日蓮『立正安国論広本』を読む   作:wash I/O

20 / 22
第7話 日蓮と奇人、あるいは二次創作者の類縁関係

 前稿では、改めて日蓮の思想が中国大陸の儒教、特に礼の強い影響下にあることを確認した。が、彼自身はそのことに無自覚であり……厳密に言えば、彼は“万教帰一”的な考え方をしていて、儒教も仏教も神道も同じ真理を別の面から語ったものに過ぎないと捉えていた、と解釈すべきかも知れないのであるが……自覚的には仏教の純粋な正統後継者と自負していた。

 

 その反動、とでも言うべきものが以下見ていく内容になる。

 

 三十一字を連ねたる一句、一字も相違せば三十一字共に歌にて有るべからず。

(適宜引用者が句読点を改めた、以下同)

 

 冒頭言われるのが上引用。説明不要かとは思うが、もちろんこれは五・七・五・七・七、計三十一字の和歌のことを言っている。和歌は、一文字でも本来のそれと違えてしまえば歌にはならない、ほどの意味か。

 

 ちなみに、日蓮自身は少なからず和歌の心得があったようで、決して多くはないが遺文中にも彼自身が主に信徒に送った和歌が見られ、またそれ以上に、彼の時代に既に人口に膾炙していたと思われる上代の和歌を踏まえた論述も散見されるが、総合的には、当時の知識人であれば当然の教養として嗜む程度+αくらいには和歌に通じていた、といったところのようだ。

 

 さて、ではこの和歌についての彼の見解は何を言わんとしたものなのだろうか。無論これは続いて言わんとすることを喩えた譬喩なのであるが、次下を読んでみよう。

 

 謂る一経を読誦すとも、始め寂滅道場より終り雙林最後にいたるまで、次第と浅深とに迷惑せば、其の人は我が身に五逆を作らずして無間地獄に入り、此れを帰依せん檀那も阿鼻大城に堕つべし。

 

 和歌の話をしたかと思った途端に無間地獄だの阿鼻大城だのとオドロオドロしい文言が並んで面食らうのであるが、ざっくりと大意を取れば、釈迦が悟りを開いてから入滅するまでに説いた(とされる)経のうちのどれか一つを読誦したとしても、その説かれた順序(次第)や浅深を理解しない(迷惑)のであれば、自身が大きな罪を犯すこと(五逆)がなくとも地獄行きであり、その人に帰依する人もまた地獄に堕ちるのだ、といった意味になる。

 

 ここで言う次第と浅深は、日蓮にとっては要するに天台伝統の教相判釈とその結果としての法華経原理主義であり、つまるところ法華経を理解しない者は出家者であろうとそれに従う在家であろうと地獄行きだ、と言っているのであるが、和歌の一文字を違えば本来の和歌でなくなってしまう、という例えからいきなりここへ至るところに日蓮の闇を感じずにはいられない。

 

 百歩譲って、八万法蔵は全体ではじめて意味を為すものであり、その一部たりとも違えれば本来の有難さを失うのだ、と言うのであれば同意できないでもないが、それでいきなり地獄行き呼ばわりされるのは納得できないし、そもそも日蓮自身の言説だって一部たりとも違えてはいないか、と問えばかなり怪しいではないか。いや、本人は、自分だけは決して違えてはいない、と信じているのである。

 

 むしろここで注目すべき彼の飛躍は、前段では仏教理解の正否が国家社会の盛衰を左右すると語っていたはずで、事実、いわゆる『立正安国論』もそういった主張がなされており、むしろそこには個人を免責する論述すら含まれていたのに、ここでは個々人の信仰の正邪を断罪する“異端審問”の世界へ突如として踏み込んでいる点であろう。

 

 これまた真正直なことに、日蓮は自身がこのような暗黒面に陥った理由をまったく隠していないし、そもそも隠す必要を感じていなかったようだ。本人がすぐ次下に、以下に引くように続けているがゆえである。

 

 智人一人出現して、一代聖教の浅深勝劣を弁えん時、元祖が迷惑を相伝せる諸僧等、或は国師となり、或は諸家の師となりなんどせる人人、自のきずが顕るる上人にかろしめられん事をなげきて、上に挙ぐる一人の智人を、或は国主に訴へ、或は万人にそしらせん。

 

