日蓮『立正安国論広本』を読む   作:wash I/O

16 / 22
第3話 日蓮の政治観・神観

 此に日蓮大いに疑つて云く

 

 本連載における本題……なんてあるのか?……となる節は上の書き出しに始まる。

 

 意味するところは「私(日蓮)としては以下に述べる真実を知っていますが、現実はそうなっていないので大いに疑っています」といったところだが、続いて示される彼のみ知る“真実”とそれに合致しない“現実”は、それぞれに結構な文量があるので、ひとまずここで切ってみた。個人的には、この手紙を受け取った誰かは、以下の文章を本当に理解できただろうか、と少し不安になる。

 

 仏と申すは、三界の国主、大梵王、第六天の魔王、帝釈、日月、四天、転輪聖王、諸王の(1)師なり、主なり、親なり。三界の諸王は、(2)皆は此の釈迦仏より分ち給いて、諸国の総領、別領等の主となし給へり。

(引用者が傍線、下線、句読点を加えた、以下同)

 

 上引用が日蓮の知るこの世の真実のコア部分となる。

 

 順序が前後するが下線部(2)から見ていくことにしよう。「釈迦が(自身の所有する)領土を分けて与えて諸王を諸国の主にしたのです」ほどの意味になるが、この見解を“釈尊御領観”と呼ぶ。

 

 これは何を言っているかというと、いわゆる封建制……たとえば当時の日本であれば、天皇が建前上の国土の所有権を独占していて、その部々分々の分割貸与を貴族や武士に与える代償に国家社会への奉仕義務を負わせる統治体制……を、娑婆世界全体に拡張して、その頂点に釈迦を配した世界観である。

 

 もちろん、天皇とは違って釈迦は日蓮の時代においても故人なのであるから、直接に封土を与えてくれるわけではない。従って釈尊御領観は、そもそも人がこの世に生まれてくるに際して国主の家に生まれたり、あるいは、そのように生まれついたが没落したりすることの背後には、超越的な釈迦の意思(あるいはそれに擬される法則、『立証安国論』第一問答を参照のこと)が働いていることを含意している。

 

 つまり、日蓮に言わせれば、本書冒頭に語られた天神七代の第一は国常立尊が日本の最初の国主であったのは、釈迦がその所有する領土=娑婆世界すべてから、そのほんの一部である日本を分かち与えたからであり、続く天神七代、地神五代も、第一の王は神武天皇以下の天皇も、皆、釈迦に任命されてこの世に生まれたがゆえに国主なのだ、ということになる。

 

 そんなバカな!と言いたくもなるが、これは現代の我々が思うほど、当時としては馬鹿げた観念ではないのだ。よくよく考えてみれば、当時の天皇権力の根拠は、日蓮が述べた通り国常立尊~神武天皇~今上天皇の連鎖に求められていたのであり、幕府権力も、たとえそれが如何に形式的なものであろうとも天皇からの委任に依存していたのであって、釈尊御領観はその連鎖の最上位に、当時の人々であれば決して疎かにはしなかったであろう釈迦がちょこんと載るだけの話なのである。

 

 さて、いくら誰もが有難がる釈迦がちょこんと載るだけとは言え、ことは国家どころか世界の根幹に関わる重大事であるから、このような主張をするからにはそれなりの根拠が求められよう。ここで本文を少し離れて、日蓮は何を根拠に釈尊御領観をこの世の真実と考えたのかについて触れておこう。もちろん、彼が根拠にするのは法華経である。

 

 (a)是れ我が有なり、其の中の衆生は悉く是れ吾子なり等云云。この文のごとくならば、この三界は皆釈迦如来の御所領なり。寿量品に云く、(b)我常に此の娑婆世界に在り等云云。この文のごとくならば、乃至過去五百塵点劫よりこのかた、此の娑婆世界は釈迦菩薩の御進退の国土なり。

 

 上引用は、その名も『釈迦御所領御書』と呼ばれている真蹟断簡から。惜しくも引用部より前の部分は遺失してしまっているが、下線部(a)は妙法蓮華経譬喩品第三の有名な一節なので、遺失部を補って読むことができる。つまり本来は、譬喩品に云く、今此の三界は、皆是れ我が有なり~と書き出されていたことはほぼ間違いない。「この世界はすべて私(釈迦)が所有するものだ」と法華経に書いてあるから。呆れたことに、これが日蓮の釈尊御領観の根拠ということになる。

