続いて、平安初期の日本の仏教界のもう一人の立役者である弘法大師空海が登場する。
同じき御宇に、空海と申す人漢土にわたりて真言宗をならう。しかりといへども、いまだ此の御代には帰朝なし。人王第五十一代に平城天皇の御宇に帰朝あり。五十二代嵯峨の天皇の御宇に、弘仁十四年癸卯正月十九日に、真言宗の住処東寺を給いて護国教王院とがうす。伝教大師御入滅の一年の後なり。
一見粉飾なく史実に触れているように思えるこの一節にも、日蓮の作為を感じずにはいられない。というのも、上引用文を書かれたままに読むと、先行して帰朝し同じき御宇=桓武帝の御代に日本天台宗を開いた伝教大師最澄と、伝教大師御入滅の一年の後に真言宗の住処東寺を開いた空海の間には接点がなかったかのように見える。が、もちろんそれは史実ではない。
実際には、最澄と空海の間には少なからぬ接点があったし、中でも最澄が密教を学ばせるべく空海の下に派遣した三人の弟子が、自らの意思で以って空海に師事し遂に最澄の麾下に帰参しなかったエピソードが、平安仏教界の二大巨頭の間の微妙な緊張関係を今に伝えており、これを日蓮が知らなかったはずはないが、やはり彼はこの事績を含む二人の接点についてまったく触れていない。
もちろん、ここには何らかの意図があるのだ。
人王五十五代、文徳天皇の御宇に仁寿と斉衝とに金剛頂経の疏、蘇悉地経の疏、已上十四巻を造りて大日経の義釈に並べて真言宗の三部とがうし、比叡山の内に総持院を建立し、真言宗を弘通する事、此の時なり。叡山に真言宗を許されしかば、座主両方を兼ねたり。しかれども、法華宗をば月のごとく、真言宗をば日のごとしといいしかば、諸人等は真言宗はすこし勝れたりとをもへけり。しかれども、座主は両方を兼ねて兼学し給いけり。大衆も又かくのごとし。
少し長くて雑多な引用となるが、上に引いたのは世にいう“天台宗の密教化”について書かれた部分になる。本書のみを読むと、日蓮が最澄と空海の交流について敢えて言及を避けているので、文徳帝の御代になって俄かに真言宗の教義が天台宗を侵食し始めたかのように見えてしまうが、もちろんこれもまた事実とは異なる。最澄自身が空海から経典を借り受けて真言密教を学ぼうとしたことは記録に残っているし、前述したように、その過程で三人の弟子……おそらく彼らだけではなかったろう……が最澄から空海へと師を転じているのであるから、天台宗の密教化は、最澄の存命中から始まっていたのだ。
日蓮の筆は、真言宗が法華宗をば月のごとく、真言宗をば日のごとしと喧伝したがために大衆も又真言宗の方が格上だと考えるようになってしまったのだ、と言いたげである。以下、あくまでも個人的な見解であると断って述べるが、天台宗が真言宗に引きづられて密教化したのは、日蓮が言うような個人の陰謀的策動によるものではなく、むしろ法華経を根本経典とする天台宗の宿命だった、と考えられる。
大雑把に要約すれば、天台宗の主張は“一念三千”という言葉に尽きるが、これは法華経が主張したところの万人の成仏可能性を裏返して、人間の一念に、法華経に描かれるところの三千の仏、菩薩、縁覚、声聞、天、人、以下諸々すべてが無始無終に内在することを悟れ、という意になるのだが、拙『法華経
対して、真言宗の教義が単純明快である、とまでは言わないものの、要するにその主張は意味不明な呪文を唱えていれば何とかなるのだ、という代物である。わかったようなわからないような理念を悟れと迫る天台宗僧侶よりは、金色の仏具を奮いながらさも有難そうな呪文を詠唱する真言宗僧侶の方が、当時の人々の視線から見れば身近に感じられたのは無理もないことだ。
『
また、仏教史的に見れば、真言=マントラは、法華経が内包した陀羅尼=ダーラニーの成れの果てである。本家法華経教団自身が、その理念を説き続けることに倦んでおまじないの世界に足を踏み入れたくらい*1なのであるから、その末裔が同じ轍を踏むのは、当然と言えば当然なのだ。日蓮も、とどのつまりは同じ轍を踏んで法華経の題目だけ唱えていれば何とかなる、という結論に至ったのではなかったか。
以上のような構造上の問題に、果たして日蓮自身は気づいていただろうか。