 ザッと現代語訳すれば以下のような具合になる。

 

「賢い人が現れて、数々の仏典のどれが深い教えでどれが浅い教えであるが、どれが勝れた教えでどれが劣った教えであるか明らかにするとき、それに迷った人を元祖とする僧たち、あるいは国家公認の高僧や宗派の長となっている人たちは、自分の間違いを明らかにされて軽んじられることを嘆いて、上に挙げた賢い人を、権力者に訴えたり、大衆を煽って陥れようとするのだ。」

 

 言うまでもないとは思うが、ここで言う智人、すなわち「賢い人」というのは、誰あろう、これを書いている日蓮本人のことであるから、もうこれは確信犯的言動である。そして、この彼の発言から妙法蓮華経勧持品第十二の二十行の偈*1を想起したのであれば、あなたはもう十二分に法華経マニアである。

 

 かくしてまた、確かに日蓮は法華経の行者である、ということが確認できるのであるが、敢えて一歩踏み込んで考えれば、厳密には日蓮のスタンスは法華経のそれとは一致していない。勧持品は、法華経を奉じる者(法華経教団であり日蓮)に対して「権力者に訴えたり、大衆を煽って陥れようとする」論敵を愚か者と見下してはいるが、その人々に対する反撃を煽ってはいない。むしろ、勧持品を書いた法華経教団は、自身に対する批判者に対しては直接対決を避け、自身とその支持者に対して「やつらに屈しない我々は選ばれた者なのだ」といささか卑屈な慰めを与えることを企図しているように読める。

 

 対する日蓮は、自身の批判者に対して極めて攻撃的である。これは、妙法蓮華経安楽行品第十四の内容とそれに対する日蓮の註釈の比較*2からも読み取れる。法華経は、自分たちに対する批判者に対して真っ向から反論することを戒め、安楽に行じていくことを勧めているように読めるが、日蓮は、この一点に限っては自身が最上無二の経典と認める法華経の内容と真逆の立ち位置を採っていることになる。

 

 無論、日蓮はこれについていろいろな理屈を述べて自身の言動と法華経の文言の間の整合を図ってはいるのであるが、理屈はあくまでも理屈なのであって、そもそも、なぜ日蓮はこの一点についてのみは理屈を捏ねてまで法華経の論述に歯向かわねばならなかったのか、その動機の方に目を向けるべきであろう。

 

 これは決して日蓮遺文からは見出だせない、おそらくは彼自身も自覚していなかった深層無意識、平たく言えば“本音”の部分であるから推測するほかないのではあるが、それは決して難しい話ではない。なぜなら、智人一人出現して〜万人にそしらせんの言い草は、古今東西普遍的に数多の“トンデモさん”たちから繰り返しなされてきた主張、そのものだからだ。

 

(1) 彼は自分を天才と考える。

(2) 彼は自分のなかまたちを、例外なしに無学な愚か者みなす。

(3) 彼は自分が不当に迫害され、差別待遇を受けていると信じる。

(4) 彼は最も偉大な科学者や最も確立された理論に攻撃を集中する強い衝動をもっている。

 

 名著『奇妙な論理』において、トンデモさん(同書中では「奇人」とされる)に共通する性向を喝破して見せたのはマーティン=ガードナーであるが、まさに上の定義の(1)〜(3)がここに見た日蓮に、極めて遺憾ながら見事に合致してしまっている。

 

 思うに、若き日の日蓮が日本を救う第一の智者たらんと仏典のみならぬ、史書漢籍のなみなみならぬ研鑽に励んだことは、嘘偽りのない事実であろう。そして、彼が儒教思想の強い影響を自覚しないまま、天台〜伝教の法華経至上主義に辿り着いたこと自体は、当時の文化環境を思えば決して彼個人を責めるべきことではない。が、かくして彼が確信するに至ったそれは、言わずもがな、一つの体系的な論ではあっても、この世の真理ではあり得ないのであって、当然その理想と、彼が目にする現実や彼の言動に対して返ってくる反動との間にはギャップが存在する。

 

 そのギャップに直面したとき、残念なことに、彼には「ひょっとして私が今確信している信念に誤りがあるのではないか」と内省する力が欠けていた。否、厳密に言えば、彼が疑うことができなかったのは、彼の信念となる法華経そのものではなく、法華経を選び採った自分自身の決断、であろう。日蓮は、ついぞ、自身の最初の直感が実は間違っていたのではないか、という命題と真正面から取り組むことができなかった。