 

 ここに至って初めて、そんなバカな!とのツッコミが可能になる。

 

 百歩譲って、日蓮は法華経の文言を一字一句に至るまでこの世の真実であると信じていたのだから彼がこのように考えるのも無理はない、とすべきだろうか。否、法華経を読んだことのない人はそう思うかも知れないが、伊達に8ヶ月もかけて法華経に我流註釈を施したワケではないボクとしては、日蓮の下線部(a)(b)の解釈に対しては異議を申し立てざるを得ない。

 

 第一に下線部(a)、『譬喩品』の今此三界の章句について。実はこれは、件の三界無安猶如火宅のすぐ後に続く下りである。詳細は拙『法華経転読(うたたよみ)』第6話*1を参照いただきたいと思うが、同品の主題が三車火宅の譬えであることからわかるように、ここでの釈迦は三界の支配者ではなく、むしろ人々を苦悩に満ちた三界の外へ連れ出して阿耨多羅三藐三菩提へと導く者、と観念されている。確かにパターナリズムの父権者としても読むことは出来ようが、日蓮の言う釈尊御領観とはかなりニュアンスが異なる。

 

 第二に下線部(b)、『如来寿量品』の我常在此娑婆世界の句は、いわゆる久遠実成を示した下りの一節である。なるほど、釈迦が永遠不滅の仏陀であるとするその観念は、確かに釈迦こそがこの世界の所有者であることを含意しているように思えるかも知れない。が、法華経執筆者の関心は明らかに「永遠不滅の仏陀=我々に文句を言うな」という方向に突っ走るのみで、久遠実成説から派生しても良さそうな釈迦=絶対神観念は、法華経全体を通しても一切抽出できない。これについては『転読(うたたよみ)』第23話*2も参照いただきたい。

 

 さらに一歩踏み込んで論じれば、久遠実成の真価は、仏は永遠不滅であるがゆえに、いついかなるときに誰であっても、我こそ一心欲見仏せんと決したその瞬間に倶出霊鷲山するのだと自ら強いて信じるところにあるのであって、永遠の釈迦がこの世界を支配してくれていると考えるのは方向性が真逆である。っつーか、そのことは他ならぬ日蓮自身が一番よくわかっていたはずだ。

 

 私見では、法華経から釈尊御領観を導出することはできない、と思われる。理由は簡単で、法華経を書いた人々には基本的に国家や政治というものに対する関心がなかったからだ。日蓮の釈尊御領観は、法華経から導出された観念ではない。日蓮自身が先行して釈尊御領観に類する観念を有していて、その根拠を法華経に求めた結果が、上にみた譬喩品と如来寿量品への言及ということになろう。

 

 ここで改めて注目すべきが、本稿冒頭引用の下線部(1)師なり、主なり、親なりである。語順は異なるが日蓮教学ではこれを“主師親の三徳”と称し、釈迦とは何ぞや?仏とは何ぞや?に対する答えの一つとして「主師親の三徳を備えるものである」とする。引用部で言っていることがまさにそれだ。自身の奉じる最上位権威を何らかの威徳の集合として説明する思考方法は、キリスト教の“三位一体”に通じるところがないでもない。

 

 日蓮は殊の外この主師親の三徳を重視していて、たとえばそれは以下に引く彼の主著『開目抄』の書き出しにも現れている。

 

 夫れ一切衆生の尊敬すべき者、三あり。所謂主師親これなり。又習学すべき物三あり。所謂儒外内これなり。

 

 すべての人間が敬意を払うべき存在として、まず主師親が挙げられている。続いて学ぶべきものとして挙げられる儒外内とは儒教・外道(婆羅門)・内道(仏教)を指しており、日蓮の価値体系において、各種典籍経巻のさらに上位のアプリオリな存在として主師親が言われていることがわかる。

 

 では、具体的にこの主師親とは何であろうか。意外なことに、その意味するところは今日の我々が字義から考えるところと変わりない。すなわち主従の主であり、師弟の師であり、親子の親である。従って、冒頭引用部の仏と申すは〜師なり、主なり、親なりは、文字通り、仏陀というものは我々の主人であり師匠であり親である、という意味で言われている。

 

 少しここで脱線するが、本書冒頭部に、

 

 第十四は仲哀天皇、八幡御父なり。第十五は神功皇后、八幡御母なり。第十六は応神天皇にして仲哀と神功の御子、今の八幡大菩薩なり。

 

