢明な王があれば、日蓮に日本第一の賞状や大師の称号をくだされるだろうし、きっと蒙古との戦いに備えて相談いただけるか、調伏の依頼があると思っていたが、一向にそれがないので、今年の10月には十一通の書状を各所にお届けした……ほどの意になる。

 

 無論これは、蒙古の国書到来の衝撃から10年近く経った後に成立した書であるからして、若干の思い出補正がおこなわれている可能性はある。が、本連載で論じたところの、国書到来によって日蓮が抱いたであろう自負心、責任感、使命感が十二分に伺える記述である。『安国論(あんこくろん)御勘由来(ごかんゆらい)』『十一通御書』とも矛盾はしていない。

 

 そして次下に以下の一文が登場するのである。

 

 国に賢人なんどもあるならば不思議なる事かな。これはひとへにただ事にはあらず。天照太神、正八幡宮の、此の僧について日本国のたすかるべき事を御計らいのあるかとをもわるべきに、さはなくて、或は使を悪口し、或はあざむき、或はとりも入れず、或は返事もなし、或は返事をなせども上へも申さず。これひとへにただ事にはあらず。

 

 お気づきいただけただろうか。

 

 (このような国家の一大事に際し、それに応じ得る)賢人がちゃんといる(自分のことを言っている)というのは不思議なことである。これはただ事ではない。天照太神、正八幡宮がこの僧に取り憑いて、日本の助かる道を示そうとするお計らいかと思うべきであるのに、あろうことか、使いを送れば悪口で迎え、あるいは欺いたり、あるいは相手にもされず、あるいは返事もないし、あるいは返事は寄越すけれども上に取り次いでいない。これはただ事ではない……ほどの意になろうか。

 

 繰り返すが、これは1276年頃に書かれたとされるもので、リアルタイムの記録ではない。が、ここに天照太神、正八幡宮の、此の僧について日本国のたすかるべき事を御計らいのあるかとをもわるべきとあるのは見逃せない。1268年の国書到来時点で、正しく日蓮がこのように認識していたかは定かではない。振り返って、嗚呼、あの時点から私はそう考えていたのだろう、と思っているのかも知れないし、光り物同様に、日蓮の神格化を目論んだ後世の挿句である可能性もある。

 

 が、光り物の件が、真蹟の遺る『諫暁八幡抄』の記述との矛盾から否定出来る*2のとは異なり、1268年の国書到来が日蓮をして自身を天照大神および八幡神の護国の力の顕現と思わしめた、とする見方は、『法門申さるべき様の事』執筆の時点で日蓮がその認識を有していたことと矛盾しないし、同書末尾で、日蓮が自身を比叡山に神として勧請せよ、と言っているように読める点とも符合する。

 

 モノが御振舞御書だけに、決定打とまでは言えないものの、暫定解としては、日蓮が自身を八幡神と考え出したのは、1268年、蒙古からの国書到来を知り、自身の立正安国論が予言の書になってしまったことを認識して以来、と考えてよさそうである。おぉ、唐突に謎が解けてしまった!

 

 だがしかし。

 

 御振舞御書を素直に読むと、日蓮は八幡神のみならず、天照大神もまた、自身に取り憑いたのだと考えたことになる。が、法門申さるべき様の事、諫暁八幡抄からは、そういうニュアンスは失われていて、八幡神のみにスポットが当たっている。これはどうしたことか。常識的に考えれば、一旦そうは思ったものの、流石に皇祖神と自身を重ね合わせることは憚られた、と考えることは出来る。また別の文脈で論じたように、日蓮は自身を権力の主体者=天皇を象徴する天照大神、と考える傾向に乏しく、権力の審判者=天皇権威を認めることで裏付ける八幡神、と考えることを好んだように見えることとも符合はする。

 

 一方で、御振舞御書、またはその種本となった日蓮遺文が1276年頃から1268年当時を振り返って書かれたことを前提とすると、ここに天照大神が登場する必然性がなくなってしまう。1276年時点では、日蓮は自身のことを八幡神だ、と考えていたはずなのであるから。

 

 何てこったい、新たな謎が生まれてしまった!

 

 とオチ(なのだろうか?)がついたところでこのへんで。

 

*1:
 本稿初出連載に先立ち、そういう論考を書いていた。

*2:
 八幡抄において日蓮は、竜口法難において自身を敵対者の笑い者にしたのは八幡神の罪であると責め立てているが、御振舞御書では、和気清麻呂の伝説を引き合いに出しつつ光り物によって日蓮の危難を救ったのが八幡神であることが仄めかされている。後者が史実であるならば、真蹟の残る八幡抄は「八幡神はあのとき常識外れの奇跡まで起こして私を救ったのであるから、今後もそれを続けるべきだ」と主張していないと辻褄が合わないが、御振舞御書偽作者はそこに思いが至らなかったか、戯(・)作(・)の本来の目的と思われる芝居脚本としての盛り上がりを優先したものだろう。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。