日蓮『立正安国論広本』を読む   作:wash I/O

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第6話 日蓮に見える儒教思想の影響

 さて、日蓮が仏鏡を通して国土の盛衰を計ったところを傾聴してみよう。

 

 仁王経、金光明経、最勝王経、守護経、涅槃経、法華経等の諸大乗経を開き見奉り候に、仏法に付きて国も盛へ人の寿も長く、又仏法に付いて国もほろび人の寿も短かかるべし、とみへて候。

(適宜引用者が句読点を改めた、以下同)

 

 居並ぶ経典名に既視感を覚えていただけたならば幸いであるが、これらはいずれも『立正安国論』に引かれた大乗経典である。その意味するところと問題点については拙“日蓮『立正安国論広本』を読む”を参照いただくとして、立正安国論(略本)執筆時点で38歳であった彼が、15年強を経た本書執筆時点においてもその基本的な考え方を微塵も揺らがせていないことがよくわかる。

 

 彼のその揺るがぬ信念を、彼自身が要約した一節を読んで振り返ってみよう。

 

 仏記に云く(中略)悪人、外道、天魔波旬、五通等にはやぶられず。仏のごとく、六通の羅漢のごとく、三衣を皮のごとく身に紆い、一鉢を両眼にあてたらむ持戒の僧等と、大風の草木をなびかすがごとくなる高僧等、我が正法を失うべし。其の時、梵釈、日月、四天、いかりをなし其の国に大天変、大地夭等を発していさめむに、いさめられずば其の国の内に七難ををこし、父母、兄弟、王臣、万民等互に大怨敵となり、梟鳥が母を食い、破鏡が父をがいするがごとく、自国をやぶらせて、結句他国より其の国をせめさすべしとみへて候。

 

 冒頭仏記に云くとあって、これは厳密には仏典からの引用に際して用いられるべき語であるが、以下述べられていることに正しく一致する経典は存在しない。これらは、日蓮が先に列挙されたところの仁王経、金光明経、最勝王経、守護経、涅槃経、法華経等の諸大乗経を開き見奉った結果得られた(と彼主観において確信されている)知見をまとめたもの、ということになる。その主張は、大雑把にまとめれば以下の二点だ。

 

(1) 仏教を破壊するのは、悪人、外道、天魔波旬、五通といった仏教の枠外の存在ではなく、仏教の枠内において周囲から敬意を得ているように見える高僧である。

 

(2) そのような事態に際し釈尊御領観におけるこの世の絶対支配者である釈迦は、配下の諸々の存在に命じて自国をやぶらせて、結句他国より其の国をせめさすのだ。

 

 (1)が原因となって(2)が起こるのだ、という主張はまさに立正安国論の骨子であり、特に(2)については、日蓮主観においては二月騒動と文永の役として予言的中してしまったことになっていた。と言うか、予言的中してしまったことが、結果的にセルフフィードバックとして働いて、彼の信念を揺るぎないものにしてしまったのである。

 

 続いて日蓮は、一代聖教の中に法華経は明鏡の中の神鏡なりと宣言して、彼の信念を下支えする法華経の章句を紹介している。

 

 法華経の第七の巻を見候へば、如来の滅後において、仏の所説の経の因縁、及び次第を知り、義に随つて実の如く説かん。日月の光明の、能く諸の幽冥を除くが如く、斯の人世間に行じて、能く衆生の闇を滅す等云云。文の心は、此の法華経を一字も一句も説く人は、必ず一代聖教の浅深と次第とを能く能く弁えたらむ人の説くべき事に候。

 

 上引用中、下線を付した部分は妙法蓮華経如来神力品第二十一の末尾の偈である。日蓮自身が文の心に言及しているが、字面上の意味はこれで間違ってはいない。これを以って日蓮は、法華経を一字も一句も説く私は一代聖教の浅深と次第とを能く能く弁えたらむ人である、と言いたいようである。同時にこれは、彼が如来神力品において法華経の付嘱を受けたとされる上行菩薩、あるいはその眷属としての地涌の菩薩と自身を重ね合わせる自己認識を有していたことを示している。

 

 いささか意地悪な物言いをすれば、日蓮宗過激派が主張するように、日蓮が如来寿量品に言われるところの久遠仏、末法の本仏なのだとしたら、彼は小賢しい屁理屈をこねくり回す暇で、如来神力品の釈迦よろしくみよ〜んと天まで届く長い舌を出して自身の真理性を証明すればよかったのではないか*1と言いたくなるのだが、まぁ、そういう冗談はさておき。

 

 そもそも如来神力品は、法華経を創作した人が自分たち自身を釈迦の神通力で以って聖別する自画自賛の主張であり、つまり、ここで言われている一代聖教の浅深と次第とを能く能く弁えたらむ人というのは、これを言っている本人たちのことなのであるから、本質的にこの一節を引いて自身の主張の真理性を主張する日蓮は間違っている、と言わざるを得ない。