 

 結果、現代のトンデモさんたちがそうであるように、彼もまた上記(1)〜(3)の性向を先鋭化させていったのだろう。ここに、彼がこの世の主催者と信じる釈迦を中心とした釈尊御領観が加われば、主であり師であり親である釈迦に歯向かう……実際には、単に日蓮が自説を聞いてもらえていないだけなのであるが……連中には、釈迦が裁きを加えるに違いないから奴らの地獄行きは疑いない、という本稿前半にみた言明に行き着くこととなる。

 

 少し頭を冷やして考えれば、この世が真に釈迦の御領でありその至上の教説が法華経であるならば、なぜその釈迦はそもそも日蓮が真理と信じる法華経解釈に反する僧がこの世に存在することを許すのかという問い……要するにこれは、キリスト教神学における「なぜ悪は存在するのか?」と等価の内部矛盾なのであるが……に行き当たるべきなのであるが、前述の勧持品二十行の偈がここに立ちはだかり「それ見ろ、やつらは法華経に予言された三類の強敵だ」と合理化されてしまう。この点については、日蓮のみの責を問う気には、少なくともボクはなれないのであるが。

 

 そして、以上の推論からすれば、ガードナーのいう奇人の特徴の(4)が意味するところも明らかになる。つまり、なぜ日蓮は本書においてことさらに真言宗を攻撃しているのか、その理由もまた、同じところに帰するというワケだ。真言宗が「最も偉大」とはボクは思わないが、日蓮が源平合戦と承久の乱を引き合いに出して繰り返し言っているように、朝廷から厚く崇敬される当時としては「確立された」宗派であったことは疑いようもなく、少なくとも日蓮はそう確信していたのであるから。

 

 晩年の日蓮遺文には、真言宗に対して論難したものが多く見られる。その、いささか非合理的な動機については、本稿中でも繰り返し触れてきた。では、彼は具体的にどのような論難をおこなったのだろうか。まずはおさらい的に、日蓮が前提としていたことを確認しておこう。

 

 中に法華経ましまして、已今当の勅宣を下し給いしかば、多宝、十方の諸仏、加判ありて各各本土にかへり給いしを、月氏の付法蔵の二十四人は但小乗・権大乗を弘通して法華経の実義を宣べ給う事なし。

 

 已今当の勅宣というのは、妙法蓮華経見宝塔品第十一*3の六難九易が説かれる偈の末尾に現れる、

 

 従始至今 広説諸経 而於其中 此経第一

 

の一節を指す。意味するところは「過去(已)・現在(今)・未来(当)においていろんな教えを説くけれどもその中では此の経=法華経が第一なのだ」といったところ。改めて言うまでもなく、現実にはこれは釈迦を騙って法華経を書いた人々が勝手に言ったことに過ぎないのだが、日蓮はこれを歴史上の釈迦の発言だ、と信じている。続く多宝、十方の諸仏、加判ありては、同品において異世界の仏菩薩が釈迦の言葉の真理性を証明すべく参集する例のトンデモ展開のことであり、やはりこれも日蓮は言葉通りに信じていた、ということになるのだろう。

 

 我々としては、法華経の内容はもちろん、日蓮がそれを信じたことが信じ難いのではあるが。と言うのも、彼は、月氏の付法蔵の二十四人、つまり、歴史上の釈迦が死んだ後にその後継者として初期仏教教団を運営していったとされる人々が法華経の実義を宣べ給う事なし、すなわち、法華経にまったく言及していないこと、をちゃんと知っていて、こうして連記しているのである。

 

 もちろんこれは、付法蔵の二十四人の時点(紀元前の話)では法華経(紀元1〜2世紀に成立)がまだ存在していなかったから、という単純明快な事実によるものなのであるが、“六難九易”を突破してしまっている日蓮は、そのような事実はとくに気にならないようである。

 

 さて、日蓮がこれから論難しようとする真言宗は、彼の中では上引用の権大乗にカテゴライズされているのであるが、これもよくよく考えるとおかしな話である。というのも、個々には差異があるものの、真言宗がその根本経典と定める大日経(正しくは大毘盧遮那成仏神変加持経)や金剛頂経は7〜8世紀に成立したものであり、そもそも法華経以前に説かれたものではないし、日蓮が依拠する教相判釈をおこなった天台大師智顗の時代(6世紀)にすら存在していなかったからだ。

