夫れ以れば、日本国を亦水穂の国と云い、亦野馬台、又秋津島、又扶桑等云云。六十六ケ国、二つの島、已上六十八ケ国、東西三千余里、南北は不定なり。此の国に五畿、七道あり。五畿と申すは山城、大和、河内、和泉、摂津等なり。七道と申すは東海道十五箇国、東山道八箇国、北陸道七箇国、山陰道八ケ国、山陽道八ケ国、南海道六ケ国、西海道十一ケ国。
『神国王御書』は上引用の書き出しに始まる。要するにこれは、日蓮が認識していた日本の国土の定義、ということになる。
序でも触れたように、本書は駿河国上野郷の地頭であった南条時光宛の書状であったとする説が有力なのだが、想定執筆年次の時点で時光は十六~八歳の若者であった。彼は七歳で家督を継いでいるので、この年齢から彼の精神年齢を過小評価すべきでないと思うが、一見すると、次代を嘱望される若者に対し日蓮が自身の知識を継承せんと諭しているような書き振りであり、この仮説を裏付けているようにも見える。
一方で、このような国土観が当時の人々にとって一般的なものであったか、という点には注意が必要だろう。
たとえばこの時光に「あなたはどこの国の人ですか?」と問えば、その答えは疑いなく「駿河国」であったはずである。対する日蓮は、本書に限らず“国”といえばまず第一に「日本」を単位に考えていて、これに大陸の「唐土」や「蒙古」を対置しており、国土というものを捉えるスケール感が異なっていることは明らかだ。当時としては、特に蒙古襲来が人々に広く知られる以前は、彼のこのような感性はかなり特殊なものであったろうし、下手をすれば日本は六十八ケ国から成っている、という認識を有しない人の方が圧倒的多数派であったとも考えられよう。
ちなみに、この六十八ケ国という数え方、五畿、七道を基準に考える枠組みは、今日において『行基図』*1と総称される中近世の日本地図のそれと正しく一致しており、日蓮自身の知識の源泉もおそらくはそこにあったのだろう、と考えることができる。なお、彼の生涯を通しての移動の軌跡を辿れば、東は下総国(千葉県)、北は佐渡国(新潟県佐渡島)、西は山城ないしは摂津国(京都府)、南は紀伊国(和歌山県)あたりまでであり、必ずしも彼自身はその国土観を実体験していたわけではない。
次に示されるのは日蓮の歴史観、日本史観ということになる。
国主をたづぬれば、神世十二代は天神七代、地神五代なり。天神七代の第一は
基本的に日蓮は、日本という国を「天皇が支配する国」と規定している。上引用部に始まる節でつらつらと述べられるのは『日本書紀』が示す日本国成立の神話そのものであり、彼が意識的に読み手を欺こうとしているのでなければ、彼自身もまたその神話を信じていた、というのが素直な解釈になるだろう。
いや、これは日蓮が「このように言い伝えられている」と取り上げただけなのであり、彼自身が神話を言葉通り受け取っていたワケではない、とする読みもないではないが、仮にそうだとすれば、歴史を語り始めるのに国常立尊まで遡る必要はないのであり……事実、『諫暁八幡抄』では神武帝から話を始めている……また、読み手の立場からすれば、師たる日蓮の言葉は
ただ、注意を要するのは、ここで日蓮が神として列挙し想起しているそれらが、今日の我々が同じく“神”という言葉から想起するものと同じであるか、と問えば、ここには疑問がある。これについては、後ほど彼自身の“神の定義”が開陳されるので、その段になって再検討することとしたい。
以下、幾柱かの神名が列挙されたのち、話題は我々も知るところの歴史上の天皇の時代へと至る。
已上十二代は神世なり。人王は大体百代なるべきか。其の第一の王は神武天皇、此れはひこなぎさの御子なり。
まず彼は、人王=天皇について「今の天皇はだいたい百代目ですかね」とアバウトな認識を示している。が、続きを読めばわかるように、彼自身はもちろん本書執筆時点で在位していた天皇が、当時の数え方で90代目……明治になって85代に仲恭天皇が挿入されるので以降は1代ずれる……に当たる後宇多天皇であることをちゃんと認識していたはずだ。にもかかわらず、ここでアバウトな表現が用いられているのは、疑いなく“百王説”が彼の念頭にあるからだ。