 

 百歩譲って、日蓮は法華経の章句を一語一句皆是真実と信じていたのだから、彼がこのように考えたのは無理もない、とするとしても、もう一つの疑問は解消されない。それは、法華経自身からはここに見える日蓮の信念である(1)と(2)が読み取れない、という点である。

 

 これは、現代から振り返ると当たり前の話ではあるのだ。

 

 法華経は大乗経典の中でもかなり早い時期に成立したものであり、法華経を書いた人々のたちまちの論敵は、今日上座部仏教と総称される伝統的な出家者集団だった。そしてその論点は、出家者集団が悟りだと考えているものは真の悟りではない、という点に絞られていたのであり、出家者集団を仏教の破壊者と見做すまでの全否定的な見方はこの時点ではされていなかった。

 

 対して、日蓮が(1)の根拠とする大乗経典群は比較的後発組にあたり、これらを偽作した人々は言わばシェア争いをするライバルであった。彼らには互いに自教派以外の僧侶を排斥せんとする強い意図を有していたのであり、それが高僧等、我が正法を失うべしと互いに非難し合う結果を招いているのだ。法華経を書いた人々は良かれ悪かれ自己陶酔的で、そこまでの強い意思をもって伝統的出家者集団を難じておらず、むしろ、真の悟りに至れぬ愚か者だが救ってやろう、と身勝手な憐れみまで投げかけている(拙『転読(うたたよみ)』第26話参照)。

 

 (2)についてはよりわかりやすい。法華経に、法華経に背くことによって天変地異が起こるなどという主張が現れようがないのである。何せ法華経は、いざ説こうとすれば仏陀の眉間から宇宙の果てまで届く光線が放たれ(拙『転読(うたたよみ)』第17話)、いざ説けば火星の径に達する塔が中空に浮かぶ代物だ(同10話)。つまり、法華経はむしろ天変地異を起こす側なのであって、三千大千世界の諸仏を招き入れるべく地上のすべてが薙ぎ払われたなどと真顔で言っている(同)のだから、それらに比してインパクトを欠く地震だの戦争だのに言及しようはずもないのである。

 

 そもそも、僧侶に限らず賢者・聖者を権力機構が厚遇すべきであり、これを疎かにする国家社会には相応の報いがある、などという発想は極めて儒教的なものなのであって、実際、(2)を積極的に主張する大乗経典の多くは中国本土で作られたいわゆる偽経の類である。これは、その時代の中国大陸の僧侶たちにとって、権力者に取り入ることが死活問題であったことの現れなのだろう。その為に、ライバルであった儒教から学ぶべき点を学んだのだ、とも言える。

 

 日蓮は、天台大師の五時八教の教説に従って法華経以前に説かれた(実際には歴史的には法華経よりも後代に成立した)大乗経典を権教(ごんきょう)……仮の教え、の意……と呼んだのであるから、主旨貫徹するのであれば、権教は(1)や(2)を主張しているが法華経はそんなことは言っていない、と言下に否定すべきではなかったのか。

 

 それが出来なかったのは、第一には、時代制約と言ってしまえばそれまでだが、日蓮は自身を仏教の正嫡であると自認しつつ、自身が依拠するところの経典群が存外中国大陸の思想汚染を受けていることに自覚がなかったからであり、第二には、その儒教の影響を受けた仏教が、彼にとって心地よかったからではないか、とボクは思う。そもそも権力者に対して諌暁するという行動は、孔孟等の儒教の聖者をロールモデルとしたものであり、少なからず彼はそれを演じる自身に酔っているようにすら見えるからだ。

 

 という次第で、本稿では、日蓮の終始揺るがぬ信念もまた、儒教思想の強い影響下にあることを論じた。無論これは、純粋仏教ではない日蓮は間違っている、などということを主張するために言っているのではない。話は真逆で、現代の日蓮信仰者が彼を「仏教の正統後継者であるから正しい」と主張することは、返って日蓮の真価を汚すものである、と言いたいからだ。

 

 繰り返し述べているように、日蓮の真の魅力は、多くの日本人が存外いい加減に受容してきた仏教・儒教、加えて日本古来の神道的な信仰を、濃密に、半ば強引に整合させた上で、それを言論のみならず行動においても体現したところにある。それは、今日的な知見においては決して人の生きるべき道でもこの世の真理でもあり得ないが、とかく無信仰、無節操と見做されがちな日本人の歴史の中にもこのような人物が存在したのだ、と知っておくことは、正反の両面において無意味ではないと思うのである。

*1:
拙『法華経転読(うたたよみ)』第16話参照、https://syosetu.org/novel/287050/17.html

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