さて。
話は再び源平合戦で非業の死を遂げたとされる幼帝安徳に戻ってくる。天照は玉体に入らなかったのか、八幡の百王守護の誓いはどうなったのだ、平家一門は比叡山その他諸々に大法秘法を命じたのに……と。
そして話題は必然的にもう一つの天皇没落の例、承久の乱へと進む。同乱は承久三年(1221年)の出来事であり、この翌年となる貞応元年(1222年)に日蓮が生まれている。従って、彼の語る承久の乱はすべて彼自身が実見したものではなく、源平合戦同様に歴史知識に過ぎないのであるが、日蓮遺文にはこの承久の乱についての言及が存外多い。
又承久の合戦の御時は、天台の座主慈円、仁和寺の御室、三井等の高僧等を相催して、日本国にわたれる所の大法秘法、残りなく行われ給う。所謂承久三年辛巳四月十九日に十五壇の法を行わる。天台の座主は一字金輪法等、五月二日は仁和寺の御室、如法愛染明王法を紫宸殿にて行い給う。又六月八日、御室、守護経法を行い給う。已上四十一人の高僧、十五壇の大法、此の法を行う事は日本に第二度なり。
上引用部だけを読むと意味がわかりにくいが、これは後鳥羽上皇が執権北条義時を追討せよとの院宣を発した際に、義時を呪い殺そうと調伏をおこなったことを言っているものだ。現代の我々の感覚からすると「そんな馬鹿なことを?」と思わないでもないが、この時代には極々当然におこなわれたことのようだし、実際、朝廷は蒙古襲来に際しても似たようなことをやっている。
これはよしときくびをうてといふ、もじのひびきなり。またねんがうをじようきうとつけられたるも、ふかきこころあり。そのうへなんとほくれいにおほせて、よしときをじゆそしたまふ。
日蓮遺文とは独立して成立した軍記物にも、この出来事が上引用のように記録されている。下線部
承久記が
いや待て。日蓮の言っていることは本当に史実なのだろうか?
続く部分がなかなか興味深い、というか、日蓮の妙なところでの正直さが垣間見えて面白い。
権の大夫殿は此の事を知り給う事なければ、御調伏も行い給はず。又いかに行い給うとも、彼の法法、彼の人人にはすぐべからず。
『諌暁八幡抄』でもそうだったが、日蓮は北条義時のことを彼が任じられた官職の一つ“右京権大夫”にちなんで権の大夫殿と書くことが多い。上引用を含意も含んで現代語訳すると、以下のような内容になる。
「北条義時殿は、自分が呪詛調伏を受けていることをご存知なかったので、自身から後鳥羽上皇たちを呪詛調伏し返されることはなかった。また、仮におこなっていたとしても、天台秘奥の十五壇の大法や、比叡山の高僧たちを超えたことはできなかっただろう。」
やたらと細微に詳しい京方の動きの直後にサラリとこう書かれているのでついつい真に受けて「へぇそうなんだ」と首肯しそうになるが、よくよく読んでみると、御調伏も行い給はずと言下に否定した直後に又いかに行い給うともと続いているところに、書いている彼自身がこの言明に確信を持っていないことが正直に表れている。
いや、より穿った見方をすれば、当時の常識から考えれば、出陣に当たって敵方に対して何らかの宗教的な呪詛儀礼をおこなうことは、その効果で以って直接的に相手方に損害を与えること……なんてあり得ないのだが……を期待する以上に、味方の士気を高めるために欠かせなかったはずであり、義時本人かどうかはともかく、鎌倉方だって何かそれに類したことをしていたと考えるのは、当時としても現代の視点からも妥当である。
が、日蓮はいささか苦しげな筆運びで義時は呪詛などやっていないし、仮にやっていたとしても、京方のそれには遠く及ばない、と強弁している。何故だろうか。以下、続く本文を読んでいくと、彼の込み入った理屈が見えてくる。冗長なのだが、彼の真意に迫るべく抄訳出してみよう。
「仏法的にも王法的にも京方こそ日本の国主であり三界の諸王が守護するものだ。義時はただの国民に過ぎず、小鬼ほどに守られる従者の身分だ。王の威で以って民を攻めるのは、鷹が雉を、猫が鼠を、蛇が蛙を、獅子が兎を狩るようなものだ。京方は神や仏に祈る必要すらなかった。獅子が兎を狩るのに精進が必要か。鷹が雉を狩るのに祈るだろうか。大王が民を滅ぼすのは、小さな火を大水で消すようなもの、大風が小さな雲を巻くようなもの。火に枯れ木を加えるように、大河に大雨が注ぐように、王法と仏法が合わされば頼朝も義時も、その守護神もろとも倒せよう。それは泥酔者を殺すのが容易であるがごとく、蛇が蛙を睨むようなものだ。」