 

 そのような次第であるから、まず大前提として、天台の教相判釈をベースに真言宗を論難するという日蓮の枠組みはそもそも破綻している、ということが言える。無論、これは上に触れた大乗経典自身がいずれも“仏説”を騙っていることを日蓮が純真に信じた結果であるから、彼一人が愚かだという話では決してないのであるが、以降見ていくところの、この破綻した前提のもとに示される論については、彼自身の責が問われても仕方がない、とボクは思う。

 

 日蓮の論難の骨子となる部分のみを抜き出すと、以下に引く一節に尽きる。

 

 善無畏三蔵、金剛智三蔵、不空三蔵等の三三蔵は、一切の真言師の申すは、大日如来より五代、六代の人人、即身成仏の根本なり等云云。日蓮勘えて云く、法偸の元祖なり、盗人の根本なり。

 

 三蔵というのは本来は「仏法の三つの蔵(経・律・論)に通じた人」の意であり、一般には経典漢訳に功あった名僧への敬称であって、西遊記で有名な玄奘三蔵もその一人、ということになる。ここで言われる善無畏、金剛智、不空は7〜8世紀の人で、主に密教系の漢訳をおこなった僧になる。前述した大日経は善無畏が、金剛頂経は金剛智と不空が、それぞれ中国大陸に紹介したとされる。

 

 日蓮は、この三人の三蔵、つまり三三蔵……当時としては普通だったのかもだが凄い呼び方だ……を名指しして一絡げに法偸の元祖、盗人の根本と非難している。これまたユニークな悪口だが、もちろん、日蓮が言っているのは彼らがインドから密教経典を不当に盗んできた、などという意味ではない。この日蓮の主張を理解するためには、前述した彼の大前提が必要となる。

 

 つまり、単純化すればこういうことだ。

 

(1) (日蓮主観では)釈迦はその生涯において、大日経、金剛頂経などの権大乗の教えを説いた後に、法華経を説いた。

(2) (同じく)法華経において、初めてすべての人が仏に成ることが出来ると明かされた。

(3) 大日経、金剛頂経にも即身成仏が説かれている。

(4) 法華経以前に説かれた教えに成仏の方法が明かされているはずがない。これは三三蔵が法華経から盗み取って大日経、金剛頂経に混ぜ込んだのだ。

 

 これを日蓮は譬へば三女が后と成りて三王を喪せしがごとしと、中国の古代王朝傑、紂、幽のそれぞれの王を誘惑して国を傾けたと伝えられる妹喜、姐己、褒姒……しばしば九尾の狐と同一視される三大悪女……のようなものだ、と、妙なタイミングでいつもの悪癖を炸裂させてレッテルしている。もっとも、この無茶な譬えは実は確信犯的なものなのであって……

 

 涅槃経の第九に、我れ滅して後の悪比丘等、我が正法を滅すべし、譬へば女人のごとし、と記し給いけるは是なり。

 

と次下で伏線回収される。涅槃経に「後世の悪い僧が正しい法を女人のように滅ぼす」と予言されているのがコレだ、とつながるのだが……何と言うか。流罪先の佐渡において、弟子に収集させた真言系の典籍を読み漁って出した結論がコレか、と思うと、何だか切なくすらなってくる話ではある。

 

 言うまでもなく、この日蓮の論難は、事実に反した難癖以外の何物でもない。密教経典は法華経よりも後世に成立したのだから、大日経や金剛頂経が法華経を含む先行大乗経典の影響下にあっても何もおかしくはない。そもそも、ここでも引かれていて、他の日蓮遺文でも法華経に次いでリファレンスされる大般涅槃経だって、密教経典どころではない、むしろ法華経の焼き直しとも言える内容じゃないか。

 

 と、ここまで書いて、ここに見える日蓮の思考様式に妙な既視感を覚えたのであるが、突飛な類比であることは百も承知で、ここで日蓮が真言密教に対してぶつけている怒りは、二次創作同人界隈で散見されるけったいな揉め事によく似ている。元ネタとなる作品があって、そこから派生した書き物という意味では法華経も大日経もある意味“二次創作”の類、というか、その走りと言っても良いように思うのであるが、二次創作の世界では、しばしば先行作品とプロットが被ることと丸ごとのコピー盗作が混同されることがある。