一般に、鎌倉新仏教の祖たちのモチベーション、オブセッションとしては第一に末法思想が挙げられるのであるが、こと日蓮に限って言えば、この百王説が大きなウェイトを占めていたように思われてならない。まぁ、そもそも百王説自身が末法思想の日本的変奏曲として生まれたものであるから、当然と言えば当然ではあるのだが、思想の系譜としては神道の文脈に位置づけられるものであり、今日の日蓮信奉者が彼を仏教の純粋無垢な継承者として考えたがることと、彼自身の百王説へのこだわりようの間には、少なからぬ齟齬が生じていることをここでは指摘するに留め、詳しくはテキスト中に再登場した際に改めて触れることとする。
以下、初代天皇としての神武帝がひこなぎさの御子、すなわち地神五代の末を飾る
第十四は仲哀天皇、八幡御父なり。第十五は神功皇后、八幡御母なり。第十六は応神天皇にして仲哀と神功の御子、今の八幡大菩薩なり。
八幡神を応神天皇と同一視する枠組みは、本質的には間違っているが、当時としても、また今日的にも通用してしまっている観念であり、少なくとも日蓮にはこの欺瞞に気づく機会があったはずだが彼自身は気付かなかったようだ。なお、今日において神功皇后は歴代天皇に数えられることはないが、鎌倉時代には彼女を第十五代天皇と捉えるのが当然であった。
むしろここで注目したいのは、八幡神=応神天皇説に付随して、応神天皇=
が、日蓮はこの慣例(?)に逆らって仲哀天皇と神功皇后を併置し、応神天皇の父母として紹介するということを敢えてやっている。そもそも、次節にて仏教伝来と合わせて取り上げられる欽明天皇に至るまでの三十代の中で、仲哀・神功・応神の三天皇のみに言及していることを含め、ここには、何らかの日蓮の選択的な意図が働いているはずだ。
以下、本書において日蓮は、今日の我々もよく知る記紀神話〜六国史の記述から自説を立証する体を採りながら、いくつかの部分で敢えて特定の事柄を強調したり……上にみた仲哀天皇の例がそれ……逆に無視したりすることで、恣意的な結論を導いている疑いがある。つまりこれは、現代的な表現を用いればある種の“歴史修正主義”ということになろうかと思うが、無論、鎌倉時代の制約の中を生きた日蓮を、今日的な知見で以って「この歴史修正主義め!」と断罪することには何の意味もない。
本書を読むに当たって重要なのは、この日蓮に垣間見える歴史修正主義的な傾向を踏まえた上で、彼のどのような心理・信念が、彼をして歴史を修正せしめているのか、その辺りに思いを馳せつつ読むことだ、とボクなどは考えている。それは“人間日蓮”を理解していく大きな手がかりになるはずであり、ひいては今日の彼の末裔たちとコミュニケーションパスを開く鍵にもなるであろうから。
*
続いて日蓮が触れるのは“仏教伝来”である。仏教公伝の年次については諸説あるが、ここでの日蓮は『日本書紀』の記述をそのまま引いている。
第三十代は欽明天皇、此の皇は第二十七代の継体の御敵子なり。治三十二年、此の皇の治十三年、壬申十月十三日辛酉、百済国の聖明皇、金銅の釈迦仏を渡し奉る。
この時点で仏教の受容について朝廷内に異論が有り、欽明・敏達・用明の三代・三十余年は崇め給う事なしと述べているのも、概ね書紀の伝える通りである。これが今日の我々から見ても史実であるか否かはともかく、日蓮の置かれた時代制約から考えれば、彼がこのように信じていたこと自体を責めることは誰にもできない。
問い糺すべきは、次下以降、彼の主観が交じる筆から、となる。
其の間の事さまざまなりといへども、其の時の天変地夭は今の代にこそにて候へども、今は亦其の代にはにるべくもなき変夭なり。第三十三代崇峻天皇の御宇より仏法我が朝に崇められて、第三十四代推古天皇の御宇に盛にひろまりき。