という一節があった。八幡神に言及するに際しこのような取り上げ方をするのは当時としても珍しい例であったように思うのだが、どうもコレは、ここに見える主師親思想が前提としてあって、父母共に天皇であるがゆえに応神天皇=八幡神は歴代人王の中でも特別な存在である、といった理由付けが日蓮の中でおこなわれていたのかも知れない。

 

 閑話休題。

 

 法華経譬喩品では、たしかに一切衆生が火宅に遊ぶ子供に、釈迦がそこから方便で以って解脱を誘う父親に擬えられていたから、親子、という点では意味が通じていないワケではない。が、仏教というものが本質的に出家主義を前提にしていること、すなわち、世俗の主従関係であるとか師弟関係であるとか親子関係といったものへのこだわりを断ち切って出世間することを理想としてきたことを鑑みるに、仏とは主師親である、とする日蓮の主張は、どうも<仏教>の筋目から逸脱している印象を受ける。

 

 実は、現存する日蓮遺文には、彼が何を根拠に主師親を尊しと考えるに至ったかについて、明示的に述べたものがない。が、後世の研究者によって、おそらくこれが元ネタであろうというところが特定されている。彼の法華経解釈の原点は天台大師のそれであるが、天台大師の直弟子で中国天台宗第四代座主を務めた灌頂(かんじょう)という人がいる。生地を冠して章安(しょうあん)大師とも呼ばれるが、日蓮遺文には、灌頂の書いた経論からも多くの引用がおこなわれている。

 

 法華経をひろむる者は日本国の一切衆生の父母なり。章安大師云く、彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親なり等云云。

(『撰時抄』真蹟現存)

 

 上引用部も、ある意味において主師親思想の“親”の徳に触れたものであるが、日蓮信仰者の間ではいわゆる折伏の理論背景の一つとしてよく知られた下線部の言葉も、章安大師云くとあることからわかるように元は灌頂の主著『涅槃経疏』から引かれたものだ。

 

 実は、主師親思想もこの涅槃経疏にその源流があると考えられている。その名の通り同書は法華経に1〜2世紀ほど遅れて成立した大乗経典『大般涅槃経』に対して註釈をおこなった経論だが、この中で灌頂は『哀歎品』の文言を解釈し、釈迦=仏陀が備える主徳・師徳・親徳を導出しているのだが、これがなかなか今日的な目線で見ると怪しげな代物である。

 

 涅槃経が釈迦の涅槃=死、について述べた経典であることは言うまでもないと思うが、哀歎品はその章題が示すように、釈迦が死んでいくことに対する、文字通り哀歎に満ちた章である。この中で、釈迦の弟子や空想上の天部たちが釈迦の威徳を偲んで発したとされる言葉……無論これらは、涅槃経を作った人々の創作物である……を取り上げて、これは主の徳に当たる、こちらは師の徳である、あちらは親の徳である、と灌頂は論じている。が、よくよく考えるとこれは『神国王御書』の日蓮と同じ問題を孕んでいる。

 

 つまり灌頂は、涅槃経から釈迦の三つの徳を抽出しているのではなく、彼がそもそも徳目だと考えているものを涅槃経の文言の中から探した、といった方が正しい。その証拠に、たとえば哀歎品には釈迦の威徳を病人を癒す医者に譬えた下りがあるが、灌頂はそれが自身の探していた徳目と噛み合わないので無視している。

 

 では、彼がそもそも主師親を徳目だと考えた根拠は何かと問えば、彼自身がそれを告白しているワケではないが、どう考えてもこれは中国の儒教思想である。要するに灌頂は、孔子とその末裔たちが理想の支配者とはかくあるべし、と論じたイメージの影響下にあり、仏典の中からそれが抽出できるはずだ、という前提で涅槃経に釈義を加えたから、必然的に儒教的な主師親が導出されたのだ。

 

 日蓮がこのことに気づいていたかどうかはわからないが、日蓮自身がその轍を踏んでいることを思うと、おそらく彼はそのことに気づいておらず、自覚のないまま灌頂と同じことをやっているようにボクには思える。

 

 するとどうなるか?