言うまでもなく、これは反語表現であり、以上の大袈裟な修辞はすべて日蓮が思っていることとは真逆のことを言ったものである。源頼朝も北条義時も絶対に勝てるはずがなかったのだ、と日蓮は強調しているが、もちろんこれは、実際には彼らが勝利したことを読み手が知っていることを前提とした上で、起こるはずのなかったことが起こったのは何か特別な理由によるのだ、という彼自身の論理を導くためにこれが言われているのである。そしてここで、なぜ日蓮が、北条義時は呪詛調伏しなかった、と強弁しなければならなかったが見えてくる。
繰り返しになるが、日蓮は安徳帝の入水、後鳥羽上皇以下の遠流の原因を、真言宗とその影響を受けて密教化した天台宗が法華経に違背しているため、と信じていた。厳密に言えば、信じたがっていた。
冒頭に引いた引用文に、此の法を行う事は日本に第二度なりとの一節があった。本書を読むだけでは“第一度”がいつのことだったのかはわからないが、先に言及した通称『八風抄』、四条頼基への私信であることから『四条金吾殿御返事』とも呼ばれる真蹟断簡の遺る遺文に以下の下りがある。
をよそ真言の大法をつくす事、明雲第一度、慈円第二度に、日本国の王法ほろび候い畢んぬ。
そもそも、仮に日蓮の主張する通り、明雲第一度の儀式が執り行われていたのだとしたら、何事も故実を重んじ、かつ、日蓮よりも京都の歴史に疎かったはずもなかろう後鳥羽上皇一派がそれを知らなかったはずはないし、知っていたら慈円第二度を命じるはずがないではないか。
続いて日蓮は、
而るに、日蓮此の事を疑いしゆへに、幼少の比より随分に顕密二道、並びに諸宗の一切の経を、或は人にならい、或は我れと開見し、勘へ見て候へば故の候いけるぞ。我が面を見る事は明鏡によるべし。国土の盛衰を計ることは仏鏡にはすぐべからず。
つまり、起こるはずのない安徳帝の入水、後鳥羽上皇たちの遠流が起こったことを疑ったがゆえに、日蓮は仏典を学んでその理由を見出したのだ、と大見得を切っているのだが、我が面を見る事は明鏡によるべしとの言葉をそのまま彼に返すべきだろう。鏡に映るのは『立正安国論』による幕府説得に失敗した要因を、どうにかして自分以外の何者かに押し付けようと足掻く彼自身の姿である。
ちなみに、『八風抄』上引用部の次下は、以下のようになっている。
今度第三度になり候。当時の蒙古調伏此れなり。
同書が書かれたのは本書執筆想定年次に近い1277年、文永の役の3年後、弘安の役の4年前になるが、ここまで読んだことを合わせて考えると、この時期の日蓮が、予想される再びの蒙古襲来にかなり悲観的になっていたこと、同時に、それが日蓮の唱えるところを採用しようとしない日本国が必然的に辿る運命である、と見做していたことがわかる。
総じて、晩年に書かれた日蓮遺文は厭世観に満ちており、でありながら彼は自説の無謬性だけは絶対視していて、ともすれば自説を用いない日本国が滅びることをさも当然のように書き飛ばす節が見られる。現代の日蓮信仰者は、しばしばこれを「日蓮聖人の国を憂う思いである」として美化しがちなのであるが、自身を日蓮ファンと認めるボクでもこの美化は受容し難い。日蓮の言に耳を傾けるのであれば、調子の良い事だけではなく、信念と現実の狭間に引き裂かれんとする彼の心が叫ぶ悲鳴もまた、真摯に聴くべきだろう。
で。
念の為に申し添えるが、ボクは「だから日蓮は阿呆だった」とか「日蓮を信じてる人はイカれてる」とか「某政権与党も似たようなもんだ」などと言いたいワケでは決してない。この日蓮が陥っている暗黒面は、現代の我々に無関係なモノでは決してない。あれだけ博識で、ついつい又いかに行い給うともなどと真正直に書いてしまう程度には誠実な日蓮ですら、この境地に無自覚なまま陥ったのであるから、知性においては彼の足元にも及ばぬであろう我々が、それを何の備えもなく回避できるはずがないのである。
むしろ、日蓮がその暗黒面に至る過程を、馬々鹿々しいまでに詳細多弁に書き遺してくれたお陰で、少なくともボクは自身がいつ陥るやも知れない暗黒面に備えることが出来るのであり、その点においてボクは彼に感謝し敬意を捧げていて、その報恩の思いを込めてこうして書いているつもりなのだ。まぁ、本人には受け入れてもらえないだろうけど。