その間=欽明・敏達・用明天皇三代の仏教が受容されなかった期間、にも鎌倉時代同様の天変地夭がいろいろあったが、崇峻天皇の代に仏教が受容されそれが収まったのだ、と言いたげな書き口である。ここで言われている仏教が受容されなかった三代については『諌暁八幡抄』においても同様の記述があった。ここから、日蓮が三代天皇が仏教受容を躊躇ったことが天変地妖を引き起こしたのであり、同様に、彼にとっての現代=鎌倉時代の天変地妖もまた、誰かが仏教を正しく敬っていないことによるのだ、との観念を有していることを読み取ることができる。
が、よくよく考えると、彼の考え方はいろいろと無視できない自己矛盾を孕んでいる。
第一に、日本史に詳しい人には今更の話かとは思うが、仏教を受容し天変地妖を収めたと日蓮が観念するところの崇峻天皇は、臣下(蘇我馬子)に殺害されたことが明確にされている唯一の天皇である。物部尾輿ではないが方今改拜蕃神恐致國神之怒……外国の神=仏教を崇めれば日本の神の怒りを被るの意、日本書紀……と言いたくなる事態であるが、日蓮はここではそのことにはまったく触れずに流している。ここまで、日本書紀の伝える日本史を語ってきたにも関わらず、だ。
ちなみに、日蓮の手元にあった書紀写本に錯簡があって彼が崇峻天皇の故実を知らなかった、という可能性はない。明治時代まで真蹟が存在したことがわかっている遺文、その名も『崇峻天皇御書』の中で、彼は崇峻天皇が蘇我馬子の手の者に害された話に……崇峻天皇自身にそれに至る欠点があった、という文脈で……触れている。
ということは、日蓮は、仏教を受容しなかった三代天皇の時代の天変地妖が崇峻天皇の代になって収まったことを語る段においては同天皇の末路には触れず、その一方で、弟子の短慮を戒める反面教師的エピソードとしては崇峻天皇の故事を引いていたことになる。本連載では、これを日蓮の歴史修正主義的傾向、と見ている次第だ。
第二に、次下から日蓮は第五十代桓武帝に至るまでについて、いずれの天皇の御代に仏教のどの宗派が我が国にもたらされたかを列挙している。原書遺失期に重なるので逐一に確認できていないが、おそらくこの論述の元ネタは『扶桑略記』であろう。当然のことながら、その筆は人王第五十代に最澄と申す聖人ありと、彼が彼に先行する法華経の行者として認めるところの伝教大師最澄の登場に帰結するのであるが、その直前の下り、
人王四十六代、孝謙天皇の御宇に律宗と法華宗わたる。しかりといへども、唯律宗計りを弘めて天台法華宗は弘通なし。
を素直に読むと、(1)孝謙天皇の御代に初めて法華経が日本に伝わった、(2)しかし日本では律宗ばかり弘まって法華経は注目されなかった、ように見え、これを最澄が是正したのだ、と言いたげであるが、やはり、これも史実とは大きく異なっている。
実際には、法華経は仏教公伝の時点で我が国に渡来しているし、ゆえにかの有名な聖徳太子……日蓮の数え方では第三十四代となる推古女帝の摂政、念のため……が我が国最古の書物であり法華経注釈書となる『法華義疏』を自ら書いたと長く信じられてきた。もちろん、日蓮がこれを知らないわけがない。
用明天皇の御宇に、聖徳太子仏法をよみはじめ、和気の妹子と申す臣下を漢土につかはして、先生所持の一巻の法華経をとりよせ給いて持経と定め……
やはり他の日蓮遺文に、彼がちゃんと聖徳太子の事跡に通じていたことを裏付ける記述を見出すことができる。知った上で、敢えて本書ではこれに触れていないどころか、彼の真意は知るべくもないが、穿った見方をすれば彼は意図的に自身の知る事実を隠している。これをどう解釈すべきだろうか。
思うに日蓮自身は、自分は仏典や史書典籍を通じて得た知識から法華経こそ最上最極の経典であるとの見識に至った、と考えていたしそのように信じていたであろうが、本書に見える彼の筆運びを鑑みるに、どう考えても話は逆である。つまり、少なくとも本書執筆時点の彼は、法華経が最上最極の経典であるという前提の下で、史書典籍からその前提に合致する事実を取捨選択している。
歴史修正主義、という場合、ここには、自分の信念に合致しない事実が見えない、見ようともしない、というケースと、自分の信念に合致しない事実が見えているのに信念によってオーバーライドされる、というケースを想定することが出来ようかと思うが、日蓮の場合は明らかに確信犯的な後者のケースであろう、とボクは思う。