 

 儒教における主師親の三徳を備えた理想の支配者、とは、要するに彼らが求め、時に革命を起こして異民族を以ってその首をすげ替えることすら辞さなかった“皇帝”の座であるからして、これを仏陀に重ねあわせれば、中国大陸のみならず娑婆世界すべてを統べる釈尊御領観が出来上がることになる。

 

 以上、ここでは『神国王御書』における全主張の大前提となる日蓮の釈尊御領観が、実は<仏教>から生じた観念ではなく、儒教の影響を受けて派生したものであることを論じた。要するに彼は、儒教に汚染された<仏教>を以って、真言に汚染された天台宗を難じる、という笑っていいやら呆れてよいやらわからないことを本書で展開していることになる。大枠としては以上がすべてなのであるが、その具体的な展開の中にもいろいろ面白いことが見つかると思うので、以下、釈尊御領観を掲げて繰り広げられる日蓮節を楽しんでいくことにしよう。

 

 

                    *

 

 

 次に、意外にもモダンな日蓮の神観念を見ていくことにしよう。

 

 神と申すは、又、国国の国主等の崩去し給えるを、生身のごとくあがめ給う。此れ、又、国王、国人のための父母なり、主君なり、師匠なり。

 

 誤読の余地のない簡潔な明言であるが、念のために現代語に書き改めてみよう。「神というものは、すでに亡くなられた国々の国主を、生きておられるかのようにあがめるものです。神は、今生きている国王、国民にとっては、父母であり、主君であり、師匠なのです」ほどの意となろうか。

 

「意外にもモダンな」と書いたが、この部分のみを素直に読む限りにおいて、日蓮は“神”という語を以って指し示す何者かを、いわゆるキリスト教がいうような天地創造の唯一神であるとか、日本の神道を含む自然発生的な多神教が自然の脅威を神格化したものであるとか、そのような超越的なモノとは捉えていなかったようだ。

 

 彼にとっての神は、神自身が独立して存在するものではなく、今この世に生きている者が、偉大な事績を遺した故人の威徳を偲んで崇め奉ることで初めて神として認知される、そのようなものであるらしい。現代の無神論者の発言、としてもおかしくなさそうな言明である。

 

 が、続く部分を読むと印象が変わってくる。

 

 片時もそむかば国安穏なるべからず。此れを崇むれば国は三災を消し、七難を払い、人は病なく長寿を持ち、後生には人天と三乗と仏となり給うべし。

 

 現代の無神論者は、百歩譲って故人の威徳を神と称して敬意を払うことは認めても、その行為が三災を消し、七難を払い、人は病なく長寿を持ちといったような現世利益と因果関係を持つことは決してみとめないだろう。要するにここで日蓮が言っているのは儒教の“礼”の思想、すなわち、人がみな然るべき相手に相応の礼節を尽くすことが社会の安寧秩序の基盤であるとする考え方に他ならない。

 

 これは言い方を変えれば、日蓮の認識する“まつりごと”とはそのようなものであった、ということである。

 

 和語では、“祭り事”と“政り事”が区別されず、どちらも“まつりごと”と和訓されてしまうワケだが、以降の彼の筆運びを総じて考えるに、一見モダンな神観とは異なり、日蓮の政治観は極めて理念的なものであり、現実の有象無象を一切捨象して、神として崇敬される故人や、今を生きる主君や父母、師匠に礼を尽くせば、自然と国家社会は安寧となり個人は幸福に満たされるのだ、という、プリミティブなものであったようだ。

 

 さらに加えて後生には人天と三乗と仏となり給うと言っているのだから、日蓮はそのような儒教的な礼が、法華経の信仰と一致するものだと考えていたらしい。これには他の日蓮遺文にも傍証がある。

 

 法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり。不軽菩薩の人を敬いしは、いかなる事ぞ。教主釈尊の出世の本懐は、人の振舞にて候けるぞ。

 

 上引用は別の文脈で既に参照した『崇峻天皇御書』の末文である。日蓮にとって、妙法蓮華経常不軽菩薩品第二十*3に描かれるところの釈迦の過去世、不軽菩薩の二十四字の法華経の実践は、観念的な成仏可能性の保証を超えて、釈迦が示した人のあるべき姿、社会の正しいあり方として観念されていたのであり、儒教的な礼=人の振舞と等価と捉えられていたことがわかる。

 

 さて、本文に戻る。

 

 しかるに、我が日本国は一閻浮提の内、月氏、漢土にもすぐれ、八万の国にも超えたる国ぞかし。

 

