序
我ながらどうかしてるな、と思いつつ、“日蓮『立正安国論広本』を読む”の続編として、同じく日蓮遺文『神国王御書』を読んでいこうと思う。本稿はその序として、同書の書誌事項に触れておきたい。
『神国王御書』という題号は後世に便宜上与えられたもので、日蓮自身がそのように題字しているものではない。後述するように、本書は日蓮がある信徒へ施与の返礼に書いた手紙であり、同様の日蓮遺文は宛先となる人名を冠して『〜殿御返事』『〜殿御消息』等と呼称されることが多いのであるが、本書については、第一には誰宛の書簡であるかが明らかでないこと、第二には本文が特定個人への私信ではなく極めて教理的な内容になっていることから、その意を踏まえて『神国王御書』と呼ばれているものである。もっとも、個人的にはこの題号は本書内容に即していない、と思っている。
本書は日蓮自身の手になる真蹟が現存しているが、残念ながら後半部分が欠損している。また、この遺失は執筆後かなり早い時期に起こったもののようで、他に写本がみつかっていないことから、遺失部分の内容はまったく知られていない。そのため、日蓮が本書を実のところ何を目的として書いたのかについては、はっきりとはわからない部分が多い。本連載においても、これについては不明を前提とした上で、敢えて遺失部分には想像を巡らすことなく、遺された部分から読み取れることのみに注意を払っていきたいと考えている。
というのも、これは『神国王御書』という呼称とも関係してくるが、本書現存部分には日蓮の記紀神話にまで遡る歴史観、それを踏まえての国家観が色濃く現れており、当然のことながらそこにはボク個人の関心事ともなる八幡神が必然的に登場するワケで、そここそが本連載にて読み解きたいと願う部分だからだ。全体としては、前述したように結論を欠くものの、日蓮の執筆目的は一見して真言宗を論難することにあるように思われるが、これは有り体に言えば難癖の類であり、少なくとも本連載趣旨から言えばどうでもよい話題となる。
前述したような事情もあって、本書は執筆年次も確定していない。有力なのは1275年説と1278年説だが、本連載趣旨としては文中に自国をやぶらせて、結句他国より其の国をせめさすべしとみへて候とあることから、日蓮主観においては自身が『立正安国論』において予言したところの自界叛逆難と他国侵逼難の双方が成就済みとなる1274年以降であることは確実だ、というのみで十分だ。
言わんとするところは、拙説が妥当であれば本書執筆時点の日蓮には「オレが八幡だ」とする自己認識があったであろう、という点である。但し、以降読んでいけばわかるが、本書の現存部分には八幡神に関する言及がいろいろとある一方で、八幡神と日蓮自身を同一視するような言説はない。
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本題には次稿から入るとして、ここではウォーミングアップがてら、本書末尾に見える日蓮遺文独特の記述を味わっておくこととしたい。
又、むぎひとひつ、鵞目両貫、わかめ、かちめ、みな一俵給い畢んぬ。干い、やきごめ、各各一かうぶくろ給い畢んぬ。一一の御志はかきつくすべしと申せども、法門巨多に候へば留め畢んぬ。他門にきかせ給うなよ。大事の事どもかきて候なり。
まず、真面目な人であれば疑問に感じるであろう「後半が欠損している手紙の末尾がどうして残っているのか」について触れておくと、これは追伸として書かれた末尾が別紙になっていたからである。このような場合、活字出版する際は執筆者の意図に沿ってさも当然のように文末に配するのが慣例化している。
以下のリンク先で、原書別紙写真とその読み下しを見ることが出来る。
[外部リンク] http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/51660668.html
ご覧いただければわかるように今日の我々の常識とは異なる順序で書かれているが、これは当時の人々が、紙面右に大きく余白を取って書き始め、その余白に後から加筆するという習慣を有していたことによる。ご覧の通り原書は、これまで拙稿で取り上げてきた『立正安国論』、『法門可被申様之事』といった漢文調の日蓮遺文とは異なり、当時としては先進的な……弟子の一部からは師の恥とさえ見做された……漢字かな交じり文で書かれている。そういう意味で、本書は我が国における漢字かな交じり文の最初期の例としてしばしば国語学系の文献として引かれることも多いのであるが、それはさておき。
日蓮の漢字かな交じり文は想定読み手の漢字能力に応じて漢字・かなを使い分けているようで、今日の我々からすると「なんでそれがかなで、なんでそれが漢字なの?」と読み辛く感じる部分がしばしばあるのだが、たとえば上引用冒頭のむぎひとひつとは漢字で書けば「麦一櫃」のことであり、以下、居並ぶ品目は、この手紙を受け取った何者かが直前に日蓮に寄進したものの一覧であり、要するにこれは“受領証”になっている。
パッと見て何であるかわかりにくいものについて註釈を加えておくと、
先に示したリンク先の写真をあらためて確認いただきたいのだが、これは多くの日蓮真蹟に共通する特徴でもあるのだが、彼には受領した寄進物の名前を紙面上に一際大きな字で書く癖があったらしい。これは今日、彼の寄進者に対する感謝の気持ちの大きさを表したもの、と理解されている。その解釈が妥当か否かはともかく、実際、この一節を活字で読むとまさに事務的な受領証にしか見えないが、原書の踊った墨筆を見ると、確かにそこには“人間”日蓮が手紙の受取人に伝えたいと願った思いが託されているように思えてくる。
で、ありながら、やはり日蓮は日蓮であり、彼のゴーイングマイウェイさ加減も如実に現れているのであって、寄進物の御礼を言いたいのであればそれに留めればよいものの、彼は引用文の何十倍にもなる直接には手紙の受取人に関係しない持論を書き綴った挙句「私の教えは多すぎて書ききれないのでこれで終わります。他宗派の人には聞かせないでね。大事なことを書いたので(趣意)」と締めているのだから、これは手紙を受け取った人は途方に暮れたのではなかろうか、という気がしないでもない。
否、受取人が誰であるにせよ……現富士宮市周辺の地頭であり、日蓮の死後に大石寺の寺領を寄進したとされる南条時光とする説が有力……ここに見える寄進物を用意し、1275年頃に日蓮が常住していた身延山に届けることは、決して容易なことではなかったはずであるから、それを押して日蓮に寄進をおこなった当人からすれば、期せずして師の有難い長文の法門を賜った、と喜悦したことだろう。
次稿からは、その身元不明の彼を喜悦させたであろう『神国王御書』の本文を読み進めていくこととしたい。
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本稿は2016年8〜10月にかけて拙Weblogに連載していたものを、同Weblogのサービス終了に伴い、ハーメルン向けに再編集したものになる。