一方で、彼が生来そのような人格の持ち主であったか、と問えば、おそらくそれはまた違うのであって、『立正安国論』精読を通して見たように、当初の彼は仏典史書典籍から導かれる一つの帰結として法華経至上主義に自ら達したのであろうが、そこから演繹された他国侵逼難予言が蒙古襲来によって的中してしまったことにより、彼自身自覚がないままに、事実と帰結の位置関係が逆転してしまったのではないか。
以上、日蓮が本書に開陳する歴史観から読み取れる二つの問題点、すなわち、仏教が“立正安国”をもたらすという自説に矛盾する崇峻天皇の故事を無視している点、と、同じく法華経が立正安国をもたらすという自説に合致しない推古朝における法華経伝播を隠蔽している点、を指摘した。これらの問題点は、それはそれで歴史修正主義的な問題ではあるものの、仏教の正統後継者を自認し、また、自身の予言が図らずも的中してしまうという特殊な体験によって彼が陥らざるを得なかった境地を惟んみれば、理解できないものではない。
が、次に指摘する第三の問題点は、その彼の立ち位置をも怪しくするものとなる。
*
ここまでの彼の筆は、簡潔に整理すれば、(a)仏教公伝に際し速やかに受容しなかったことが災いを招いた、(b)最澄が持ち込むまで日本に法華経は弘まらなかった、の二点を主張している、と言えよう。ここで疑問に思うのは、日蓮が法華経弘教を正当化する上で援用している正像末の歴史観との整合性である。
日蓮は明らかに(b)を問題視しており、かつ、この後段では彼お得意の、弘法大師空海とその弟子たちが天台宗を真言密教で汚染したことに対する論難を展開していくのであるが、一般に、当時の日本で“末法”の世が始まると考えられていたのは平安時代後期、西暦の1050年頃だった。天皇で言えば第七十代後冷泉帝の御代となるが、これはここで日蓮が論じている時代よりも随分後の話である。
つまり、この一般的な……それが適正であるか否かはこの際どうでもいい……末法観からすると、日蓮がここに論じた時代は像法の時代であり、日蓮の仏教史観からすれば、釈迦の威徳がまだ残っていて必ずしも法華経流布が求められない時代、ということになるはずである。まずは、日蓮の“末法”の始まり認識が当時の一般的なそれと大きく乖離してはいなかったこと、つまり、彼自身の持論としてはここまでみてきた時代が正しく“像法”であることを、彼自身の筆から確認しておこう。
像の末に伝教一人、法華経、一切経を仏説のごとく読み給へり。南都、七大寺蜂起せしかども、桓武乃至嵯峨等の賢主、我と明らめ給いしかば又事なし。今末法の始め二百余年なり。
上引用は佐渡流罪中(1272年)に執筆された日蓮主著の一つからになるが、彼は自身の現在について末法の始め二百余年と述べており、1050年頃を末法の始まりとする末法観と一致していることがわかる。加えて、冒頭では最澄を像の末の人であると言っていて、これもやはり彼の末法観が世間一般のそれと一致していたことを裏付ける。
ということは、本書の日蓮は、彼の持論上から言えば必ずしも問題視する必要がないはずの像法時代の法華経不在を、殊更に採り上げていることになる。これは何故なのか。これは、日蓮主観における本書の主題が真言宗に対する論難であることに起因している。その詳細は次稿に譲るが、ボクの見るところ、日蓮は真言宗に難癖するために、天台宗の密教化が日本に災いを招いたことを歴史から論証(?)しようとしている。その論証のためであれば、
我滅度後後五百歳中。広宣流布於閻浮提無令断絶。
という、法華経自身が示す*2ところの法華経が流布されるべき時代=末法が、多少遡っても構わないのだろう。もちろん、ボクはこれを以って日蓮を非難しているワケではなく、むしろ彼が頭カチコチの原理主義者でなくて、こうした人間らしい一面を垣間見せてくれることに胸を撫で下ろしたい気分なのである。