 唐突に日蓮は、日本が月氏=インド、漢土=中国などの他の国を超えてすぐれた国だ、と宣言する。この理由の下りがまたいかにも彼らしくて面白い。

 

 漢土の寺は十万八千四十所なり。我が朝の山寺は十七万一千三十七所なり。

 

 やたらと具体的な数字が現れて驚くのだが、どうも日蓮は、仏教寺院の数は中国よりも日本の方が多いので日本の方が優れているのだ、と言いたいらしい。まさか寺の数を自分で数えて歩いたワケではなかろうから、この一の位まで特定された寺院数は何らかの文献典拠があるものと推察される。残念ながら、彼がこの数字をどこから引いたのかはわからない。

 

 余談になるが、最晩年の日蓮遺文にも数ヶ所で日本の寺院数に対する言及があるのだが、

 

 今又日本国、一万一千三十七の寺、並に三千一百三十二社の神は、国家安穏のためにあがめられて候。

(『諌暁八幡抄』)

 

 不思議なことに、本書が示す寺院数に対し、千の位以下は一致しているが総数では十六万ほど数が減っている。この一万一千三十七という数は日興写本が現存する遺文(『秋元御書』『曾谷二郎入道殿御報』)にも共通して見られるので、おそらくこちらの数字の方が日蓮が参照した文献記載の本来の数値なのではないか、と思われるのであるが、だとすると、本書の日蓮はうまいこと言ったつもりでちょっとドン臭いことをやっていることになる。

 

 さらに、日本が優れている理由として言われるのがこちら。

 

 彼の月氏、漢土等は、仏法を用ゆる人は千人に一人なり。此の日本国は外道一人もなし。

 

 これは外道一人もなしの意味の取り方にもよると思うが、“外道”を狭義にいわゆる“婆羅門の教え”と解釈すると、そりゃインドの土着信仰が日本に渡来するワケないから当たり前じゃん、ということになるし、“外道がいない=全員内道(仏教)である”の意だとすれば、それは天神地祇を祀る人がたまたま仏典を読むのをあなたが勝手に仏教徒にカウントしてるからじゃないんですか、という気もしてくる。

 

 なんだか戦前の「日本凄い系トンデモ本」にも出て来そうなノリで面食らうのだが、日蓮がこうして無理矢理に……という自覚が本人にあったかは疑問だが……日本を持ち上げるのは、一応の理由がある。ミもフタもない話だが、これから貶すからである。

 

 本稿冒頭に、本節の日蓮は「私としては以下に述べる真実を知っていますが、現実はそうなっていないので大いに疑っています」という話をしようとしている旨を書いたが、ここまでに述べられたことが“彼の知る真実”であり、ここから述べられるのが“現実はそうなっていない”の部分になる。要するに、偉大な故人=神やその権威の根源たる釈迦に礼を尽くせば国家は安寧なのであり、実際、日本は他のどの国にも増して仏教が敬われているのに……という前振りが大袈裟に過ぎるのだ。

 

 まぁ、オチも大袈裟である点では同じなのだが。

 

 仏の加護と申し、神の守護と申し、いかなれば、彼の安徳と隠岐と阿波、佐渡等の王は、相伝の所従等にせめられて、或は殺され、或は島に放れ、或は鬼となり、或は大地獄には堕ち給いしぞ。

 

と一周して安徳帝以下、非業の最期を遂げた天皇たちに話が戻ってくる。仏教が敬われているのに天皇がこんなひどい目に遭うなんておかしいじゃないか、というワケだ。それにしても、確かに天皇は殺されたし島に放れたが、鬼となり、或は大地獄には堕ち給いしは日蓮が勝手に言っていることである。一見、大日本国への愛国心で物申すように見える日蓮であるが、どうにも本人が天皇に敬意を有しているかについては極めて怪しい。世が世なら不敬罪で逮捕モンである。

 

 以上、前稿と本稿を通して、釈迦を頂点に階層秩序を観念する“釈尊御領観”と、その背景として日蓮が儒教の礼の思想の強い影響下にあること、を確認した。次稿では皆様お待ちかね……え、そんなことない?……我らが八幡大菩薩が満を持して登場する。これがまた怪しげな内容で面白いのだ!

*1:
https://syosetu.org/novel/287050/7.html

*2:
https://syosetu.org/novel/287050/24.html

*3:
『転読(うたたよみ)』第5話参照、https://syosetu.org/novel/287050/6.html

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。