 

 つまり、法華経という先行二次創作が有した一切衆生の成仏というプロットと、密教のそれが被っている*4ことが、法華経の熱心なファンである日蓮には許せないので、密教のファンに対して「パクリ作品を推すオマエらなんか!」と腹を立てている、と当て嵌めるとすんなり理解できるのである。そして、なぜ涅槃経が日蓮(というか天台法華の論師たち)の攻撃対象にならないか、も謎解きされる。涅槃経のプロットは法華経の丸パクリであるが、自身の文中に法華経の名前を挙げて称揚している。つまり、先行作品に対するリスペクトを表明しているので、法華経ファンからはパクリを免責されているのだ。

 

 ここまでの内容であれば、もちろん真言宗側からすれば笑止千万な論難ではあろうとも……というか、同時代的には真言宗は日蓮の存在を知らなかったか、知っていても無視できたと思うのであるが……微笑ましい難癖に過ぎない。が、次下に日蓮は先に挙げた三蔵の筆頭となる善無畏を名指しして、かなりヒドいことを書き飛ばしている。

 

 されば善無畏三蔵は、(a)閻魔王にせめられて鉄の繩七脉つけられて、からくして蘇りたれども、又(b)死する時は黒皮隠隠として、骨甚だ露焉と申して、無間地獄の前相、其の死骨に顕れ給いぬ。(c)人死して後色の黒きは地獄に堕つ、とは、一代聖教に定むる所なり。

(付番、下線は引用者による)

 

 要するに、善無畏は法華経をパクった罪で地獄行きだ、と言っているのだが、これまた日蓮らしいのであるが、不要にディテールにこだわっていて悪意に満ちた筆になっている。

 

 面白いことには、下線部(a)は実は善無畏自身が書いた『大日経義釈』に出てくる話を引いたもので、本来の意図は善無畏が自らの信仰上の回心体験を述べたもののはずだが、日蓮にかかると善無畏が法華経誹謗の罪で地獄へ堕ちた証拠にされてしまっている。

 

 (b)は、おそらく(c)を典拠として日蓮自身か、あるいは天台法華筋の何者かに創作された逸話と思われる。(c)は、日蓮の書きっぷりからは一代聖教とあるから釈迦がそう言ったかのように読めるがこれは間違いで、正しくは龍樹の『大智度論』の一節である。故意の間違いであれば、やはり日蓮の底知れぬ悪意を感じずにはいられない。

 

 さらに日蓮は、これに続けて金剛智、不空等も又此れをもつて知んぬべし、つまり、善無畏が地獄へ堕ちたのだから金剛智、不空も似たようなものだろう、と言っているのだが、いくらなんでもこれは金剛智、不空が気の毒である。まぁ、日蓮は本当は怖い仏教の系譜もまた間違いなく継承している、と言えなくもなかろう。

 

 ところで。

 

 前述の『大日経義釈』には妙法蓮華経、特に方便品第二からの引用が多く見られる。また善無畏は、件の地獄巡り体験……繰り返すが、これは彼の心理的な回心体験を叙述したものであって、神秘的なものではなかろう……に際し、閻魔王の前で譬喩品第三の今此三界の偈を唱えたところ救済されたのだ、と述べている。無論、細部には差異があろうと思うが、本人たちが認めるかどうかはともかくとして、日蓮と善無畏は思想的にはそう遠くない立ち位置にいた、とボクには思える。

 

 日蓮が羅尼品第二十六の章句から法華経の表題を唱える着想を得た*5のに対し、善無畏は大日経等の密教経典を参照したワケだが、両者に共通しているのは、法華経の言う一乗真実の教説を受容しつつ、法華経の章句それ自体から直接的には法華経教団の言う“真実”が何であるかが読み取れないので、ある種の飛躍で以って各々が信じる真実……日蓮にとっては題目、善無畏にとっては真言……へ至った点だ、と言っても嘘にはならないだろう。

 