あくまでも個人的な見解であるが、当初の日蓮は真言宗を敵視していたようには思えない。立正安国論の略本・広本を比較すると、前者が法然批判に終始しているのに対し、後者では真言宗に対する不自然な加筆があったことを思い出そう。彼は、法然の専修念仏が日本国を揺るがすほどの勢力ではないことを承知の上で、言わば持論を展開する上でのスケープゴートとして浄土宗を論難しており、おそらくその時点においては、日蓮主観では彼は戦わずして勝利していたのである。が、実際には蒙古襲来によって彼の虚しい勝利は見事に覆されてしまった。そして彼は、生来の激しい使命感ゆえか、ついに自説を再検討するには至らず、くつがえされた勝利を合理化するための新たな敵を欲した。浄土宗以外に、法華一乗を妨げる何者かがいるに違いない、いなければならない。かくしてターゲットされたのが真言宗である。
佐渡期に書かれた複数の信徒に対する彼の手紙が、当時の日蓮が真言系の典籍の入手を求めていたことを伝えているので、少なくとも日蓮には自分が真言宗を新たな敵と認識して、配流中にも関わらず新たな戦闘準備に入った自覚があったのだろう、と思う。が、彼自身はそれを釈迦と法華経に命じられた崇高な使命と信じていて、ついぞ自身の敗北感を払拭するための代償行為であったことには気付かなかったのではないか。このあたりの捩じれが、本書にも見える無理矢理な真言宗批判の筆致にも反映されているように、ボクには思える。
総じて日本国には真言宗に又八家あり。東寺に五家、弘法大師を本とす。天台に三家、慈覚大師を本とす。
上引用を以って天台宗密教化を論じた節が終わる。つまるところ、日蓮は例によって例の如く、日本天台宗第三代座主慈覚(円仁)にその責を求めている。部外者からすれば、誰が天台宗を真言かぶれにしたか、などというのはどうでもいい話に思えなくもない。が、日蓮が強いて最澄の時代から垣間見えた密教化傾向を自筆の上では隠蔽しつつ慈覚を名指ししているのは、日蓮が天台宗の密教化を要因として起こったと信じる日本史上の大事件から、最澄を免責するためである。
人王八十一代をば安徳天皇と申す。父は高倉院の長子、母は太政入道の女建礼門院なり。此の王は元暦元年乙巳三月二十四日、八島にして海中に崩じ給いき。此の王は源ノ頼朝将軍にせめられて、海中のいろくづの食となり給う。
前引用の慈覚大師を本とすのすぐ次下に上に引いた故事が続く。説明不要かとは思うが、源平合戦の末に当時数えで八歳であったと伝えられる安徳帝が壇ノ浦に沈んだ事件のことを言っている。本書の記述中では明言されていないが、日蓮自身のロジックでは、直前までに述べた天台宗の密教化がこの悲劇の原因だったことになっているのは明白である。
人王八十二代は隠岐の法王と申す。高倉の第三の王子、文治元年丙午御即位。八十三代には阿波の院、隠岐の法皇の長子、建仁二年に位を継ぎ給う。八十四代には佐渡の院、隠岐の法皇の第二の王子、承久三年辛巳二月二十六日に王位につき給う。同じき七月に佐渡の島にうつされ給う。此の二、三、四の三王は父子なり。鎌倉の右大将の家人義時にせめられさせ給へるなり。
後鳥羽上皇以下、承久の乱で敗れた歴代上皇を揃って諡号ではなく隠岐の法王、阿波の院、佐渡の院と各院の流刑地で呼んでいるところに、いささか日蓮の底意地の悪さを感じないでもない。
っつーかアンタ、もし自分が同じく流された流刑地を冠して“佐渡の坊”とか呼ばれたとしたら、絶対激怒したろ?
まぁ、そういう冗談はさておき。
承久の乱の結果、これらの天皇経験者……乱の時点で三人共に譲位済みの上皇であった……が配流の憂き目にあったのは、鎌倉の右大将の家人義時、すなわち北条義時をこれらの上皇が真言師を用いて調伏しようとしたためである、とする主張は『諫暁八幡抄』を含む日蓮晩年の遺文に頻出するものとなる。ここで注意喚起したいのは、『立正安国論』略本の時点においては、後鳥羽帝の没落の原因として名指しされていたのは、真言宗や密教化した天台宗ではなく法然の専修念仏だったことだろう。この矛先の変転の理由は上に述べた通りである。
とまれ、ここまでが本書のイントロダクションということになろうか。ここまでの内容を概括すれば、日蓮は彼の登場に至るまでの日本の歴史を振り返り、元来“神”が治めるこの国において、日蓮が正しいと信じる法華経がないがしろにされてきたため種々の災いが止まないのだ、と言っているのだが、彼の語るその歴史は、彼の信念に合致するよう巧みに修正された歴史であった。
次稿からはいよいよ日蓮の政治観・神観に迫っていくことになる。これがまた難物で楽しいのだ、え、ボクだけ?