 この善無畏の死に様を悪く触れた日蓮遺文は数えるのも面倒なほどたくさんあって、日蓮は全方位的にこの話を吹聴していたようである。この辺もまた、同じ元ネタを偏愛するもの同士に限っていがみあうことが多い、という、二次創作界隈に通じる思考様式を感じるのであるが、『諫暁八幡抄』に例を見たように、彼の門弟の中に少なからず「師匠(日蓮)が難に遭うのは、道理としては正しくても口が悪いからではないのか」と問う人がおり、対する日蓮がこの弟子の反応を快く思っていなかったことがわかる。つまり、彼の門弟は皆が皆、妄信的なイエスマンであったワケでは決してない。

 

 一方で、その死去に至るまで、日蓮のこの剣呑なスタイルには基本的に変化がなかったし、むしろ日蓮の死後に弟子たちが問題視したのは、師匠がかな文字で文書を書いたのは恥ずかしいことだ……日興『富士一跡門徒存知の事』がそう主張する他弟子を批判的に記録して伝えている……などという表層的なことだった。総体としては、日蓮の他流派に対する全否定的な言行については、それを対外的に強く主張するか否かについては温度差こそあったものの、内輪で「そうだ、そうだ」と盛り上がる分には日蓮のモードがそのまま弟子に継承されたように見える。

 

 思うにこれは、日蓮の直接の門弟が“東国”の人々であったという点が無視できないように思う。日蓮の生きた鎌倉時代、軍政の中心は鎌倉であったが、文化の中心地は依然として京都だったのであり、真言宗が東国に伝わっていなかったワケでは決してないが、基本的にそれは都の信仰であった。念仏や題目を唱えれば良いとする法然や日蓮とは異なり、真言宗は儀典宗教であるから、荘厳な仏具や儀式を用意することがかなわない東国の人々からすれば、自分たちの手の届かない異質なものと認識されていたのではないだろうか。一方で、東国の人々の間には頼朝の開幕以来、少なからず我々が次代の日本の主役である、との自己認識もまた育まれつつあったであろうから、元寇に際しても朝廷からの財政バックアップを得て盛大な調伏儀式に望む真言宗は、彼らの中央に対するコンプレックスを刺激する存在であったろう。

 

 この『神国王御書』においても、日蓮は異様なほどに天皇に対していささかいびつな忠誠心を表現して見せているが、考えてみれば、自身は辺境に隠れながら愛国の志だけは誰にも劣らないのだ、とするのは、中国大陸の典籍に描かれる英傑の典型像の一つである。このような心象は少なからず彼の弟子間でも共有されていて、この辺りが日蓮の過激な敵対者批判、およびそれを結果的に受容した弟子たちの背景にあるように思う。

 

 つまるところ、今日において、地勢的・経済的に周辺へ追いやられている人々が、東京の政府中央や大企業の人々、あるいは歴史上の成功者を批判する分には何を言ってもやっても構わない的な空気を醸してしまっているのと、同じことが日蓮の周囲で起こっていたのであり、この類比や二次創作界隈との相似性が示すように、こういった思考様式が彼の直接の後裔のみならず、日本社会全体に対してもまた継承され続けているのではないか。

 

 要するに言いたいのは、確かに日蓮の他人に対する悪口は度を逸したものがあるが、これを単に彼個人の品性の問題に矮小化すべきではない、ということであり、彼は突出する個性であると同時に、確かに我々が共有し内在化している問題の表出点でもある、と個人的には思ったりもするのである。

*1:
拙『法華経転読(うたたよみ)』第4話参照、https://syosetu.org/novel/287050/5.html

*2:
『転読(うたたよみ)』第26話参照、https://syosetu.org/novel/287050/27.html

*3:
『転読(うたたよみ)』第10話参照、https://syosetu.org/novel/287050/11.html

*4:
 より厳密に言えば、法華経の説く一切衆生の成仏は、密教の言う即身成仏、つまり、今生きているこの身のまま仏になる、ではなく、授記品に代表される遠い未来の成仏の予言である。即身=生きた身のままで得られるのは、法師功徳品に端的に表れているように、成仏ではなく六根清浄なのであり、そのような意味において、法華経と密教経典の間にネタ被りは生じていない、とボクなどは思うのであるが、本筋から脱線するので捨て置く。

*5:
『転読(うたたよみ)』第7話参照、https://syosetu.org/novel/287050/8.html

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。